2012年1月12日木曜日

城南4(観音堂、聖天宮、満願寺のしだれ桜、堤根松原、八幡宮(常世姫神社)他)

(増) 若王山
   埼玉村の東側、田圃の中にある。この山にも塚の岩窟がある。近年この岩窟が崩れた時、中から鉄の太刀や金の輪などが出土した。太刀は一振りのままであったが、錆びて朽ち果て金物(かなもの)のみ残っていたとか。 この山に忍藩の焔硝蔵(火薬庫)がある。

(付録)  若王山
   埼玉村にある。岩窟から太刀などが掘り出された事を考えると、成田家から厩橋城へ人質として行った若王丸を葬むった塚ではないだろうか。永禄年中(1558-1570)に成田長泰が上杉謙信と和睦した時、人質として末子若王丸を上州厩橋城へ、手島美作守をつけて遣わした。後に鎌倉で長泰と謙信が不和になった為、厩橋の人質若王丸を盗み出した所を城中の兵に追われ、やむなく利根川を泳ぎ越そうとしたが、若王丸は川の中で溺れ死んでしまった。美作守はそのまま若王丸を脇に抱え、辛うじて忍へ帰ったと云う。
   上之村の泰蔵院伝によると、若王丸は厩橋から帰って内匠介泰蔵と改名し、後に出家して成田山を建立したという。思うに成田氏長が弟若王丸の為に一寺を建立したのかもしれない。
(北越軍記や北条盛衰記では人質若王丸は利根川で溺れ死んだとあり、成田記では人質若枝丸は忍城に生還してのち泰蔵となったと云う)

(付録) 陣場 渡柳村にあり。天正の攻撃時に石田三成の陣地であった。
陣場の松というのがあったが、天明の頃枯れた。

(増) 桜本坊
   屈巣村の左手にある。本尊は薬師如来(長さ約1尺、行基菩薩の作)。別当は医王山円光院。京都聖護院の末寺。
   建長六年(1254)執権北条時頼が建立。開山は広安寺広林僧都、永仁六年(1298)二月一日遷化(死去)。中興開基は広安寺五代の孫円光院宥賢法師。文亀二年(1503)寺が焼失したが、同三年再建し、円光院と名付けた。天文二十一年(1552)六月遷化(死去)。
   天正十九年(1591)神君家康公が当地で鷹狩りした時、放した鷹が見えなくなり、探していたところ境内の桜の梢に留っていたとか。家康公はこれを大変喜ばれ、ありがたい事に寺領の御朱印と桜本坊という名前を下された。元和年中に御朱印は焼失したが、桜の木は今も庭にある。
   寺の宝物は、薬師如来(運慶の作)、不動明王(弘法大師の作の立像で長さ1尺7寸)、毘沙門天(護法親王の筆)

◯観音堂
  同村の左手にあり、本尊は馬頭観音(長さ約80cm、作者判らず)で、別当は大悲山観音寺である。この像の由来は加藤肥後守清正が朝鮮の陣中まで曳きつれた秘蔵の馬を持っていたが、舘林の城主福島左衛門太夫正則方へ行った帰りに馬がここで病気になった。依って若干の金銀等を庄屋に与えいたわるよう頼み下人たちも馬に付けて残したのに、庄屋は極めて貪欲な人で下人たちを騙して一緒に馬を打ち殺し、多くの金銀等を分けあった。すると此の夜庄屋をはじめ身内の者に至るまで悉く狂乱してしまった。そのため馬頭観音をまつり祈願すると病が快復した。

◯此村の名の云われは、むかし大きな鷲が大木へ巣を作り近郷の子供を取って食べるので村では困っていた。そこで同村の桜本坊と普済寺の僧が立会って祈ると鷲は何処かに逃げ去った。これより村の名になったと云い伝われている。

聖天宮 野村の中程右手にある。別当は胎智山満願寺。長野村の長久寺の末寺である。本尊は不動明王。長さと作者は判らない。

(増)お堂の前に大木の枝垂れ桜がある。枝垂れ長くて花の頃は艶やかである。

堤根松原が堤根村のはずれにあり、鴻巣への往還である。俗に百本松という。

(増)八幡宮は渡柳村東裏の畑の中にある。住民の話では、郡鎮守で凡そ千年余りにもなる古社であると云う。調べてみると社が二つある。一社は若宮八幡宮、一社は稲荷神社という。延喜式神名帳に載る埼玉の二座とあるのはこれではないか。前に述べた埼玉郡の浅間祭神は一座にしてしかるべく縁もない。この社は二座にして殊更に古く郡鎮守と伝えている事を考えると延喜式神名帳にのっているのに同じだ。本居宣長は云っている、古社は今では皆、八幡・神明・稲荷だけなのは興味深いことである。つまりこれ等もその類だろう。此社あたりの字を八幡という。又おもうにこの社より埼玉村迄はわずかな隔たりなので、古くは埼玉村の神社なのかも知れない。もうすこし考えてみる必要がある。

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