(増) 諏訪大明神(御本丸側廓に鎮座、諏訪曲輪という神祠が有る)は忍城の鎮守である。神祠四座は中央に諏訪大明神、右に天照皇(てんしょうこう)大神宮、左に稲荷大明神と八幡大神がある。当社の宝物は塗重藤の弓、矢箙(えびら)葵御紋蒔絵である。各々は松平忠吉朝臣より奉納された。祭神は健御名方尊(たけみなかたのみこと)、神主は高木長門、当社を勧請(かんじょう)した年月は詳(つまびらか)ではない。社家の説に御城を築くより早く有ったと言う。又俗説にむかしは持田村に有ったのをここに遷(うつ)したと言う。御城地が持田の地なるが故と言える。今同村に字は沼尻という処に諏訪の旧地ある。同南条と云う所には神に供えた田畑がある。
(付録) 御本丸の条で、諏訪神社が元あった場所を持田村沼尻と書いたのは誤りである。沼尻は中里村の枝郷。
(付録) 鐘掛け松 お城の内側の諏訪曲輪の土手にある。天正の籠城の時使用されたものといわれている。その鐘は、阿部候が白河城へ移動した。松は、後世に植え続けているのか若木である。
古鐘の銘
銘字に誤りが多いので読むべきでない。また考えるべきもの(特筆する)が無いのでそのままを記す。
武蔵国崎西郡池上郷にある施無畏寺の梵鐘を治鋳す
右当寺は曩祖(のうそ)が関東右大将(源頼朝)家の御菩提所の為に建立せしめ奉るなり。而してこの鐘は梁上公(盗賊)が忽ちに光を盗み取り、掊て(うって)之を破すと雖も蹤(あと)に就いて即ち求め得て元の如くに治鋳せしむ。
仍って(よって)銘を作(な)して曰く。
今此の鐘を籚(かけぎにか)く、古青銅を新たにし、
即ち土子(土地の人)の為に兀(おさ)に命じて工を全くす、
侈奄(しえん・大いさ)は度に叶い、治鋳の功を終る
清音響を振わし、無明の夢を驚かす
外内九域、悉く聖衷を仰ぐ
文武百砕、各々巨忠を抽(ぬき)んず
招提長同、政理普く通じ、
暁夕勤めを致し、久しく梵風を扇がん
願主正六位上 左衛門尉藤原朝臣道敏 敬白
大工 遠江権守 朝重
延慶二年十一月五日
◯地獄橋
北谷から帯曲輪に掛かる橋。この橋は浅間山や赤城山などの寒風が吹き付けると非常に寒い。俗説では、風が強い時は橋の下へ落ちる事もあるので地獄橋になったというが、この俗説はあまり信用できない。
(付録) 檪鬂堀(れきびんぼり)
場所ははっきりしない。天正十八年(1590)に籠城した際、城南の要害が弱いというので、氏長の息女が侍卒を率いて掘った堀である。檪鬂(れきびん・耳際の髪に刺したクヌギの髪飾り)を使って指図したので堀の名にしたとか。
(山本周五郎の小説「笄堀」で、奥方真名女が武士の妻達と堀を掘った話の元ネタか)
◯縁切橋
上荒井から内矢場に掛かる橋。成田氏長が小田原へ出陣した時、内室や家臣等と別れを惜しんだ所である。今は嫁いで行く者がこの橋を渡るのを忌む。名が悪い為であろう。
(増) 成田記にもこの類いの話があるが略す。
(成田記に氏長が横瀬の娘=甲斐姫の実母と別れた時に見送った橋とある)
同書には忍籠城の諸士が退城の時、本丸を伏し拝み、君臣三世の縁(三世に繋がる主従の因縁)もこれ限りかと落涙した所とも云う。
◯鉦打橋(かねうちばし)
沼尻から袋町に掛かる橋。
(増) 鉦打橋は下忍御門の外張から百石町へ掛かる橋である。今は水野某屋敷と山田某下屋敷の辺りに、むかし鉦打聖が住んでいたので、俗に鉦打橋と呼び習わしたのだろう。
因みに、鉦打聖について述べる。一遍上人が諸国遊行した時に帰依した僧侶は数多くいたが、その中で炊事役をしていた者を何阿弥と呼んでいたとか。後に僧となり、あるいは一般人のままで、阿弥と号し念仏行者として鉦を打ち諸国を修行する者を、俗に鉦打聖と呼んだ。今もあちこちにある。ここに住んでいた鉦打聖も後に埼玉村に住んだ。
◯秀衡駒繋松
江戸町の畠山某の庭の中にあった。そのむかし藤原秀衡がここを通った時、駒を繋いで休んだ所と云う。由縁の詳細は不明。
(増) 大木だが星霜(歳月)五六百年には見えない。後世に植え続けたのだろうか。不明。
◯浅間宮
江戸町の伴某の庭の中にあって、松平忠吉朝臣の勧請(かんじょう)といわれる。
(増) 多度両宮は、帯曲輪にあり、文政九年(1826)に君侯(松平下総守)が伊勢国桑名の多度山より移したものである。
(増) 東照大権現御宮は、下荒井にあり、文政八年(1825)に造営、別当寺は摩柅山(まじさん)金剛寺である。
◯ご城下 (町割の開始時期は明らかでない)
(増) 昔は、今の本町だけで、その後、新町・下町等が追加された。
◯行田 (町の総称で、別に業田の字を使ったが、今は、専ら行の字を使用している)
上・中・下町・大工町等の町名があった。
(付録) 行田と云う号が古くより有った証
東鑑二十五に行田兵衛尉・鴛小太郎・鴛四郎太郎が云々とある。
◯本町
(増) 古い地図には、行田本宿とあり、今の新町は、行田横町筋となっている。ここは日光街道の駅で、江戸から十五里である。北は、新郷宿へ二里、館林へ四里、西は、熊谷へ二里で、各地への連絡の便は良い。市の店では、諸国の産物を揃え、毎月、一・六の日には市を開き、色々な物を交換売買した。この市が始まったのは、天文十三年(1544)正月六日といわれている。
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