太井の郷と云う。太井四ヶ村とは太井村に棚田村・門井村・新宿村を加えたものである。
昔は成田家の家臣大井若狭守の領地であった。若狭守の子孫が今も土民として棚田村におり、保ち伝えた兵具を家の側に埋蔵し、神明宮と崇め祭っていた事は、愛すべき心がけである。今は鐙(あぶみ)のみを伝える。自分で見たら、煤けていたが今のものと変わらなかった。
◯天満宮
棚田村真福寺(一乗院末寺、真言宗)の境内にあり、近年ご利益があるとかで、参拝する人も多く、俗に、棚田天神と呼んでいる。例祭は、八月二十五日で、村の鎮守である。
(付録) 門井村 当村は、成田氏の家臣 栗原大学介の領地である。
今なお当村に、子孫が散在し、古文書を大切に保存する民家がある。
一 田 五町九反六十歩 十七貫七百五十文 門井の内
一 畑 一町五反 二貫 百五十文 同所
右二十貫分を遣わす。尚(他の事は)従来どうり。
天正十七年 十二月二十日 氏長 花押 栗原大学介殿
一 田 三町三反 二十貫文 門井の内 以上
右二十貫文は夫馬(フウマ、徴発され課役した馬)として供出したので、
これを免除する。尚(他の事は)従来どうり
天正十七年 十二月二十日 氏長 花押 栗原大学介殿
◯久下村
熊谷と吹上の間の宿場である。
(増) この辺りは、市田の庄久下郷といい、久下権守直光が住んでいたところである。往還(中山道)の南、荒川土手下に城跡といわれる所がある。旧館の跡と言い伝えられている。月日が立ち、その跡は、無くなってしまったが、源太屋敷あるいは、殿川棚・皿沼・大沼等と言われる所がある。また、三島大明神(現在の久下神社)の社があり、この館の鎮守といわれている。また、直光の末裔市田太郎という者がここに住んでいたと伝えられ、そのため、市田の庄といわれていた。もっともな事だと思う。おそらく、旧館の地が、直光より絶えることなく続けて住んでいた土地と、直光と太郎の館とが混同されたのだろう。直光は、鎌倉将軍(源頼朝)の旗下であったことは、人に良く知られているが、その最後は不明である。
東鑑によると、直光は直実の叔母の夫であった。その縁故で直実が先年、直光の代官として京都大番役を勤めた時、武蔵国の同輩たちも同じ役を勤めて在京していた。その間、仲間が直実を直光の代理という理由で、直実に対して無礼な態度を取った。直実はその欝憤を晴らすため、新中納言(平)知盛卿の家人となって長い年月を送った。たまたま関東に下った時に石橋山の合戦があり、(直実は)平家の味方として源家に弓を引いたが、その後はまた源家に仕えて、度々の戦場で勲功を立てたという。ところが直光を捨てて新黄門(知盛)の家人となったことが、かねての恨みの原因となり、このことから境界の紛争に及んだという。また一ノ谷の合戦の時に、大将源範頼(頼朝の弟)に従ったのは、阿保次郎実光・中村小三郎時経・河原太郎高直・同次郎忠家・小代八郎行平・久下次郎重光とある。
考えてみると、重光は直光の一族であり、河原・安保・中村等はこの近辺の人であるが、なお良く考えるべきだろう。
(参考資料 現代語訳吾妻鏡 吉川弘文館)
成田記に、
市田太郎長兼は、右大将頼朝公の御家人久下権守直光の子孫であり、代々久下に住んでいた。長兼の先祖久下弥三郎兼行は、明応年中(1492~1500)成田下総守親泰に服し、成田家の家臣となり、父弥太郎基兼まで一度も心変わりしなかった。そのため、成田長泰はその忠誠心を感じ、娘を長兼の妻にしたという。天正年中(1573~1591)、忍籠城の時は、持田口の出張りで防備を担当した。成田記に、持田口の出張りには市田長兼を主将として横田近江を添えたとある。主将市田は、代々久下に住んでいたけれども、この地は、防備には不向きで、敵を防ぐことが難しいと考え、久下を捨て、入城した。この人は、氏長の妹婿で正しく縁者なる故とある。
(付録) 久下村の条 市田の庄、和名抄(ワミョウショウ)には、大里郡市田・伊知多
東鑑には元久二年二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進せらる云々とある。
(増) 旧川 久下村の裏に流れる小川をいう。古(元)荒川はここを流れたという。今も民家の屋敷等を掘れば、ことごとく小石が出てくる。川下は綾瀬川といい、隅田川に至る。
(増) 火ともし堤 古川の手前所々にある小さい土手をいう。これは、古い荒川の堤である。天正年間(1573~1591)、忍城へ攻めてきた石田軍はここで日暮になり、提灯、松明を灯したところという。
(増) 地蔵堂 街道の西はずれの堤の上に安置されている。評判の悪童平井権八郎が上州の絹商人を殺害して立ち去ったのはこの辺りで、そのため、里では俗に権八地蔵とも言う。又、東竹院裏の堤にある地蔵ともいわれる。考えるまでもなく東竹院のあたりは、古い往還で人家もまばらで、熊谷堤を夜通ることを旅人は恐れていた。
芭蕉翁の句に
堤長し 日長し鐘は 熊谷寺 はせを(ばしょう)
春の日が大変長くなり、夕暮れどきに鐘なと聞こえるが、未だ路がぼんやりと続く、古の様子を想い、忍ぶことができる。
◯梅龍山東竹院 禅寺で曹洞宗龍淵寺の末寺。 御朱印によって寺領は三十石。惣門には横額が掲げられ上法月丹の書がある。山門の高殿には十一面観音が安置されている。鐘楼は寺の敷地の左手にある。禅堂は右手にある。
直光の墓は本堂の後にある。上杉家の女子の墓が同所にあって、五輪の塔である。文字は見えない。深谷上杉家の娘であるといい伝わる。
当寺は、建久七年(1196)に久下権守直光の開基である。中興は、永禄年間(1558~1570)深谷の城主の上杉(名不明)が再建した。その後寛永年間(1624~1645)に焼失した以降今の様な堂塔が再三建立されたといわれる。
◯荒川 一面が小石の河原である。水が幾筋にも流れ、春から夏の頃まで鮎が群がる美景の所である。
(増)荒川は、忍より一里程の所にある。水源は秩父の三峯山および中津川より出でて、下流は戸田を経て佃の海に至る。この川は水清らかで初夏のころより鮎が多いので、鵜飼や簗瀬をはったり、投網などいろいろな仕業で漁をしている。鰡(ボラ)や鱒などもまれにとれることもある。鰻もまた多く、現在、江戸で「荒川の大蒲焼」と称して売れるのは、荒川の物が味が良いからである。
(増)鰻については、本朝食鑑に述べられている。関東にもおいしいものがある。江戸の芝漁市で販売される多摩川産は、その味が最も上等である。深川産にもおいしいものが多く有る。その他では利根、箕輪田、中川、荒川産の物がうまいという者が少なくない。
久下の茶屋にはハヤなどを料理して粥にした名産がある。
古歌 荒川の 瀬に立つ鮎の 腸なれは それをうるかと いふへかりけり
(大意 荒川の瀬でとった鮎の腸だけど、そんなものまで売るのか)
返し 秋さひの 鮎の腸をや うるかとは 聞きしにまさる ちちふねの母
(大意 秋めいた日鮎の腸(うるか=内蔵の塩漬け)を売っているとは、秩父で育った鮎は想像以上に上手いのだろう。うるかは掛け言葉)
この二首は、秩父風土記簗瀬村の条に載っている。同書の注釈には、村名の謂れは簗を打つ事から始まるとあり、また忍領の川辺では簗代を徴収するなどと書いてあるが、この記録を見ると、間違いごとが多くあかしにならない。
老女の歌は、和漢三才図会に載せた。
< 増補 忍名所図会 巻一 終 >
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