2012年1月9日月曜日

城西2(久伊豆明神(上之村神社) 、龍淵寺 他)

(増) 成田郷
  今の上之村である。成田(式部太郎)助高の館は東光寺の辺りにあった。八幡・天神などを祭っていた。殿山や堀の内などの地名に名残りがある。
  上之村というのは、成田を名字にしたので上の村(かみの村)と称したというが、恐らく間違いだろう。これまで上之村と云う事は他に見たことがないからである。また一説に、雷電が座す地なので神の村というのを上の村と字を誤ったという。この説はどうか。検討要す。
  鎌倉大草子(室町時代の鎌倉・古河公方を中心に関東の歴史を記した書)によれば、足利成氏が成田へ攻めてきたのは文明十年(1478)七月である。このとき太田道灌は荒川を越えて成田と鉢形の間に着陣したという。
  この村は埼玉郡と幡羅郡の境にあり、成田家伝にも幡羅郡成田の地云々とある。この辺り一帯は武蔵国の西北端だが、里のさきに遠くまで田畑が広がり、眺望が非常に良い。西方遠くに険しい山々が連なり青い波のように見える。富士山が秩父の嶺々から抜き出ている。

(増) 回国雑記 (室町時代の旅行記、道興准后の作)
  成田で初めて富士山を詠んで
言の葉の みちも及ばぬ 富士の根を いかで都の 人に語らん  准后
また逗留して
俤の 替る富士のね 時しらぬ 山とは誰か ゆうべ曙    同

◯久伊豆明神
  雷電宮。上之村の中ほど右側にある大社で、松や杉が繁茂して森のようである。例祭が六月二十八日にあり神輿を渡す。別当が輿に乗り、二匹の駿神馬に神職が乗ってお供をする。 社の前の道を馬に乗って通ると祟りがあるので、塁を築き別の道を造った。これが馬道である。
 御祭神として末社の太郎坊と次郎坊が本社の左右にあり、比売神が本社の後ろにある。神体には両腕がない。不器用な者が祈れば叶うそうで、もしかするとボロ布の切れ端や、工匠が使う道具などが社前にかけてあるのは願い事が叶った故であろうか。
稲荷社が左側、天満宮が右側にある。
神泉が雷電宮の後ろにある。霊泉で一年中水が増減しない。干天に雨を祈る際は、この水を汲み神前に捧げる水を替えると忽ち感応があった。
随神門が鳥居と本社の間、鐘撞堂が随神門の内にある。鳥居が社地入口に南向きで建つ。鳥居は石で造られ高さ一丈余り。
別当は伊豆山久見寺で、雷電社の右側にある。新義真言宗、一乗院(上之村)に属す。
雷電社領三十石御朱印。当社は雷除けのお守り札を出している。雷を恐れる者が懐に抱けば気が転じて恐れないと云う。貴賎問わず参詣がある。

◯太平山龍淵寺
  上之村の北寄りにある。曹洞宗。越前国南条郡にある慈眼寺の末寺。寺領百石御朱印。

(増) 本堂、僧坊を全て備える寂寞たる霊場と云える。
御宮(寺内東寄りにある)
権現水(御宮のそばにあり、極めて霊泉である)
龍ケ淵(寺内の藪の中にある。六寸沼とも云うが、この淵に住む龍は普段六寸程の小蛇なのでそう呼ぶそうだ。)
下馬札(惣門の前、脇正面に建つ)

制札が下馬札の脇にある。
  「 禁制   龍淵寺
   一、軍勢も何人も乱暴狼藉を禁ずる
   一、放火を禁ずる
   一、地元の人や農民に対する不法な申し掛けを禁ずる
   以上の条々硬く停止せしめる。違背の輩は速やかに厳科に処す。
    天正十八年四月  
              御朱印 」

  龍淵寺の寺記によると、開基は和菴清順で、生まれた国もどこで亡くなったかも不明だが、当時は羅漢和尚と呼ばれていた。
  当時の成田の城主は成田五郎(家時)で、ある夜白い蓮華の夢を見た。不思議に思い、明朝城の周辺に白い蓮華がないか探させたが見つからなかった。この時、城の南東に阿弥陀堂があり、そばの木の下に一人の異僧が静かに座り、その手に白い蓮を持っていた、その様子が凡僧でなかったので、立ち帰りありのままを五郎に報告した。
  城主成田五郎はすぐ連れて来るように指示した。急ぎ使いをたて、その僧を城に招きたいと伝えたが、僧は事情があるのでと承諾しなかった。しかし使いが再三に及ぶとようやく登城した。成田五郎は、会って本当に凡僧でないと分ったので、「貴僧がこの地に留まり永く国家清平・五穀豊穣・衆生利益を祈願していただけるなら寺院を建て寄進したい」と伝えると、僧は喜び、「それでは成田の大淵を給わりたい」と乞う。五郎は、「それは容易いが彼の淵には古くから毒龍が潜み人を害することが多いので、他に浄清な土地があればそちらがいいのでは」と云ったが、僧が「彼の淵は化縁の地なので」と強く望むと、五郎は僧の意志に任せた。また五郎が「彼の淵は深さ数十丈あり、容易に埋められない」と云うと、僧は「それは差支えない」と彼の地へ赴いた。僧は淵に着くと水上を平地のように歩いて進み、淵の中央にある島に座った。お世話する為に送った人々は呆然として言葉もなく、急ぎ立ち帰って五郎にありのままを報告した。五郎は奇異に思い、やはり仏菩薩の化身だと考えた。やがて寺院を建て、永銭二百貫文の土地を寄付して、太平山龍淵寺と号し、彼の僧を和菴清順和尚と名付けて住まわしめ、五則法問の儀式を怠りなくとりおこなわせた。
  大淵が全て平地となったのは応永十八年(1411)七月七日の夜であった。清順がこの場所に来て凡そ54年経ち、もはや大淵が昔に戻る事はないと云った。その後二代旗雲に仏道法務を譲って忽然と姿をくらまし、行方知らずとなった。
  天正十八年(1590)四月に神君家康公が近くを鷹狩りされた際、龍淵寺へ来られ、住僧呑雪を御前へ召された。そもそも呑雪は三河国西郷氏の生れで、若い頃から俗世を離れ仏門を修行熟知した後に当寺の住職となった人である。家康公は幼少の頃から呑雪と知り合いで、関東入国の初めに太平山に来たのは、天下泰平・当家長久の吉相であると悦ばれ、寺領百石の御朱印と門前三カ条の制札などを紙にしたためた。これを龍淵寺の什宝とし、制札は写して門前に建てた。
  また寺の東に井戸がある。家康公が楊枝で指揮して掘らせた場所である。権現水と名付け、その時家康公が座られた場所に祠を建て神霊を祭っている。以前は門前の道が真っ直ぐであったが、通行の際に仏の尊像を馬上から見下すのは恐れ多いと、すぐに今のように曲がった道にした。この道を御応野道と云う。
  このような恩徳を蒙り、現在まで五則法問などを怠ることなく、清浄寂寞たる霊場になった。
  当寺の什宝は、金地団扇、陣鈴、三尺無節の竹箟、価百貫画、印子香炉二つ、蜀紅袈裟、神君御膳具、唐盆五枚(内二枚は後にお上へ差し上げた)。

(付録)三千坊沼 前谷村にある。古は大沼で今は田圃となっている。大昔この沼に鐘が沈んだのを成田龍淵寺の和尚加蔵主が法力で取り上げ、寺に持って行った。その時休んだ処を鐘置橋という(鐘置橋は皿尾より上之村へ行く中程の小川に架かる橋を云う)。そうして龍淵寺に有ったが今は常陸国筑波山にあるという。


4 件のコメント:

  1. お世話になります。図書助と申します。

    呑雪和尚についてですが、遠江西郷氏、後の旗本石谷(いしがや)氏の内、石谷政清(1503年~1574年)の子に、呑説(どむせつ)出家して武蔵国成田龍淵寺の住職となる。『新訂寛政重修諸家譜巻第八百九十』とあるのですが、同一人物なのでしょうか?もしご存知であれば教えていただけると幸いです。

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    1. ご質問受取りました。研究会に確認しますのでお時間ください。よろしくお願いします。 管理人

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    2. 我々も呑説は呑雪と同一人物だと思いますが、忍名所図会に書いてある以外で何か裏付けがないか調べしましたが分かりませんでした。ご質問の返事遅くなって申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。

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    3. hiro様、お世話になります。
      内容についてお教え頂きありがとうございます。
      お手間を取らせて大変申し訳ありませんでした。

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