◯御城
(増) 大昔忍三郎と云う人より代々の居館の地であった。延徳二年(1490)成田下総守親泰(ちかやす)は、ここに移住し新たに城を築いた。天正十八年(1590)成田下総守氏長(うじなが)は、関白秀吉公に降参した。秀吉公は関八州を神君(家康)にお与えになった。その後神君は 松平下野守忠吉朝臣へ忍領を与えた。
慶長五年(1600)以後は御番城となった。寛永十年(1633)に松平伊豆守信綱候の居城となり、同十六年(1639)からは阿部豊後守忠秋侯の代々の居城であった。文政六年(1823)より、吾が君(松平下総守)の御居城となった。
城地の風光は塁上に松杉が生い茂り、旭に映(うつ)しては常盤の色を現し、風に響いては千代の声となり、塁外の深沼(しんしょう)の水波はさらさらと流れて大湖に等しく、広々と緑をたたえ、水上には鴛鴦(おしどり)・鳧(かも)・雁(かり)が飛び翔(かけ)て、金鯉(きんり)銀鮮(ぎんりん)浮遊して楽しめた。これは皆国家万代(ばんだい)の瑞祥(ずいしょう)にして、古の霊沼(れいしょう)霊台(れいだい)と言われた。
成田記によると、大職冠鎌足十二代の後裔、綾小路右近少将義孝朝臣の嫡(よつぎ)、権大納言行成の子(二男)忠基(ただもと)は、武家となり武蔵に下って幡羅郡(はたらぐん)に住んだ。その子供は幡羅太郎と言う。その(幡羅太郎の)子供は初めて成田の地に移り、地名を苗字とした。成田太夫(たいふ)と言う。後に式部大輔(たいふ)に任命された。伊予守頼義の叔父でもある。その長男は太郎助廣と言う。二男は別府二郎行隆・三男は奈良三郎高長・四男は玉井四郎助実(すけざね)と言う。各近郷に分居していた。そして世替りしても、それぞれ互角の勢力があり、これを武蔵国成田の四家と言った。しかし応永の末より文明の頃(1480〜1503)には成田家の武威がひいでて、他の三家は、成田家の家臣になった。
この助広より五代の嫡男五郎家時は、文武兼備えていて成田家は倍繁栄した。応永廿七年(1420)三月七日死去し、嫡男は早世して二男五郎左エ門尉(さえもんのじょう)資員(すけかず)が家を継いだ。しかし生来から虚弱でまた淫酒に耽り、永享二年(1430)九月十一日三十二歳にして死去した。その嫡男大九郎顕泰(あきやす)は八歳で家督を継ぎ、老臣らが補佐して顕泰を立てた。
同十一年(1439)足利持氏(鎌倉公方)は、上杉憲実(関東管領)に敵対して捕えられた。この時顕泰は十七歳になっており上杉に加勢して軍功があった。持氏は、憲実に和を乞うたが、(尚雉染せられて?)将軍は許さず、鎌倉永安寺で自害した。翌年顕泰は去年上杉家に対して抜群の軍忠あったとして、管領上杉清方の推挙に依って下総守を受領した。なおその後も数度の軍忠があった。文明十二年(1480)に家を嫡子太郎次郎親泰に譲って其の身は隠者となり、剃髪して清丘入道と言った。
親泰は父の訓えを守って成長しても鎌倉方にあった。文明十八年(1486)に上杉定正功臣太田道灌を誅伐する時、顕定(山内上杉)は、意図的に定正(扇谷上杉)に加勢し、親泰も軍に従った。この年に親泰は下総守に任命された。
近郷忍の地は其の地理がよく、ずっと前からその地を望んでいたが、忍の大丞は太田道灌と縁者だったので黙っていた。今道灌が滅亡して定正も勢力が衰え、延徳元年(1489)には上杉両家は既に確執に及んでいた。親泰は時が来たと歓び顕定に訴へ一気に責めれば、忍の大丞は力尽きて館に火をかけ一族自害した。延徳二年(1490)より城の経営に取りかかり翌年成就して、ここに移った。大永二年(1522)の夏に親泰は嫡男太郎五郎長康に家を譲り、出家して宗廉庵と称して幡羅郡奈良の里に隠居所を建て転居した。(中略)長泰は享禄年中(1528〜1532)中務少輔(なかつかさしょう)に任官した。その嫡左馬介氏長と共に北条家に属して数度の軍忠があった。
記に暇がないほど、武蔵の旧家と称し、北条氏も是を対応すること親族のようだと言われたとか。調べてみると成田家は足利左馬頭(さまのかみ)基氏より代々管領家の幕下で、上杉憲政越後に赴(おもむ)いた後は、北条氏康に属していた。
(参考資料 成田記 大沢俊吉訳 歴史図書社)
石原村民家に伝わる成田家伝と言われる書がある。証(あかし)とするには不足であるが、拠り所が有って書かれるものなので暫(しばらく)ここに出して考えの手がかりとした。成田記と合せて考えてもよいと思う。
成田家伝
武蔵国に七党ある。丹の党とは宣化天皇の末孫丹治の姓で、青木・勅使河原・安保(あぼ)である。横山党・猪俣党は敏達天皇の末裔で小野姓にして、荻野・岡部・横山である。児玉党は藤原姓で本庄・倉賀野である。私の党は私市(きさい)姓で、川原・久下である。其の外は大概亡びて今はない。又四家ありと言う。其の第一は忍の成田である。先祖は大職冠十二代の後裔、綾小路右近少将義孝に子供が二人いた。一男は大納言行成で、今の世尊寺の開祖である。次男は武蔵守忠基である。
忠基より五代の孫を式部大輔(たいふ)助高と言う。武蔵国司と成って幡羅郡に住んだ。その時代の人は幡羅の大殿と言った。この助高は伊予入道(源伊予守頼義)の外戚の叔父である。ところで頼義が奥州の(安倍)貞任・宗任の追討の大将軍として下向し、武蔵を通った時、この郡へ立寄られた。多くの武士は残らず出仕した。此の時助高も大将頼義の所へ参上しようと出馬し、頼義も助高の館へ参上しようとしたが、途中で行き逢った。助高は下馬して礼をし、頼義も下馬して礼をした。助高は頼義の叔父の為、双方お互いに下馬して礼をした。成田家は現在も大将対面の時は互に下馬して礼をするのが、この家の作法である。
この助高に子供が四人いた。長男は成田五郎・二男は別府・三男は奈良・四男は玉井と言う。別府は左衛門尉行隆と言い、行隆には子供が二人いた。兄は左衛門佐(さえもんのすけ)行助、弟は治部大輔義行で、兄弟二人を両別府と言う。義行の子は別府小太郎義重、その子は行重、寿永の頃(1182〜1185)、源義経に従い一ノ谷の戦に先登し、鎌倉殿より勲功の賞に預かり、この家は特別に栄えた。これより北南といふ苗字の侍に分かれた(北河原 南河原)。
このように根本は同じで、嫡子庶子は歴然として明らかで、末孫になっても、成田も玉井も奈良も別府も皆互角の勢力で栄えており、それぞれが下知を受けていた。それゆえ文明年中(1469~1487)までは成田・酒巻・両別府・久下・奈良・玉井・須賀・忍・北南の地侍は、何れも互角の勢力で、公方・管領の下知に従った。
その後関東が大いに乱れ、成田下総守入道宗蓮(親泰)が忍に移ると、近隣の諸人は饗(もてな)した。それから忍の城を築いたが此の城は沼の中なので、造作ははかばかしくなく、近隣の諸将へ毎年人夫を雇い、多年を費やしこの城の要害を立てた。そうであるから初めは皆頼まれたので人夫を遣したが、後には続けて数年断らず続けたら、いつとなく自然に宗蓮へ役を出すようになり、皆彼の下知に従った。宗蓮一代の中、近隣の諸将を下知し、その子下総守長泰の時代には地侍千騎の大将となった。
「人はただ威につくようになるのだ」と小田原北条氏綱の批評が有ったとか。
(増) 御城の地形、屋鋪等の古の様子を考えると、今の御本丸、二、三の丸より、東は沼橋まで、南は下忍御門当りまで、西は田町、外矢場辺までの小城であったと思われる。谷郷村旧記に、今の内行田・北谷等は田地であったが城地となり、又今の内行田の久伊豆明神は行田町の鎮守であったとある。これは古き社にて、この辺は町で有ったと見え、社の東に向いていること考えると、もしくは、本町通りの突当りに有ったと思われる。すべて鎮守あるいは火防の神であっても、町の突当り、或は隅の方に祭ることがまま有った。
成田記に大手口・皿尾外張・持田口外張などと書かれ、今の様とは古は違っており、なお考えなければならない。今皿尾村に外張という処があるが、砦などがある所かは分からない。
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