2012年2月15日水曜日

グループ研究について

  平成23年度行田市民大学2期生「歴史文化Aグループ」のグループ研究は「地誌にみる近世忍の風景」をテーマに、「増補忍名所図会」、「新編武蔵風土記稿」を輪読し、探訪しました。その成果の一つとして増補忍名所図会探訪ガイドとしてホームページを作成しました。本ホームページが行田市の名所旧跡・文化財を改めて見直す機会と観光案内の一助になれば幸いです。(なお、未熟なため誤訳があると思いますので、その点はご容赦下さい。また誤訳等についてコメント欄でご指摘いただければ幸いです。)

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「増補忍名所図会」現代語訳
・ 増補忍名所図会マップ
「新編武蔵風土記稿」現代語訳
・ 新編武蔵風土記稿忍領マップ
「近世忍の風景 挿絵集」(アルバム)

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「増補忍名所図会」現代語訳
「新編武蔵風土記稿」現代語訳
「近世忍の風景  挿絵集」



2012年2月14日火曜日

「近世忍の風景挿絵集」アルバム

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1.増補忍名所図会(天保11年版)挿絵アルバム

増補忍名所図会天保11年版

2.増補忍名所図会(天保6年版)挿絵アルバム

増補忍名所図会天保6年版

3.新編武蔵風土記稿(忍領)挿絵アルバム

新編武蔵風土記稿

2012年2月9日木曜日

新編武蔵風土記稿について

  新編武蔵風土記稿は武蔵国に関する地誌で、徳川幕府が昌平坂学問所(大学頭林述斎)に命じて編纂した。文化7年(1810)に編纂作業に入り、天保元年(1830)に完成した全266巻におよぶ地誌で、当時の状況を知るための貴重で信頼できる唯一の資料として高く評価されている。
  調査内容は自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての全ての事柄に渡り、地域支配者の協力を得て、また塾生を各地に派遣し実地調査している。新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている。

学習範囲
  今回の学習範囲は、現在の行田市内のほかに、文政六年(1823)に松平公が桑名から忍に配置替後で、天保元年(1831)に播磨国2万石を新領と振り替えした時の行田周辺の忍領64,043石を構成する町村とした。
  寺社については、古い寺社は増補忍名所図会の現代語訳に載せたので、また約200年が過ぎた現在では存在しない寺社が多いため、名称のみとした。寺社名称の末尾に"*忍名所”とあるのは、忍名所図会で名前がでてくることを示す。

表示について
  各村の冊と頁の数字は、原文(雄山閣発行之大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿)での冊と頁を示す。
数字の表記方法は、年号や固有名詞には漢数字を用い、西暦年の追記はアラビア数字を用いた。計量尺度の数値は原則アラビア数字としている。但し、一二三などは漢数字の場合もある。

資料 昭和56年 行田郷土文化会発行
   「新編武蔵風土記稿(行田編抜萃)」


忍城(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁17 忍城
  忍城は埼玉郡の西部にあり、平城で東側が正面、西側が裏面を向いている。本丸・二丸・三丸、及び内曲輪・外曲輪、櫓・濠と城門12を備える。本城・外曲輪とも池・沼や深田が守りの固めとなって防備がよく、関東七名城の一つである。
  外曲輪の門は、長野口・北谷口・皿尾口・持田口・大宮口・下忍口・佐間口の7つあり、外側は全て田畑となっており、城下は曲輪の内にある。又、東南の佐間口辺りから東北の北谷口にかけて忍川を引き入れ、自ずから堀を構えている。曲輪の周囲は凡そ2里半。広さは推して知るべし。
  [東鑑]に忍三郎・忍五郎・忍小太郎・忍入道などが載っているが、これらの人々は在地を名にしたもので此処に住んでいたのは間違いない。しかしこの頃は城塁があったと思えない。[小田原記]と[関東古戦録]を合わせて考えると、成田下総守親泰入道宗蓮が児玉武蔵大掾(たいえん)重行を欺き殺して所領を奪い忍城を築いたという。重行を忍大丞(たいじょう)ともいう。
   [成田系譜]によれば、成田が忍の城主となったのは文明年中(1469~1487)である。また宗祇法師が[東路土産]に載せている武州成田下総守顕泰の屋敷での歌と説明文は
「あし鴨の 汀(みぎわ=水際)は雁の 常世かな」  宗祇
まさに水郷である。館の周囲は幾重にも沼があり蘆(あし)が霜枯れ、34町四方に多くの水鳥や鴨が見え渡っていたと云う。また連歌会などもあった。宗祇が此処へ来た年月ははっきりしないが、文明の頃と云われている。この記[東路土産]に云う顕泰は親泰の父である。しかし説明文の様子は忍城の地形によく合うので、この頃すでに成田氏が此処に移っていたのではないか。
  一説に云う永正年中(1504~1520)に成田氏が此の地に移ったというのは誤りである。これより前に既に城塁があり、その頃に成田氏が修理したのであろう。当時の関東は上杉管領の支配下にあり、成田氏もその旗下に属していた。親泰が亡くなり、その子下総守長泰が城主であった時の事である。永禄四年(1561)三月に新管領上杉景虎が鶴岡八幡宮へ社参した時に長泰は総門にいたが、管領に対し作法無礼であると景虎が怒り、扇で長泰の首を打ち烏帽子を打ち落した。長泰は無念に思い、その後は上杉に背いて小田原北条家の旗下に属し、親泰の孫の下総守氏長まで3代にわたり当忍城に住んでいた。
  天正十八年(1590)太閤秀吉が小田原城を攻めた時、成田氏長と弟左衛門尉泰親は小田原方の加勢に加わり、当城には留守として成田肥前守泰季を置いていた。行田口に島田出羽守・坂本将監・福田治部右衛門・吉野源太左衛門・同源三・同源七、歩兵を合わせて500人だった。また本庄越前守がこの行田口を守っていたという説もある。長野口には柴崎和泉守・同新四郎・三田加賀守・同次郎兵衛・鎌田次郎左衛門・成沢庄五郎・秋山惣右衛門ら300人。北谷口を守るのは栗原十郎兵衛・藤井大学・横田一学・沼野兵庫・江口主水、雑兵を合わせて250人。皿尾口は篠塚山城守・安藤次郎左衛門・宮原左近・長瀬與三郎・松橋内匠、軽卆を合わせて250人。またこの皿尾口を固めた家人は松岡豊前守・山田河内守だったという説もある。持田口に籠る城兵は、長監(ながてる)因幡・松木織部・長瀬新八・黒新八ら175人。一説に持田口は成田土佐・田山又十郎だったともいう。大宮口は、斎藤右馬助・佐藤弥一郎・門井主水・平賀又四郎・布施田弥兵衛・松岡十兵衛・小寺右馬介らの手勢230人。忍口を守る家人は、酒巻靱負(ゆぎえ)・手島采女・青木兵部・矢沢玄蕃・桜井藤十郎・堀勘五郎ら670人。佐間口を固める家人は、正木丹波守・福島主水・内田三郎兵衛・同源内・桜井文右衛門、軽率を合わせて430人。その他は、栗原摂津守・笹沼十郎・山田又兵衛・加藤五郎兵衛・吉野織部・中村主水・大四郎左衛門・鈴木弾正・佐藤某・村野市左衛門・伴近林・加藤隼人・中村藤十郎・吉羽彦之丞・同兵衛・米原織部などが遊軍となって各口を見回る。城兵は総勢2,000人余りで敵を待ちかまえていた。
  寄せ手は石田治部少輔三成が大将として、城の東方半里にある渡柳村に本陣を構え、小塚を多く造って城へ攻め寄せた。副将は伊藤丹後守重実・鈴木孫三郎重朝と降人(こうにん・降参した人)の北条左衛門太夫氏勝と佐野・足利の兵を合わせて7,000人余りが下忍口・大宮口を攻めた。佐間口へは長束大蔵少輔正家・遠見甲斐守時之・中村式部少輔氏種と羽生・関宿の降人を合わせて4,600人が埼玉村に陣を敷いた。長野口・北谷口への寄せ手は、大谷形部少輔吉隆・松浦安太夫宗清・堀田図書介勝吉と木柄(館林城、鹿沼城?)の降人を合わせて6,000人余り。皿尾口への寄せ手は、中郷式部少輔有能・野々村伊予守雅春と古河・鹿沼の降人を合わせて5,000人余り。持田口だけは戦略的に兵を配備しなかった。寄せ手は合わせて26,000人、城兵は僅かに2,460人余りに過ぎなかったが、元来要害堅固なので寄せ手は攻めあぐんでいた。
  その時に三成は「城の地が低いので水攻めにする」と命令した。本陣から南西の方向にある樋上村・堤根村に新しく土手を作り、袋・鎌塚・太井の三村にかかる古い土手(自然堤防)に繋いで、六月十一日に完成した。南は荒川を堰入れ、北は中条から利根川の水を注ぎ入れて水攻めを行った。六月十六日には外曲輪は殆ど水没したが本丸は未だ恙(つつが)無く、徒らに日数が過ぎた。そのうち案に相違して袋と堤根の間で土手が崩れて、逆に石田方の通路が途絶えてしまい、寄せ手は非常に危なくなった。そこへ加勢として浅野弾正少弼(しょうひつ)・木村常陸介・赤座久兵衛らが馳せ来り、浅野は長野口へ陣を構え、赤座は石田勢に加わり、木村は皿尾口に控えた。
  このような中、小田原にいた城主氏長は山中山城守長俊の策に従って裏切りの心を生じ、自ら書状を書いて忍城を敵方へ明け渡すよう言い遣わすと、すぐ命令に従って城を浅野長政に明け渡したと云う。
  忍城は同年(1590)8月松平主殿助家忠に賜り一万石を領して在城していたが、文禄元年(1593)二月十九日家忠は下総国上代に移り、忍城は左中将忠吉卿(薩摩守殿と称す)へ賜った。慶長五年(1600) 忠吉卿が尾張国清州城へ移ると御番城となった。それから34年たって寛永十年(1633)松平伊豆守信綱の居城となり、同十六年(1633)阿部豊後守忠秋に替り、今もその子孫鉄丸の居城となっている。
  昔松平伊豆守信綱が居た頃までは城の構えも狭く、たいそう疎略な造営であったが、阿部豊後守忠秋の時に補修して、今のように大手口・丸馬出・櫓などを建て連ねたという。
  当城を忍と名付けたのは此の地が元上忍村と云ったからであろう。今も城の南は下忍村に続いている。上忍村はないので多分城の辺りが上忍村であったのだろう。しかし土着の人によると、この辺りは持田村と谷之郷の入会地(いりあいち・共同で利用した土地)だという。


第11冊-頁19 本丸
  今は建物がない。東に木戸、南東に門がある。この門をでると二丸に至る。東の木戸をでると諏訪郭に至る。ここも本丸に含まれる。四方全てに土塁を巡らし、塀をかけ並べ、周囲は沼で、東側のみ堀を構えている。また本丸の西の辺りを井戸郭、道場郭という。

諏訪社  

陣鐘: 本丸の木戸門の東にかかる。天正の籠城の時に、池上村普門寺から持ってきて陣鐘にしたもので、この寺はむかし施無畏寺と号したという。またある説にはそうではなく、いつの頃か城周りの沼の土砂を浚った時に水底からでてきたと云う。
いかにも古そうな鐘である。延慶二年(1389)の銘がある。

第11冊-頁20 二丸
  本丸の東にあり、今城主が住んでいる。西側に本丸へ行く門がある。南はくいちがいに土塁と塀があり、そこに太鼓門があって三丸に通じている。また北西に木戸門があり、そこをでて西へ折れると裏門が建っている。この門から内郭上新井に通じる。この二丸は南・北・東の三方に塀を立て、周囲の沼を要害としている。

二重櫓: 領主屋敷の北にある。阿部豊後守忠秋の時に作った。(=多聞櫓?)

二重櫓: 裏門の土塁の側にある。忠秋が三丸の三重櫓を新造した時に余った材料で造ったので残木矢倉と呼ぶ。

米蔵: 屋敷の北にある。寛政年中(1789~1801)に幕府から城の備蓄米増加を命ぜられた時に造ったので新囲米蔵という。

武器庫: 米蔵の北にある。

第11冊-頁20 三丸
  二丸の太鼓門の南に続いている。城代の屋敷があり、その西の方に出丸へ通じる木戸門がある。また南に成田門がある。この門をでると勘定所と家老屋敷がある。
勘定所から西南の方向に熊谷門・不立門・下忍門がある。下忍門の外に丸馬出(門を守るために前に出た半円形の郭)を設けている。ここから内郭下新井へ通じる。
又、勘定所の東に櫓下門・沼橋門などがあり、その北の方に大枳殻(からたち)口から内行田曲輪に通じる。
  三丸は東と南の二方に土塁と塀があり、その外側は全て沼である。殊に西の方の沼は最も広く幅3町もある。土塁は4町余りある。

三重櫓: 成田門の外、南の土塁に続いてある。この櫓も阿部豊後守忠秋が造営したものである。最も高く、中山道の久下の土手辺りからも見える。

勘定所: 櫓下門の土塁に続いている。

厩(うまや): 大枳殻口の北にある。

第11冊-頁20 内曲輪
内行田郭: 三丸から沼を隔てた東で、ここに侍屋敷がある。この地がもと行田の内だったので行田屋敷と称する。ここから南の門(向吹門)を出て橋を渡れば、外郭江戸町へ通じる。西の方は大枳殻口に続く。東の方に大手門がある。ここから行田町へ通じるので行田口ともいう。北の方に北谷門がある。門の外に橋を渡し、それをでると足軽町である。

上新井郭: 本丸から沼を隔てた西にある。西と南に外郭へでる口がある。南は中新井郭へ続く。ここは橋を設けて往来している。この郭の西と北にも土塁がある。

中新井郭: 上新井郭の南にある。ここも西に土塁を設け、四辺すべて沼を要害としている。南の方に下新井郭へ通ずる橋がある。

下新井郭: 中新井郭の南にあり、西北に外郭へでる口がある。東の方は三丸・下忍門に続き、そこから南に下忍村へでる口がある。この郭も四辺すべて沼で、西から南にかけて土塁がある。

以上の内郭はいま殆ど侍屋敷になっている。

第11冊-頁21 外曲輪
江戸町: 内行田の東南に続いている。ここも侍屋敷になっている。東の方に行縢門(ぎょうとうもん)があり、佐間組の足軽町に通じる。四面に川と沼があって守りの堅めとする。この郭内に普門寺と長永寺の跡がある。共に明暦三年(1657)に埼玉村へ移った。

田町: 内郭中新井の西にあり、ここにも侍屋敷が建っている。西方に持田口門、南東に大宮口門がある。この郭の北は片矢場郭で、東西は沼になっている。

片矢場: 田町の北に続き、上新井の西にある。ここも東・西・北の三方は沼を要害としている。西北の隅に皿尾口門がある。皿尾口門の北に中将屋敷という所がある。忠吉卿の別館があった所で、今は家臣の小野源五郎が住む。又、皿尾口門から東の方に鉄砲場がある。その先に新道門があり、その門から袋町にでる。

袋町: 新道門の外をいう。北の方は長光寺橋に至り、南は北谷門に接し、東は小路を隔てて北谷町である。

蓮華寺*忍名所:  袋町の長光寺橋の側にある。  鬼子母神堂  三十番神堂

北谷町: 袋町の東にあり、足軽町で谷郷組という。北は長光寺橋におよび、南は行田町に続いている。

長光寺跡: 北谷町の行田町寄りにある。この寺は明暦三年(1657)に埼玉村へ移った。

足軽町六ヶ所: これらは郭の外にある。一つは東南佐間口門の外で佐間組という。一つは佐間組の東裏で新組と称する。一つは東北長野口門の外で長野組という。一つは西方持田組門の外で持田組という。一つは持田の小名(こな)山鳥にあり山鳥組という。一つは南方下忍口門の外で下忍組という。

忍川: 二つの流れとなって郭外の東・南・北を巡り流れている。忍領用水の下流で、持田村から城内の沼に注ぎ、ここで二つに分れて、一つは直ちに東南の方に入り、一つは外郭の北に沿って東へ流れ、長野村へ注ぐ。川幅は共に3間ほど。

橋三ヶ所: 共に板橋で、忍川に架かる。一つは北谷口門の外にあり長光寺橋という。長さ3間、幅9尺。一つは長野口門の外にあり小沼橋という。一つは天満橋という。長さと幅は同じ。


城下町、長野村、佐間村、下忍村、持田村(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁21 城下町
  城下町は大手口の外にあるが外曲輪の内側である。西は忍城、南は佐間口門を境とし、北は忍川を隔てて皿尾・谷之郷の二村、東は長野村である。この忍川に沿って土塁を築き、北谷口と長野口の二門で守りの堅めとしている。
  総名は行田町で、上町・下町・新町・八幡町などの小名(こな)がある。また此の地は谷之郷の中なので、谷之郷行田町ともいう。忍庄に属す。此の地が町になったのも古いことで、成田下総守が城主であった頃から城付きの町場で地子(じし)免許の地(地代を払い許可を得て居住する地)だったと云う。家康公ご入国後、左中将忠吉卿がご在城の頃に再び地子の免許が発せられたことにより、今のように棟を連ねる街並みとなった。
  調べてみると行田は古い地名である。東鑑の承久三年(1221)宇治合戦における手負人の中に、小代小次郎・行田兵衛尉と並んで載っている。小代は比企郡小代郷の事で今もそこに正代村がある。同様に行田は当地で、住んでいる地名を氏としたのである。
  当地は江戸から上野国館林への往来、及び八王子千人組の者が日光山へ行く往還の宿駅で、中山道鴻巣宿へ2里半、比企郡松山町へ4里、埼玉群内の上新郷へ1里25町、上州邑楽郡川俣村へ2里6町である。その他、下総・常陸の二国から相模国や中山道へ往来する人馬が通る。埼玉郡加須村へ3里半、騎西町へ3里、羽生町場へ2里半、大里郡熊谷へ2里、須賀・下中条・酒巻の三村へ各1里半、幡羅郡俵瀬・葛和田の二村へ各2里半である。
  江戸からの行程15里。毎月一と六の日を市の日と定め、上町・下町・新町でかわるがわる市を開く。家数557戸。
高札場は上町内の、新町と北谷口に接する交差点にある。

上町: 上町は大手門の前で、東は下町に続き、南は新町で、北は北谷の足軽町に接する。当町が人馬をつなぐ宿駅である。

下町: 下町は上町の東に続き、長野口までの間である。

新町: 新町は上町から南へ分岐した通りである。故に行田横町ともいう。この町の中ほどから西へ小道があり、その奥に町奉行役所がある。

八幡町: 八幡町は新町の中ほどから東へ折れて、斜めに下町の南へでる通りである。鎮守八幡が立つ地なので地名とした。また当町を大工町ともいう。

八幡社
大長寺*忍名所  毘沙門堂 塔頭  一行院  千手院
法性寺  愛宕社  秋葉社
長徳寺  愛宕社

褒善者藤左衛門
  町年寄を務める吉兵衛の父である。母に仕えて孝を尽くしたので、安永八年(1779)八月に領主阿部豊後守が米20俵を与え、翌九年からは母生涯の間、毎年米10俵ずつ孝養の為に与えたと云う。
  この藤左衛門は旧家で先祖を古橋越後守と称し、下野国安蘇郡唐沢城の城主佐野某に仕えていたが、後に辞して武蔵国に来り、埼玉郡長野村に住み、天正十九年(1592)に亡くなった。その子雅楽助の時、文禄二年(1594)に当所に移り、今の吉兵衛まで十代に及び、町の年寄役・問屋を務めたので、領主より苗字を唱える事を許された。古橋を氏とする。

褒善者三左衛門
  母に孝養を尽くすことで評判で、宝暦五年(1755)六月領主阿部豊後守が米20俵を与えた。

褒善者太郎右衛門
  父に孝を尽くしたので、安永九年(1780)八月領主阿部豊後守が銀3枚を与えた。

褒善者安次郎と妹てふ
  兄弟ともに父に孝養を尽くすことで評判で、天明四年(1784)十二月領主阿部豊後守が米20俵を与え、かつ二人の生涯にわたり月俸二口を与えたと云う。

旧家者与右衛門
  先祖を吉羽彦之丞といい、その子図書某は成田下総守氏長に仕えて、埼玉郡池守村に住んでいたが、成田氏が滅亡した後浪人となり、天正十九年(1591)の頃、当町へ移り、寛永十年(1633)に亡くなった。その子清左衛門から今の与右衛門まで、代々町年寄役を務めたので領主から苗字を許された。
  家譜・旧記などは伝えてないが、成田分限帳に吉羽図書の知行36貫文と載っているのに合致する。家に具足(鎧)一領と指物(鎧の背にさした小旗や飾り)を蔵する。指物は先祖彦之丞が使ったものと伝承されている。周囲が練絹になっており、絹に角縫いされている。長さ3尺5寸、幅2尺6寸5分。その図を示す。
  また行田町に成田家の家臣風間伊予守と同家臣三田加賀守の子孫という者がいる。成田分限帳に永楽50貫文風間伊予守、永楽300貫文三田加賀守定重と載っているので、これらはまさしく子孫で、同じ頃に商人になったのであろう。


第11冊-頁23  長野村
  長野村は忍城長野口の東側。江戸からの行程15里、庄名(忍庄)は行田町と同じ。調べてみると、東鑑に畠山重忠の弟で長野重清という人がでてくるが、当地の住人で地名を名字にしたのであろう。管領上杉の老臣に長野信濃守があり、また忍成田家の家臣に長野一孤斎がいた。これらは長野重清の子孫ではあるまいか。もしそうならば当地は古くから開けていた所である。
  民家280戸。少し町並みをなし、商家が軒を連ねる。東は若小玉村、南は埼玉・佐間の二村、西は行田町、北は谷之郷と小見の二村に隣接。東西10町、南北30町で、成田堰と小宮堰の用水を引いている。
  家康公御入国後に左中将忠吉卿の領地になったが、慶長五年(1600)に忠吉卿が所替えとなっても忍城付きの地として御城番が支配した。その後、寛永十年(1633)山岡十兵衛・有馬石見守・戸田久助・内藤半六・肥田十左衛門・会田小左衛門・石川八太夫・久世権之助等八人に賜り、正保の頃(1645~1648)も未だ八人の知行地であったが、その後、石川と久世の知行地は召し上げて大久保団四郎・松平下総守に替え賜った。元禄十年(1697)には幕府領となり、翌年阿部豊後守に賜い、現在も子孫鉄丸が領している。
  検地は慶長十三年(1608)大河内金兵衛が糺し、元禄十二年(1699)に領主阿部豊後守が再び改めた。
本田以外に、村の東に持添の新田がある。むかし埼玉沼という沼だったのを享保十三年(1728)埼玉・小針・若小玉・当村の民が願い上げて開発し、享保十六年(1731)筧(かけい)播磨守が検地して租米数を定めたが、洪水が多発して他村へも妨げとなったので、宝暦四年(1754)新田の中央に土手を築き、東側を新田、西側を元の沼とした。これは当村と若小玉村の持ち分として永銭を納めることで新田としている。ここは幕府領である。
高札場は村の西・北の間にある。

忍川: 村の西から南へ流れる。幅5間ばかり。埼玉村へ通じる土橋がある。聖天橋と呼ぶ。

小名(こな): 足軽町(忍城下に属す) 田端 馬場通 畑中 橋場 馬場 堀内 中斉 花ノ木 白山 流通

神明社
白山社*忍名所
稲荷社
長久寺*忍名所  久伊豆社
成就院
多福寺  愛宕社
林泉寺  天神社
玉蔵院  毘沙門堂
明王院
吉祥院


第11冊-頁24 佐間村
  佐間村は忍城佐間口の南にある。江戸よりの行程15里は前村(長野村)と同じ。家敷130戸。東は長野・埼玉の二村、南は樋上(ひのうえ)村、西は下忍・持田の両村に交り、北は忍城及び行田町である。東西23町、南北22町。成田用水を利用している。
  領主は忍城主の遷替(せんたい:移り変わり)と同じく、今は阿部鐵丸が領主である。検地は慶長(1596~1615)の頃に前村(長野村)と同じく糺した後、享保十四年(1729)に領主豊後守が改めた。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 足軽町(城下町に属す) 新組町(これも城下に属す) 平野 御蔵裏
新組前 新田 柳原

忍川: 村の北にあり、城内の沼より流れ出る。当村と足軽町の間を流れて長野村に達する。川幅6間。足軽町へ通う板橋がある。天神橋と称する。

天神社*忍名所  神明社 稲荷社 諏訪社 聖天社
清善寺*忍名所  観音堂 薬師堂 鐘楼 塔頭 太盛院 林昌院 
高源寺*忍名所 
妙音寺

正木丹波守屋敷跡
村の中程で、今の領主の米蔵と郷蔵が立っている辺りである。丹波守は成田下総守氏長に仕え、天正十八年(1600)忍城に立て籠もり、佐間口を守り、落城後当所に土着して死去した。


第11冊-頁25 下忍村
  下忍村は忍城下忍口の南にある。江戸への行程15里と水利(成田用水)は前村(佐間村)と同じ。下と区別して呼ぶのは忍城に対して云うことである。東鏡に忍三郎・忍五郎・忍小太郎・忍入道などの名があるが、これらは当所の住人で在名を氏としたので、忍は古い地名であることが分かる。又成田分限帳に25貫文の下忍主殿なるものがあり、これも当所の在名を名乗っているのだろう。
  家敷140戸。東は袋・樋上の二村に相接し、南は足立郡前砂村で、元荒川を境としている。西は鎌塚・持田の両村に添い、北も持田村である。広さは東西6町、南北25町余。
  領主の遷替は前村(佐間村)に同じく、忠吉卿が領知の頃は家人小笠原半右衛門の給地だったことが、上中条村常光院に蔵する古い書付に見える。検地も慶長(1596~1615)の頃に前村(佐間村)と同じく改めた。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 
袋町 城下町に属す。 
津ノ戸 南の方で、昔津戸三郎が住んでいた所と伝わるが、この説は受け難い。多摩郡上保谷村に三郎為守の城蹟がある。
清水 村民が私的に清水村とも唱える。成田分限帳20貫文清水土佐、20貫文同助十郎、51貫文清水伊勢助、30貫文清水内匠が載っている。これらの人が当所に住んで在名を氏に唱えている。又上中条村常光院は、昔聖天院と号し当所に在ったのを、文禄三年(1595)に彼地へ移転した。天正十八年(1590)太閤秀吉より同寺へ出した制札には、武蔵国忍之内清水正伝院と見える。これらからも古い地名であることには間違いない。
大徳寺 寺蹟であるが詳しい伝えがない。
高畑 新屋敷 四ッ谷 前原 ぞう殿

元荒川: 村の南境を流れる。川幅十五間。

久伊豆社  天神社 愛宕社
薬師堂*忍名所   仁王門 鐘楼 弁天社 大日堂 地蔵堂 別当遍照院 
大毘羅権現社
観音寺   東福坊 青蓮寺 東之坊 中之坊 西之坊 千手院 
明光寺   弥陀堂 
寶養寺   観音堂 
中村寺


第11冊-頁26 持田村
  持田村は忍城持田口の西にある。江戸への行程15里と用水(成田用水=忍川の上流)は前村(下忍村)と同じ。亀甲庄と呼ぶ。持田はもともと当て字で、昔は糯田(もちだ)と書いていた。由良氏(太田金山城主)文書の頼朝が新田上西入道へ出した下文の中に、
  『埼西郡の糯田の住人らヘ下す 
  定補の郷司・職事(しきじ)は
  新田入道殿にやるものとする
  新田上西入道を、その職 仁を為して郷の仕事を遂行すべし。
  すなわち住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない。
  治承五年(1181)十一月  源朝臣 判 』

また岩松文書には、文永三年(1266)岩松家本領地の注文(注進の文書)武蔵の所に糯田郷と載せ、及び応永十一年(1404)岩松右京大夫の所領の注文にも同郷を出してあるので、新田家より岩松へ受け継がれたものと見られる。
  持田と書き改めたのも古いことで、持田氏の系譜に持田左馬助忠久は武蔵の生まれで、深谷の上杉則盛に仕えていた。その子右馬助忠吉も上杉に仕えていたが、上杉の没落後、菅沼小大膳に仕えていたと見られる。この人は当所の生れで在名を氏に唱えたものだろう。また成田分限帳には、持田右馬助永楽銭五貫文、持田長門永楽銭51貫文と載っている。これらも忠久の一族である。
  屋敷は156戸あり。東は下忍村、南は鎌塚村と大里郡佐谷田村、西は大井・小鋪田・戸出の3村、北は皿尾・中里・上之村である。広さは東西32町、南北23町。大村なので、村内を私的に上中下の三組の分けて運営していたといわれる。
  東南の方に、小名(こな)前谷と呼ぶ所がある。少し昔に開墾した新田で、本村のほかに民家40戸程が集って住んでいる。故に地元の人はここを前谷村と云う。
  当村も家康公ご入国の後、忍城付きの村となり、今は阿部鉄丸の領地である。検地は前村(下忍村)と同年(慶長の頃)に伊奈備前守が糺した。
高札場は三ヶ所にある。

小名(こな): 足軽町(城下町に属す) 山鳥(これも同じ) 大宮(忍城大宮口の門外) 前谷(前述) 須ヶ谷(菅谷) 宿通り 新宿 新屋敷 堀之内 新堀 南條 駒形 古荒

米蔵: 領主が建て置いたもの

久伊豆社  別当峯雲寺 
剣宮*忍名所 
天神社 諏訪社 八幡社 大天獏社 天神社二棟
正覚寺*忍名所  什宝(釈迦像、「天神明號」の掛軸、お守り筒、開山明誉の木造)
鐘楼 稲荷浅間合社(忠吉卿の御子梅貞童子のお墓がある)
林正寺  観音堂
長福寺*忍名所
賽蔵寺
吉祥寺
正福寺
常慶院*忍名所
阿弥陀寺*忍名所  熊野社
専勝寺*忍名所
観音寺
光明寺*忍名所
清眼寺  観音堂 秋葉社 弁天社


皿尾村、谷之郷、白川戸村、小見村、若小玉村、小針村(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁28 皿尾村
  皿尾村は忍城皿尾口の北にある。太田の庄という。江戸よりの行程15里は前村(持田村)と同じ。屋敷は29戸。東は谷之郷、南は忍城と持田村、西は中里村、北は上中下の池守村である。広さは東西も南北も11町余りの村で、小宮堰の水を用水としている。
  当村も昔より忍城付きの地で、今は阿部鉄丸の領地である。検地は延享三年(1746)の改定と伝わっているが、近郷と同じく慶長十三年(1608)にも改めがあったであろう。ここより忍城の後背を望む様子をここに載せる。

高札場は村の北東の方にある。

小名(こな): 
外張 村の北西にある。成田下総守が忍にいる頃、外張は城内に属した土地であった。今はすべて陸田となっているので、城内だったとは見当もつかない。調べてみると、永禄四年上杉輝虎(後に謙信)が皿尾城を築き水戸監物入道玄斎を置いてこれを守らせた。しかし玄斎は成田下総守に心を通じ上杉に背いたので、輝虎は怒ってその城を焼き払ったことが、北越軍記や松隣夜話などに載っている。今の村内は格別に城跡と思われる所が無いので、おそらくは当初の事であって忍城内に属するとは、伝えの誤りだろう。
駒形、 小在家、 堂前

久伊豆雷電合社*忍名所
八幡社  
神明社
天神社
駒形明神社

高太寺  薬師堂
泉蔵院*忍名所
阿弥陀堂


第11冊-頁30 谷之郷
  谷之郷は忍城北谷口の北にあり、太田庄、あるいは忍庄ともいう。江戸からの行程15里は前村(皿尾村)と同じ。昔の谷之郷は広い土地で、今の忍城・郭内や城下町辺りも当村に関わる所が多くあった。正保(1645~1648)の改めでは谷村となっている。いま谷之郷と書くが、読みはやごうと云う。
  男衾郡本田村教念寺の寄附状に、康暦元年(1379)一〇月一日 彦次郎貞康の陳述で、「やのごうの内、彦四郎名の田2町2反を寄進してお渡しした所」と載っているのは当所のことである。このことより昔から「やのごう」とも「やごう」とも呼んでいたと思われる。
  家数120戸。東は長野村、西は皿尾・上中下池守の四村で、北は和田村と白川戸村、南は忍城と城下町と隣接する。広さは東西13町、南北20町。前掲した康暦元年の文書によれば当時は、村内に教念寺の領地もあったことが分る。
  家康公御打入の後は忍城付きの地として、領主が遷替し、現在は阿部鉄丸が領している。検地は慶長十九年(1614)大河内金兵衛が改めた。
高札場は村の東北の方にある。

小名(こな): 足軽町(忍城の外郭の中) 二ツ家 堀ノ内 小橋 上ノ谷 飯倉

春日社*忍名所  別当山定院
神明社
宝積寺  八幡社 薬師堂
明王院*忍名所
白山社


第11冊-頁30  白川戸村
  江戸から16里の行程。調べてみると、成田の家臣に白川戸隼人という人がおり、当地の住人で地名を氏にしたと思われるので、古くから開けていた土地である。村の広さは東西8町、南北4町。東は荒木村、西は和田村、南は小見村、北は斎条村に隣接する。
  正保年中(1645~1648)は永井勘九郎・匹田喜右衛門の知行地だったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜り、現在は子孫鉄丸が領している。誰がいつ検地したか不明。
高札場は村の南東の方にある。

星川: 村の北方を流れる。川幅12間。この川に長さ12間の土橋が架る。

小名(こな): 江崎 押切 新田

御所明神社
西明寺  薬師堂  文殊堂


第11冊-頁31  小見村
  江戸から16里半の行程で、太田庄あるいは亀之庄と称する。土着の人によると、当地はむかし小見信濃守登吉の領地だったので後に村の名にしたという。この登吉は成田の家臣で100貫文を得ていたことが成田分限帳に載っている。逆にこの人が小見に住んでいて地名を氏にしたのかもしれない。成田記には小見源左衛門・小見源蔵という名もある。これらも小見信濃守登吉の一族であろう。
  民家80戸。東は若小玉村、南は長野村、西は白川戸村、北は荒木村に隣接。村の広さは東西12町、南北も12町。斎条堰の水を用水とする。
  家康公御入国後、当村は忍城付きの村だったが、寛永十年(1633)六月十八日岡部丹波守・内藤半六郎・岡田主馬の三人の知行地となり、その後元禄十一年(1698)今の阿部鉄丸の家に賜った。検地は元禄十三年(1700)伊奈備前守が改めた。
高札場は村の西の方にある。

星川: 村の北を流れる。川幅14間。棒川橋と呼ぶ土橋が架る。

小名(こな): 辻前通り 宿通り

久伊豆社
諏訪社
天神社
真観寺*忍名所  観音堂  籠堂  釈迦堂  弁天堂  仁王門
嶺雲寺
専蔵院
蓮華寺跡


第11冊-頁32  若小玉村
  江戸から16里半の行程、太田庄あるいは亀之庄と称し、検地は元禄十三年(1700)伊奈備前守の改めで、いずれも前村(小見村)に同じ。
  古に若児玉小次郎という人が住んでいた地で、その頃は地名も若児玉だったが、後に若子玉と書き、更に今の若小玉になったと云う。調べてみると、[東鑑]の嘉禎四年(1238)二月二十三日、「将軍供奉到着交名」のなかに若児玉小次郎と書かれているが、これは土着の人が云う小次郎であろう。また建長二年(1250)三月閑院殿造営のなかに若児玉次郎とあり、これもその一族であろう。現在、村内の小名(こな)鞘戸は小次郎の屋敷跡であり、中古(しばらく前)まで屋敷鎮守の祠があり、奥の宮と称していたと伝えられる。しかし今は全て陸田となって祠も無い。
  民戸130戸。東は小針村、南は長野村、西は長野・小見の二村、北は星川を隔てて下須戸村に隣接する。東西13町、南北11町。斎条堰から水を引いて水田を耕している。
  家康公御打入の後は忍城付きの土地であったが、寛永九年(1632)加藤清兵衛・浅井次右衛門の知行地となり、浅井の知行地は寛文十年(1670)に召し上げられ、加藤の知行地も元禄十年(1697)から幕府領となった。寛文十年(1670)酒井河内守が検地した。寛文十一年(1671)二月全て阿部豊後守に賜り、現在は子孫鉄丸が領する。
  村の南東に持添の新田があり。これを埼玉沼新田という。今は悪水溜井の沼となり、永銭を納めている。ここの検地などについて長野村の条で述べた。明和六年(1769)松平大和守に賜り、今も変わらない。
高札場は西にある。

小名(こな): 枳(からたち・むかし枳権現という社があった地) 十輪寺(あるいはしなび山という。ここに住む農民徳右衛門の屋敷に、広さ3畝、高さ1丈ほどの塚があり、竹林が鬱蒼しているが、此の竹は芽がでた当初は普通の筍だが、次第に節間にしぼ(しわのような凹凸)ができて奇異なので、小名(こな)をもこう呼ぶと云う)大竹 六本木  勝呂 さやと 中村 八段田 鞘戸耕地

星川: 北の境を流れる。川幅14間。

勝呂明神社
聖天社
八幡社
愛宕社
榛名社
稲荷社
諏訪社
天神社
天王社
遍性寺  弁天社
龍泉寺  薬師堂
地蔵堂

褒善者又六
  農民又左衛門の祖父である。父母に孝を尽くしたので、宝暦十三年(1763)領主阿部豊後守が米20俵を与えた。


第11冊-頁33  小針村
  江戸からの行程16里、太田庄に属する。民戸170戸。東は赤城村、南は埼玉村、西は若小玉村、北は下須戸・藤間・真名板・関根の四村に隣接。村の広さは東西1里余り、南北5町余り。斎条堰の水を用水とする。
  当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領する。本村の南に持添の新田がある。埼玉沼を干拓した地である。この事は埼玉村の条で述べた。
高札場は村の中程にある。

星川: 村の北を流れる。川幅16間。
忍川: 南方を流れ、赤城村と北根村の境で星川と合流する。川幅16間ほど。

蔵王権現社
神仙寺  薬師堂
大福寺  大日堂


埼玉村、堤根村、樋上村、鎌塚村、袋村(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁33 埼玉村
  埼玉村は江戸よりの行程は16里で前村(小針村)と同じ。一の庄に属す。
「和名抄」に載っている郡、郷とも左以多萬と書いてある。地元の人は郡名をさい玉と云い、村名をさき玉と云って読み方を分けている。但し村名をさき玉と云えば埼玉の郷があった地で、郡名の由来の郷である。総説の条でも述べた通りである。
「北越軍記」に永禄五年(1563)六月、北条方より埼玉行田へ出張り云々と書いてあるので、昔この辺は北条家の陣地となってしばしば戦さがあった地と分る。
民家250戸。東は赤城村、西は佐間村、南は渡柳村、北は長野・小針の2村である。広さは東西29町、南北16町。用水は成田堰(忍川)から汲んでいる。
  この村は古くから忍城に属する村で、寛永 (1624~1645) の頃に阿部氏が賜り、延寶八年(1680)に検地があり、子孫鉄丸に至っている。
  この地は大根の名品があり、毎年殿様に献上している。本村の北東に埼玉沼がある。縦十町余り・横十六町程の沼だったが、享保十三年(1729) に伊澤彌惣兵衛が命を受け、当村と長野・若小玉・小針を合わせて四村の農民を使って開発し、四村の持添の新田となった。同十六年(1732)七月には筧播磨守が検地して村の石高となったが、水害が度々起きたので賽暦年中(1751~1764)に新田の真ん中に南北を貫く堤を築き、堤の西側は元のような沼に戻し、長野・若小玉二村の持分とした。東側は今も当村と小針村が所有する新田である。ここは松平大和守の領地である。
高札場は南西の方にある。

小名(こな): 
丸墓 西行寺の境内に丸墓山があるので小名になったのであろう。 若王子 番場 百塚関場 小林浦 藤山 八王子 御下屋敷

将軍山: 高さ三間ほど。将軍塚とも言う。その由来は伝わってない。

御風呂山(鉄砲山古墳): 高さ5間ほど。当村の名が古くから知られていたので、もしやこれ等は国造(くにのみやっこ)や縣主(あがたぬし)などの墳墓ではないかと地元の人は云う。しかし大変古いことなので、そうなのか、それともその後の人の塚なのかは分らない。

忍川: 村の北を流れる。川幅14~15間。この川に長さ12間の土橋が架かる。

埼玉沼(小崎沼を附する): 村の北にある。古は小崎沼とか埼玉津と云って、「万葉集」にも歌われ、当国の名所である。しかしこれは大昔のことで、地形も大きく変わったかもしれず、なんのかのと論じ難いので、とりあえず今の形を述べる。
  埼玉沼は最近まで、ことのほか広かったが、享保(1716~1736)の頃に干拓して一旦皆水田となった。宝暦十二年(1763)にはその半分を元のように沼とした。今の埼玉沼はこれである。広さは東西34町、南北6町あり、この辺の十六村の悪水溜井となっている。
  埼玉津と云ったのは、昔入り江があった頃のことなので、津の所在は分らない。今の利根川の内だろうという説がある。そういうこともあるのではないか。今の会川は、古くは利根川から上新郷と上川俣との間で分れて、埼玉郡内を流れていた。この会川の辺りには古歌に詠んだ古江浦・岩瀬などがある。所々に遺名(昔の名残を示す地名)と思われる地もあるので、あちこちの場所が当時船の集まった所と分る。
  ところが、今地元の人によれば、小崎沼のあたりが埼玉津の旧跡であると云う。埼玉沼より二町ほど南の方で、長さ3間幅1間ほどの小さな池である。
武蔵の小埼沼の鴨を見て作った歌に
「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に降り 置ける霜を掃うとならし」
また武蔵国の歌に
「埼玉の 津におる舟の 風をいたみ 綱はたゆとも ことな絶へそね」
とある。
  小崎沼だという池の周りは皆畑で、南側に僅かに芝が生えて小高いところがある。その上に宝暦三年(1754)九月、忍城主阿部正因(あべまさより)が建てた碑があり、この二首の歌を記している。地元の人の話では、古はこの沼は埼玉沼とつながる入り江だったが、年の経つにつれて徐々に埋もれ、今はこの形だけ残っているという。
  調べてみると、村名から埼玉津の旧跡であると云う説もありえるが、古歌に埼玉の小崎とか埼玉の津などと読む場合は、あながち当所だけ埼玉と云うことではない。とにかく津の所在について、長い年月の後には何が正しいか分るだろう。「紫一本(むらさきのひともと・江戸の名所旧跡探訪記)」には埼玉津は足立郡見沼池あたりと云う。「武蔵名所考」にも埼玉津はこの説を踏襲して、小崎沼は岩槻城下尾ヶ崎村だと云う。これらはみな憶測なので取り上げ難い。今調べてみると埼玉郡羽生の町場の隣に尾埼村があるが、その辺は多くは沼田なので、小崎沼の旧跡のように思われる。しかしながら前述のようにその事実は分らない。

浅間社*忍名所  地蔵堂 諏訪社 武塔天神社 稲荷社 秋葉社 曽根天神社 
盛徳寺*忍名所  
長永寺 
普門寺  地蔵堂  
長久寺   
西行寺*忍名所  丸墓山    
安楽寺  観音堂
龍穏寺  愛宕社 地蔵堂    

鎌田氏の居蹟: 村の北に鎌田五郎左衛門の屋敷蹟がある。この人は成田氏の家臣だと云うが成田分限帳には載っていない。別に永20貫文鎌田修理という人が載っている。これ等は同じ人であろう。

須賀氏の居蹟: 村の南に須賀修理太夫屋敷蹟がある。今は陸田となっており、字御下屋敷と呼ぶ。須賀氏のことは郡内の須賀村の条を併せて見ること。

若王子塚: 村の東にある。盛徳寺の持分である。大きさは幅五間程、高さ二丈余り。
住民の伝えによると、最近まで塚の上に若王子の社があったとのことで、古の国守の王子の墳墓なのでこう呼ぶと云う。その様子から古人の墳墓なることは疑いない。塚の中段に少し欠け崩れた穴がある。そこから内部を見ると、四方を厚さ五六寸の岩で積み上げ、厚さ一尺余りの岩を蓋とした石棺のように見える。外側に何箇所か岩が剥きでた所があり、そこを踏むと内部が空洞のようなので石棺の中は広いことが分る。

第11冊-頁37 堤根村 堤根新田
   堤根村・堤根新田の二村は現在郷庄の呼び名が無い。慶長十三年(1608)の水帳には、向いの箕田郷の内、忍領堤根村と載せてある。この郷名は隣郡の足立郡の村々で多く称えられ、当村も古くは足立郡に属していたと思われる。
  江戸より15里。村内の西方に古堤があり、袋村より起り樋上村に続いている。この堤は天正十八年(1590)に石田三成が忍城を水攻めにしようと、久下堤を切って荒川の水を堰入れした時に新たに築いたと云う。後この堤の下に村落が出来たので、ただちに村名とした。
  当村は正保の改には樋上村と合併して一村とし、樋上堤根村と載せ、元禄の改にはこれを分ち、外に堤根新田を置き、合計3村とした。それ故本村及び新田の境界は詳しく分ちがたく、その大略を云えば、東は渡柳村、南は袋新田、西は下忍村、北は樋上村である。広さは東西5町、南北18町。民戸68戸。成田用水を引いて使っている。検地は慶長十三年(1608)の改である。領主の遷替は前村(埼玉村)に同じく、今は阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。

小名(こな) 荻原 上新田 本村 野新田

稲荷社二宇
永徳寺 歓喜天社 地蔵堂


第11冊-頁37 樋上村
  樋上村は前村(堤根村)で説明したように、正保の頃は堤根村と一村であったが、元禄の改めに分けて二村とした。そのため領主の遷替、検地の年代、用水等すべて堤根村と同じである。四境は東が堤根と渡柳の二村に接し、南が堤根村、西が下忍村、北が佐間村である。広さは東西3町、南北8町余。民戸29戸。村内にも前村{堤根村}から続く堤がある。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 青柳 蒲原

天神社
宝珠院  観音堂


第11冊-頁38 鎌塚村
  鎌塚村は江戸より14里、民戸88戸である。東は下忍村、南は元荒川を境に足立郡吹上村、西は大井村、北は持田村である。広さは東西15町、南北2町。ここも成田用水を利用している。
  男衾郡(おぶすまぐん)本多村教念寺の康安(こうあん:1361~1362)の寄附状に武蔵国崎西郡鎌塚郷の矢野加賀小次郎・同又五郎が知行跡半分之事(地)所の寄附の状があり、この状に康安二年(1362)六月六日、左兵衛督源朝臣と記載されている。この鎌塚は当所の事で、昔矢野氏の所領であったのをこの年に教念寺へ寄附した。
  家康公御入国後の領主の詳細は分からない。正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかは三浦忠太郎の知行地であったが、いつの頃か召しあげられ、貞享・元禄の頃は、小林平右衛門・大岡七郎右衛門・赤井平右衛門等の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜わり、今は子孫の鐵丸の領地である。
高札場は村の東にある。

小名(こな): 大福寺(寺蹟である。天正年中に廃寺となったが、その詳しい事は分からない。) 東通り 八町河原

元荒川: 村の南を流れる。川幅十二、三間。

八幡社
自昌寺 薬師堂 
西勝寺 
寶積院 
寶蔵院 


第11冊-頁38 袋村
  袋村は江戸への行程16里、民戸50戸余である。東は堤根新田、野村、及び元荒川を隔て足立郡川面村、南も足立郡三ツ木・前砂の二村、西も前砂村、北は埼玉郡下忍・堤根の二村である。広さは東西9町、南北10町。ここも成田用水を利用している。
  家康公御入国後より幕府領となり、寛永十六年(1639)に村を分けて阿部豊後守に賜った。元禄年中(1688~1704)は幕府領の他に林大学頭・会田小左衛門、及び阿部豊後守等の知行地となったが、後に一円を豊後守に賜わり、今は子孫の鐵丸の領地である。
  検地は元禄十年(1698)十二月に酒井河内守が幕府領の地を糺し、後享保六年(1721)・同二十年(1735)の二度、時の領主阿部豊後守が若干の新田地を検地した。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 寄居耕地(ここに天正十八年(1590)忍城水攻めの時築いた古堤がある。) 本村 台耕地 大神袋耕地

元荒川: 南東を流れる。幅16間。土橋があり、長さは8間である。ここを渡ると足立郡川面村である。この為川面橋と云う。

女禮社 
諏訪社 
稲荷社 
雷電社 
天神社
西福寺 阿弥陀堂


渡柳村、利田村、野村、屈巣村、関根村、上真名板村、下真名板村(巻之217 埼玉郡之19 忍領)

第11冊-頁40 渡柳村
  渡柳村は江戸より15里の行程である。民家60戸余り。四境は、東は利田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村である。広さは東西25町、南北20町。成田用水を引き用いている。
  寛永(1624~1645)・正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかに、阿部豊後守・芝山権左衛門・佐久間久七郎などの知行地だったが、元禄十一年(1699)村内全域を阿部豊後守が賜り、今、子孫鐡丸に至っている。検地は元禄十二(1670)年に時の領主阿部氏が糺した。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 
黄金寺 村内の本性寺の蹟を云う。この名は本性寺の本尊が黄金仏だからである。
陣場 村の西を云う。天正十八年(1591)に石田治部少輔三成が忍城を攻めた時、本陣とした所である。ここに陣場の松という大木があったが、天明年中(1781~1789)に枯れたと云う。この辺に塚が9つある。石田三成が忍城攻めの時に渡柳に本陣をすえ、城に向けて伏椀のような塚をたくさん築いて仕寄せ(城へ攻め寄せる陣地)にしたと伝えられるのは、この塚である。そのなかに戸場口山と呼ぶ塚がある。この塚の中より最近石棺が掘り出された。その中に長さ9尺程の野太刀があり、今は村内の本性寺に収め置いてある。地元の人の話では、この塚は当所に住んでいた渡柳彌九郎を葬った塚であると云う。成田分限帳に永18貫文渡柳将監とあるが、在名を氏名としたもので、彼は彌五郎の子孫ではないだろうか。それならば三成が築く前からあった古塚であることが分る。   

八王子社  八幡   
八幡社  
諏訪社 
稲荷社  
二ツ宮  
神明社  
天神社
本性寺  釈迦堂
長福寺  秋葉社
万法院


第11冊-頁40 利田村 
  利田村は、江戸からの行程15里、検地の年代(元禄12年領主阿部氏検地)、用水(成田用水)等が前村(渡柳村)に同じ。民家35戸。村の大きさは凡そ10町四方の地で、東は廣田村、南は袋新田、西は渡柳村、北は埼玉村である。当村は正保の郷帳に高木甚左衛門の知行地とある。
  寛永系譜を見ると、高木九助廣正は後に筑波守と改め,、慶長四年(1600)に御城番として忍城を守った。然るに病いによりお役御免を願いでたが叶わず、忍城の近くに3,000石を賜ひ、さらに隠居の地として忍領内に1,600石の地を賜った。同十一年に廣正が亡くなり、子の正綱が父の領地と忍城御城番を継いで、廣正の隠居の地1,600石の地と合せて賜った。
後の元禄十年(1698)まで高木氏の領地であったが、明くる元禄十一年(1699)に前村(渡柳村)と同じく阿部氏に替賜はり、今も子孫鐵丸の領地である。
高札場は村の東にある。

小名(こな): 新田 東

天神社 
稲荷社   
正福寺 


第11冊-頁41 野村 
  野村は、江戸よりの行程15里、検地(元禄12年領主阿部氏検地)、用水(成田用水)等は前村(利田村)と同じ。渡庄と唱える。民家140戸余り。ここは元は廣野であったが、慶長年中(1596~1615)に開発するとそのまま村名となった。東は屈巣村、南は元荒川を隔てて足立郡寺谷・箕田(みだ)の二村に接し、西は埼玉郡袋村及新田・堤根村等で、北は渡柳・埼玉・廣田の3村である。広さは東西30町、南北11~12町。当村は正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかに、高木甚左衛門・弓削源七郎の知行地であった。高木氏に賜ったことは前村に述べた。明くる元禄十一年(1699)に前村と同じく阿部氏が賜ってから今も子孫鐡丸の領地である。
高札場は二ヶ所あり、東の方と西の方にある。

小名(こな): 上分 下分 篠原 揚原 宿   

元荒川: 村を南へ流れる。幅十四間より十七間に至る。  

氷川社   
天満宮  
神明社 
久伊豆神社  
八幡社    
正覚寺  阿弥陀堂 山王稲荷合社
満願寺  観音堂 聖天社、阿弥陀堂


第11冊-頁41 屈巣村
  屈巣村は江戸への行程15里は前村(野村)に同じ。戸数328戸。東は関新田・安養寺の両村、南は元荒川迄で足立郡市縄・寺谷の二村、西は足立郡箕田村と埼玉郡の野村で、北は廣田村である。広さは東西15町、南北30町。天雨水(あまみず)を溜めて水田に注ぐ使っている。家康公御入国の後より忍城付きの村で、今は阿部鉄丸の領地である。検地は延寶八年(1681)阿部播磨守が行った。
  村の東に元屈巣沼と云う東西30町、南北4町余りの沼あったが、当村及び上会下・郷地・安養寺の四村の村人の請願で享保十三年(1729)に開発し、屈巣沼新田・上会下村新田・郷地新田・安養寺新田と云う。同十六年(1732)筧播磨守が検地して高入となり、各村の新田なので屈巣沼新田と云う。
  後に故あって、上会下・郷地の新田も当村の持分となる。故に二つの新田を屈巣沼請と云う。その他の安養寺村にて開いた所は、今も同村の持添である。又関新田村もいつの頃かこの新田を持添とし、今はすべて五村による入合(共同利用)の新田となっている。
  昔から当村で持添とする屈巣沼新田は、明和七年(1771)に松平大和守の領地となり、屈巣沼請は幕府領に属す。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 上谷田 柹木 市場 中郷 宮前 船塚

元荒川: 村の西南を流れる。川幅16間で、渋井橋と云う土橋が架かる。橋の長さ9間半、幅9尺。

天神社
円通寺  鐘楼
観音寺  観音堂
普済寺
真福寺
桜本坊*忍名所  薬師堂 鷹留桜

褒善者小兵衛
  屈巣村の百姓である。妻こんと共に父母に孝養を尽くしたので、安永八年(1779)領主阿部豊後守が褒賞して米20俵を与え、翌九年から毎年米10俵ずつ与えて、父母を養う助けとした。


第11冊-頁45  関根村
  江戸からの行程15里。東は上下の外田ヶ谷2村、南は北根村と赤城村、西は小針村、北は真名板・阿良川の二村に隣接。村の広さは東西3町、南北2町ばかり。用水は関根落しで堀の悪水を引き注いでいる。
  家康公御打入の後、正保の頃(1645~1648)は加藤数馬之助の知行地で、現在は子孫の勝之助が領する。検地の年代は不明。
高札場は村の南に建つ。

小名(こな): 本村  元屋敷  新田

山王社
稲荷社
東泉寺  薬師堂


第11冊-頁45  上真名板村・下真名板村
  上真名板村と下真名板村の両村は1つの庄と唱える。江戸から16里の行程。当村はもと上下の分ちなく、正保国絵図(正保元年(1644)に作った地図)では一村だが、元禄(1688~1704)の改めで上下二村になっているので、正保と元禄の間に分れた事が分る。しかし元一村の地なので境界が入り組み、説明しにくいので、合わせて述べる。
  東は阿良川村、南から西にかけて関根・小針・下須戸の三村、北は上新郷・串作の2村が隣接する。広さは東西30町、南北13町。用水は関根村と同じく、関根落しで堀の悪水を引き注いでいる。
  家康公御入国の後は幕府領で、慶長の頃(1596~1615)大河内金兵衛が検地した。正保(1645~1648)の改めで阿部豊後守・荒川右馬之助・内藤権右衛門の知行地となった。[寛永譜](寛永諸家系図伝)に「荒川右馬之助定安が寛永十年(1633)六月武蔵国において200石の加増を賜る」と載っているのは当村のことである。それもいつの頃か変り、今は内藤熊太郎・同丈之助・蜂屋十郎左衛門・戸田一郎兵衛・藤方勘右衛門の知行地である。
高札場は三ヶ所ある。

小名(こな): 中島耕地 古河入耕地 源次郎耕地 下根

久伊豆社
稲荷社
花蔵院  薬師堂
全龍寺  観音堂


第11冊-頁46 広田村
  広田村は江戸よりの行程14里。戸数150戸。村の四境は東が関新田・屈巣の2村、南が野村、西が埼玉村、北が赤城村である。広さは東西30町、南北10町ばかり。成田用水を引く。
当村は正保(1645~1648)の郷帳には高木甚左衛門の領地となっているが、そのあと阿部氏の領地となった事と検地の年代(元禄十二年領主阿部氏検地)は利田村と同じである。そのほか慶安元年(1648)に時の地頭高木甚左衛門が検地したことが伝わっている。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 番場 三ヶ谷 向フ領 矢端 本村 東間 六軒

鷺宮  別当金剛院
稲荷社
天神社
諏訪社
八幡社
山王社
天神社  別当護宝院
廣徳院
長蔵院
観音院


広田村、藤間村、下須戸村、上新郷村、下新田村、荒木村(巻之217 埼玉郡之19 忍領)

第11冊-頁46 広田村
  広田村は江戸よりの行程14里。戸数150戸。村の四境は東が関新田・屈巣の2村、南が野村、西が埼玉村、北が赤城村である。広さは東西30町、南北10町ばかり。成田用水を引く。
  当村は正保(1645~1648)の郷帳には高木甚左衛門の領地となっているが、そのあと阿部氏の領地となった事と検地の年代(元禄十二年領主阿部氏検地)は利田村と同じである。そのほか慶安元年(1648)に時の地頭高木甚左衛門が検地したことが伝わっている。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 番場 三ヶ谷 向フ領 矢端 本村 東間 六軒

鷺宮  別当金剛院
稲荷社
天神社
諏訪社
八幡社
山王社
天神社  別当護宝院
廣徳院
長蔵院
観音院


第11冊-頁47  藤間村
  江戸からの行程15里。民戸38戸。東南の二方は上真名板村、西は小針村、北は下須戸村と下新郷村である。村の広さは東西3町ばかり、南北10町。用水は関根落しの水を引いて用いる。正保の頃(1645~1648)、加藤数馬之助の知行地となり、今もその子孫勝之助が領する。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 上 中 下

星川: 村の西南を流れる。川幅14間。

稲荷社
雷電社


第11冊-頁47  下須戸村
  江戸からの行程15里、太田庄に属す。調べてみると、埼玉郡に上須戸という村はない。ここから北へ3里余り離れた幡羅郡には上須戸村があって下須戸村はない。二つの郡にまたがって上下を唱えているのだろう。
東は下新郷・藤間の2村、西は小針村、北西に荒木村、北は下新田村、南は小針村である。東西20町、南北4町。家屋200戸。斎条用水を引き注ぐ。
  当村も寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜ったが、元禄十一年(1698)に幕府領になり、明和七年(1770)松平大和守に賜り今も続いている。検地の詳細は不明。
高札場は村の西方にある。

小名(こな): 大島新田 藤兵衛新田 かるべ 上組 中組 下組 元組

星川: 村の西方を流れる。川幅13~14間。土橋が架り、その長さ12間。字須戸橋という。

牛頭天王社
諏訪社
蔵王権現社
天神社
医王寺
常光寺
西光寺
宮本院


第11冊-頁48 上新郷
  上新郷の庄名太田庄は前村(下須戸村)に同じ。江戸からの行程16里余り。当村は江戸から下野国日光山や上野国邑楽郡館林城などへ往来する馬次(宿場)で、行田町へ1里余り、上州館林町へ2里半の距離にある。然るに昔からの定めで、江戸から館林の方へ継ぐ場合は行田町から当村へ継がずに直接利根川を渡って上野国川俣村へ送り、逆に上下野州から来る時は館林町から川俣村を継がずに当宿で継ぎ、当宿から行田町へ送る。これは他の馬次往来と異なる事である。また八王子千人同心が日光山へ交代で往来するのもこの道である。
  毎月五と十の日に市がたち、諸品を売買する。市がいつ始まったか伝承はないが、「家忠日記」の天正十九年(1591)十月二十一日の条に新郷市日を百塚で新しく始めようとし、同26日の条には新郷市のことは大方済んだと載っている。百塚とは村内の小名(こな)で今もそう呼ぶ。
  村の広さは東西18町、南北1里。東は上川俣村、及び会川(あいのかわ)を隔てて小須賀・桑崎・上中下の岩瀬村新田・下須戸の各村、西は須賀・荒木の二村、北は利根川を境として上野国邑楽郡大輪・須賀・川俣の三村である。家数480戸で宿が並んでいる。 北河原用水の堀が当村の南を通り、これを用水としている。
「家忠日記」天正十九年(1591)六月六日の条に当村と下新郷を主殿守家忠に賜ったと載っている。されば天正の頃は既に上下二村に分れていたことが分る。その後、家忠の領地は幕府領となり、明くる文禄元年(1592)に左中将忠吉卿の領地となったが、それも慶長年中(1596~1615)に幕府領に戻った。寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今は子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)に伊奈備前守が糺し、元禄九年(1696)阿部豊後守正武が改めた。
高札場は宿の中程にある。

小名(こな): 上宿 中宿 下宿 別所 百塚 中新田

利根川: 北の境を流れる。川幅390間。川に沿って高さ2丈の水除け土手が造られている。川に日光や館林城へ往来する渡しがある。又江戸と行き来する舟の河岸場がある。舟問屋は2軒。江戸までの川路は36里に及ぶ。

会川(あいのかわ): 村の東を流れる。水源は当村の北の端で、利根川の土手の下にある西福寺の境内から湧き出る水である。これが1条の流れとなり村内で悪水を合わせて下新田村に入り、それから羽生領の村々をめぐること3里余りで、東方の北篠崎村で葛西用水と合流する。当村が源流なので、その大部分を記す。川幅9尺~2間。この川に長さ7間、幅2尺5寸の伏越樋(サイホン状の交差樋)がある。これは北河原用水の堀の下を横切り、この川の水を通すために造ったものである。
  会川は利根川の古瀬で、昔は利根川が当村の北で二つに分れ、一つは今の利根川でもう一つがこの会川で、南に折れ、埼玉郡を貫き、川口村(千葉県銚子市川口町)で又いまの利根川に合流していた。昔は今の利根川に劣らず大河であったが、忠吉卿の家臣小笠原三郎左衛門が、文禄三年(1593)に土手を隣り村の上川俣村まで築いて水の流れを留めたので古川になったと伝えられる。

御関所: 利根川の土手の外、小名(こな)別所にある。関所がおかれた年代は伝えられてないが、木戸門が二ヶ所あり、本番所と見張番所が備わり、通行する旅人を改める。対岸の川俣村に通う渡りの番所なので、川俣御関所という。往来改めの条目を記した高札がある。今は橋本六左衛門・大藤太郎右衛門・佐藤利兵衛・石川勘右衛門などが土着して司る。これは忍御番城の頃から土着した関守だが、寛永十六年(1639)阿部豊後守忠秋が忍城を賜ってから、同人預りの番士となり、後に阿部氏の家臣となった。非常の場合はほかに阿部氏の家臣数人が置かれる。

愛宕社  末社天王  別当勝軍寺
浅間社
白山社
法性寺 
吉住院  住吉社
祥雲寺  観音堂
玉蔵院  天神社
自性院  薬師堂
西福寺
泉蔵院


第11冊-頁49 上新郷新田 下新田村
  下新田村は古くは上新郷の内だったが、元禄九年(1696)阿部豊後守が検地した時から分れて一つの村となった。故に今も上新郷の新田と呼び、枝郷のような村なので、庄名(太田庄)・用水(北河原用水)・領主の変遷など、全て本村の上新郷と同じである。
家数60戸。東は会川を隔てて小松村、南は下新郷、西は荒木・上新郷の二村、北も上新郷である。広さは東西20町、南北10町。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 内荻間 外荻間

湯殿権現社
栄新寺  薬師堂
天宗寺


第11冊-頁51  荒木村
  江戸からの行程16里で、太田庄に属し、北河原用水を引き注ぐ事は上新郷村に同じ。家屋230戸余り。東は上新郷村、南は小見・若小玉の二村、西は斎条村、北は須加村である。広さは東西25町、南北18町。
  ある書に「武州荒木の住人安藤駿河守隆光が法心して親鸞の弟子となり、名を源海と号した」と載っている。武蔵国内に他に荒木という地はないので当村のことであり、古くから開けていた地と分る。
  家康公御打入の後、天正十九年(1591)六月六日松平主殿頭家忠に賜り、文禄元年(1593)家忠が下総国上代の城へ移ると、同年二月十九日左中将忠吉卿に賜った。それも慶長年中に幕府領となり、寛永十年(1633)に須田儀左衛門・新見七右衛門・大澤左近・正木左馬之丞・駒井太郎左衛門の五人に分け賜ったが、寛永16年に須田の知行は幕府領となり、阿部豊後守に賜り、その後元禄十一年(1698)には村内全て阿部豊後守に賜って、今も変わっていない。検地は慶長十四年(1609)大河内孫十郎が改め、その後元禄十年十二月酒井河内守が再び検地した。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 八王子 郷地 横町 上宿 中宿 下宿 はひ塚 行人塚

星川: 村の西南を流れる。川幅8間から20間に至る。南の方の屈曲する所へ見沼用水路が落ち合う。これより下流を見沼代用水ともいう。

長善沼: 村の東。いまは殆ど開発して水田になっている。昔ここに荒木兵衛尉長善が住んでいたので長善沼と呼ぶという。

天神社*忍名所
八王子権現社
愛宕社
鷲宮社
熊野社
三十番神社
天洲寺*忍名所  太子堂
東福寺  薬師堂  閻魔堂  観音堂

旧家者益次郎
  伝えによると、先祖荒木兵庫頭は伊勢新九郎長氏と共に関東へ下った七人のうちの一人で、子孫荒木越前のとき、荒木村に住んで忍城主成田下総守に属し、80貫文で処遇されていたことは成田分限帳にも載っている。その子兵衛尉(はじめは四郎と云う)長善は、天正十八年(1590)下総守氏長と共に小田原城に籠って討ち死にした。後に忍城も落ちたので長善の館も破却された。村内にある長善沼はその館趾と云う。長善の遺腹の子を村民らが養い、長じて八左衛門と名乗り、氏を北岡と改めた。この八左衛門は天洲寺を開基した。これより子孫が荒木村に土着し、今の益次郎に至ると云う。しかし旧記など無く、ただ言い伝えだけなので、それが確かかどうか分らない。

褒善者五八
  親に孝があったので安永元年(1172)領主阿部豊後守が褒賞した。その時51歳だった。五八の姉も同じく孝養を尽くしたので同時に褒賞した。五八は8年前に病死して跡が絶えたと云う。


須加村、下中条村、酒巻村(巻之217 埼玉郡之19 忍領)

第11冊-頁52  須加村
  江戸からの行程15里で、太田庄に属し、北河原用水を引き注ぐ事は荒木村村に同じ。
横瀬氏の家系図を見ると、横瀬信濃守国経は武州須賀合戦で討ち死にし、法名を宗功と号した。その子雅楽頭泰繁は法名を宗虎と称し、父国経が討ち死にした時高松院殿から書を賜ったと載っている。また横瀬家所蔵の文書にも、去年十二月三日武州須加での合戦の時に父信濃入道が討ち死にし、自身も疵をおった云々とある。末尾に正月9日横瀬雅楽助殿義晴とある。年代を書いてないが雅楽助は大永・天文年間(1521~1555)の人である。
  横瀬氏:新田金山城主。後に由良と改名。(成田氏長が娶った甲斐姫母の実家。)
  武州須加合戦:享徳の乱開始後の康正元年(1455)十二月三日に起った。騎西城に籠った上杉氏や長尾氏などを足利成氏の軍が襲撃して敗走させた一連の戦闘の一つ。
  村の広さは、東西22町、南北10町あまり。東は上新郷村、南は荒木村、西は下中条村、北は利根川を隔てて、上野国上五箇・大輪の2村と隣接する。屋敷280戸。
「家忠日記」によれば、当村も松平主殿頭家忠の領分で、文禄元年(1593)左中将忠吉卿の領地となって以来、忍城主の変遷と同じく移り変わり、今は阿部鉄丸が領する。検地は元禄九年(1696)阿部豊後守が糺した。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 舟川  高畑  久保地  舟戸  新田  矢倉下

利根川: 村の北を流れる。川幅380間。川に沿って土手がある。当所は近郊諸村の運送の河岸場になっており船問屋が一軒ある。江戸まで川路37里ばかり。

熊野社  別当利益寺
長光寺
証城寺
阿弥陀堂*忍名所  牛頭天王社  稲荷社  鐘楼


第11冊-頁53 下中条村
  下中条村は長井庄という。江戸への行程15里と、北河原用水を引き注ぐことは前村(須賀村)と同じ。民家115。東は須賀村、南東に荒木村、南は斎条村、西は酒巻村、北は利根川をはさんで上野国邑楽郡上五箇村と隣接する。広さは東西・南北ともに5町ばかり。
  当村も家康公御入国の後に松平主殿頭家忠の領地だったことが「家忠日記」に書かれている。その後、寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜って以来、いまも子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)大河内金兵衛が改めた。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 前新田 東新田 上 下

利根川: 村の北方、上武国境を流れる。川幅は400間ばかり。川に沿って水除けの土手が造られている。川岸に船問屋が二軒あり、諸物資を江戸へ運送する。江戸までの川路36里。ここを中条河岸という。

見沼代用水分水口: 利根川の土手にある。これは見沼新田を開発する時、埼玉郡と足立郡の村々の用水のために井澤弥惣兵衛が造ったものである。弥惣兵衛は利根川の水を分水する二つの扖樋(いりひ・水を引き入れる水門の樋)を造った。一つは元扖樋で、享保十三年(1729)完成、長さ24横2間。もう1つは増扖樋で、長さ同じ、完成は翌享保十四年(1730)。この2つの扖樋の水を、共に26間流れた所で合流させ、荒木村に至って更に星川に合流させて数村の用水とした。当所には番屋を建てて扖樋を守らせた。

治子明神社   別当金蔵院
愛宕社
太神宮
神明社
興徳寺


第11冊-頁54 酒巻村
  酒巻村は江戸よりの行程15里や用水(北河原用水)・検地の年代(慶長十三年大河内金兵衛)等は、前村(下中条村)に同じ。当村はもとより利根川に沿って北からの流れが東に折れる隅にある村で、福川が落ち合う所なので、水が逆巻く故に逆巻という。酒巻は当て字であろう。
  成田氏の家人の事を記録したものに、永楽500貫文酒巻靱負亮(ゆぎえのすけ)長安、同50貫文酒巻三河、同30貫文酒巻源次右衛門などあるのは、当所の在名を用いたものである。
  民家は20戸。東は下中条村、南は斎条、犬塚の2村、西は北河原・同新田など二村、西北の隅は福川を隔てて村内字四ツ谷という所からは幡羅郡俵瀬村になる。北は利根川を隔てて上野国邑楽郡の瀬戸・井上・五箇の三村がある。広さは東西15町、南北5町程。
  当村も昔は松平主殿頭の知行地となったことが「家忠日記」に載っている。これより後、忍城付きの地となり、前村(下中条村)と同様今は阿部鉄丸の領地である。
高札場は村の北にある。

小名(こな): 
四ツ谷 西北の方、福川の向かいにある。昔は土地が接続していて福川は埼玉郡と幡多羅郡の境を流れていた。寛延(1748~1751)の頃の洪水の時 川の流れが変遷し、今の様に向かいも当村の内となり、幡羅郡俵瀬村と隣になる。
上・中・下の新田、塚越、太田、元屋敷

利根川:
  西北の幡羅郡俵瀬村より村内に入り、下中条村に達する。川幅200間でこの川に江戸へ通う船の河岸場がある。また川に沿って水除けの堤がある。高さ1丈余り。この堤よりの眺望は最景勝である。近くは幡羅郡内の妻沼から上野国の上五箇、川俣の村々をはじめとして遠くは日光・足利・赤城・伊香保・榛名など高山を見渡される。特に川幅広く水の勢い逆巻く様子は近郷には無い名所である。よってその図を載せる。


福川: 村の西北を流れる。北河原村より入って村内にて利根川に合流する。川幅13間。この川の瀬が変遷したことは、小名(こな)四ツ谷の条にて述べた。

八幡社  別当酒巻寺
浅間社
道祖神社
稲荷社
若宮八幡社
慶岩寺  観音堂、 天神社
常照寺  薬師堂


北河原村、南河原村(巻之217 埼玉郡之19 忍領)

第11冊-頁55 北河原村
  北河原村は江戸よりの行程15里・用水(北河原用水)は前村(酒巻村)に同じ。南北二村に分れたのは古い事で、寿永の頃は河原太郎高尚・同次郎忠家兄弟の所領だった。北河原は忠家が領し、南河原は高尚が領したといい伝える。されどこれも後でいうことであるので、その頃完全に南北を分かち唱えた証とも言い難い。
  東は酒巻と当村の新田があり、南は同じ新田と南河原・上中条及び幡羅郡日向村と接し、西は福川を隔てて同郡葛和田村、北も同じ川を隔てて俵瀬村と対している。
広さは東西18町、南北7町で民家157戸。古くより幕府領であったが、元禄十一年(1698)村内を六つに分け、今の藤方勘右衛門、大沢仁十郎、宮崎勘右衛門・戸田市郎兵衛、西尾藤四郎、松前徳三郎の祖先に賜わった。検地は元禄十年(1697)酒井河内守が改めた。
高札場は六ケ所にある。

小名(こな)  上宿、下宿、久保、天袋、里、立野

福川: 西から北へ屈曲して郡境を流れる。川幅8間。二つの土橋が架かる。

利根川堤: 西寄り北に続いている。利根川の水除けの大堤である。高さ2丈。

十二所権現社
若宮八幡社
熊野社
稲荷社

照厳寺:
  禅宗臨済派で相州鎌倉の円覚寺の末山である。寺領十二石余のご朱印は慶安二年(1649)八月二十四日に賜り泉福山と号す。本尊に釈迦を安置する。
寺伝によると、当寺は河原次郎忠家の家臣、森入道道本が主人の追福のために草創したと云う。しかし寿永三年(1184)摂津国一の谷に於いて戦死した河原太郎高直、同次郎忠家兄弟の位牌を置いた。山号(泉福山)は高直の送り名・泉福院直入讃高から、また寺号(照岩寺)は忠家の送り名・照岩寺直心道盛から、それぞれ文字を用いた。開山を詞久という。嘉慶二年(1388)九月二日亡くなる。開基の道本は正治二年(1200)四月二日亡くなっているので、開山と開基の年代がさらに違ってくる。さりながら古刹とは見えるが、記録にも伝えが無いので確認できない。村の民・五郎左衛門は彼の道本の子孫で森氏であるが、これも確かなる事も無い。

薬師堂: 客殿の後の方の小高い所にある。薬師は定朝の作と言える。昔はこの堂の前の利根川の堤の上より遠望する所が景勝の地だったので、今より四代前の住僧は眼前の地名を以って八景の題を作り、公家(殿上人)の詩歌を乞い得て珍蔵(珍しいと秘蔵する)とした。今は堤の上の松杉が生い茂り、古の様子は絶えてない。詩歌は、以下の通り。

黒髪山晴乱
  ふもとなる 水海かけて 晴れにけり 黒髪山の 山の嵐に
  中院右大臣道躬公
  風引白雲一帯長 満山晴景不尋常 攅峯峭壁翠微色 千古挂来仏日光 
  唐橋小納言在簾朝臣

筑波夕照(せきしょう:夕映え)
  暮れかかる 里のをちなる 筑波山 そことさやかに 夕日さす影
  冷泉大納言為久卿
  筑波山嶺道三千 遠映斜陽聳満天 風色凝眸将援筆 半紅半雫興雲連
  勤修寺中納言高顕卿

利根川帰帆
  雲ひらく 利根の川との 見るうちに こなたやとまり 帰る舟人
  武者小路前権大納言実陰
  奔流如箭甲東関 直下千艘一望間 囘首僧房憐世態 沂洄豊日幾人還
  高辻中納言総長卿

熊谷晩鐘
  鐘の音に 聞くは昔の 夕暮れも あはれ忍ぶる 袖や濡らさん
  高野権中納言保光卿
  勇士尚存一古墳 緬懐白旆擁三軍 黄昏過客為追弔 驚却鐘聲馬上聞
  中御門前宰相宣顕卿

長井夜雨
  いねかてに 夜半も長井の 秋はさそ をもひやるたに 雨そさひしき
  高松従三位重季卿
  英雄千歳古祠存 林樹陰森日易昏 秋雨終宵如溌墨 応須天意在忠魂
  勘解由小路前大納言韶光卿

泉山秋月
  秋清き 岩間に月の かけとめて いつみの山の 名をや流さん
  武者小路前参議公野卿
  決皆島辺秋色清 夜深虚閣断経声 一輪白日碾昇處 光照高僧覚海明
  防城蔵人頭左大弁俊将朝臣

成田落雁
  いくつらそ 成田の面に をつる雁 いつみの山の 峰をこえ来て
  日野前大納言資時卿
  成田千畝接西東 雁陣横斜落遠空 春去秋来留此地 年年応飽稲梁豊
  葉室権中納言頼胤卿

赤城暮雲
  降りつもる 雪にあかきの 山ひとり 暮れ残る色を 見せてかかやく
  西三条前大納言公福卿
  冉冉同雲布 赤城雪陸離 稍埋東郭履 因動灞橘詩 
  村外行踪絶 天辺往鳥遅 風寒肌起粟 一望欲昏時
  八条中将隆英朝臣

鐘楼 亀岡稲荷社 観音堂 


北河原新田
  北河原新田は、本村の南東にある。この村は元禄の改めに初めて載っているので、元禄十年(1697)の本村の検地があった頃より分かれて一村となっていたのである。
 東は酒巻村、南は南河原村、西より北にわたって本村である。四方ともに3町程の地にして戸数20戸。金田市郎の知行地である。
高札場が村の中程にある。

伊勢宮


第11冊-頁57 南河原村
  南河原村は江戸からの行程16里余り。太田庄に属す。南北二つに分れ、ここが河原太郎高直の領地であったことは北河原村の条で述べた。戸数112戸。東は犬塚村、南は上中条村、北は北河原村に隣接する。広さは東西28町、南北30町。用水は上川上村の溜井から水田に引いている。
  当村は家康公御入国後は幕府領であったが、慶長十三年(1608)に伊奈備前守忠次が検地して寛永四年(1627)に村内を五つに分け、日根野長右衛門・梶原七郎兵衛・松平隼人・松平斎宮・森川三左衛門に賜った。そのうち梶川某の領地は幕府領に戻ったが、その頃に開拓した新田は元禄年中(1688~1704)に伊奈半十郎が検地した。元禄十年(1697)に全体の所替えがあり阿部豊後守が賜ったが、寛永七年(1630)に阿部讃岐守に分地し、子孫帯刀が享保十九年(1734)に本家が相続して以来、本家阿部氏に復して、今の子孫鉄丸に至っている。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 屋敷 東 新井 茅原 町 新屋敷 曲目 北 新田 中新田 向新田

勝呂神社(今の河原神社)*忍名所  別当本覚院
諏訪社
稲荷社
八幡社
浅間社
観福寺*忍名所  鐘楼 弁天社 天神社 諏訪社 真珠院 天神社 金山権現社 観音堂

河原兄弟碑
  河原太郎私市(きさい)高直・同次郎忠家の碑である。中古まで村の北の畑の中にあったのを農民河原太郎左衛門が「自分の先祖の碑である」として、後になって此処に移したという。碑面には一つは文応二年(1261)、もう一つは文永二年(1265)と彫られている。どちらも阿弥陀像と施主の名がある。まさしく供養塔である。
  河原兄弟の碑とするには年代が違うが、正保(1645~1648)の改めの国図に、小高い塚を書き、側に河原兄弟墓と記しているので、この碑に疑いがあるにしても、少し前までこの碑があったことで、村内墳墓所があったことは間違いない。今のように塚が崩れて畑にしてしまった年代などは伝わってない。

鶴塚
  村の西で、塚の上に古い松の木が1本ある。神君家康公が忍城に御滞留してこの辺りで鷹狩りされた時、ここで鶴をとらせたので、鶴塚と名付けたという。

旧家者賢次郎
  氏を河原と云う。家系はあるが後に付会(無理に繋ぎ合わせた)したものである。言い伝えによると、古えは河原氏であったが、中古(しばらく前)今村と名乗り、今から五代の祖、太郎左衛門重信が享保年中(1716~1736)に復姓して再び河原を氏とした。彼の家系というのはこの頃に付会したものであろう。しかし成田下総守が先祖源左衛門に与えた判物があるので旧家であるのは間違いない。成田氏の文書は下記に示す。家系は特筆すべきものがないので省く。
  『この度の成田家に仕えるという内意の趣旨は承知した。
  よって50貫文支配する事をこの条にてあてがう。
  本書により領知せしめることを全て可とする。
  天正五年三月九日   氏長花押
  今村源左衛門どの 』


上川上村、下川上村、大塚村、犬塚村、中江袋村、馬見塚村、斎条村(巻之218 埼玉郡之20 忍領)

第11冊-頁63 上川上村
  上川上村は江戸からの行程16里、太田庄に属す。東は大塚・下川上の二村、南は上之村、西から北は上中条村である。広さは東西13町、南北6町ばかり。民戸80戸。村内に僅かの溜井を作って用水にしている。下川上・上中条・南河原・大塚・中江袋などの村々もこの溜井を引いて用水にしている。
  当村はむかし川上三郎が住んでいたと伝えられる。三郎は「保元物語」に載っている武蔵の人である。その後、山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。
  調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦(武州上杉氏と古河公方の戦い?)で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。詳しくは幡羅郡八ツ口村長昌寺の条に述べる。
  この村は慶長の頃(1596~1615)幕府領であったが、寛永年中(1624~1645)に南條金左衛門・深尾五郎右衛門・伴五兵衛・斎藤久右衛門・小栗勘八郎などの知行地に賜い、元禄十一年(1698)になって阿部豊後守の領地となり、享保十九年(1734)には又幕府領に戻り、明和七年(1770)に松平大和守の領地になった。検地は前村と同じく、慶長改めの後、享保十八年(1733)領主豊後守が新田の地を改めた。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 天神河原 十二所 東曲輪 宿

星川: 村の南を屈曲して流れる。川幅4間。

熊野社  末社 八幡 若宮 稲荷 荒神 
稲荷社
天神社
医王寺  薬師堂
観音堂  地蔵堂


第11冊-頁64 下川上村
  下川上村は江戸への行程16里で上川上村と同じ。忍庄と唱える。民戸90戸余り。広さは東西・南北とも10町ばかり。南は上池守・上池上の二村、西は上川上と上之村、南は南河原村である。
  家康公御入国の後は幕府領であったが、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸の領地である。検地は前村(上川上村)と同じく、慶長改めの後、延亨二年(1745)豊後守が再び糺した。
高札場は村の南境に立つ。

小名(こな): 鶴木宮 土器町 市海道 桜島 柳原 仏具免 縄子田 江戸町 中町
南えこせ 北えこせ 絶覚寺

星川: 南方を流れる。川幅6~7間。この川に土橋が架る。長さ10間。

三島明神社
牛頭天王社
弁天社
浄泉寺*忍名所  門 四天門 開山堂 衆寮 鐘楼 弁天社 天神社 秋葉社 熊野社
宝乗院 金毘羅社
弥勒院
愛染堂*忍名所


第11冊-頁65 大塚村
  大塚村は江戸への行程16里で下川上村と同じ。村の広さは東西10町余り、南北8~9町ばかり。民戸26戸。東は南河原村、南は馬見塚・中江袋・下川上の三村で、西は上川上村、北は上中条村である。当所も寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜り、暫く領して宝永七年(1710)一族の阿部讃岐守へ分地したが、享保十九年(1734)に阿部帯刀が本家を相続してまた元に戻り、今は子孫鉄丸の領地である。検地は安永四年(1775)に領主が糺した。
高札場は東境にある。

小名(こな): 前谷 大釜 新堀

龍昌寺
熊野社
観聚院  観音堂

旧家者五郎左衛門
  大塚村の庄屋を務める。先祖松岡豊前守勝政は成田家譜代の侍で、1,000貫文で処遇されていた。天正十八年(1590)に忍城が落城した後に大塚村に住んでから子孫が連綿と続いて今に至る。勝政の名は成田分限帳には長達と載っている。改名したのであろう。


第11冊-頁65 犬塚村
  犬塚村は江戸からの行程16里。民戸77戸。東は斎条村、南は和田・馬見塚の二村、西は南河原村、北は酒巻村に隣接している。広さは東西11町、南北14町。北河原用水を引き用いる。
  家康公御入国後、当村は松平主殿頭家忠に賜った。「家忠日記」の天正十九年(1591)六月六日の条に943石3斗1升、犬塚村と西新井村を賜った事を載せている。この西新井村とは当時は別村だったが、今は当村に含まれ小名(こな)にある。正保の頃(1645~1648)は幕府領のほかに、阿部豊後守・伊藤長五郎・丸山市太夫・矢頭金左衛門・高林太郎兵衛・漆戸八兵衛・成瀬九兵衛・山田長右衛門らの領地であった。
  「寛永譜」を調べてみると、矢頭金左衛門重次が元和十九年(1633)武州忍の領内に知行地を賜うとあるのは当村のことである。豊後守に賜ったのは近村と同じく寛永十六年(1639)であろう。その他の賜った年は不明。そのあと元禄十三年(1700)になり、伊藤以下の小さな地を合わせて阿部豊後守に賜って、今は子孫鉄丸が領する。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 西新井 五段町 柳町 中間町 古川町

星川: 村の南を流れる。当所で上流の村々の悪水がこの川に合流し、川幅も他村より広く、60間に及ぶ。

蔵王権現社
稲荷社二宇
十二天宮
愛宕社
雷電社


第11冊-頁66 中江袋村
  中江袋村は江戸からの行程16里。民家29戸。東は馬見塚村、西は下川上村、南は池守村、北は南河原村に隣接している。広さは東西3町、南北10町余り。用水は上川上村の溜井から引いている。
  当村は家康公御入国後から寛文の頃(1661~1673)まで幕府領であったが、元禄の初めに中山利右衛門の領地となり、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸まで続いている。検地は明暦二年(1656)曽根五郎左衛門が糺した。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 掃除町 瓦町 後町 小堰元

星川: 村の南を流れる。川幅13間~17間。

剣明神社 弁天
第六天社
稲荷社
長徳寺  二十五菩薩堂 天神社 金毘羅社


第11冊-頁66 馬見塚村
  馬見塚村は太田庄に属す。江戸からの行程16里。民戸65戸。村内の東の方に御堂塚と呼ぶ小塚がある。この辺りに昔馬市がたち、この塚の上に登って馬の良し悪しを見分けたので、いつとなく村名になったという。「成田分限帳」に永21貫文馬見塚三河と載っているが、この人は当村に住み在名を氏としたのであろう。
  村の広さは東西11町、南北7町ばかり。東は犬塚村、南は和田・中池守・下池守の3村、西は中江袋村、北は犬塚村と中江袋村である。北河原用水を引いて水田に注いでいる。
当村は寛永・正保の頃は御手洗伝左衛門・酒井七郎右衛門・山田長右衛門・森川三右衛門らの知行地であった。その後、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領している。
高札場は二ヶ所ある。村の東と村の西。

小名(こな): 高田町 上萎田町 中萎田町 西神際町 東神際町 吉際町 一本木町

星川: 村の南。川幅13間~18間。この川に土橋が架かる。長さ10間。

久伊豆社
神明社
稲荷社
諏訪社
西善院
天神社 稲荷社 薬師堂


第11冊-頁67  斎条村
  斎条村は江戸への行程16里は前村(馬見塚村)と同じ。民戸128戸。成田分限帳に「永20貫文斎条伊賀」と載っているが、これは当村の人である。東は荒木村、南は白川戸村、西は犬塚・馬見塚の2村で、北は酒巻・下中条の二村と隣接する。広さは東西18町、南北17町ばかり。用水は星川の水を引いて田に注いでいる。
  当村は正保の頃(1644~1648)は阿部豊後守・大久保平四郎・須田義左衛門・鵜殿大學らの領地であった。義左衛門に賜ったのは寛永十年(1633)だが、他の賜った年は不明。その後、元禄十一年(1699)に合わせて豊後守に賜ってから今も子孫鉄丸が領している。
高札場は南東の方にある。

小名(こな): 北戸 中江崎 台

星川: 村の南方を流れる。川幅は12間、広い所は35間ある。

斎条堰: 当村で星川の水を溜めておき、扖樋(いりひ・水を引き入れる水門の樋)を設けて、水を引入れ、(斎条という村名をつけた)一條の流れをなし、当村と下流13ヶ村の用水となる。これを齋條堰用水という。扖樋の長さ8間、内寸5尺4寸。

剣社
浅間社
諏訪社
八幡社
天神社
弁天社
雷電社
矢矯明神社
熊野神社
宝泉寺  薬師堂
多聞院


和田村、上池守村、中池守村、下池守村、中里村、池上村、小敷田村(巻之218 埼玉郡之20 忍領)

第11冊-頁68 和田村
  和田村は江戸への行程16里は前村(斎条村)と同じ。成田分限帳に和田七郎という名が載っているが、これは当村の人である。民戸55戸。東は白川戸・斎条の二村、南は谷郷、西は下池守村で、北は馬見塚村と隣接する。広さは東西15町、南北13町。用水は小宮堰(星川)の水を引いて用いている。
  家康公御入国の後は幕府領となり、忍城番が支配し、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸に続いている。検地は慶長十三年(1637)に袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改めた。
高札場は村の北西に方にある。

小名(こな): 上新田 前新田 下新田

星川: 村の北を流れる。 川幅16間。

伊森明神社
蔵王社
宝珠院  護摩堂


第11冊-頁68 上池守村 
  上池守村の領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、江戸への行程16里、及び用水(小宮堰)等は前村{和田村}に同じである。古は、上・中・下合せて一つの村であった。玄和五年(1619)の割付には池守郷と載っており、同六年(1620)のものより後は村となっている。調べてみると村というのを郷と記したもので中世から行われた郷名ではない。その後、元禄の改定のものに、初めて今のように三村が載っており、上・中・下に分れたのはその頃と思われる。民家が75戸。東は中池守村、南は中里村、西は池上村、北は下川上村である。東西の広さは8町、南北は12町に及ぶ。
高札場は村の中程にある。

小名(こな):  横町 下久保 八木澤 前出 下島間 長大道 

星川: 村の北を流れる。川幅12間。この川に長さ10間、幅9尺の土橋が架かる。

天神社三宇
八幡社
神明社 
善性寺  牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)
辯天社  地蔵堂
持宝院  天神社 稲荷社
地蔵堂 
観音堂 


第11冊-頁69 中池守村 
  中池守村は、上池守村の東に続き、南は皿尾村、東は下池守村、北は馬見塚・中江袋の二村である。東西3町、南北10町。民家は20戸余。領主の変遷、江戸よりの行程16里、検地の年歴(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は前村(上池守村)に同じ。
高札場は東の方にある。

星川: 村の北を流れる。川幅14間。

子安明神社*忍名所 神宝子安玉 子育石
天神社 
龍光寺 


第11冊-頁69 下池守村 
 下池守村は、江戸への行程16里、及び領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は中池守村に同じ。東は和田村、南は皿尾村、西は中池守村で、北は馬見塚村である。広さは東西3町、南北9町。民家は18戸である。
高札場は村の東にある。

星川: 村の北を流れる。川幅16間

稲荷社 
観音堂


第11冊-頁69 中里村
  中里村は、江戸からの行程15里、太田庄に属す。領主の変還、検地(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)・用水(小宮堰)等は下池守村に同じ。家数は50戸余。東は谷之郷(谷郷)、皿尾の2村、南は持田村、西は小敷田村で、北は上池守村である。村の広さは、東西7町余り、南北12町を越す。
高札場は村の中程にある。

小名(こな):  沼尻、 ぞう殿、 新在家

八幡社
雷電社
神明社
萬徳寺  
萬徳寺  
阿彌陀堂


第11冊-頁70 池上村
  池上村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)と領主の変遷は前村(中里村)に同じ。
調べてみると、忍城に掛かっていた延慶二年(1309)の鐘は、陣鐘に用いたものだが、この鐘の銘に「武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺」と載っているのは、当村の新田小敷田村普門寺のことであると伝わっているので、当村が古くから開けていた事が分る。
  家数60戸。東は上池上村、南は小敷田村、西は上之村、北は星川を挟んで下川上村である。広さは東西9町余り、南北11町に及ぶ。用水は成田堰の水を引いて田地に注いでいる。検地は慶長十三年(1608)三月新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺した。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 上曲輪 中曲輪 下曲輪 道下曲輪

星川: 北の方にある。川幅7間~10間。土橋が架る。橋の長さ10間、幅9尺。

岩倉社*忍名所
荒神社
梅岩院  天神社 白山社
照明院  天神社 熊野社 弁天社


第11冊-頁70 池上村新田 小敷田村
  小敷田村は、池上村より分かれた村である。従って江戸の行程16里、,庄名(太田庄)、及び領主の変遷、検地(慶長十三年新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺す)・用水(成田堰)等全て前村(池上村)に同じである。もっとも,別村になったのはさほど古い事ではなく,元録(1688~1703)改定のものに初めて、池上村の新田小敷田村と載っており、分かれた年代はこれでわかる。家数は37軒、東は中里村、南は持田村、西は上之村、北は池上村。広さは東西9町、南北7町ある。
高札場は村の中程にある。

小名(こな):  田中、 上、 下
春日社
普門寺

上之村、箱田村、平戸村、戸出村、太井村(門井村、棚田村、新宿村)(巻之218 埼玉郡之20 忍領)

第11冊-頁71 上之村
  上之村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)は前村(小敷田村)に同じ。当村は「むかし成田村と云っていたが、いつの頃からか今のように改めて古い名は小名(こな)に残るだけ」と伝わっている。調べてみると、足立郡に石戸上村・石戸下村があり、他にも上村下村と称する村が多くあるので、当所もむかし成田上村・成田中村・成田下村と分けて呼んでいたのを、後に成田の二字を省き、その後又中下の唱えを廃して上村に統一したのであろう。今も村内を四つに区分けして、上組中組下組成田と分ち呼ぶのはその名残りのようである。
  家数250戸。東は池上・小敷田・持田の三村、南は戸出・平戸・箱田の三村と大里郡熊谷宿等に接し、西も大里郡肥塚村、北は埼玉郡上下の川上の二村である。広さは東西24町、南北20町。
  当村は天正の頃(1573~)1593)は成田下総守が領していた。家康公御入国の後は左中将忠吉卿の領地であったが、慶長五年(1600)から幕府領となり、寛永十年(1633)松平伊豆守に賜り、同十六年(1639)幕府領に戻り、その後いつの頃からか旗本の知行地に分ち賜った。
実際、正保(1645~1648)の郷帳には、松木市左衛門御代官所、及び太田惣兵衛・三田長右衛門・前田孫市郎・竹内権之丞・永井弥右衛門・本間五郎作・筧勘七・松平次郎左衛門・斎藤久右衛門・筧六郎右衛門・山田左兵衛などの知行地、龍淵寺領・一乗院領・久伊豆神社領が入会(いりあい・共同利用)になる旨が載っている。
  又村に伝わる記録によれば、元禄年中(1688~1704)には、山田孫太夫・斎藤久右衛門・前田安芸守・同新五郎・筧助兵衛・竹内五六左衛門・杉浦内蔵允(くらのじょう)・鈴木甚之助・松平次郎左衛門・松平下野守・三田次郎右衛門・本間忠左衛門の知行地であった。しかし同十一年(1698)おしなべて所替えとなり、当村は阿部豊後守に賜って、今も子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は上中下の組に一ケ所ずつある。

小名(こな): 
成田 成田式部大輔助高が当所に住み、在名を氏としたものである。よって当時は前述のように、村全体を成田村と称していたが、今は村の北の方の龍淵寺領だけ成田と呼ぶ。これは古の名残りである。
堀之内、殿山 これら二つの小名(こな)も成田氏がいた為にできたものである。その城址はいま堀之内にある。
秋葉 村の南の方である。古は別の一村であったが、成田太郎助廣の五男、秋葉七郎某が住んでいた地である。龍淵寺にある成田家譜には秋庭七郎と載り、成田四郎助綱の弟になっている。この助綱は東鑑にも名前がでているので、地名ができたのも古いことが分る。
五田塚 塚の名である。この塚があるので小名(こな)になった。塚は高さ1丈5~6尺、幅15間ばかり。塚の由来は不明。
下河原 穢多(えた)が住む地である。慶長十三年伊奈備前守が検地した時、除地(じょち・年貢諸役を免除された地)としたという。穢多の者15軒。その中で七郎右衛門の家に成田氏長が出した文書があった。その文は
  『□□之長吏職之事、不可有仰相違之旨、如件
  (□□の長吏職は相違というべからず)
  元亀二年(1571) 十二月九日
  七郎右衛門へ』

星川: 村の北を流れる。水源は大里郡広瀬村で荒川を引き分けて同郡石原村に至って二つの流れに分れたうちの一方で、ここまでは特に名もない。村内に小宮堰という堰を設けて、隣りの池上村から下流10ケ村の用水とし、名を星川と呼ぶ。この上流に御鷹橋という長さ5間の橋が架る。言い伝えでは、家康公が鷹狩りされた頃に龍淵寺へ行く為に伊奈備前守が造ったので、御鷹橋という名になったという。

池: 村の中ほどにある。広さ220坪。

久伊豆社*忍名所  末社雷電 姫宮 天神 太郎坊 次郎坊 稲荷 随神門 鐘楼 別当久見寺 社人江守大和 社僧大正院
諏訪社
稲荷社
三郎社
大天魄社
荒神社
天神社二宇
八幡社
龍淵寺*忍名所  宝物 家康公朱印状 成田系図 成田家人分限帳 陣鈴 秀吉公禁制 浅野長吉禁制 本堂 禅堂 衆寮 回廊 山門 表門 裏門 下馬札 制札 鐘楼 東照宮 稲荷社 天神社 弁天社 龍ケ淵 開山座禅石
一乗院  護摩堂 稲荷社 弁天社 聖天社 熊野社 鐘楼
泰蔵院*忍名所  阿弥陀堂 白山社
東光寺*忍名所
円明寺  地蔵堂
安楽寺  天神社 愛宕社
専寿院
地蔵堂
弥陀堂


古城址
  村の北で小名(こな)堀之内の辺りを云う。これは成田氏が数代住居としていた所で、後年ここから忍城へ移ったという。今は皆陸田となって小さな八幡社があるだけである。
成田家譜などを調べてみると、成田は藤原伊尹(ふじわらのこれただ)公の子、左中将義孝の二男、武蔵守忠基五代式部大輔助高に始まり、助高が当所に住んだので在名を氏としたものである。
  これが成田氏の祖で、それから子孫下総守親泰まで八代がここに住んでいたが、文明年中(1469~1487)、(あるいは永正の頃(1504~1521))に忍城へ移ったという。忍城の条で詳しく述べる-。)
「鎌倉管領九代記」の永享十二年(1440)七月一日合戦の条に、一色伊予守は去る正月に鎌倉を逃げ出し、武州成田の館に隠れていたが、北一揆の者ども(成田家の人々)と相かたらい云々、上杉性順と長尾景仲が成田の館へ押し寄せるとあるのは、当所の館である。


第11冊-頁76 上之村新田 箱田村
  箱田村は本村(上之村)の西に続く。地元の人によると、上之村の新田といっても箱田村の名も古く、古に箱田三郎が住んでいたと云う。成田系図に箱田右馬允・その子刑部丞廣忠・その子三郎兵衛尉能忠・その子三郎助忠などが載っている。これらは成田の一族でここに住み、箱田をもって家号としたのであろう。
  調べてみると、正保の国図にこの村の名はなく、元禄改定の図に始めて載っている。これゆえ箱田は、古は上之村の小名(こな)で、正保より後に分村したので、上之村新田という名を冠しているのだろう。
  家数は35戸。東は上之村、西南北の三方は大里郡熊谷宿・石原村・肥塚村などに隣接している。用水は成田用水を引いている。この用水の水源は大里郡広瀬村で荒川を分水し、石原村で二流に分れて、一つは肥塚村から上之村へ注ぎ、これが星川の上流である。もう一つは石原村から直接当村へ入り、これは成田用水が当郡へ入る始めである。
  この村は元禄十一年(1698)阿部豊後守正武に賜り、今子孫鉄丸が領する。検地の年代(慶長十三年伊奈備前守)と江戸からの行程16里は前村(上之村)に同じ。
高札場は当所になく、上之村の高札で兼ねる。

稲荷社
伊勢宮
山神社
文殊院
阿弥陀堂


第11冊-頁77 平戸村
  平戸村は、江戸からの行程16里、及び検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は前村(箱田村)に同じ。民家の戸数は50戸。東は戸出村、南は大里郡佐谷田村、西は大里郡熊谷宿で、北は埼玉郡の上之村である。東西12町、南北7町余り。南西の方向に中山道の往還があり、佐谷田村より入って熊谷宿に達している。
  当村は正保(1645~1648)の郷帳に幕府領のほか、近藤勘右衛門、長田三郎右衛門、荒川又六郎、西山忠次郎の知行地である事が載っている。その後、元禄十一年(1698)阿部豊後守の領地となり、今も替らず子孫鐵丸が相続している。
高札場は村の中程にある。

小名(こな):  前平戸 丸屋敷 馬場 門前

八幡社
他國明神社
稲荷社
超願寺
源宗寺


第11冊-頁77 戸出村 
  戸出村は、江戸よりの行程16里、検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は、前村{平戸村}に同じ。民家は38戸。東は持田村、南は大里郡佐谷田村、西は平戸村、北は上之村である。東西16町、南北3町ばかりで、水害の起こる土地である。
  成田分限帳に戸出彌吉という名がある。これは当村の出身者であろう。当村も、正保(1647)の改定で、西山忠次郎・能勢庄左衛門・大久保四郎左衛門の知行地となったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守賜り、今は子孫阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。

小名(こな) 釜在家 新在家

神明社
戸出明神社
雀宮
龍寶院
地蔵堂


第11冊-頁77 大井村(大井・門井・新宿・棚田)
  大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より15里。当村は古えに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。
  正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。
  民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西20町、南北8町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ。

小名(こな): 
門井 東にある。この地名は古い。成田分限帳に永楽2貫文門井善八郎とある。此の地より出た人である。 
大井(本村) 新宿 棚田 荒井 番場

元荒川: 南の方、大里郡の境を流れる。大里郡佐谷田村より入って、埼玉郡鎌塚村へ達する。この川は当村にて初めて埼玉郡へ入る。川幅6間。

榛名社  
伊勢宮 
鷺明神
三島社 
神明社 
山神社 
太神宮
福聚院  阿弥陀堂 
真福寺  阿弥陀堂 
安養寺 
龍蔵寺 
徳園寺 
慈眼寺
寶性寺 
福性院 不動堂 
永勝寺
善勝寺蹟

旧家者喜平治
  小名門井の名主である。先祖は栗原大学助という成田下総守氏長の家臣であった。家に氏長が与えた文書二通蔵していた。この他には確かな事は伝えてないが、彼の文書の一つは「夫馬の為に10貫文を免ずる」、もう一つは「田畑合わせて20貫文」とある。これは食禄であろう。既に成田分限帳に永20貫文栗原大学と載っている。食禄の数が文書と符号しているので下総守の家臣であったことは間違いない。

文書二通は略

熊谷町、久下村(巻之220 大里郡之2 忍領)

第11冊-頁85  熊谷町
  熊谷町は熊谷宿とも言う。広瀬郷に属し江戸より16里である。地名の起こりは、大昔当所の谷に大きな熊が住んでいて住民を悩ませていた。熊谷次郎直実の父・次郎太夫平直定が此の熊を退治した事から、地名を熊谷という。また直定が屋号にも唱え、直実も続けて名乗った。これらは熊谷系譜や宿内の熊谷寺縁起等に載っている事であるが、正しいかどうかは分からない。
  当所は中山道の宿駅で江戸の方の鴻巣宿より4里6町余で、さらに上方の深谷宿ヘは2里27町である。また上野国の新田道は、熊谷から中山道を深谷へ行く途中で分かれる。北の方へ2里半で埼玉郡妻沼、東の方へ2里で行田町である。また当所に分岐路が4つあり、皆中山道の上の方で分岐している。上野国世良田道は榛沢郡中瀬まで3里半、上野国足尾銅山道亀岡まで4里、相州道松山町へ3里、秩父道榛沢郡小前田まで3里半、これら皆 当所にて人馬の継ぎ立て(宿継ぎ)をする。
  宿の長さ17町半で江戸に近い方を本町といい、次を新宿、その次を熊谷寺の門前町という。人家は970戸。多くは両側に連ねて住んでいる。
  昔の道は熊谷寺の裏門の方にあったが、文禄四年(1596)三月今のような町割りに変わり、東は佐谷田村および埼玉郡平戸村となる。南は荒川に沿い対岸は手島・村岡の2村である。西南から西は石原村に接し、北は肥塚村および埼玉郡箱田村に隣する。東西も南北もおよそ15町である。
  昔は毎月二・七の日に市が立って大変にぎやかであったが、近年衰微して歳末にのみ市が立つという。用水は隣村の石原村に堰を設け荒川の水を引く。これを成田用水と言う。
  当所は昔熊谷氏の所領であったが、その後の事の詳細は分からない。文明の頃より忍の成田氏の所領となる。天正十八年(1590)より幕府領となる。寛永十六年(1639)阿部豊後守忠秋に賜り、今はその子孫の鉄丸が領している。検地は元和七年(1621)大河内金兵衛が確認した。後年開発した新田は、正徳元年(1711)と元文元年(1736)の二度改訂した。
高札場は熊谷宿の中ほどにある。

小名(こな): 本町、新宿、下町、上町、門前町、横町 

荒川: 南の村境を流れる。平常時の川幅四十間、河原含めて幅五十間もあるだろう。この川に渡船場は二か所ある。

星川: 水源は二派ある。一つは宿の南裏にある石上寺境内の池より流れで、他の一つは成田用水が下流に来て一条の川となる。久山寺境内より湧き出る水も後者の川に注ぐという。
堤: 南の方にあって高さ1丈1尺である。天正二年(1574)小田原北条氏が築いた堤だろうといわれる。世間では熊谷堤といわれる。

高城明神社*忍名所 末社、天神、神楽堂 霊水 社宝(麾扇、軍配、鏃、鉾、刀、天国刀)
光明院、万宝院、海宝院、正覚院
千形明神社*忍名所
熊野社
星の宮
稲荷社三宇

熊谷寺*忍名所  寺宝(金襴袈裟、弥陀像、放光名号、和歌名号、斧替名号、理書、直実の母衣、同旗名号、蓮生作の阿弥陀如来、蓮生直筆の十五遍名号、連生の笈数珠鉄鉢鉦、直実が乗った鞍鎧斧軍扇、連生画像(逆馬画)、迎接曼荼羅、名号、四句偈文、地蔵像など)
鐘楼  閻魔堂、地蔵堂、稲荷社 蓮生の墓 敦盛追善碑

久山寺 弁天社、地蔵堂、閻魔堂
報恩寺*忍名所  山門 鐘楼 薬師堂 白山社
石上寺*忍名所  観音堂、毘沙門堂、地蔵堂、千体仏堂、伊勢両社、鹿島社、星川の池は、星川の水源である。
光明寺
常福寺  薬師堂 天神社
円照寺  鐘楼 住吉金毘羅合社
西蔵院  弁天社 薬師堂
大善院  愛宕牛頭天王稲荷合社

旧家者忠兵衛
  布施田を氏とする。先祖は信州の源八兵衛尉広綱の子孫で、布施田六郎大夫入道了閑広光の長男の半次郎広映がいた。広映は弓馬が達者だったので、武者修行として当国忍に来た。成田丹波守泰行(成田系図に泰行は無い。左衛門尉泰親の子に左馬助泰之という者あり、この人か)の旗下に属して、後に成田の婿となる。
  広映の子山城守長章も成田肥前守の婿となり武功があったので、後に武州三ヶ尻に城を築いた。深谷の上杉憲光が成田氏長の領地を略奪した戦さで、しばしば功績をあげた。この頃 北条氏康より感謝状を賜り、今日に至るまで家に蔵している。その後 天正十八年(1900)小田原落城の時六月六日小田原にて戦死する。
  その子左京亮長映は三ヶ尻の陣屋にいたが、忍城を落去った後当所に来て熊谷町を取立てた。文禄四年(1596)三月に熊谷宿の町割りを改める時にその事を司り、その後代々名主・陣屋を兼務して今の忠兵衛に至るという。
(氏康が出した感謝状 略)
また、名主の勘右衛門も同じ布施田の出身で、大河内金兵衛が出した下知状を5通も蔵しているので古い家と見える。

旧家者栄蔵
  伊勢国の生まれで長野越後守某。忍の成田の客分としていた時、忍城を落ち去った後、当所に移り子孫代々土着して熊谷宿の名主・本陣を兼任している。
その家譜や記録の伝承が無いので、詳細は分からない。しかし先祖越後守の孫・喜三の時、成田氏より出した文書四通を持ち伝えている。これは古い家であることには間違いない。
(四通あり 略)

旧家者新右衛門
  本陣・問屋を兼任し、竹井氏である。先祖は竹屋右衛門督兼俊の後胤で藤原俊信の長男である。竹井新左衛門尉信武として生まれた。母は別府尾張守長吉の娘で、天文二十二年(1553)五月十七日の出産の時、庭先の井戸の中に竹が生えていたことから竹屋氏の発祥となり竹井にあらためた。信武の父俊信は、後奈良院の北面警護していたが、故あって勘当を被り当国の別府に蟄居していた。
  信武の出生の後勘当の許しが出て、信武をここに残して帰京した。信武に二子いて長男は出家して栄光と称し村内の石上寺を開いた。次男の新左衛門信次が家を継ぎ、その子は善兵衛信久、信久の長男甚五右衛門信親は阿部豊後守忠秋の家臣となり、次男の梶塚源五右衛門某は秋元氏の家臣となり、三男新右衛門正信が家をまとめて当所に土着し、子孫が相続して今の新右衛門に至る。これらは家譜に載っているけれども、もとより他の証拠が有るわけも無く、また天文の頃に勘当を被り当地に蟄居していたなど受けがたいものもあるが、この伝えのまま記録に残す。
  家に具足1領を持っている。黄糸の縅(おどし)で玉庇も有るので、戦争に用いたものと見える。また鞍、鎧、刀も持ち伝える。刀は長さ3尺余りで寒念仏と名が付いている。このほか名主・本陣の中に石川、鯨井などの姓を氏とするものがいる。皆、成田家臣の子孫であるといえる。


第11冊-頁90  久下村
  久下村は江戸より一五里。久下郷のあった所であるが、その名がついたわけは分からない。むかし熊谷直実の一族、久下権守直光が、此の地に住んでいたことは【東鑑】等に書かれており、かの父祖よりこの地名は有ったのだろう。直光は後に当所を去って丹波へ移ったが、その闕所(けっしょ・領主の欠けた土地)を鎌倉の勝長寿院に寄附したことが、【東鑑】に元久二年(1205)六月二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進された云々とある。勝長寿院は今廃寺になっており、寺伝を尋ねる手段はない。なお後述する久下氏の居所跡(久下直光城跡)の条に、その略伝を出したので参考にして欲しい。
  民戸三百戸余。東は埼玉郡大井村及び足立郡榎戸・大芦の2村、南は江川村・下久下村、荒川を隔て津田村新田・小泉村の計四村、西北は元荒川を隔て佐谷田村と埼玉郡大井村である。広さは東西1里11町余、南北は10町程。中山道が中央を貫いている。用水は元荒川の水を引いている。
  此の地が成田氏の領地となったのも古き事である。かの家の分限帳に、永300貫文久下刑部大輔長亮、又久下孫四郎31貫500文と載っている。これを久下の末孫と見ることができるが、正しく此の地に居たかは調べられない。家康公御入国後は忍城付の村となったが、寛永十六年(1639)に阿部豊後守忠秋に賜わり、今も鐵丸の領地である。検地は大河内金兵衛が改めたと云うが年代は伝えられていない。
高札場は二ヶ所ある。

小名(こな): 
北市田 土地の人はここを市田太郎の居所跡と云う。太郎は武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)である。今は畑となっている。
殿川棚 元荒川の淵である。市田権守直光が馬を洗った所と地元の人は云う。 
千本松 御狩 大野 大千坊 古城 鎮守耕地 鳩三地 皿沼 源太屋敷 田郭 新宿本村 申新田

荒川: 村の南を流れ、幅15間。水除の堤がある。又この川には渡船がある。
元荒川: 村の西北、大里郡と埼玉郡の郡界を流れる。幅2間~25間に及ぶ。

三島社 
愛宕社 
牛頭天王社 
飯玉権現社 
八幡社  大荒磯崎明神
雷電社 
山王社 
稲荷社二宇
東竹院*忍名所  寺宝(袈裟一領、成田分限帳一冊) 
山門 衆寮 鐘楼 白山社 久下墓 上杉墓
普門寺 観音堂 三峯社 天神社
正覚寺 地蔵堂 天神社
医王寺 秋葉社 
吉祥院 天神社 
観照庵  観音堂 弁天社
正法院 八幡社 愛宕社
大日堂 
石地蔵*忍名所

久下直光城跡
  村の南の堤の外にある。今は畑で、畝数2反5畝である。直光権守と称す。【東鑑】に拠ると、久下直光は熊谷直実の叔母の夫である。直実が直光の代官として上京した時、直光を捨て平中納言頼盛の家臣となったことにより、すき間が生じた。直実が源家に帰参した後もお互いに不快で、直光はしばしば直実の領地に違乱(いらん・苦情のべる)を行い、訴訟に及んだことがある。これは建久三年(1192)の事である。
  【丹波志】によると、この後まもなく当所を去って、丹波へ移ったと確認されており、かの国に久しく子孫が相続して在していた。また調べてみると【丹波志】に直光の父を久下二郎重光と云い、小山兼光(藤原秀郷の曾孫)の流れの藤原氏で、小山下野守朝政の弟である。【太平記】に重光は、源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、一番に頼朝の陣に馳せ参じた褒美に、一番の家紋を賜わった故事が書いてある。ともかく当所に住んだのは重光・直光の二代である。また【源平盛衰記】【平家物語】等の書に、久下二郎実光、久下三郎、久下源内などがみえるが、これは直光の一族である。

市田太郎居跡
  村の南、往還(中山道)のそばにある。ここも畑になっている。地元の人はここを北市田と云う。市田太郎は当国の七党の一つ、私市党(きさいとう)の支流で、行田の城主成田下総守氏長の甥である。領知であるために成田の縁家となって旗下に属している。氏長や成田近江守泰徳等を助援(助勢)して久下の邸を守っている。小田原陣の時、氏長兄弟は小田原に籠り、太郎は無勢なので久下の居所を捨て、忍の城に入って籠城したが、遂に成田氏長と共に降参した。


第11冊-頁93  下久下村
  下久下村は江戸よりの行程15里は前村(久下村)と同じ。当村及び屈戸・江川の三村はもと一村であったが、新川の堀割より分村したと云う。民戸40戸余。東は江川村、南は津田村新田、西北は久下村である。広さは東西13町余、南北は二町ばかり。水利が不便なので全部畑である。
  古は成田の領地であったが、家康公御打入後は幕府領となった。寛永十六年(1635)に阿部豊後守に賜わり、今は子孫鐵丸の領地である。検地も阿部氏が糺した。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 将監屋敷(今は川欠(かわかけ:水害で農地にできない土地)となっている。庄屋喜左衛門の祖先、木村将監の屋敷跡と云う。)

荒川: 村の南を流れる。幅20間余。北方の久下村との境に古川跡がある。幅5間。

三島社

江川村、佐谷田村、肥塚村、石原村(巻之220 大里郡之2 忍領)

第11冊-頁93  江川村
  江川村も江戸よりの行程15里は前村(下久下村)と同じ。民戸40戸余。当村は正保・元禄の改めには載せなかったが、地元の人は古より村だったと云う。現に隣村の江川下久下村の江川分と唱える地は、もと当村の内であった。荒川の堀替の時別れて別村になった事はその村の条で述べる。
  東は久下村、南は荒川を境に江川下久下村、西北は下久下村である。広さは東西2町余、南北1町余。当村も昔より阿部氏の領地である。
高札場は北にある。

小名(こな): 上 下

荒川: 南を流れる。幅30間余。村の東北の久下との境に古川蹟が残っている。幅は7~8間計り。

八幡社 
観音寺 地蔵堂


第11冊-頁93  佐谷田村
  佐谷田村も、江戸からの行程15里等は前村(江川村)に同じ。古くは、佐谷郷と称していた。民家は180戸余り。東は埼玉郡大井村、西は大里郡熊谷宿及び埼玉郡平戸村、南は元荒川を隔てて大里郡久下村、北は星川を挟んで埼玉郡戸出・持田の二村である。東西は20町ばかり、南北10町で、中山道が村の西を通る。字八町と呼び、古くは成田氏の領分であったが、家康公御入国の後、幕府領となり、移り変わりは前村(江川村)と変わらない。
高札場は四ヶ所ある。

小名(こな): 本村組 中組 吉原 吉見組

荒川: 村の西南に少し掛かる。幅5~6間の瀬が幾つにもなって流れている。
元荒川: 久下村との境を流れる。幅2~3間位。古くは、荒川がこの川に続いて流れていたが、寛永年中(1624~1643)に伊奈半十郎が、当村で水流を改め、今の荒川を堀割してから元荒川と呼ぶようになった。村の西、字八町新田に鎮座する雷電社の御手洗より湧き出る清泉がこの川の水源である。

星川: 埼玉郡戸出村との境を流れる。幅は4間ばかり。

八幡社
末社  神明社 浅間社 天王社 山神社 春日社 道祖神社 稲荷社
雷電社 榛名社 天神社

永福寺 
地蔵堂
長福寺
西光寺
福蔵寺
福正院
仙林坊


第11冊-頁94  肥塚村
  肥塚村は、民家百戸、東は埼玉郡上村、南は埼玉郡箱田村及び大里郡熊谷町、西は大里郡原島村・幡羅郡柿沼村、北は埼玉郡小曾根・今井・上川上の三村である。東西十町ばかり、南北20町。江戸からの行程は16里半。
  開墾の年代は明らかではないが、村内に肥塚殿と称する古墳があり、その碑に康元二年(1256)の銘がある。地元の伝えによると、此地の領主肥塚太郎九郎光長の墳墓である。康元は後深草院御世の年号で「東鑑」の頃なので、肥塚は古くから開けていたことが分る。
又、正平七年(1352)美作左衛門太夫家泰が勲功を賞した感状にも、武蔵野国大里郡枇塚郷と載っている。枇塚は肥塚の仮借(あて字)で、昔はひづかとも唱えていたので枇塚と記載したと思われる。
感状の文は、次のとおりである。
  『下美作左衛門太夫家泰
  下令早領知相模國愛甲庄内船子郷 梶原五郎左衛門尉跡 武蔵野國
  大里郡枇塚郷 牧七郎兵衛跡事
  右爲勲功之賞宛行也者、早守先例可被沙汰之状如件
  正平七年(1352)二月六日』
これによれば、牧七郎兵衛がここを領地としていた事が分る。又、成田分限帳に、永20貫文肥塚因幡、同13貫文聲塚喜右衛門と載っている。聲塚と書かれているのは仮借(当て字)である。これらは皆、当所の在名を名乗っているようだ。
  家康公御入国の後、幕府領となり、正保四年(1647)村内を分割して阿部豊後守に賜った。その後、残る土地を内藤式部少輔に賜り、元禄十一年(1698)内籐の知行地を取り上げ、ことごとく阿部氏の領地となり、今も替っていない。
高札場は南の方にある。

小名(こな) 新里新田 新田 堀ノ内 圓光塚 下田

稲荷社  辯天社 熊野社 八幡社 雀宮 天神社 辛ノ社 姥神社 子神社
道祖神社 白山社 若宮社 牛頭天王社
成就院  天神社
眞蔵寺
観現寺

古碑二基: 村の南寄りにある。一つは、長さ3尺8寸ばかりで、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至 十念若不生者 不取正覚(たとえ私が仏を得たとしても、十方の衆生が、まことの心をもって信心をおこし、我国に生まれたいと願い、十回念仏を唱えてもし生まれないなら、私は正しい覚りを取ることができない)」といくつかの字を彫り、康元丁巳(1257)三月と戴せている。一つは長さ4尺5寸程で、梵字を二行に彫り、應安八年(1655)二月十七日、道義禅門と記している。ある人によると、康元の碑は肥塚太郎九郎光長の墓で、應安の碑は同八郎盛直の碑だと云うが、明確な根拠がないので断定は出来ない。肥塚は、武蔵七党のうちの丹党の枝流で、古くはここに住み在所を氏に唱えたものであろう。


第11冊-頁96  石原村
  石原村は、江戸よりの行程16里。広瀬の庄に属す。民家は320戸余り。東は熊谷宿に隣接し、南は荒川を隔てて当村の地があり、そこを越えると、万吉・樋口の二村がある。西は広瀬村・小島村・及び幡羅郡久保島村に続き、北は原島村及び幡羅郡新島村である。東西24~25町、南北23町ばかり。用水は、成田用水と大麻生堰の水を引き用いている。村内に、中山道が走る。道幅四間余り。
  当村も成田氏の領地で、成田分限帳に石原式部左衛門永3,000貫文、石原源太兵衛永30貫文、石原民部永15貫文と載っており、これらは当所の人で在名を氏に呼んだのであろう。家康公御打入の後、城和泉守がこの地を賜ったが、まもなく召し上げられた。今も和泉守の陣屋跡が残っている。正保の頃(1644~1647)は、阿部豊後守の領地で、今も子孫鐵丸が領している。検地は、大河内金平が行なったというが、その年代は明らかでない。
高札場は西寄りにある。

小名(こな) 下石原 上 中 下 うへき 坪井 五本榎 一本松 本村

荒川: 村の南を流れる。幅500間ばかり。普段は二瀬か三瀬に分かれて流れている。川の北方に高さ1間ばかりの水除けの堤(土手)がある。
堤: 村の東、小名(こな)(字)下石原の地より築き始めている。これが今の世にいう熊谷堤の元である。高さは3尺ばかり。

赤城久伊豆合社 
稲荷社
聖天社
天神社
伊勢宮
諏訪社
眞宗寺
東漸寺
松岩寺
大聖院

一里塚: 村の北西で、中山道の傍らにある。当村と幡羅郡新島村の分が左右に相対し並んでいる。そのほかに、朝日塚・京蔵塚等という僅かな塚があったが、今は無くなり名前だけ残る。


前砂村、吹上村、榎戸村、大芦村、明用村(巻之150 足立郡之16 忍領)

第8冊-頁37  前砂村
前砂村は江戸よりの行程13里半。郷名箕田(みだ)郷・箕田庄は前村(中井村)に同じ。戸数58戸。東は三ツ木・中井の二村、南は小谷・三町免・明用の三村で、西は吹上村と元荒川を隔てて埼玉郡下忍村に接し、北も埼玉郡袋村である。
家康公御打入の後は幕府領(御代官)になったが、寛文四年(1664)山岡十兵衛の領地となり、後に幕府領となり、元禄十年(1698)阿部豊後守が領地となって今の鉄丸に至る。検地は慶長十二年(1607)伊奈備前守が糾した。その後延宝五年(1678)山岡十兵衛が再び糾し、今もその水帳(検地帳)を用いている。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 通殿 新田通り やなせ 宮脇 おむたし 山ノ神 藪

元荒川: 村の北を流れる。吹上村から来て足立郡と埼玉郡の境を流れ、三ツ木村へ入る。川幅15間。

氷川社 神明熊野天神合社 稲荷門客人諏訪合社
宝蔵寺


第8冊-頁38  吹上村
吹上村は江戸よりの行程14里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村{前砂村}に同じ。広さは東西16町、南北10町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数100戸余、多くは街道の左右に並び建っている。
この村は古くは成田下総守の領地であり、家康公御打入の後は幕府領で忍城付きの村であったが、慶安(1648~1652))の頃は日下部作之丞・小笠原三郎右衛門・佐伯伝右衛門・市岡左太夫・岡三四郎等の知行地であった。又元禄年中(1688~1704)に村民の記したものに、下組の中に地頭林大学頭とあり、此の下組と云うのは今小名(こな)で下宿と呼ばれる所で、此の頃は大学頭の知行地であったようだ。その後元禄十一年(1699)前村と同じく、村内一円を阿部豊後守が賜り、今子孫鉄丸の領地である。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 上 中 下宿 菖蒲沼 細瀬 遠所 王子塚 新田裏

元荒川: 村の西北を流れる。川幅13間ばかり。此の川にさが橋と称する橋がある。此の橋は、なぜか川の中央に塚のような土台を築き、それへこちら側から長さ3間の石橋を架け、土台から対岸へは土橋を架けている。これが埼玉郡との境だと云う。さが橋とはさかい橋の転語なのだろう。

山王社*忍名所  稲荷社 天王社 天満宮 庚申堂
氷川社
稲荷社
勝龍寺*忍名所  鐘楼 仁王門
東曜寺  薬師堂 毘沙門堂
持宝院

褒善者牧右衛門
吹上村の村民である。父は早く死に、母に篤く仕えていたが、母は生まれつき頑な(かたくな)な上に久しく病いにかかり、いよいよスジの通らない事を云うが、いささかもその心に違うことなく看病し、神仏に祈祷したり、あるいは得難い薬を求めたりして病いが平癒することを願った。このようにして既に8年になるが、少しも怠けることがなかった。
また牧右衛門の妻さしも夫と共に心を尽くして姑に仕えたので、延亨二年(1745)八月領主阿部豊後守がその孝行を褒賞して、夫婦に米若干を与えたと云う。


第8冊-頁39  榎戸村
  榎戸村は東西5町余り、南北六町余り。東は吹上村、南は大蘆村、西は大里郡久下村で、北は元荒川で、対岸は埼玉郡鎌塚・大井の二村である。戸数35戸。村内に中仙道が通り、道幅2間余り。江戸への行程14里は前村(吹上村)に同じ。
正保(1645~1648)の頃は小笠原三郎右衛門の知行地であったが、ここも元禄年中(1688~1704)に阿部豊後守が賜り、元文元年(1736)に検地して今その子孫鉄丸の領地である
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 上 中 下 横町 中田 下田

元荒川: 村の北、郡境を流れる。川幅5~6間。この川に堰を設け、近くの八ケ村の用水を引いている。榎戸堰と呼ぶ。

宝性寺  稲荷社 弁財天社 天満宮

旧家者半十郎
  榎戸村の村民。眼の治療を生業とする。氏を横田といい、古えは陸奥国会津郡の民だったが、寛永十一年(1634)当所にきて土着した。
その家系を見ると、山内五郎左衛門尉俊綱の後胤で、俊綱から六代目の横田兵部大輔俊治が始めて横田を氏とした。その子刑部大輔頼俊はまた山内と称した。この人から六代目の山内越中守俊泰の次男を横田左馬助光広といい、これが半十郎の祖先である。それより左馬助長房・左馬助光房・丹波守隆房・安芸兵庫善九郎など連綿と記しているが、事跡や年代は全く不明である。ただ善九郎は天正十八年(1590) に流浪したとあるのみだが、何れに仕えたかは載っていない。又それより後のことは全く伝承がない。祖先が使ったものとして槍一筋を蔵する。


第8冊-頁39  大蘆村
  大蘆村は、江戸より行程14里半。今は庄名を唱えないが、古い水帳には箕田(みだ)庄、あるいは箕田村の内とある。村の広さ東西12町余り、南北15町。東は明用村、南は荒川を挟んで対岸の横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の3村に隣接し、西は大里郡久下村、北は榎戸・吹上の二村である。民戸165戸。
  当村は正保(1645~1648)の頃は市岡左太夫と井上次兵衛の領地で、元禄(1688~)の初めは幕府領と市岡對馬守甲斐庄三郎右衛門の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領する。検地は慶長十二年(1612)大河内金兵衛が糺した後、貞享元年(1684)近山興左衛門・熊澤武兵衛が改めた。
高札場は村の中央より少し北寄りにある。

小名(こな): 中内手 砂原 新在家

荒川: 村の西南を流れる。川幅30間。この川に渡し場がある。大蘆の渡と呼ぶ。ここは多摩郡八王子から日光への往還である。

氷川社  稲荷社
大天八公社  稲荷社
大神宮二宇
道祖神社
雷電社三宇
浅間社
稲荷社二宇 
諏訪社 
龍光寺*忍名所  天神社 白山社 衆寮
醫王寺  阿陀堂
大寳院 


第8冊-頁40  明用村 
  明用村は村民鶴間氏が開墾した所で、古は鶴間村と稱していたが、いつの頃よりか今のように改められた。又昔は三町免村も当村に含まれて一村だった。箕田郷に属し、江戸からの行程13里余り。広さは東西6町、南北8町余り。東は三町免・前砂の二村に接し、西南二方は大蘆村に隣接する。北は前砂村である。戸数30戸余り。
  正保(1645~1648)の頃は幕府領と酒依喜右衛門・戸川主水の領地であった。慶安五年(1652)御代官南條金右衛門が検地し、その後元禄十一年(1698) 阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領している。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 大地頭 西鄕地 久下分 谷中 富士塚 半成 出口

三島社  末社 天王社 稲荷社 天満宮
第六天社   
観音寺  聖天社 観音堂

2012年1月13日金曜日

増補忍名所図会について

「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6 年 (1835)、 同 11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。

  文政8年 (1825)  洞李香斎が「忍名所図会」を著作。
            現在その所在は確認出来ていない。
  天保6年 (1835)  忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を
            増補。
            天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。
  天保11年 (1840)   岩崎長容が2度目の増補版を作成。
            名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑
            の類いを補足。
            忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。
            天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が
            確認できる。

「増補忍名所図会」の復刻版は1971年(行田郷土史文化会発行)と2006年(行田市郷土博物館友の会発行)に発行されましたが、今回は天保11年版に近い2006年の復刻版をテキストとして使用しました。

資料 2006年(平成18年)6月30日
       行田市郷土博物館友の会編集・発行 「増補忍名所図会」


増補忍名所図会マップ

地図から増補忍名所図会の解説文や行田市指定文化財のHPへリンクできます。

・地図のアイコン(青・赤・緑・水色・黄)をクリックすると小さいウィンドウが表示されます。 小さいウィンドウから忍名所図会の解説文や指定文化財のHPへリンクできます。

・地図は拡大できます。
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「増補忍名所図会」序(現代語訳)



序 芳川波山

   忍の地は沃野(よくや)がひろびろと開け、荒川が南をめぐり、利根川が北に横たわり、富士の雪が筑波のかすみに映じ、浅間の煙が日光の雲に接し、霊山(れいざん)がはるか天涯(てんがい)にそびえ、近くは城を守っている。
   吾公がここに移封されてより、恩雨仁風(おんうじんぷう)がひとしく庶民を被い、人々はその政を謳歌して賛美し、鼓楽(こがく)を聞いて互いに祝賀している。松村竹里(しょうそんちくり)にも、日ごとに人煙(じんえん)は増え、桑畑や稲田にも荒れたままの地がなくなっている。戦国の時、成田氏がこの地に拠り北条氏の楯となり、ために兵火は天をこがし、馬塵(ばじん)は地にみなぎり、屍は野に伏し、骨は葬られずして野にさらされていた。ああ、なんといたましいことではないか。
   うやうやしくおもんみるに神君家康公の大いなる徳により、天下が統一され、泰平の世となって二百年あまりになろうとしている。
今の人は安んずるところに安んじ、見るところを見て、遊蕩(ゆうとう)を俗となし淫逸(いんいつ)を務めとなし、未だかつて塗炭倒懸(とたんとうけん・非常な生活苦)の苦しみを知らない。吾公の封内の地には、旧祠古刹(きゅうしこさつ)、絶勝名区(ぜっしょうめいく)が、いたるところにある。しかしながら干戈争闘(かんかそうとう)の世以来、その由来をくわしく知りえぬようになっている。
   公の臣下の佐竹・岩崎二子は、好事(こうず)の士であり、城勤務の余暇に東西に奔走し、旧記や口碑(言い伝え)を調べ、史書に照らし、八方資料を探してこれを図にし文字にし、数年の久しきに及んで、集めて何巻かの書に収め、燦然(さんぜん)として備わらざるなきものを作りあげた。彼らはこれを公に献じた。
   公は甚だ喜ばれ、私に巻首の序を記すことを命ぜられた。公のよろこびは、ただ郷里の富めること、田畝(でんぽ)のおびただしいこと、名勝の美なることにあるのみでなく、古に感じて今を顧み、既往(きおう)を見て将来を戒めようとされるところにある。なぜならば、至治(しじ)の弊が必ず奪靡(しゃび)に至るのは勢の然らしむるところだからである。故にそのようになる原因をよく知り、きつくするところはきつくし、ゆるめるところはゆるめ、世の中を敗壊(はいかい)に至らしめざれば、則ち永く無窮の福を受けるであろう。思えばこの書の益するところは大なるものである。

   天保六年(1835)七月十八日  臣 芳川逸 謹撰

   参考資料: 「忍藩儒 芳川波山の生涯と詩業」 村山吉廣 著


序  岩崎長容


    洞李香斎が古い事を学ぶ人に参考になればと作った「忍名所図会」という書を主君(松平忠尭公)がご覧になったところ、足りない所や漏れた事が多いのを惜しまれ、私へ増補版を作るよう仰せになった。私は才能もなく知識も少ないので、このような大事をお受けするのはいかがかと思ったが、恐れ多くも主君の仰せであり、承諾することになった。
   それから日々あちこちを走り巡り、宮寺の縁起社伝を始め、ある時は田圃で仕事する百姓に、またある時は魚採りする翁に問い、古文書の記述と比べたり、自分の考えを少し書き加えて五巻になった。これを「増補忍名所図会」と題して主君に奉ることになった。まだ漏れがあるかもしれないが、それについては後日詳しい人に増補を仰せつけられるよう願い奉る。 
 
   このようなことができたのは主君の深い御恵みによるもので、いつまでもお元気に、全ての民に喜びと楽しみになるよう願っている。

    
天保六年(1835)七月  長容しるす


凡例

・此書は洞李香斎作「忍名所図会」(本書)の漏れを増し、不足を補うものである。 増補には(増)マークを付けた。
 
・本書に載っている寺院巡拝次第やご詠歌は特に関連ないなら省いた。
 
・本書には多くの神祠や仏寺が載っているが、開基や建祠された時代が古いもの以外は省いた。
・祠乗寺記(神社や寺の記録)などは、後世に書いたのもあり全く信じがたいが、古くから伝わることもあるので、暫定としてそのまま載せ、後日の検討に備えた。
・本書の図は粗雑で間違いも多いので全てつくり直した。
・神祠仏寺における左右は本尊の左右、道路における左右は行人の左右である。
 
・此書の古事奇談などは、現地の古老が伝える口碑を聞いたまま載せたもので、虚実(内容が事実か否か)を論じていない。

 

付言

   此書を奉ったのは天保六年なので既に六年が過ぎた。その後に捜索見聞したことも少なくなく、それらを記録しないのは惜しいので、さらに増補することにした。それを書き進めて一二三の巻が清書済みになってから、新たに探り求めたことができたので、やむなく新たに付録一巻を造って入れた。
   先書(天保六年版全五巻)に続く第六巻第1冊は、忍八景(20年ほど前に針的という盲医が作った)と天正の攻城を載せているだけなので省いた。また寺院神社の図なども熊谷寺以外は皆省いた。名勝の地、古書の図、古器などはいくつか追加し、引用文書・口碑の類いを多く補足した。
   このような背景なので先書とはあちこち異なることに戸惑わないでほしい。また六年の間には神社寺院の境地に移り変わりがあるので、今と合わない事が多い。これらを読者に察していただきたい。

   天保十一年(1840)  岩崎長容しるす

城周辺1(武蔵国、埼玉郡、忍)

武蔵国の大意(いわれ)
  神武天皇から十二代、景行天皇四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えぞ)征伐から帰陣の時、秩父の山に武具を収め山の神を祭った。武具を収めた国なので武蔵国と云う。

  日本紀によれば、武蔵国の秩父ヶ嶽はその姿が怒り立つ勇者のようであった。日本武尊はこの山を美しい(気高く、感動させる)と東(あずま)征伐の為に祈祷し奉り、兵具を岩蔵に奉納(納理)した。これ故に武蔵国という。武具を指し置くの義、読みはムサシである。
  旧事記に胸指(むさし)の国とあるのは剣のことである。剣は最も重要な武具だからである。後に名が雅でないので武蔵国に改めたと云う。

埼玉郡 
 (増)調べてみると、和名抄には武蔵国埼玉(佐伊多末)、延喜式神名帳には武蔵国埼玉郡(小四座)、前玉神社(二座云々)とある。此の郡は古くより埼玉とのみいう。万葉集には佐吉玉云々、前玉云々とあり和名抄とは異なる。伊と喜は相通ずれば、さいとも読める。崎と埼の字の意味は違う。(未考) 

  武蔵国の国分寺の土中より掘り出された古瓦の中から、武蔵国の名を印したものが多数ある。其の形を写した書の中にある瓦は極めて古いものである。古より埼の字を用いたと見える。それにもかかわらず古くは崎西郡という俗説あるが誤りである。延慶の頃(1308~1311)より天正の頃(1573~1592)迄の文書に崎西と書いたものもある。崎西といえるは郡の西である。葛飾郡(古くは、下総国なり今は武蔵国に分)の地の西を葛西といい、東を葛東というに同じ。これが本当だろう。

 鴛鴦(おし)とも書く。
 (増)忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説(詳細は後述)がある。
  この地を「岡の郷」という伝聞がある(水田の中に岡の如く見えたからと云う)。成田氏長の妻の歌に
   岡の郷 忍びの松にかり寝して 夢はかりなる をしの一聲
(忍びの松は下忍御門の内にある加藤氏門前の並木と云う。沼尻組屋敷前の松という説もあり不明。)
  郷とは大里小里をまとめたものである。郷について詳しい説があるがここでは省く。岡の郷は、佐間・下忍・持田などをまとめて一郷としたのであろう。また中古(上古の次、平安時代ころ)より何処にも荘の地名がでてくる。この辺りは「篠の根の荘」で、広く南は吉見辺り(荒川向い)までを云うらしい。
  また皿尾村の北方を「永井庄」と呼ぶ。庄の中に郷がある。荘ともいう。諸説あるが略す。永井庄は幡羅郡永井村(妻沼能護寺辺り)であろう。ここはむかし斎藤実盛が住んでいた所である。斎藤実盛は小松内府の荘園である武蔵永井の荘の別当であった事が知られている。
  長野村辺りから東方六七里をまとめて「太田庄」と云われている。忍から五里ばかり東方に、鷲の宮という大社があり、いつの頃からか地名になった。東鑑に武蔵国太田庄鷲宮血流云々とある。古い神祠であり、太田庄と古くから呼ばれていた証しである。
  今この辺りで羽生領、吉見領など領主がいないのに領と呼ぶ地名がある。天正の頃、羽生は井戸氏、後に大久保氏の領地であった。また吉見は上田能登守の領地であった。その領の名が残っているのだろう。

(付録) 領名の条で、羽生領を井戸某と述べているのは誤りである。正しくは木戸伊豆守。

(付録) 郷名の条で、岡の郷と云っていたとは洞李香斎翁の説である。今考えると、岡の郷という口碑(言い伝え)は少なく、忍と岡は草書体の字が似ているので誤ったのだろう。忍の郷という証しもないが、忍なら古くからの名称である。

城周辺2(御城)

◯御城
(増) 大昔忍三郎と云う人より代々の居館の地であった。延徳二年(1490)成田下総守親泰(ちかやす)は、ここに移住し新たに城を築いた。天正十八年(1590)成田下総守氏長(うじなが)は、関白秀吉公に降参した。秀吉公は関八州を神君(家康)にお与えになった。その後神君は 松平下野守忠吉朝臣へ忍領を与えた。
慶長五年(1600)以後は御番城となった。寛永十年(1633)に松平伊豆守信綱候の居城となり、同十六年(1639)からは阿部豊後守忠秋侯の代々の居城であった。文政六年(1823)より、吾が君(松平下総守)の御居城となった。

   城地の風光は塁上に松杉が生い茂り、旭に映(うつ)しては常盤の色を現し、風に響いては千代の声となり、塁外の深沼(しんしょう)の水波はさらさらと流れて大湖に等しく、広々と緑をたたえ、水上には鴛鴦(おしどり)・鳧(かも)・雁(かり)が飛び翔(かけ)て、金鯉(きんり)銀鮮(ぎんりん)浮遊して楽しめた。これは皆国家万代(ばんだい)の瑞祥(ずいしょう)にして、古の霊沼(れいしょう)霊台(れいだい)と言われた。

   成田記によると、大職冠鎌足十二代の後裔、綾小路右近少将義孝朝臣の嫡(よつぎ)、権大納言行成の子(二男)忠基(ただもと)は、武家となり武蔵に下って幡羅郡(はたらぐん)に住んだ。その子供は幡羅太郎と言う。その(幡羅太郎の)子供は初めて成田の地に移り、地名を苗字とした。成田太夫(たいふ)と言う。後に式部大輔(たいふ)に任命された。伊予守頼義の叔父でもある。その長男は太郎助廣と言う。二男は別府二郎行隆・三男は奈良三郎高長・四男は玉井四郎助実(すけざね)と言う。各近郷に分居していた。そして世替りしても、それぞれ互角の勢力があり、これを武蔵国成田の四家と言った。しかし応永の末より文明の頃(1480〜1503)には成田家の武威がひいでて、他の三家は、成田家の家臣になった。
   この助広より五代の嫡男五郎家時は、文武兼備えていて成田家は倍繁栄した。応永廿七年(1420)三月七日死去し、嫡男は早世して二男五郎左エ門尉(さえもんのじょう)資員(すけかず)が家を継いだ。しかし生来から虚弱でまた淫酒に耽り、永享二年(1430)九月十一日三十二歳にして死去した。その嫡男大九郎顕泰(あきやす)は八歳で家督を継ぎ、老臣らが補佐して顕泰を立てた。
   同十一年(1439)足利持氏(鎌倉公方)は、上杉憲実(関東管領)に敵対して捕えられた。この時顕泰は十七歳になっており上杉に加勢して軍功があった。持氏は、憲実に和を乞うたが、(尚雉染せられて?)将軍は許さず、鎌倉永安寺で自害した。翌年顕泰は去年上杉家に対して抜群の軍忠あったとして、管領上杉清方の推挙に依って下総守を受領した。なおその後も数度の軍忠があった。文明十二年(1480)に家を嫡子太郎次郎親泰に譲って其の身は隠者となり、剃髪して清丘入道と言った。
   親泰は父の訓えを守って成長しても鎌倉方にあった。文明十八年(1486)に上杉定正功臣太田道灌を誅伐する時、顕定(山内上杉)は、意図的に定正(扇谷上杉)に加勢し、親泰も軍に従った。この年に親泰は下総守に任命された。
   近郷忍の地は其の地理がよく、ずっと前からその地を望んでいたが、忍の大丞は太田道灌と縁者だったので黙っていた。今道灌が滅亡して定正も勢力が衰え、延徳元年(1489)には上杉両家は既に確執に及んでいた。親泰は時が来たと歓び顕定に訴へ一気に責めれば、忍の大丞は力尽きて館に火をかけ一族自害した。延徳二年(1490)より城の経営に取りかかり翌年成就して、ここに移った。大永二年(1522)の夏に親泰は嫡男太郎五郎長康に家を譲り、出家して宗廉庵と称して幡羅郡奈良の里に隠居所を建て転居した。(中略)長泰は享禄年中(1528〜1532)中務少輔(なかつかさしょう)に任官した。その嫡左馬介氏長と共に北条家に属して数度の軍忠があった。
   記に暇がないほど、武蔵の旧家と称し、北条氏も是を対応すること親族のようだと言われたとか。調べてみると成田家は足利左馬頭(さまのかみ)基氏より代々管領家の幕下で、上杉憲政越後に赴(おもむ)いた後は、北条氏康に属していた。
   (参考資料 成田記 大沢俊吉訳 歴史図書社)

   石原村民家に伝わる成田家伝と言われる書がある。証(あかし)とするには不足であるが、拠り所が有って書かれるものなので暫(しばらく)ここに出して考えの手がかりとした。成田記と合せて考えてもよいと思う。

成田家伝
   武蔵国に七党ある。丹の党とは宣化天皇の末孫丹治の姓で、青木・勅使河原・安保(あぼ)である。横山党・猪俣党は敏達天皇の末裔で小野姓にして、荻野・岡部・横山である。児玉党は藤原姓で本庄・倉賀野である。私の党は私市(きさい)姓で、川原・久下である。其の外は大概亡びて今はない。又四家ありと言う。其の第一は忍の成田である。先祖は大職冠十二代の後裔、綾小路右近少将義孝に子供が二人いた。一男は大納言行成で、今の世尊寺の開祖である。次男は武蔵守忠基である。
   忠基より五代の孫を式部大輔(たいふ)助高と言う。武蔵国司と成って幡羅郡に住んだ。その時代の人は幡羅の大殿と言った。この助高は伊予入道(源伊予守頼義)の外戚の叔父である。ところで頼義が奥州の(安倍)貞任・宗任の追討の大将軍として下向し、武蔵を通った時、この郡へ立寄られた。多くの武士は残らず出仕した。此の時助高も大将頼義の所へ参上しようと出馬し、頼義も助高の館へ参上しようとしたが、途中で行き逢った。助高は下馬して礼をし、頼義も下馬して礼をした。助高は頼義の叔父の為、双方お互いに下馬して礼をした。成田家は現在も大将対面の時は互に下馬して礼をするのが、この家の作法である。
   この助高に子供が四人いた。長男は成田五郎・二男は別府・三男は奈良・四男は玉井と言う。別府は左衛門尉行隆と言い、行隆には子供が二人いた。兄は左衛門佐(さえもんのすけ)行助、弟は治部大輔義行で、兄弟二人を両別府と言う。義行の子は別府小太郎義重、その子は行重、寿永の頃(1182〜1185)、源義経に従い一ノ谷の戦に先登し、鎌倉殿より勲功の賞に預かり、この家は特別に栄えた。これより北南といふ苗字の侍に分かれた(北河原 南河原)。
   このように根本は同じで、嫡子庶子は歴然として明らかで、末孫になっても、成田も玉井も奈良も別府も皆互角の勢力で栄えており、それぞれが下知を受けていた。それゆえ文明年中(1469~1487)までは成田・酒巻・両別府・久下・奈良・玉井・須賀・忍・北南の地侍は、何れも互角の勢力で、公方・管領の下知に従った。
   その後関東が大いに乱れ、成田下総守入道宗蓮(親泰)が忍に移ると、近隣の諸人は饗(もてな)した。それから忍の城を築いたが此の城は沼の中なので、造作ははかばかしくなく、近隣の諸将へ毎年人夫を雇い、多年を費やしこの城の要害を立てた。そうであるから初めは皆頼まれたので人夫を遣したが、後には続けて数年断らず続けたら、いつとなく自然に宗蓮へ役を出すようになり、皆彼の下知に従った。宗蓮一代の中、近隣の諸将を下知し、その子下総守長泰の時代には地侍千騎の大将となった。
「人はただ威につくようになるのだ」と小田原北条氏綱の批評が有ったとか。

(増) 御城の地形、屋鋪等の古の様子を考えると、今の御本丸、二、三の丸より、東は沼橋まで、南は下忍御門当りまで、西は田町、外矢場辺までの小城であったと思われる。谷郷村旧記に、今の内行田・北谷等は田地であったが城地となり、又今の内行田の久伊豆明神は行田町の鎮守であったとある。これは古き社にて、この辺は町で有ったと見え、社の東に向いていること考えると、もしくは、本町通りの突当りに有ったと思われる。すべて鎮守あるいは火防の神であっても、町の突当り、或は隅の方に祭ることがまま有った。
   成田記に大手口・皿尾外張・持田口外張などと書かれ、今の様とは古は違っており、なお考えなければならない。今皿尾村に外張という処があるが、砦などがある所かは分からない。

城周辺3(諏訪大明神 、地獄橋、縁切橋 、鉦打橋、多度両宮、東照大権現宮、御城下 )

(増) 諏訪大明神(御本丸側廓に鎮座、諏訪曲輪という神祠が有る)は忍城の鎮守である。神祠四座は中央に諏訪大明神、右に天照皇(てんしょうこう)大神宮、左に稲荷大明神と八幡大神がある。当社の宝物は塗重藤の弓、矢箙(えびら)葵御紋蒔絵である。各々は松平忠吉朝臣より奉納された。祭神は健御名方尊(たけみなかたのみこと)、神主は高木長門、当社を勧請(かんじょう)した年月は詳(つまびらか)ではない。社家の説に御城を築くより早く有ったと言う。又俗説にむかしは持田村に有ったのをここに遷(うつ)したと言う。御城地が持田の地なるが故と言える。今同村に字は沼尻という処に諏訪の旧地ある。同南条と云う所には神に供えた田畑がある。

(付録) 御本丸の条で、諏訪神社が元あった場所を持田村沼尻と書いたのは誤りである。沼尻は中里村の枝郷。

(付録) 鐘掛け松  お城の内側の諏訪曲輪の土手にある。天正の籠城の時使用されたものといわれている。その鐘は、阿部候が白河城へ移動した。松は、後世に植え続けているのか若木である。  

古鐘の銘  
   銘字に誤りが多いので読むべきでない。また考えるべきもの(特筆する)が無いのでそのままを記す。

  武蔵国崎西郡池上郷にある施無畏寺の梵鐘を治鋳す
右当寺は曩祖(のうそ)が関東右大将(源頼朝)家の御菩提所の為に建立せしめ奉るなり。而してこの鐘は梁上公(盗賊)が忽ちに光を盗み取り、掊て(うって)之を破すと雖も蹤(あと)に就いて即ち求め得て元の如くに治鋳せしむ。
仍って(よって)銘を作(な)して曰く。

  今此の鐘を籚(かけぎにか)く、古青銅を新たにし、
  即ち土子(土地の人)の為に兀(おさ)に命じて工を全くす、
  侈奄(しえん・大いさ)は度に叶い、治鋳の功を終る
  清音響を振わし、無明の夢を驚かす
  外内九域、悉く聖衷を仰ぐ
  文武百砕、各々巨忠を抽(ぬき)んず
  招提長同、政理普く通じ、
  暁夕勤めを致し、久しく梵風を扇がん

 願主正六位上 左衛門尉藤原朝臣道敏 敬白
               大工 遠江権守 朝重
延慶二年十一月五日

◯地獄橋
   北谷から帯曲輪に掛かる橋。この橋は浅間山や赤城山などの寒風が吹き付けると非常に寒い。俗説では、風が強い時は橋の下へ落ちる事もあるので地獄橋になったというが、この俗説はあまり信用できない。

(付録)  檪鬂堀(れきびんぼり) 
   場所ははっきりしない。天正十八年(1590)に籠城した際、城南の要害が弱いというので、氏長の息女が侍卒を率いて掘った堀である。檪鬂(れきびん・耳際の髪に刺したクヌギの髪飾り)を使って指図したので堀の名にしたとか。
(山本周五郎の小説「笄堀」で、奥方真名女が武士の妻達と堀を掘った話の元ネタか)

◯縁切橋
   上荒井から内矢場に掛かる橋。成田氏長が小田原へ出陣した時、内室や家臣等と別れを惜しんだ所である。今は嫁いで行く者がこの橋を渡るのを忌む。名が悪い為であろう。

(増) 成田記にもこの類いの話があるが略す。
(成田記に氏長が横瀬の娘=甲斐姫の実母と別れた時に見送った橋とある)
   同書には忍籠城の諸士が退城の時、本丸を伏し拝み、君臣三世の縁(三世に繋がる主従の因縁)もこれ限りかと落涙した所とも云う。

◯鉦打橋(かねうちばし)
   沼尻から袋町に掛かる橋。

(増) 鉦打橋は下忍御門の外張から百石町へ掛かる橋である。今は水野某屋敷と山田某下屋敷の辺りに、むかし鉦打聖が住んでいたので、俗に鉦打橋と呼び習わしたのだろう。
因みに、鉦打聖について述べる。一遍上人が諸国遊行した時に帰依した僧侶は数多くいたが、その中で炊事役をしていた者を何阿弥と呼んでいたとか。後に僧となり、あるいは一般人のままで、阿弥と号し念仏行者として鉦を打ち諸国を修行する者を、俗に鉦打聖と呼んだ。今もあちこちにある。ここに住んでいた鉦打聖も後に埼玉村に住んだ。

◯秀衡駒繋松
   江戸町の畠山某の庭の中にあった。そのむかし藤原秀衡がここを通った時、駒を繋いで休んだ所と云う。由縁の詳細は不明。

(増) 大木だが星霜(歳月)五六百年には見えない。後世に植え続けたのだろうか。不明。

◯浅間宮 
   江戸町の伴某の庭の中にあって、松平忠吉朝臣の勧請(かんじょう)といわれる。

(増) 多度両宮は、帯曲輪にあり、文政九年(1826)に君侯(松平下総守)が伊勢国桑名の多度山より移したものである。

(増) 東照大権現御宮は、下荒井にあり、文政八年(1825)に造営、別当寺は摩柅山(まじさん)金剛寺である。

◯ご城下 (町割の開始時期は明らかでない)

(増) 昔は、今の本町だけで、その後、新町・下町等が追加された。

◯行田 (町の総称で、別に業田の字を使ったが、今は、専ら行の字を使用している)
   上・中・下町・大工町等の町名があった。

(付録) 行田と云う号が古くより有った証
   東鑑二十五に行田兵衛尉・鴛小太郎・鴛四郎太郎が云々とある。

◯本町 
(増) 古い地図には、行田本宿とあり、今の新町は、行田横町筋となっている。ここは日光街道の駅で、江戸から十五里である。北は、新郷宿へ二里、館林へ四里、西は、熊谷へ二里で、各地への連絡の便は良い。市の店では、諸国の産物を揃え、毎月、一・六の日には市を開き、色々な物を交換売買した。この市が始まったのは、天文十三年(1544)正月六日といわれている。

2012年1月12日木曜日

城南1(清善寺、天満宮 、高源寺、沼尻)

◯平田山清善寺 
  曹洞宗成田龍淵寺の末寺。寺領は三十石。惣門の横額は、拈華林指月印書(ねんげりんしげついんしょ)。薬師堂は、門の向こう正面にある。円通大師堂。石碑は、唐画の円通大師の像を刻み、裏の銘は、北山とある。石橋は、門前に架かる青い一枚石で、幅一間半、縦二間半余ある。小見村真観寺岩窟の扉といわれている。

(増) 当寺は、成田五郎家持の長男五郎左衛門尉資員の次男、成田形部少輔顕忠が、永享十二年(1440)に草創し、龍淵寺五世の僧を招いてここに住まわせた。その後、松平薩摩守忠吉朝臣が多くの堂塔を再建したという。

◯天満宮 
  佐間村の入り口にあり、神体は春日の作で、古木の梅が社内にある。この梅は大木で、およそ二囲いもあるが、高さは約一間半しかない。いつの頃か雷火のためにことごとく焼かれ、わずか周りのふちだけが残った。中は空洞で、近年、その中から若木が生えてきて繁っている。八重の白梅が咲いて、いつの頃からか神木といわれるようになった。
別当は慈眼山安養院、下忍遍照院末寺である。

◯天真山高源寺 曹洞宗上崎村隆興寺の末寺。

◯正木丹波守利英の墓  同寺門内の脇にある。
  碑面には、「天正一九年(1591)3月2日」と「当寺開基傑宗道英居士 成田下総守殿家臣 正木丹波守利英」が刻まれている。

(増)正木丹波守利英は成田家の老臣である。天正の籠城の時には、佐間口の大将だった。大手口の防戦が難儀していた時、行田口より町に入って寄せ手(敵)の後を破り陣に返る時、「忠の有る者」といって大いに敵の軍を混乱させ、隙に乗じて敵軍を追うなど厳しい活躍をした。これによって、大手口の味方の諸将は力を得て、共に敵を追退させた。これは利英の作戦によるものである。その他いろいろな軍功が有るが、ここでは説明を省く。

◯沼尻 
(増)沼の尻辺りなので皆そういう。行田より東松山への往還の今の歩卒屋敷のあたりである。
  この辺りから見ると、大沼は、青々として太湖に等しく、松杉(しょうさん)が繁茂していて大山のようだ。 そもそも忍城はどこから望んでも見ることができなかったが、ただこの沼尻からだけは低い垣と白壁や櫓の瓦を見ることができた。
  天文の頃、上杉謙信が当城を攻めあぐんでいた時、この辺りより城中の形勢を見回ったという。成田記によれば、天文二十二年(1553)年三月下旬、またまた西上野に軍を出した時、北越の軍勢が城外に詰め寄ったけれども、城の防備が無双で四方が深いぬかるみのためなかなか容易に攻めかかることができなかった。
  このため、大将の謙信自らが大物見として、佐間下忍の方へ馬で回って城中の形勢を見回ったところ、忍の城兵は、大将とみなして「上手くいけば撃ちとめよう」として、鉄砲隊十余人が一度に撃ってきたけれど謙信の身には当たらなかった。その時謙信は馬の鼻を城の方へ向け、扇を開いたまましばらく冷静に睨んでいた。そして落ち着いて退いたことは、城中でもその勇ましい品格の者と感賞した。その時 空が暗くなり急に雷鳴し風雨がはげしくなったので、この日の攻防はなかった。
  翌日足軽同士の攻防があった。双方互角で死人多く雌雄未だ半ばの処に、信濃の戸倉城の大石源左衛門尉入道より、急を要することを示すための回状連絡が入った。その内容は、「北条氏康が伊豆、相模の仲間を統率して小田原を出発し忍の後援に出た」との噂がある。また「東上野の前橋へ出て陣を張る」との噂もあると。その事実の有無は未だ不明とはいえ、ご注進申し上げるとあるので、謙信はどう判断したかわからないが、翌日包囲網を解き平井城に引き上げた。

城南2(富士浅間大神、西行寺地蔵院、麿墓山)

◯富士浅間大神
  埼玉村の入口右手の山上にあり。女人禁制の札が建っている。延喜式の神名帳に記載されている神社である。
神体は鱐(このしろ)という魚に乗っているという。当村の出生の神である。氏子の者に限らず当村にすむものは、鱐を食うことを堅く禁ずる。もし誤って食べれば、必ず凶が有るといわれている。
  例祭は六月十四日。三月から太太神楽(だいだいかぐら)を修業している。《太太神楽=伊勢神宮に奉納する神楽(歌舞)》

◯国王山西行寺地蔵院
  天台宗の江戸上野寺の末寺で、丸墓山麓にある。本尊は地蔵菩薩(長さ二尺、忠泰和尚の作)。
(増) 当山の開基は人皇三二代の用明天皇の御子である聖徳太子の舎人(とねり)調子麻呂である。推古天皇の御世に太子が、甲斐の黒色の駒に乗って駿河国の富士の嶽に登ったとき、舎人の調子麻呂がただ一人これに従った。太子は山頂にて四方をはるかに望んで、「これより東方に紫雲が盛んに湧き上がっている所がある。私が推量するに武蔵野国の埼玉郡辺りになるだろう。彼の地は仏法の東の霊場になるだろう。吾は明年死ぬだろう。汝(お前)調子麻呂は吾が廟をここに建てて朕が常々尊崇する地蔵菩薩を安置せよ」と仰せられた。この地蔵は南嶽の思太和尚(浮屠薩氏の説に聖徳太子はこの和尚の化身という)の作である。この時のあの太子の像、今この寺に存るかどうかわからない。
  推古帝の二十九年(622)二月一日夜、太子が斑鳩の宮で亡くなる。王臣(おうしん、帝の臣)や百姓(一般の人民)の愁嘆は計り知れない。この月に河内の磯の長陵に葬られた。御遺言により役目として調子麻呂は御遺骨を首に掛けて武州に下向し埼玉の郡に来た。どこを御墳墓に定めようかと、あちこちを尋ね求めたが納得できる処がない。今この麿墓(丸墓)の地に来た時、御遺骨が大きな岩のごとく重くなって上がらない。調子麻呂はこれこそ太子の御心に叶う霊地と考え、すぐに御遺骨を納め堂を建て例の地蔵尊を安置し、また一棟の堂を建立して国王山地蔵院と名のった。    
  人皇三十六代皇極天皇一年(642)十一月蘇我入鹿大臣が軍を統率して聖徳太子の御子の山背大兄王の住んで居られる斑鳩の宮を包囲して攻め戦った。大兄王は作戦を計った。それは獣の骨を寝所に置き、子弟二十三人を率いてひそかに膽駒山(いこまやま、生駒山のこと)に隠れました。兵どもは火を放って宮中を焼き、炭の中の骨を見て王は焼死なさったとして、包囲を解いて退陣した。その後 子弟二十三人は斑鳩寺の塔内に入って神仏に誓いを立てて、皆首をくくって死んだ。その時焚いた香の煙は、万物の源泉をなすように盛んに上昇して天雲に通じたようだ。男は即座に天上の仙人となり、女は即座に天女となって、煙雲に乗って西を指して飛び去った。
調子麻呂はまた大兄王の御遺骨を取って武州に下り、太子のお墓に一所にお納めした。 この寺を西行寺と号す。この読み方は大兄王が西を指して飛び去った故にそういう。またその墓を麿墓ということは調子麿がここに建立した故である。
  人皇三十七代孝徳天皇の御世(みよ、645~654)に天王寺に於いて、霊鷲山(りょうじゅせん、釈迦が法華経を説いた山)に上宮太子(じょうぐうたいし、聖徳太子の別称)の像をおつくりになった。この時、上宮太子の廟所を武州埼玉郡の西行寺に所有させ五十余町を寄付された。この太子像は菩薩なので、国家安全の備えになる。巨勢麿(藤原巨勢麿)は、帝の命によって、寄進状に載せた。
  皇極天皇二年(646)の時、西行寺と称するようになってから、この寺はいまだに断絶したことはない。しかし、永禄天正の兵火によって、すべて焼失した。その後、山のふもとに一棟の小さな御堂を営なまれ、その太子と地蔵の二像を安置した。今の西行寺がこれである。

◯丸梅   
  西行寺の東方の田圃にある。五間四方にも繁茂する白梅である。太子の舎人である調子麿が当寺を草創して庭の前に植えたものだといわれている。丸は麿の誤りである。

◯麿墓山(いまの丸墓山)
  小さな山で、山頂に地蔵堂がある。麓から四五十間登る。天正一八年(1590)、忍城水攻めの時石田三成はこの山に本陣をかまえ、城中へ大砲を打ち込もうしたが、城がよく見えず、下忍遍照院にあたったと云われる。この山から忍城まで8~9町ある。山の上から行田を望む風景が素晴らしい。

(増) 永禄二年(1559)上杉謙信が忍城を攻めた時もこの山に登り城中を観察したと「成田記」に記されている。


城南3(天祥寺、 盛徳寺、小崎沼 他)

(増) 海東山天祥寺
   埼玉神社が鎮座する埼玉村の入口左にある。藩主松平家の菩提寺。天保七年(1836)松平忠尭(ただたか)がこの地に造営した。堂塔壮麗で異香が漂い、清浄寂寞とした霊場である。

◯可児才蔵の墓
   天祥寺門前の杉林の中にある。可児才蔵(かにさいぞう)は小田原攻めや関ヶ原の戦いで活躍した人で武勇で有名。福島正則の家臣であったが後に阿部侯に仕え、子孫が現存する。この森の竹を少しでも取ると祟りがあるという言い伝えがある。

(増) 埼玉山盛徳寺
盛徳寺の古瓦
   埼玉村の東端にある。新義真言宗で、長野長久寺の末寺。この寺は平相国清盛の建立と云う。また平重盛の建立という説もあり、由緒は不明だが古刹である。今も土中から様々な型が附いた瓦があちこちで掘り出される。この瓦はかなり古いのもので、その中に大同元年(806)の文字がある瓦があったと云う。もし平清盛の建立であれば再建であろうか。(大同元年は平安初期で平清盛はそれから約340年後の人)
  
◯小埼沼
   埼玉村の端、田圃の中の小さな池である。そばに松が一本植えられ、石碑が建っている。ここは万葉集に歌われた古い名所だが、長い年月を経てくさむらに埋もれているのを、先の忍城主阿部正因(まさより)が深く惜しみ、永代不朽のため石碑(万葉歌碑)を建てた。

(増) 万葉歌碑に刻まれた銘の大意と歌二首

武蔵小埼沼
   古の地名で武蔵の小埼沼と称したのはここである。万葉和歌集から考証すると寛平五年(893)から既に869年も経ち、その古さを知るべきである。和歌に歌われる名所であった  この地が、雑草や雑木に覆われ、隠れてしまうのは大変惜しまれるので、その地名を石に刻み不絶不朽と為す。
   武蔵の小埼沼の鴨を見て作った歌
  「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に 降り置ける霜を 掃うとならし」
   武蔵国の歌
  「埼玉の 津におる舟の 風をいたみ 綱はたゆとも ことな絶へそね」
         宝暦三年(1753)九月十五日  忍城主 阿部正因 建

(増) さし暮る 洲崎に立つる 埼玉の 津におる舟も 氷閉じつつ  定家

(増) さき玉の をさきの池に 咲く花は あやめにまさる かきつばた哉  読人不知


(増) 百塚
   埼玉村、若小玉村、下長野村辺りに小さな山状の塚が四五十ヶ所ある。特に埼玉村には大きい塚が多い。地元ではこれを百塚と呼ぶ。この塚は自然にできたものではなく、人が築いたのだろう。踏みならすと内部に空洞があるような音がする。その堀り崩したのを四つか五つみると、大岩で組んであった。地元の人によると、この中に鉄物、環などがあったと云う。私も小見村観音山で出土したのを見たが、青銅製の飯櫃(めしびつ)と思しきもので、錆びて底はかなり朽ちているが、蓋もあり大変古風なものであった。
   思うに、その昔、地位の高い人を葬った墓ではないだろうか。また、はっきり分からないが、この辺りのみにあるのは元々小さな山があった為で、そこに穴を掘って造ったのではないか。

(付録)  鎌田屋敷
   埼玉村に屋敷がある。保元の頃(1156~1159)鎌田兵衛正清(源義朝の家臣)という人がいた。東鑑には鎌田次郎兵衛行俊・鎌田図書左衛門尉信俊・鎌田三郎入道西阿の名がある。また成田分限帳に鎌田修理の名があり、成田家にも鎌田某がいた。
鎌田屋敷には西仏(阿弥陀像)などがあった。しかし誰が居た屋敷か不明。調査検討を要す。
(将軍塚古墳のすぐ東)

(増) 辛味大根  
   忍名産と称する辛味大根は埼玉村で作られる。他村に移し植えると必ず形状風味も普通のものになってしまうと云う。風土の違いであろうか。毎年松平侯が幕府へ献上しているのはこの大根である。風味がよく、形はカブに似て、大きいものは周囲約一尺もある。熱い汁ものにすると苦くなるが、生でおろしにすると誠に上品な味になる。
   総じて埼玉村は畑が多く、春夏秋冬に作る野菜は皆、行田の市で売られる。特に大根とウドは他郷(よそ)より風味がいい。




城南4(観音堂、聖天宮、満願寺のしだれ桜、堤根松原、八幡宮(常世姫神社)他)

(増) 若王山
   埼玉村の東側、田圃の中にある。この山にも塚の岩窟がある。近年この岩窟が崩れた時、中から鉄の太刀や金の輪などが出土した。太刀は一振りのままであったが、錆びて朽ち果て金物(かなもの)のみ残っていたとか。 この山に忍藩の焔硝蔵(火薬庫)がある。

(付録)  若王山
   埼玉村にある。岩窟から太刀などが掘り出された事を考えると、成田家から厩橋城へ人質として行った若王丸を葬むった塚ではないだろうか。永禄年中(1558-1570)に成田長泰が上杉謙信と和睦した時、人質として末子若王丸を上州厩橋城へ、手島美作守をつけて遣わした。後に鎌倉で長泰と謙信が不和になった為、厩橋の人質若王丸を盗み出した所を城中の兵に追われ、やむなく利根川を泳ぎ越そうとしたが、若王丸は川の中で溺れ死んでしまった。美作守はそのまま若王丸を脇に抱え、辛うじて忍へ帰ったと云う。
   上之村の泰蔵院伝によると、若王丸は厩橋から帰って内匠介泰蔵と改名し、後に出家して成田山を建立したという。思うに成田氏長が弟若王丸の為に一寺を建立したのかもしれない。
(北越軍記や北条盛衰記では人質若王丸は利根川で溺れ死んだとあり、成田記では人質若枝丸は忍城に生還してのち泰蔵となったと云う)

(付録) 陣場 渡柳村にあり。天正の攻撃時に石田三成の陣地であった。
陣場の松というのがあったが、天明の頃枯れた。

(増) 桜本坊
   屈巣村の左手にある。本尊は薬師如来(長さ約1尺、行基菩薩の作)。別当は医王山円光院。京都聖護院の末寺。
   建長六年(1254)執権北条時頼が建立。開山は広安寺広林僧都、永仁六年(1298)二月一日遷化(死去)。中興開基は広安寺五代の孫円光院宥賢法師。文亀二年(1503)寺が焼失したが、同三年再建し、円光院と名付けた。天文二十一年(1552)六月遷化(死去)。
   天正十九年(1591)神君家康公が当地で鷹狩りした時、放した鷹が見えなくなり、探していたところ境内の桜の梢に留っていたとか。家康公はこれを大変喜ばれ、ありがたい事に寺領の御朱印と桜本坊という名前を下された。元和年中に御朱印は焼失したが、桜の木は今も庭にある。
   寺の宝物は、薬師如来(運慶の作)、不動明王(弘法大師の作の立像で長さ1尺7寸)、毘沙門天(護法親王の筆)

◯観音堂
  同村の左手にあり、本尊は馬頭観音(長さ約80cm、作者判らず)で、別当は大悲山観音寺である。この像の由来は加藤肥後守清正が朝鮮の陣中まで曳きつれた秘蔵の馬を持っていたが、舘林の城主福島左衛門太夫正則方へ行った帰りに馬がここで病気になった。依って若干の金銀等を庄屋に与えいたわるよう頼み下人たちも馬に付けて残したのに、庄屋は極めて貪欲な人で下人たちを騙して一緒に馬を打ち殺し、多くの金銀等を分けあった。すると此の夜庄屋をはじめ身内の者に至るまで悉く狂乱してしまった。そのため馬頭観音をまつり祈願すると病が快復した。

◯此村の名の云われは、むかし大きな鷲が大木へ巣を作り近郷の子供を取って食べるので村では困っていた。そこで同村の桜本坊と普済寺の僧が立会って祈ると鷲は何処かに逃げ去った。これより村の名になったと云い伝われている。

聖天宮 野村の中程右手にある。別当は胎智山満願寺。長野村の長久寺の末寺である。本尊は不動明王。長さと作者は判らない。

(増)お堂の前に大木の枝垂れ桜がある。枝垂れ長くて花の頃は艶やかである。

堤根松原が堤根村のはずれにあり、鴻巣への往還である。俗に百本松という。

(増)八幡宮は渡柳村東裏の畑の中にある。住民の話では、郡鎮守で凡そ千年余りにもなる古社であると云う。調べてみると社が二つある。一社は若宮八幡宮、一社は稲荷神社という。延喜式神名帳に載る埼玉の二座とあるのはこれではないか。前に述べた埼玉郡の浅間祭神は一座にしてしかるべく縁もない。この社は二座にして殊更に古く郡鎮守と伝えている事を考えると延喜式神名帳にのっているのに同じだ。本居宣長は云っている、古社は今では皆、八幡・神明・稲荷だけなのは興味深いことである。つまりこれ等もその類だろう。此社あたりの字を八幡という。又おもうにこの社より埼玉村迄はわずかな隔たりなので、古くは埼玉村の神社なのかも知れない。もうすこし考えてみる必要がある。