2012年1月13日金曜日
「増補忍名所図会」序(現代語訳)
序 芳川波山
忍の地は沃野(よくや)がひろびろと開け、荒川が南をめぐり、利根川が北に横たわり、富士の雪が筑波のかすみに映じ、浅間の煙が日光の雲に接し、霊山(れいざん)がはるか天涯(てんがい)にそびえ、近くは城を守っている。
吾公がここに移封されてより、恩雨仁風(おんうじんぷう)がひとしく庶民を被い、人々はその政を謳歌して賛美し、鼓楽(こがく)を聞いて互いに祝賀している。松村竹里(しょうそんちくり)にも、日ごとに人煙(じんえん)は増え、桑畑や稲田にも荒れたままの地がなくなっている。戦国の時、成田氏がこの地に拠り北条氏の楯となり、ために兵火は天をこがし、馬塵(ばじん)は地にみなぎり、屍は野に伏し、骨は葬られずして野にさらされていた。ああ、なんといたましいことではないか。
うやうやしくおもんみるに神君家康公の大いなる徳により、天下が統一され、泰平の世となって二百年あまりになろうとしている。
今の人は安んずるところに安んじ、見るところを見て、遊蕩(ゆうとう)を俗となし淫逸(いんいつ)を務めとなし、未だかつて塗炭倒懸(とたんとうけん・非常な生活苦)の苦しみを知らない。吾公の封内の地には、旧祠古刹(きゅうしこさつ)、絶勝名区(ぜっしょうめいく)が、いたるところにある。しかしながら干戈争闘(かんかそうとう)の世以来、その由来をくわしく知りえぬようになっている。
公の臣下の佐竹・岩崎二子は、好事(こうず)の士であり、城勤務の余暇に東西に奔走し、旧記や口碑(言い伝え)を調べ、史書に照らし、八方資料を探してこれを図にし文字にし、数年の久しきに及んで、集めて何巻かの書に収め、燦然(さんぜん)として備わらざるなきものを作りあげた。彼らはこれを公に献じた。
公は甚だ喜ばれ、私に巻首の序を記すことを命ぜられた。公のよろこびは、ただ郷里の富めること、田畝(でんぽ)のおびただしいこと、名勝の美なることにあるのみでなく、古に感じて今を顧み、既往(きおう)を見て将来を戒めようとされるところにある。なぜならば、至治(しじ)の弊が必ず奪靡(しゃび)に至るのは勢の然らしむるところだからである。故にそのようになる原因をよく知り、きつくするところはきつくし、ゆるめるところはゆるめ、世の中を敗壊(はいかい)に至らしめざれば、則ち永く無窮の福を受けるであろう。思えばこの書の益するところは大なるものである。
天保六年(1835)七月十八日 臣 芳川逸 謹撰
参考資料: 「忍藩儒 芳川波山の生涯と詩業」 村山吉廣 著
序 岩崎長容
洞李香斎が古い事を学ぶ人に参考になればと作った「忍名所図会」という書を主君(松平忠尭公)がご覧になったところ、足りない所や漏れた事が多いのを惜しまれ、私へ増補版を作るよう仰せになった。私は才能もなく知識も少ないので、このような大事をお受けするのはいかがかと思ったが、恐れ多くも主君の仰せであり、承諾することになった。
それから日々あちこちを走り巡り、宮寺の縁起社伝を始め、ある時は田圃で仕事する百姓に、またある時は魚採りする翁に問い、古文書の記述と比べたり、自分の考えを少し書き加えて五巻になった。これを「増補忍名所図会」と題して主君に奉ることになった。まだ漏れがあるかもしれないが、それについては後日詳しい人に増補を仰せつけられるよう願い奉る。
このようなことができたのは主君の深い御恵みによるもので、いつまでもお元気に、全ての民に喜びと楽しみになるよう願っている。
天保六年(1835)七月 長容しるす
凡例
・此書は洞李香斎作「忍名所図会」(本書)の漏れを増し、不足を補うものである。 増補には(増)マークを付けた。
・本書に載っている寺院巡拝次第やご詠歌は特に関連ないなら省いた。
・本書には多くの神祠や仏寺が載っているが、開基や建祠された時代が古いもの以外は省いた。
・祠乗寺記(神社や寺の記録)などは、後世に書いたのもあり全く信じがたいが、古くから伝わることもあるので、暫定としてそのまま載せ、後日の検討に備えた。
・本書の図は粗雑で間違いも多いので全てつくり直した。
・神祠仏寺における左右は本尊の左右、道路における左右は行人の左右である。
・此書の古事奇談などは、現地の古老が伝える口碑を聞いたまま載せたもので、虚実(内容が事実か否か)を論じていない。
付言
此書を奉ったのは天保六年なので既に六年が過ぎた。その後に捜索見聞したことも少なくなく、それらを記録しないのは惜しいので、さらに増補することにした。それを書き進めて一二三の巻が清書済みになってから、新たに探り求めたことができたので、やむなく新たに付録一巻を造って入れた。
先書(天保六年版全五巻)に続く第六巻第1冊は、忍八景(20年ほど前に針的という盲医が作った)と天正の攻城を載せているだけなので省いた。また寺院神社の図なども熊谷寺以外は皆省いた。名勝の地、古書の図、古器などはいくつか追加し、引用文書・口碑の類いを多く補足した。
このような背景なので先書とはあちこち異なることに戸惑わないでほしい。また六年の間には神社寺院の境地に移り変わりがあるので、今と合わない事が多い。これらを読者に察していただきたい。
天保十一年(1840) 岩崎長容しるす
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