2012年1月12日木曜日

城南6(光明寺、本倉稲荷大明神、勝龍寺、龍光寺、大芦の渡口 他)

◯与楽山光明寺
   前谷村にある。遍照院の末寺。
不動尊の立像は智証大師の作、不動尊の画像は筆者不明。

(増) 光明寺縁起
   当寺の不動尊は智証大師が描かれたものである。むかし弘法大師が遣唐使として渡海したおり、不動尊を信仰して多くの利運を授かったので、その後、縁深き法弟である智証大師が入唐する際、弘法大師は御真筆の不動尊と金紙・金泥の法華観世音を授けた。智証大師は渡海しても不動尊を深く信じていた。
ある時、唐の国中で厄病がはやり人々が苦しんでいると、時の帝が智証大師へ悪病平癒を祈祷すべしと宣旨を下した。智証大師はすぐに彼の不動尊に祈り、17日間護摩8千枚を焚くと忽ち悪病が平癒した。
   智証大師は後に帰朝すると讃岐国喜多郡に寺を建立した。これが明王山智証寺である。彼の不動尊と観世音、法華経の三品をおさめ、読経・礼拝の仏道修行に怠りなかった。
そんな時、西国中に悪病が流行し、人々が悩み伏し苦しんでいたので、智証大師が弘法大師御真筆の不動尊一筆を三幅に写して広め給うと、すぐに悪病が平癒した。
その後、天正年中(1573-1593)になり兵乱を恐れた住職は智証大師御親筆の不動尊を国主へ献上し、残る二品を護持して関東へ下った。この頃関東では悪病が流行し、人間だけでなく禽獣にまで蔓延していた。いたる所で平癒を祈祷しても叶わず、人々の嘆きは大方ではなかった。そこで当村において、民を助けるため、彼の不動尊の前で17日間護摩を焚くと、智証大師御親筆の御利益は著しく、忽ち雲霧が晴れるように悪病が平癒した。
   その後、彼の住職が本国へ帰ろうと思い、彼の二品を持ち帰ろうとしたら、不思議な事に不動尊は盤石のように持ち上がらなかった。またその夜の夢でお告げがあり、ここに堂を建て安置せよと告げられた。住職はここが不動尊の御心に叶う霊場なのではと思い、早速一宇を建て不動尊を安置した。時に天正三年(1575)一月十六日のことであった。これにより今でも正月十六日と半年後の七月十六日が縁日となっている。
   これ故であろうか他郷で悪病が流行ってもこの村では流行らなかった。されば遠くからも、天候に関わらず、参詣者が絶えることない。

(増) 本倉稲荷大明神
   鎌塚村入口から右方にある。ここはむかし領主の郡蔵があったので本倉と呼ぶとか。近年御利益があらたかなので遠くからも参詣する人が多い。
金剛水という井戸が鳥居の側にある。野州古武ヶ原の前鬼隼人が法力によって一夜で掘った井戸と云われている。

◯吹上宿
(増)熊谷と鴻巣の間にあり、商家や茶店が軒を並べて相対し町並みをなしている。宿内二丁ばかり中程に忍への道があり。忍へ一里余である。

山王権現 宿の鎮守であり、土生神(うぶすながみ)となっている。例祭は六月廿一日。

◯吹上山勝龍寺
   浄土宗、鴻巣勝願寺の末寺。寺領八石御朱印。
山門、ほかに金剛力士二王を安置している。長さ一尺。

◯大淵山龍光寺
   曹洞宗、本尊は地蔵菩薩座像で長さ壱尺計ばかり。行基菩薩(奈良時代の僧)の作。 
寺内にいかにも古い古碑がある。文字が書いてあるが風化が進んで読めない。里人は痱病(ひびょう・腫れもの)を患った時にこの碑に祈れば忽ち治ると云う。

◯瑠璃山医王寺 
   新義真言宗、大芦村にある。本尊は薬師如来で長さ八寸ばかり、作者不明。
相伝によると、むかし出羽国から諸国巡礼の修業者が来た時、ここに休んだら俄かに笈(おい・行脚僧などが背負う箱)が重くなって上がらなくなり、ここに安置したとか。

◯大芦の渡口
   荒川の川巾が狭い所である。荒川の様子は別途に記す。川の向いを八つ林、または八渡ともいう(現在の小八林)。八王子から日光へ行く街道(日光脇往還)である。又、この河岸には江戸から運送する船が着く。

(増) 昔の鎌倉街道は今の村岡の渡口を専ら往来したようだが、この大芦の渡口を往来することもあったであろう。
成田記の「成田一族会津に下る」の条に、
   武蔵国荒川にさしかかると、清らかで瀬の早い流れが、石に堰き止められて長い波になっていた。遠くまで鳥の群れが水に浮かび、その中に鴛鴦(おしどり)を見つけ懐かしい忍の名を思い出した。幾年月か住みなれた城を遠く眺めて詠ずると、さらに思いが強くなった。気のすすまないまま船に乗り移り、成田左衛門尉泰親(氏長の弟)の奥方が読んだ句、
  うつせみの よはひしあれば 荒川の 荒き浪間を 漕ぎかへす哉
と歌を吟じながらそこより田園をすぎると・・・云々 略

(増) 入道ケ淵
   榎戸村内にある。往還の右、土手の外にあり、芦が生える小さな池である。その昔、熊谷直実の馬取り権太(直実の馬は権太驪という黒馬である)の弟に権二という者がいた。おとこ気の強い人であったが後に剃髪して権二入道となった。ある時権二は、久下・榎戸村辺りの土手で、なぜか些細な口論から喧嘩となったが、権二は大変強かったので一人で大勢の相手を殺してしまった。後にこの淵へ身を投げて亡くなったと云う。このため入道ヶ淵と呼ぶとか。


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