2012年1月9日月曜日

城西4(高樹明神、 直実古館趾 、熊谷堤 他)

◯高樹明神(現在は高城神社) 
  町の中ほど北側にあり、出生神である。例祭は6月23日。神楽殿は本社の右にあり、末社が本社の四方に配置され、鳥居は、本社と入口瑞垣半ばにある。神主は福井喜太夫。

(増) 祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)で、延喜式神名帳に武蔵国大里郡高樹神社(小一座)は大樹が生い茂り、森々として神殿のたたずまいが立派とある。
  縁起に、武蔵国大里郡熊谷郷高樹神社は、延喜の神名帳に載っており、その崇め祭られるは、幾千年にも及んでいる。されど荒れ廃れる事、既に久しくなれば、その本縁(本当のこと)を知る者はいなかった。熊谷直実が氏神であると村の人々が言い伝えるだけで、年月はそぞろに過ぎていった。昔は倹約していた為であろうか、暗い森の中に祠がわずかに残るだけで、幣を奉げる人も途絶えて、神官の振る鈴の音も淋しかった。ここに神徳の現れる時が再び来るのだろうか。
寛文十年(1670)二月始めより里人が言うには、この社の傍に小楢(コナラ)の木があって、古木で高さは八丈五尺ほど、囲みは壱丈五尺ほど、枝は、十四、五間にひろがっていた。また、地上三尺あたりに空洞があり、その口は七寸ほどで、その中は、少し広くて、洞穴のようで、その内から清水が湧き出て絶える事がなかった。若(も)し、内外清浄(ないげせいじょう・家内三宝大荒神の清め)を怠らないでこの水を用いて、もろもろの病を治療すれば、必ず神仏の霊に通じ効能を得た。
  この事が、近国へ伝わり、毎日のように人が多く集まった。この水で洗えば、諸病に効き目があり、特に信じがたいことには、数年来、目のわるかった者が七日の間に明快を得、そのほか耳が聞こえなかった者を治し、足の萎えた者も立てるようになると話題になった。病にかかれば遠方も厭わず、春より秋に至るまで、参り詣でる人はおびただしく数千人に及んだ。昼となく夜となく肩を連ねて足を運び、我先にと霊水を受けていた。
  空穴から湧出す流れもだんだんと少なくなった為、傍の井戸から清らかな朝に湧き上がる水を汲んで、彼の霊水を加えて全員に施したが、病を治すのに効き目があった。されば神徳の明らかなご利益を信じ、その功徳を求めて願を立てる者、霊験を得てお礼参りする人の撒く鵞眼(ががん・銭)と麞牙(しょうげ・上等の白米)、掛け並べたる絵馬など数え切れなかった。それにとどまらず、その村の家々は俄に賑わって神徳の恵みをありがたく思った。
  この地は、忍城の領内で、今の国老従四品侍従兼豊後守阿部朝臣忠秋が知るところとなり、その跡を継いだ播磨守正能は、ことさらに心を注いで、力をいれた。神社も新しくなれば、神徳もいよいよ増え、人々は畏れ敬(うやま)った。
  神書に心を寄せる者が申すのには、この社は、高皇産霊尊の跡を受け賜ると、竊(ひそか)に考えられていた。実際に、太安万侶(おおのやすまろ)が記す古事記高木神は、高皇産霊神の別神と思われ、木の字は、倭訓相通(わくんそうつう)の例もあれば、いかにもあることである。そもそも高皇産霊神と申すは、天照大神と相並び、八百万(やおろず)の神の長にあらせられ、誠に尊い御垂迹(ごすいじゃく)であることは申すまでもない。昔は、神祇官(じんぎかん)の官邸に崇め祭って朝廷を守り、国家を鎮めた尊神なれば、その霊威は諸国に光を被(おお)い、東方の遠き所にも勧請し奉り、大変尊く恐れ多かった。然らば今この霊水も、天安河(あめのやすかわ)のなごりで、陰陽不測の理を浅学非才の者がたやすく申すべきではないが、東坡先生(北宋時代の詩人)が、「神の徳は、水の地中にあるが如し」と言うように何処にでも神明が宿っている。左氏伝(孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書のひとつ)に、民は神の主なりと言う事で推しはかると、久しくかすかな神徳の、今、威厳を見せるのは、人々の敬(うやま)い崇める事によって、このように広く大いなる業績を聞き及んで得た結果である。敬いてお祝いするのは、ますます国家を保護し、城主の寿 城を増し、村民が永く恵に潤い、例式の祭りが絶えないように願うところである。

右忍の拾遺職(侍従)の求めに応じてこれをつくる。和語は、余が熟知しているわけではないが、その懇請を固辞しない。いささか伝聞が多い事柄を述べているが、それもやむを得ない。
 寛文十年(1671)の夏      弘文院学士

高城神社の什宝は、天国宝刀(長さ二尺七寸五分)、刀一振(広国銘が有る長さ二尺九寸)、上指矢(ジョウシヤ、神への奉納用の特殊な飾り矢)一筋(相模国住国広作、長さ八寸、幅一寸)

天国の刀記に(源漢文)
  昔聞いたことである。文武天皇の時代(697~707)、天国は冶金工をしていて、太刀を作り始めた。極めて精妙(精密で巧みな事)で特に同格の作者はいなかった。それゆえ本物の刀を得たい者は天国に頼めば、実に天国が高い能力で素晴らしい刀を作るので、世間が絶賛した。
  余の一門の元祖村山次郎・入道清久は、かつて武州八王子の北に城を持ち居住していた。その家柄で天国宝刀を保存し代々の宝物として秘密にしてきた。清久が亡くなり子の清武が継いだ。清武は羽生城を拠点として数十年も威名(威勢と名声)は輝いていた。ある時外兵の攻撃を受けたとき、城を防衛していたが克服できず自軍は大敗した。清武に二子がいた。長男はその名を隠し、二男の名は清昌という。城が落ちる時に、長兄は家譜図書を収め、清昌はその太刀を確保した。
  そうこうして後に、長兄が尾張に住むと聞き、清昌はこれを求めたが得られなかった。 清昌は一人家にいて仕事に就かず熊谷駅に隠居していた。清昌に清春が生まれ、清春に清次が生まれる。余の父・清春は石井氏をめとった。余が生まれ後に、捨てられて僧となる。親戚は皆、村山の祀り・家系が絶えるかもという。
  父は言う。昔吾は大きな武功をなしたが、世の中の変遷・変乱に遭い、また言うことも無くなった。有為(様々な因縁によって生じた現象)事は、夢・幻のようだ。わが子清次が僧侶になる命令をきかない。父は余の出家奉公をついに許した。
石井氏がすでに亡くなったからには、ついに家を挙げて寄進し、清次を婿養子に出し、自ら剃髪し、止心庵主を名乗った事を祖先に報告した。
  残念ながら清家はすでに世継ぎが絶えていた。故にその天国の宝刀を高樹大明神祠に奉納された。君主であり城主の豊後守阿部正武候はこれを聞いて、使者に刀を取りに行かせ刀鑑定の本阿弥を召した。しっかりと見ていた本阿弥は、「真(本物)であって贋物ではない」と称えた。これによって阿部候は「国宝である」といわれた。
  その後命により刀工が砥ぎ清め、宝物を盛って神社に帰納した。以来永く神器となっている、現在社司は宝刀の古い記録によせて、その原因や由来を写し、この証を余に書いてくれと乞う。さらに家譜伝を付ける。以って永久に続くこととなる。
寛延三年(1750)中秋の吉日(八月十五日 吉日)
奉勅 前住永平後菫大乗見隠洛峰大山妙玄白竜 書時年八十二
(奉勅の大意 前住職の永平は大乗仏教を大切に管理監督し繁栄させて、京に隠居している。 峰大山妙玄白竜がこれを書く。八十二歳の時。)

(増) 白竜和尚伝 白竜は村山清次の次子にして母は石井氏である。幼くして僧となる。永平卍山和尚の弟子となり、白竜と称した。白竜、たまたま故郷に帰って父母に孝行した。母は、その幼くして寺にいることをあわれんで甘いものを与えた。父の清次が白竜に言ったことは、家を出て僧となったからには、仏法をもって親と思い、仏法のために身を捨てて路上で素食することが、天下に尊いことなのだ、と丁寧に訓えた。それからは、心を禅理に傾け、怠ることはなく、ひたすら江湖(ごうこ・禅宗の人が修行に集まるところ)に遊履(ゆうり・歩いて旅すること)して、耆徳(きとく・年をとって徳望の高い人)を訪れ修行してまわった。
得法(禅等の奥義を会得すること)の後、福井の永平寺に住んで、又、席を京都の源光に改め、加賀の大乗寺に移住して、新たに京都の西の郊外に妙玄寺を興したという。

(増) 千形神社 高樹社の西にあり、祭神については判明せず。至って古い社のようである。この宿内に円照寺があり、熊野山千形院と号す。平戸村を千形庄と呼ぶ事がある。

◯ 直実古館跡
駅(馬止)から北へ二町ばかりの所にある。熊野権現の社がある所と伝えられる。
洞李香斎翁は戸田八丁村に東行寺という寺があり、熊谷直実の城の地であったと言っている。佐谷田村に字八丁という地名があるが東行寺という寺はない。思うに東竹院のことであろう。近世の文書に久下東行寺東竹院などと書かれている。ところで東竹院は久下直光の旧跡である。直実と直光を混乱して取り違えたのであろう。

東鑑  頼朝、熊谷宿の地頭職を直実に与える
治承六年(1182)六月五日。熊谷二郎直実はただ朝夕に身辺警固の忠節に励むだけではなく、去る治承四年(1180)に佐竹冠者を追討した時に特に勲功があった。頼朝はその武勇に感心されたので、武蔵国の旧領等について、久下直光の押領を止め、直実が支配するようにご命令になった。しかし直実はこの頃熊谷にいて、今日鎌倉に参上したのでその下文(くだしぶみ)を賜ったという。
武蔵国大里郡熊谷次郎平直実に所領を与え、地頭職に任ずる事を下命する。
この所領は、先祖が相伝してきたものである。そこで久下権守直光の押領を停止し、直実を地頭職に任ずる。
その理由は、佐竹四郎が常陸国奥郡の花園に立て籠もり、鎌倉から攻めた時、直実は万人に先駆け、敵の一陣を破り、一人当千の働きにより高名をあらわした。その褒賞として能谷郷の地頭職に任ずる。子々孫々に至るまで永久に他人の妨げがあってはならない。百姓等はよくよく承り、けっして間違いがあってはならない。
    治承六年(1182) 五月三十日

   参考: 「現代語訳 吾妻鏡」 五味文彦編 本郷和人編 

(増) 熊谷堤
駅の南裏にある。昔から熊谷堤は長い街道であった。佐谷田や八丁、久下の辺りまで街道が堤(どて)の上を通っていた。

芭蕉翁の碑
新宿の木戸から北へ向い町屋のはずれにある。久下の条にも述べた。
堤(どて)ながし 日長し鐘は 熊谷寺


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