武蔵国の大意(いわれ)
神武天皇から十二代、景行天皇四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えぞ)征伐から帰陣の時、秩父の山に武具を収め山の神を祭った。武具を収めた国なので武蔵国と云う。
日本紀によれば、武蔵国の秩父ヶ嶽はその姿が怒り立つ勇者のようであった。日本武尊はこの山を美しい(気高く、感動させる)と東(あずま)征伐の為に祈祷し奉り、兵具を岩蔵に奉納(納理)した。これ故に武蔵国という。武具を指し置くの義、読みはムサシである。
旧事記に胸指(むさし)の国とあるのは剣のことである。剣は最も重要な武具だからである。後に名が雅でないので武蔵国に改めたと云う。
埼玉郡
(増)調べてみると、和名抄には武蔵国埼玉(佐伊多末)、延喜式神名帳には武蔵国埼玉郡(小四座)、前玉神社(二座云々)とある。此の郡は古くより埼玉とのみいう。万葉集には佐吉玉云々、前玉云々とあり和名抄とは異なる。伊と喜は相通ずれば、さいとも読める。崎と埼の字の意味は違う。(未考)
武蔵国の国分寺の土中より掘り出された古瓦の中から、武蔵国の名を印したものが多数ある。其の形を写した書の中にある瓦は極めて古いものである。古より埼の字を用いたと見える。それにもかかわらず古くは崎西郡という俗説あるが誤りである。延慶の頃(1308~1311)より天正の頃(1573~1592)迄の文書に崎西と書いたものもある。崎西といえるは郡の西である。葛飾郡(古くは、下総国なり今は武蔵国に分)の地の西を葛西といい、東を葛東というに同じ。これが本当だろう。
忍 鴛鴦(おし)とも書く。
(増)忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説(詳細は後述)がある。
この地を「岡の郷」という伝聞がある(水田の中に岡の如く見えたからと云う)。成田氏長の妻の歌に
岡の郷 忍びの松にかり寝して 夢はかりなる をしの一聲
(忍びの松は下忍御門の内にある加藤氏門前の並木と云う。沼尻組屋敷前の松という説もあり不明。)
郷とは大里小里をまとめたものである。郷について詳しい説があるがここでは省く。岡の郷は、佐間・下忍・持田などをまとめて一郷としたのであろう。また中古(上古の次、平安時代ころ)より何処にも荘の地名がでてくる。この辺りは「篠の根の荘」で、広く南は吉見辺り(荒川向い)までを云うらしい。
また皿尾村の北方を「永井庄」と呼ぶ。庄の中に郷がある。荘ともいう。諸説あるが略す。永井庄は幡羅郡永井村(妻沼能護寺辺り)であろう。ここはむかし斎藤実盛が住んでいた所である。斎藤実盛は小松内府の荘園である武蔵永井の荘の別当であった事が知られている。
長野村辺りから東方六七里をまとめて「太田庄」と云われている。忍から五里ばかり東方に、鷲の宮という大社があり、いつの頃からか地名になった。東鑑に武蔵国太田庄鷲宮血流云々とある。古い神祠であり、太田庄と古くから呼ばれていた証しである。
今この辺りで羽生領、吉見領など領主がいないのに領と呼ぶ地名がある。天正の頃、羽生は井戸氏、後に大久保氏の領地であった。また吉見は上田能登守の領地であった。その領の名が残っているのだろう。
(付録) 領名の条で、羽生領を井戸某と述べているのは誤りである。正しくは木戸伊豆守。
(付録) 郷名の条で、岡の郷と云っていたとは洞李香斎翁の説である。今考えると、岡の郷という口碑(言い伝え)は少なく、忍と岡は草書体の字が似ているので誤ったのだろう。忍の郷という証しもないが、忍なら古くからの名称である。
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