2012年1月10日火曜日

城東3(荒木天神、長善沼、天洲寺)

◯荒木天神
   荒木村の中程右手にある。村の守り神(出生神)。例祭は7月25日、この日はささら祭が奉納される。ささらは少し品のない踊り(鄙ぶりたる技)だった。

長善沼 
   荒木村の東にある。荒木四郎長善は北条家の家臣として1万石を領有していたが、ここが居城の跡である。ところどころにある小さな土手が掻上城(積み上げて作った城)の面影を残す。沼の中にも小高い所があり、村人はこれを御殿地と呼んでいる。

(増) 今もこの長善沼から鏃(やじり)、銃丸、鎧の鉄物などが堀り出される事がある。村人が云うには荒木四郎長善は成田家の氏族で、忍城にいたが職を退いた後ここに掻上城を築き住んでいたとか。
   成田家の没落と共に没したのか不明。更に調査検討を要す。成田記には荒木越前がでてくるので荒木四郎は同じ血筋の人であろうか。又この城がいつ没落したか分っていない。天正十八年(1590)の籠城では、須加や市田のように要害を捨て忍城に入ったのかも不明。天文五年(1536)に成田と赤井が戦った時、この辺りは陣地になったはずである。しかし成田記に須加城は記述されているが荒木城の記述は全くない。なお東国諸戦記にも見たことがない。はたして掘出された兵器は本当に戦さの際に貯めおいたものだろうか。
  成田記では、『上略 上野国青柳の城主赤井山城守勝元が、近年勢いを増し、上野国の板倉・飯野・北大島・藤岡・面島・小泉・足利等の城主を幕下となし、近国を押領し天文五年 (1536) 八月、上武の境である利根川を渡り、住吉の東に陣をすえて忍城を攻めようとした。忍城主成田中務少輔長泰は城から一里ほど押出し、荒木川を前に橋を壊し、小箕(小見)の土手を盾に備えていた。おりからの雨で水かさが増し敵が川を渡りかねている所に云々 下略』とある。

◯聖徳山天洲寺 荒木村の南にあって曹洞宗清善寺の末寺。 
   太子堂が門内の向こうにある。太子立像は十六歳の時の自作である。同所内陣の横額の「聖徳太子」の四字は、阿部正識の御筆である。同所の外額の「太子堂」は、佐文山の筆(阿部候の儒学士)である。山門に、石像の四天王が安置されていて長さは各六尺である。

(増)縁起
   日本一尊い東皇太子(聖徳太子)が十六歳の時の鏡に映った御影(ぎょえい)の縁起である。救世観音が上宮太子に姿を変えて、日本国の民衆の利益のため、人皇三十二代用明天皇の御子にお生まれになり、同三十四代推古天皇の皇太子になられた。
太子は、あらゆる政治を執行され王道の模範である十七条の憲章をつくられました。古今の風俗を戒め、法敵の守屋(物部氏系の豪族)を誅殺し、我が国に初めて仏法を興隆させた。
   天竺(インド)震旦(中国の古称)より仏像や教義・論蔵(経典)を拝み迎えて、即座に紫震殿に於いて勝鬘径(しょうまんきょう、大乗仏典の一つ)を講義された。三宝(仏法僧)の功徳(くどく)を教化し千人余りの僧尼を読み諭した。且つ亦、摂津の国に四天王寺を仏法最初の寺院として、また国々の国府寺(国分寺)並びに所々に多数の大寺院を建立されました。
   それ以来、日本は仏法繁栄の御国になったといえる。又、百済国の感徳王に命じて、諸々職司(しょくし、役目)の者を招き士農工商など万業の奥義を学習させ、今ここで我が国に、それを日本国中に広く伝えた。営業・事業は偏(ひとえ)に皇太子の恩徳を受けない者はない。
   また当寺の尊像は太子十六歳の時、父天皇のお悩みの平癒をお祈りしている自分の容姿を、鏡に向かってつくられた日本一尊いご自作のお姿である。よって十六歳の孝養の御影とし、また悪魔を降伏した御形(みかた、神体や仏像)としても崇め申し上げるものである。
   そもそも当寺に安置いただいたのは、人皇四十五代聖武天皇の時代、神亀三年(726)に行基(菩薩)が尊像を背負ってきて、今のお堂の東に方にある大きな沼の、その中央にある島に安置したのである。
その後、後醍醐天皇の御世の元応二年(1320)、荒木四郎という者がこの尊像を沼の中の大きな島に移して、この島を城地として居住した。そのため尊像は毎夜光明を放ち、また沼の中より龍灯(=灯籠)が灯っていた。その他に霊験あらたなること明白であった。これによって、四郎は信仰する気持ちになり、すぐに当寺を開基し摂津の四天王寺の霊地をまねて山を聖徳山と号し寺名を天洲寺とした。
    四方に、四天王、住吉、八王子などの社を歓請し、中央に御堂並びに山門、回廊等の甍(いらか)を並べて建立した。それ以来、東皇太子として崇めました。天正年間(1573~1593)、故あって荒木長善の代に至って館を遠境に移した。今旧館を名づけて長善沼という。島を太子島という。今でも、沼の中より龍灯が出現し宝前に出てきた。その他霊験あらたなる事は古今同じといえども、星霜(せいそう、年月)が相当移って、諸堂はことごとく風雨のために傾きすでに衰廃していた。そこに去る寛文十一年(1671)、忍の城主阿部豊後守藤原朝臣忠秋候は、尊像が風雨で傷むことのないように太子堂を寄進した。


4 件のコメント:

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  2. はじめまして。田川と申します。
    この記事とリンクさせていただきたいのですが、如何でしょうか?
    先は私のブログですが、https://blog.goo.ne.jp/sakahashi-sakabashi/1
    となります。行田と大江氏(毛利氏)と何かつながりがあるのかを知りたいと思っております。また、坂橋という苗字の歴史を探っております。どうぞよろしくお願いいたします。

    2018年10月7日 13:47

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    1. 田川様

      特に問題ありませんので、大いにご活用ください。
      行田郷土史研究会2012

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  3. ありがとうございます。田川

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