星河山石上寺
横町にある。新義真言宗一乗院の末寺。本尊は正観世音(聖徳太子作で長さ不明)
多聞天堂が門の向いの小高い所にある。地蔵堂がその側にある。
清泉が庭の中にある。大きさは八間。水が澄んでいて魚や水草がことごとく見える。底に多くの穴があり水が湧き出ている。一年中水量が変わらず、星川の水源という。
云い伝えによると、熊谷寺にある蓮生法師の木像は元々石上寺の藪の中にあったもので、寺が退転していた頃は子供等が持って遊んでいたと云う。後に熊谷寺へさしあげたそうだ。
(増) 蓮生の木像がどこから来たか明確ではない。前掲の法恩寺にあったとも石上寺にあったとも云われている。何か訳あって仏像や什器などを他寺へ送ることもあるだろうが、熊谷にある蓮生の像なので、その寺が由緒正しいという古い証になるだろうに、おかしな話である。
◯熊谷桜 石上寺の門内に数本あり、花の頃はしばらく美麗である
(増) 言い伝えに、当寺は昔、石原の城主、城和泉守家臣秋山雅楽介が開いた処である。其の後年代を経て荒れ果てたものを宿場の竹井某なる人が再建した
(増) 止心庵 当時の住職は、剃髪前は村山次郎清次と云う
止心庵主安清は、初めは村山次郎清次と名乗り武州熊谷の人である。武州八王子城主村山次郎入道清久の子孫である。父を清春という、其の子の清昌は成人して熊谷の庄屋となり家は代々富豪である。清次は石井氏を娶り白龍を生む。
清次は晩年に禅の道に入り永平卍山和尚のところで禅の真理を話あうこと甚だしい。一日中考えてわだかまりが初めて解けて心が安静になる、依って自ら安清をと名乗る。又、覚玄律師に付いて凡ての法華経を学び戒律を守る事甚だしい。安清は嘗て撃剣射術を得意とした。出家後は人が撃剣射術を問うても一言も答えない。石井氏が亡くなった後、とうとう家財を親戚に施し報恩(寺)の古徹禅師に投じて剃髪し僧となる。止心安清と名乗り庵を村の星川に作り住み世人との関係を断ち修行する。
自分の心にあう事があれば自ら其の訳を話し,謡って楽しむ。人は是を星川道人と云う。元禄五年(1673)いつものように廬老(止心安清)無物の喝を発し爽快に死んだ。寿五十六歳、遺命に従がいて火葬して水葬する。
「高樹明神の前述の文章の伝とは少し食い違いがある、なぜかは判らない。天国(あまくに)については自分で書いたものなので疑いようもない。疑えば又此の説を捨てるようなものだ」
◯星川 宿の南裏を流れて下流は忍の沼に入る。
◯村岡の渡
横町通りから南へ約五丁で荒川となる。松山道と、他には、本多・畠山・小川等の山里に行く。
(増) 代々受け伝えるところ、昔の鎌倉街道で、今も、松山、川越を経て府中に至る。相模国の大山参詣に行く上州・信州の人々は、専(もっぱ)らこの街道だけを行き来した。
◯妻沼道
石原町中程の北側に分れ道がある。妻沼まで約二里である。
(増) 城和泉守掻上城址 石原村の西寄にある。今、松平候の郷蔵のある所に本丸があった。少し北の方に二の丸や屋敷などがあった。今は城家の家臣の子孫が、当村に散在している。
城家伝に、
城伊庵、織部(伊庵の子)、和泉守は、武田信玄に仕えて、鉄砲大将を勤めた。駿河国沼津に住み、後に、信州に移った。武田家滅亡の後、天正十年(1582)に徳川家康に仕え、石原村に住み、七カ村を受領した。この家伝は、成田家伝と合わせて、石原村の民家に伝わる古文書のひとつである。
(増) 和泉守墓碑 字坪井という地の東漸寺に 、数百年前に建てた墓碑がある。
(増) 旧川 佐谷田村の辺りより湧き出て、久下、吹上等の北に流れている。綾瀬川の上流である。荒川も元はこの辺りを流れていた。寛永年中(1624~1643)に今の東竹院の西に堤を築き流れを変え、和田川・吉野川と合流させ今のように流れている。総じてこの村には、多く水砂を吹き出している小池が所々にある。熊谷石上寺の星渓園に類するものである。
(増) 熊久橋 佐谷田と熊谷の境界、往還の小川に架かる石橋を言う。昔は、直実と直光が土地の境界を争って掛けた橋と言われている。
東鑑 建久三年(1192)十一月五日 熊谷次郎直実と久下権守直光とが(頼朝の)御前で(訴訟の)対決を遂げた。これは武蔵国の熊谷・久下との境界の相論のことである。
(増) 八町の渡口 佐谷田村より手島村への渡しである。初冬より橋を掛け、夏は、舟で渡したという。佐谷田村字八丁の地からこの名でよばれた。手島の渡とも言われた。手島村は、成田の家臣手島美作守の旧地であり、今は、吉見領である。
< 増補忍名所図会 巻四 終 >
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