◯久伊豆大明神 大宮口御門の外にあり、別当は亀行山峯雲寺、修験道である。当社の鳥居は、往古は今の沼尻組屋敷の東はずれにあった。その頃、神君家康公が御入国の時、どうしてか笠木に亀が昇っているのを御覧になり、吉瑞(きちずい)の印と御感悦であった。これより号して亀行山というようになった。
(増) 大宮御門というのもこの久伊豆大明神があったのでその名がついた。荒井、田町等の出生神である。
◯慶祐橋 持田組屋敷の裏、大宮口より持田村へ行側の川に架かる橋をいう。一偏上人の門下慶祐の退転の跡なのでそう呼ばれている。
大雄山正覚寺
持田村の往還の左にあり、浄土宗鴻巣勝願寺に属す。知恩院末寺。寺領三十石。阿部侯の代々の位牌処である。古碑が門内に置かれ、文永十一年(1274)の年号がある。当御本丸の堀より出たといわれている。
(増) 寺伝に、往古は真言宗の梵刹(ぼんせつ・寺)であり、久しく荒廃していたのを成田氏長が開基した。鎌倉光明寺廿一世の智教上人をお招きし、長くここに居らした。この人は当寺の中興開祖である。その後松平下野守忠吉侯が菩提寺とした。忠吉侯の嫡男である梅貞大童子(ばいていおおどうじ)殿の墓碑が寺内にある。
◯持田山阿弥陀寺 正覚寺より一丁ほど右にあり、時宗藤沢清浄光寺(しょうじょうこうじ)末寺。開基は二世遊行上人である。
(増) 諏訪明神 阿弥陀寺の裏手、一丁ばかりにある。御城内の諏訪明神は、古はこの所にあった。今の社は後に祭ったものである。
(増) 剣明神 往還の右にあり、祭神は素盞烏尊(すさのうのみこと)と日本武尊である。
(増) 常楽山長福寺
剣明神の後にあり、持田村の新義真言宗宝蔵寺の末寺。当寺は法印祐慶阿闍梨という聖の開基である。寺内に墓碑があり、寛平三年(891)の年号が彫られている。
(増) 宝寿山地蔵院宝蔵寺 持田村の往還の右にあり、小平村の新義真言宗成身院の末寺。宝治二年(1248)、延応二年(1240)等の古碑印塔がある。
(増) 星川の末 熊谷へ行く道は星川を左手に集めている。忍の用水である。川の源は石原村及び熊谷の石上寺の庭にある池より湧き出ている。その池を星川の池という。この川辺は初夏の頃より蛍多くて夜景がことに良い。夕ぐれが過ぎ、貴賤の区別なく蛍狩にうち集って行けば、川風が千町田の早苗を波うちゆらせ、物思いする人の袖などで露の玉かと乱れ来る蛍の光、大変涼しく見えるがうちわをふる(うちもけつべく(打ちものをたたき))処女らが蛍を狩争う影さえも映している
(増) 常慶院
持田村・皿尾村へ行く道の左手にあり、曹洞宗成田龍淵寺末寺。寺伝に、成田親泰の姉(名はわからず)は龍淵寺の四世以州和尚に受戒して尼となり、朝夕念仏に集中し一心に修行を行なっていた。さらに以州を招いて、庵に来てもらう事を乞うたようだ。師は大変老い衰えていたので、その徒弟の養仙が来た。永正十三年(1516)五月に尼が死去したので、一寺を建立して大用山常慶院と号した。開山は養仙和尚で、尼の墓碑は印塔にある。
(増) 深田 常慶院より東の方、皿尾口御門の外の皿尾村辺りに田が処々にある。天正の役に野々村伊予守がこの村に陣を張り、皿尾口に押し寄せても左右深田で進退自由ならず、城中の小勢に散々に打ち砕かれた。今なお田圃の中より打物・鉄物の類を掘り出せること時々あるようだ。
(増) 掻上城跡 皿尾村にあると云うが、その地は定かでない。外張という地か、もしくは旧地と言われている。
(増) 永井領の石標
村の入口、南の巷(分かれ道)に、「是ヨリ北長井領」の石碑がある。
考えてみるに、この村より北は永井の庄というのは、後の世の人が誤ってこの様に記してしまったのだろう。
◯与昌庵
皿尾村に入る入口左にある。薬師堂は別になっており、俗にこの薬師を姫薬師と呼ぶ。成田氏長の息女が建てたもので、婦人の願いがよく叶うらしい。諸願に際し納めるかわらけ(素焼きの盃)に穴をあけ、糸を通したものが堂内にたくさん在る。
阿部侯の家来加藤氏の娘は生まれながらの盲であったが、この薬師に祈願したら、日ならずして見えるようになったそうである。毎月20日の日だけ願いをかけるという。
◯無量寿山泉蔵院
新義真言宗。下忍遍照院の末寺。皿尾村の中ほど右にある。
(増) 昔はたくさんの堂舎があったが、今は僅かに小庵のみである。天正の水攻め攻防では寄せ手の野々村伊予守の本陣であった。
◯久伊豆明神雷電宮
皿尾村の西端にある。文治四年(1188)四月成田五郎成景が建立した古い社と神官が語っている。鳥居から社まで白梅がたくさんあり、初春は特に美しい。神主は青木主殿。
◯岩蔵明神
池上村の西寄り右側にある。疫神(やくびょうがみ)。例祭三月十五日。神主は茂木丹後。
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