2012年1月12日木曜日

城南5(遍照院 駒形)

◯医王山遍照院 新義真言宗
   下忍村のわずかな町家の裏にある。寺領は二十五石。本尊は大日如来。長さと作者は不明。金毘羅大権現が当寺の入口にある。霊験著しいため晴雨をいとはず参詣人が絶えまなかった。正月、五月、九月(忌むべき月)には太々神楽(だいだいかぐら)が行われた。此の日はことさら多くの人がお参りした。薬師堂は寺内の東にある。秀衡(ひでひら)の松は門前左手にあり、一本松と碑が建っている。

秀衡松の碑銘(源漢文)
(増) 土地の人が伝へて言う、忍城の東、遍照院は藤原陸奥守秀衡が建てた所である。或る人疑って奥州の鎮守府は、ここからの距離は数百里もあるので、その力の及ぶ所ではないと。考えてみると東鑑に秀衡は代々の資力に拠り、出羽・陸奥の押領使(警察・軍事的官職)となり、富み栄えて当時は比べるものが無かった。鎌倉の源右大将頼朝といえども、なお隣国との友好を修めていた。三世(藤原三代)が相い続いて仏陀を信じ其の経営するところの仏寺もはなはだ多かった。いやしくも意を挙げて興し造った。なんで遠いことをはばかる必要があるか。
   そのようなわけで院の興る所以(ゆえん)はまさしく松の樹に在る。土地の人が又伝う。ある年秀衡がここを通り道辺の松根で休息した時、その樹をいとおしみ、居続けた。そこで樹のあたりに一寺を建立し、懐に入れていた護身の薬師像を安置した。その後六百有余年、樹はますます生い茂り、人呼んで秀衡の松と言う。
   盲医鍼的は、落ち着いていて鋭敏で常人とは違っていた。一本の鍼は多くの病を治療した。以前樹の下を過ぎてすぐに波の音を聞きてはっと思い当たることがあった。のち享和三年(1803)夏六月、樹に雷震し枝幹(しかん)を全部焼いた。この時に鍼的は松の声を聞いたことを思い出した。そういうわけで職人に命じ其の全形を彫り、これを薬師堂の楣(ひさし)に張付けた。そうしてまた木は朽ち易いので、碑を建て之を永遠に伝えるため銘をお願いした。

銘によると
   一本松が生い茂って已(すで)に六百年、松の枝ぶりは鸞鳳(らんほう)が翼を張り、虯龍(みずちりゅう)が天に騰(あ)がるが如く、四季翠(みどり)を含み、多くの屋敷に垂下した。陸侯(秀衡)は昔ここにいつづけた。枝葉東に靡(なび)く、遺愛の延びるところを何で考えないのか。一朝にして変化して灰燼(かいじん)と為る。濤声を聞いて思いが起こった。鍼的雷を恨み、天籟(てんらい・自然の音)がわれを牖(みちび)くこと、因(ちな)みに父母のようだ。その憔悴(しょうすい)を痛むが、忘れず負けず。術(すべ)では救い難く、医王(薬師如来)は守らない。ああ天の定めであろうか、(いやそうではない)いずれこれを咎(とがめ)るだろう。此の碑を建てる事は千歳の寿ではないか、地久しく天長し、松や朽ちず。
   忍藩儒員 眉山 佐阪通恭撰拠
   同藩退職 鹿鳴 秋山晴興書拠篆

文化七年(1810)次庚午(かのえうま)四月甲申(きのえさる)朔(ついたち)八之日辛卯(かのとう)鍼科
中野鍼的これを建てる。

古器
   唐銅(からかね)で亜鉛を交ぜたような金属である。三つの鈴はおなじ金属で、 中に物があってよく鳴る。三角の処には図のごとく地金を刻(きざみ)起して今の山葵(わさび)おろしのようである。

(増) この松は享和年中(1801〜1804)に雷火の為に焼けてしまった。若木を植えようと旧根を掘り出した時に、その下よりこの鈴を堀出した。図のとおりである。
   この器は何という物か分からない。天和三年(1683)四月十一日に高崎領上野国群馬郡保渡田(ほとだ)村の畑で、大杉の下より薬師仏と共に掘出し、今同村の西光寺と云う寺にある器をみると、是によく似ているが、さらに博雅の人に聞いたほうが良いだろう。



(増) 薬師如来縁起に、そもそも当寺の薬師如来は行基菩薩の御作である。御脇立は日光・月光の二菩薩と十二神将を安置している。遠い昔は奥州信夫郡信夫郷に安置されていた。その頃奥州平泉の城主鎮守府の将軍藤原秀衡卿は仁安元年(1166)春よりはからずも眼病を患い、すこしも見えなかった。医薬のききめもなく至難の折に、南部盛岡の城主盛岡信濃守は謀略を企てた。三ノ戸の崎見次郎及び出羽国山形の城主山形帯刀(たてわき)と語らい、秀衡の眼病の様子を見ながら、この虚に乗じて秀衡一家を亡ぼし奥州を手に入れようと軍勢を催促した。ところが高館次郎が聞き附け、秀衡の元へ註進した。これによって子息三人が衣川の衣の関へ出張り土居柵木を設けて防戦の用意をした。この時秀衡卿は御守り本尊の薬師如来へ心願をたて十七日間の断食をし、何卒仏力を以て眼病を全快なさしめ給えと一心に念じた。誠に利益あらたにして満願の日に、眼中の雲ははれ、速やかに全快したので、衣の関へ出張り南部の大敵を追いはらった。
   これに依って秀衡卿は如来の利益が莫大なることを有難く思われ、翌仁安二年(1167)に御堂の再建を考えた。同年四月八日の暁の御夢に「これより辰巳(南東)の方を目当てに鎌倉往還の途中、忍の郷に有縁の地が有る。彼の処へ送るのがよい」と如来のお告げがあった。薬師尊像を御輿に乗せ秀衡寵愛の牛に引かせ、家臣の栗原五郎秀時に命じて送らせた。八月八日に当山へ御宿泊した時、何故だかわからないが、その夜中に彼の牛が衰えて落命した。ところが住寺円慶並びに栗原五郎はその夜に如来の御夢想を蒙(こうむ)り、これぞ有縁の地なりと御告げが有った。両人は奇異の思いをなし、且つ霊夢が符合したので、すぐに薬師如来を当山に安置した。彼の落命の牛は薬師堂の南へ埋め、印に松の木を植えた。栗原五郎は奥州へ立帰り秀衡に言上した。その後秀衡より、本堂・大塔・庫裏・客殿・鐘楼・山門・仁王門の以上七宇、その外に六ヶ寺を御建立が有った。そのおり、彼の牛の姿を画かせ送られた。則ち当山の宝物である。それで印の松は今の世までも秀衡の松と云い伝わっている。そのうえ薬師如来が諸(もろもろ)の病難をお救いになるため、お参りは日々に群参し衆人が尊崇(そんすう)している。
   その後年が経て天正一八年(1590)六月中、石田治部少輔三成の兵火により、本堂、大塔をはじめとして六坊まで残らず焼失した。この時の住寺慶儀法印は如来の尊像をお出しになったが地内一円は焼失した。ところが十二神尊像は猛火をさけて大樹の元へ移られ厳然とお立ちになっていた。実に行基菩薩の御作は霊現著しい。
   なお慶長九年(1604)住寺永儀法印の代になって東照神君(家康)が御鷹狩の節、当山に御駕(おが)を入れられ、薬師の由来を住寺に御尋ねした。往昔よりの因縁と火により七堂伽藍が焼失した次第を逐一申し上げた処、すぐに薬師へ御朱印を下された。
   誠に以って利益の有難きことは、わざわざ言うまでもない。眼病の病気をお救いになる。信心している人は誰もが神仏の霊に通じているだろう。

   東鑑に、秀衡は父の譲りを得て跡を継ぎ興廃す。将軍の宣旨を蒙(こうむ)った以降、官禄が父祖を越え、栄耀子弟に及ぶ。また三十三年を送り卒去す。以上三代九十九年の間、造立する所の堂塔は幾千万宇を知らずとある。

◯駒形
   遍照院の裏手で町屋のある辺りをいう。持田村分である。
駒形神社が同所にある。小さい石の宝殿である。むかし藤原秀衡がここを通った時に馬を留めたとか、また源義経だったとの言い伝えもある。いずれにしろ古跡である。

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