法華宗池上本門寺の末寺。本尊は三宝尊の一つの日蓮大菩薩で木造で長さは二尺、日法上人作である。本堂の横額に「妙法山」書とかれ、筆者は陳元贇(ちんげんひん、明からの帰化人で元贇焼きの祖)で正統派梅峰堂の書いたもの。
(増)調べてみると、元贇は明代末の人で、我が朝廷の万治の頃(1659)朱舜水と共に明朝の乱をさけて帰化した人。後に尾張に住む。深草元政上人と親しく、常に詩を唱和していたようだ。
鬼子母神堂 本堂の前、右側にあって長さは八寸で伝教大師の作である。
三十番神堂 本堂の前左手にある。
古碑 南無日朗菩薩とあり、裏には元応二年(1320)正月二十一日とある。今年(文政六年(1824)・洞李香斎が著述した)で五百四年経つ。
日朗上人の真筆の碑は門の内側の左手にある。日蓮上人作の大黒天がある。
◯略縁起
当山の開基は日朗菩薩である。当寺の大昔は、真言宗として同国埼玉郡小見村に有ってすでに数百年になった。しかし文永年間(1264~1275)に日朗菩薩が佐渡へ旅行する時、黄昏になってしまい、しきりに一夜を望まれた。住職はその難儀を憐れんで、寺内に招き、暫く道路の状況や行き方を語っているうちに、宿善(前世の善根)を催し、最後には仏法の大義や顕教密教におよび数々の問答となった。最終的に法華(宗)に話題が白熱し立場が逆転した状態となり、「この地を日朗菩薩に提供するので、長く法華宗の霊場として建てませんか」と申したところ、日朗深く歓び即時に「妙法山蓮華寺」と改められ、天下安全、国家豊饒、二世(現世と来世)満願のための霊場になった。
百余年を経て、忍の城主成田何某が城の鬼門に当たる所に、一乗妙典(一乗の理を明らかにした優れた経典=法華経)の精舎(寺院)を建て祈願所としたいとしていた折、幸いにもこの寺を中興して、元亀の頃(1570~1573)行程一里ばかりの忍領の谷郷へ移動した。その後永く国家鎮護の寺とした。
◯谷郷村 谷郷の郷(サト)という。 地元では、谷(ヤ)の郷(ゴウ)という。
◯春日大明神
谷郷村の畑の中の森の内にある。大和国奈良より遷したといわれる。年月は詳しくはわからない。当村及び行田町の出生神としている。例祭日は決まっていない。別当は山定院で修験道でなる。
(増)古は奈良より神の使いとして鹿が来ていたが、ある時地元民が鹿を殺してしまった。その人は狂乱して死んだとか。それより後は鹿が来なくなったと地元では言い伝わる。またこの村中で里芋を植えることを禁じている。植えれば必ず祟りがあるといわれてる。当社に限っての由縁があるだろうが詳しくは知らない。
(増)成田記によると、当社は藤原氏の祖神であるので、成田家代々が崇め祀った。中略 天正十五年丁亥の春、成田氏長が当社へ参詣して、武運長久を祈願し拝殿に於いて奉納の連歌を興行した。氏長が発句し、随従の連歌師・園生、隋伝、小姓の桂千菊、横池虎一、堤笹千代などが連歌に加わったと。
その発句一二を記す。( )内は大意。
むすべ猶 霧の花さく 神の春 氏長(発句575)
(生まれろもっと 霧の花が咲くという 神の春)
さしそう月に 朱(シュ)の玉垣 隋伝(77)
(射し添う(さらに光が映える)月に朱色の玉(きれいな)垣根が見える)
度々に 榊葉うたう 声はして 千菊(575)
(たびたびに(折々に)榊の葉が うたうような声がして)
とものうままに 袖のかすかす 虎一(77)
(伴の男の言うことだと、袖の擦れるような小さな音がして)
立ちかえる 都のかたや 近からし 笹千代(575)
(まっすぐ立って見てみると 都の方が 近いらしい)
道の行神 暮***けり 国松(77)
(今回の旅の神は、夕暮れ瞬間を知っているのだろうか)
かさなれる 山のかげより霞来て 能長(575)
(幾重にも重なっている 山のかげより 霞が出てきて)
春を知らする 雨のしつけさ 虎次(挙句77)
(春を知らせるような なんと雨の静かな事よ)
◯行田山明王院 山伏(修験道)、谷郷村入口右手にある。不動尊(智証大師の画の脇二童子は智光大師の筆である)身代(みがわり)不動という。不動堂の横額の行田山は阿部正識(まさつね)侯の筆である。
(増) 当院不動尊は園城寺の什宝二幅のうち其一幅という。代々つたえられている話に成田下総守(名知れず)が園城寺に、しばし滞在した事があった。後に関東へ下った時にその什宝を取得し、その後当院へ預けた。古は行田新町、今の法性寺前あたりにあり、寛永年中(1624〜1645)にここに移した。開祖は阿遮利宗貞と言う。治承三年(1179)八月八日遷化(死去)した。
(増) 駒形大明神 谷郷村の西よりの字は二つ家という所にある。代々つたえられている話に皿尾村の雷電宮へ右大将頼朝卿よりの奉幣(ほうへい)の為に梶原景時が来た時、馬より下りて休憩した場所と言われている。神体は駒の頭を置き、きわめて古雅なる物である。但し木を刻んだ物である。
(増) 梶塚大権現 駒形社の東、畑の中にある。寛政年中(1789〜1800)に石碑を建てた。梶塚大権現と彫る。この辺すべて梶塚という。梶原景時が皿尾村の雷電宮へ参る時、馬を繋ぐ場所と言われている。最近迄は碑もなく名前だけだった。里人などが此の処を馬に乗って通り、或は誤って不浄の類を隠せば、たちまち不吉な事があったので、今のように碑を建、瑞垣(みずがき)を結んで崇祭(すうさい)した。この村の内、昔鶴ケ岳の宮寺領であった事が東鑑にあるが、今その地が何れかは分からない
東鑑に、寛元五年(1247)七月十六日 大納言法印鶴岡別当職に補する後、今日始めて拝賀有り。また宮寺領武蔵の国矢古宇(やごう・谷郷)郷内、別当の得分を以て御読経料所と為し始め置かる所で、不断に大般若経を転読するとある。
(増) 利根川 又の呼び名を刀弥川、坂東太郎という。坂東第一の大河である。酒巻及び中条のあたりで川幅十丁余もある。季春(春の末)より首夏(初夏)の頃まで水源の雪解けで水が増加する。
(増) 利根川産物 鯉、鱸(すずき)、鮎児、鱒、鮭、鰻
本朝食鑑によると、およそ鮭は東北の大河で採れる。本朝式に丹波・丹後・若狭・越前・但馬・因幡より生鮭を貢献した記述がある。今では越後・越中・飛騨・陸奥・出羽・常陸の水戸・秋田に最も多く、下総の銚子・下野の中川・上野の利根でも産する。また夏の未から云々とある。
鰻
本朝食鑑によると、浅草川の産には美味しいものが多い。その他では利根川・箕輪田・中川・荒川の産で絶勝なものが少なくないと。
(参考資料 東洋文庫 本朝食鑑 島田勇雄訳註 平凡社)
(増) 百川朝宗(ひゃくせんともむね)が云うに、利根川は上野国の利根郷より流れ出て多くの川々が落合って川路二十八里余を流れる。栗橋関所の前より二流に分かれ、南の方は権現堂川という。江戸へ落合う。もう一つは栗橋宿より東の方へ流れ、赤堀川という。川下は下利根川と呼び東海の銚子口へ落ちる。
刀弥河泊乃可波世毛思良受多多和多里奈美爾安布能須安敞流伎美可母
(万葉集3413 利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波に逢ふのす 逢える君かも)
利根川は 上は濁りて 下澄て あるにはかなき 君そ恨めし
笹分は 袖こそゆれめ とね川の 石はふむとも いさ川原より
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