『増補忍名所図会』は忍藩主松平忠堯が家臣岩崎長容に洞李香斎筆の「忍名所図会」の増補を命じたものである。長容は天保六年(1835)に増補版六巻(五巻とも)を作製し松平忠堯に献上し、さらに同十一年(1840)二度目の増補を行った。現在、洞李香斎の「忍名所図会」は所在が確認出来ず、天保六年版と思われるものの不完全な写本が一冊、行田市郷土博物館にある。天保十一年版は須加村川島家本をはじめ、国立国会図書館、国立公文書館、埼玉県立図書館などに写本が収蔵されている。江戸時代には刊行されず、写本で流布したので、本によっては内容の誤脱が著しいものもある。
行田市郷土博物館蔵の「増補忍名所図会」には洞李香斎、芳川波山、岩崎長容の巻頭言が記されている。香斎の巻頭言には「いにし未の秋(=文政六年(1824))に忍にやってきて名だたる小埼沼をはじめとして書き写したのは秋里籬島や竹原のぬし(春朝斎)の跡を追ったつもりであった」とある。安政九年(1780)に秋里籬島・竹原春朝斎により『都名所図会』が刊行されたのをはじめとして『大和名所図会』『和泉名所図会』『摂津名所図会』など多くの名所図会が刊行された。香斎はこれらの名所図会に影響を受け、「忍名所図会」の作成を思い立った事がわかる。文政八年に完成したが、本人も満足のいく内容ではなかったらしく、刊行はおろか他人に見せるのも憚った(はばかった)と記している。
芳川波山の巻頭言には松平忠堯の家臣、佐竹と岩崎が休暇に東西を奔走し旧記を閲覧し碑文を尋ね、史書を参考にして数年をかけて書物にして忠堯に献上し、忠堯は波山に巻頭言を命じたとある。『埼玉叢書(そうしょ)』の『増補忍名所図会』の解説には佐竹と洞季香斎を同一物としているが、その確証はない。
また、それに続く岩崎長容の巻頭言には、洞季香斎が記した「忍名所図会」を忠堯が見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ長容に増補を命じた。長容は日々彼方此方を歩いて名勝旧蹟を訪ね社寺の縁起を求め、農夫や漁夫にも話を聞き古文書を調べ「増補忍名所図会」五巻を作製し、藩主に献上したとある。さらに天保六年(1835)の増補後に知りえた知見を元に二度目の増補を行った。前回掲載した社寺の図は熊谷寺を除き全て省き、名勝の図一、二追加するなどして天保十一に全四巻、附録一巻を作製した。
岩崎長容は文化六年(1809)四月、松平家家臣岩崎長休の次男として生まれた。通称権九郎、左甚吾、左一とも名乗った。長容は諱(いみな)で「ながかた」と読む。作品の署名には主に長容を使用していた。勘定奉行や勝手掛などを勤めた。絵画や俳句に巧みで、他の作品に砲術師範井狩家のために描いた「砲術形状図式」がある。また現在所在が確認できないが弘化二年(1845)に忍藩主松平忠国の命で描いた「大阪御合戦絵巻」がある。この絵画を模写したものが伝わっており、納められた箱の蓋の裏に長容が作製の由来を認めている。明治十三年(1880)十月十二日死去した。
松平忠堯は享和二年(1802)桑名藩主松平忠翼(ただすけ)の長男として江戸鳥越の藩邸で生まれた。文政四年(1821)家督を継ぎ桑名藩主となり、同六年(1823)に転封により忍藩主となった。以後12年余藩主として転封後の多難な藩政にあたった。「忍名所図会」の増補は、新しい領地の情報収集の目的でもあったと考えられる。天保九年(1835)に隠居し家督を弟忠彦(たださと)に譲った。元治元年(1864)八月一四日に死去、墓所は天祥寺にある。
『増補忍名所図会』は昭和四年(1929)に柴田常恵・稲村垣元編『埼玉叢書 第二』に川島家本を底本として掲載された。昭和四六年には行田郷土文化会により郷土史家森尾津一の稿本(行田市立図書館所蔵)を元に刊行された(昭和61年復刊)。『増補忍名所図会』の刊行は今回四度目、川島家本を底本として刊行は『埼玉叢書』に続き二度目となる。
「増補忍名所図会(行田市郷土博物館友の会)」より抜粋
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