2012年1月10日火曜日

城東2(岩窟地蔵尊、浅間山(八幡山古墳)、萎竹、小針沼、真願寺 他)

(付録)若小玉村 わくたまという。若のちぢまりである。又若を和久と読ませる古例がある。当村は若小玉小次郎直家の居住の地という。その旧地はどこか分からない。殿山と云う所あるが、再考が必要である。武蔵国若小玉の一党はみんな団(団扇)の紋を付けていたなど軍記の語に見られる。

◯岩窟地尊(いまの地蔵塚古墳) 
   若小玉村の中ほど西寄の山のふもとにある。入口には、たて六尺、よこ三尺の扉等がある。四方に切組みがあり、内法(うちのり)は六尺、四面いずれも似た形をしている。

◯浅間山(いまの八幡山古墳) 
(増) 若小玉村のたんぼの中にあり、往還より右手のほうにある。高さは、およそ八間(約14.5m)ほど、周囲は二丁(約218m)ほどで、この山にも岩窟がある。青石が組まれ、その形は小見埼玉にある小見真観寺古墳と同じである。中に、石碑に八幡宮と彫って祭ってある。岩窟の八幡と言われている。石の径は、大きいもので二間ほど、小さいもので七〜八尺ですべて六枚ある。

◯愛宕山(いまの地蔵塚古墳と八幡山古墳の間辺り)
(増) 浅間山に並んであり、高さ、周囲とも浅間山に同じで、山の上に祠(ほこら)がある。

(増) 萎山(しなびやま) 
   若小玉村の入り口右手の民家の裏にある。しなび竹が生えているのでこの名とし、古い碑が二つ藪の中にある。ひとつは、元久元年(1204)とあり、今年末で632年経っており、もうひとつは文永三年(1266)とあり、同じく574年経っている。碑には梵字のようなものがあるが、大方は磨り減り砕かれており判読することができない。

◯萎竹 
しなひ竹
   民家の裏にある。むかし弘法大師が当地を廻ってこられた時、農民与八という者の家に立ち寄り、杖竹(つえだけ)を所望された。此者、極めて欲深な者で、「私の山の竹は、ことごとくしなびており、杖にはなりません」と断った。それからは不思議なことに毎年生えてくる竹は、皆しなびていたという。今は山もだんだんにうちこわして畑としたため自然に竹も生えなくなった。
   弘法大師はまた同村の千蔵という者の家で、同じく竹を所望したところ、気持ちよく承諾された。その時大師は、自分のふくさを取り出して、一首の歌を書いて下さった。これを今も所持しており、私も見たいと思い持ち主にお願いしたが、朽ち果てて文字も良く見えないため見る事が出来なかった。

今年、生えた竹を七、八月頃に切って乾かしたように、肉厚は薄く、太く、周りは七、八寸を超えるものもあり、花生けなどに用いるのに、はなはだ雅である。
   色が青く、常の竹と変わらない。苦竹(マダケ・メダケ)である。枝や葉も替わることがない。

(増) 小針沼 
   小針村の南西にある。東西径三丁程、南北五丁程である。斎条川その他の小川が多数流れ集まって水が溜り、一年中水がさんさんとしている。下流は埼玉の川に流れている

(付録)小見村 小見左衛門時家が旧地という。時代は不明。

(付録)白旗明神 白川戸村にある。天文年中(1532〜1555)に上杉謙信が上野国より攻撃して来た時、ここで軍勢を揃えた。そのため今はその場所を馬揃(ばそろい)と呼んでいる。それからこの場所に白旗一流(ひとながれ)を取り落したのを、土地の人が拾いこれを石櫃(せきひつ)に入れ土の中に埋め杉の木を植えた。今でも白旗明神と崇(あがめ)祭られるが杉樹ばかりで神祠はない。

◯慈雲山真観寺
長久寺の末寺では最古の寺。小見村の入口、日光脇往還の向いにある。寺領10石御朱印。
観世音堂が本堂の西にある[仏像の長さを知らず]
寝釈迦堂が山門の内側右手にある。[仏像は青銅製で長さ六尺程」
阿弥陀堂が山門の内側左手にある。
山門[外に金剛力士二王を安置」
岩窟が本堂の後にあって観音堂の脇より入る。長さ八尺の正方形の青石で組まれた岩窟で、そこには縦三尺×横二尺の入口がある。内部も青石で広さ八尺の正方形、石地蔵を安置していた。

(増)  真観寺縁起
   当山は観音菩薩(古賢剏締の梵刹観音薩埵)が降りたった(垂応の)霊場である。時は推古天皇(豊御食炊屋姫)の御代にあたり、摂政聖徳太子(上宮太子)の命令によって大仁鞍作島臣が東国の街道を整備し、肥沃な土地に良田を開き、水路を安定させ、開拓を進めていた。仏師でもある鞍作島臣はこの地に来て計り知れない霊場だと感じ、観音菩薩像(自手観音施無畏の像)を彫刻し、伽藍を作って安置した。当山が栄えた頃は厳かな堂坊が無双の荘観だったとか。
   しかし興廃起伏の時を経て次第に荒廃し、本堂の形のみ残るが、柱は傾き、甍は崩れ、雨露に朽ち、荒れ果てた地になろうとしていた。人皇八十四代順徳天皇の御代、建保年中(1214~1219)になり、滝憲阿闍梨という僧が久しい霊場の頽廃を嘆き、これを再興した。朝夕の御勤めなど当山を支え(朝夕に本尊の瑜迦を修し)、寄付を東西に募る(他疏を東西に唱えられる)こと、約二十四回にして漸く旧観に戻った。滝憲阿闍梨は仁治三年(1243)八月死去した。当山中興の開祖である。それから三百年余りの年月を経て密教(真言宗)が盛んな地となった。
   また元亀年中(1570~1573)には、古河公方足利氏による兵火の巻き添えをくい、堂舎僧坊は1棟も残らず焼けてしまった。しかし本尊施無畏の尊像は老松の枝に掛かっていて灰塵とならずにすんだ。そこで小さな堂舎を建てこれを安置した。その後天正十八年(1590)石田勢の水攻めにあい、大いに荒廃した。
   このような数度の災いにより、古の形も無くなっていたが、慶長九年(1604)十一月、観音菩薩の由来が東照神君家康公のお耳に達し、寺領十石の御朱印と境内竹木乱防の御制札を賜った。これにより当山が盛えて昔に戻った。
   境内には昔から古墳(丘墟)がある。寛永の頃(1624~1645)、これを掘って土の階段を築こうとしたら、土中に石籠が見つかった。大きさは八九人が入れる程で、石を組んで櫃(おひつ)のような形である。昔何のために作ったのか分らない。伝える文書も言い伝えも無い。今はこの中に石地蔵を安置して窟(いわや)の地蔵と呼ぶ。実に不思議な古墳である。


(増) 法華坊
   観音堂の西方四五十歩で、民家がある所。ここは北谷蓮華寺の旧地だった。三十番神(法華経を守護する神)の石詞が小高い所にある。元亀年間(1570~1573)に今の北谷に移ったと寺記に書かれている。


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