(増) 勝呂大明神(今の河原神社)
南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云われる。高直は摂津国生まれでその昔明神様を信仰していたが、この地へ来たとき川越領勝呂村の住吉神社をここに移した。これより勝呂明神という。社領御朱印四石五斗。別当は本覚院。修験道。
(増) 真南院観福寺
古義真言宗、一条院の末寺。川原太郎高直の草創という。御朱印四石八斗。高直兄弟の墓碑が本堂の後ろにある。
(増) 今村佐渡守重光の墓が同所(観福寺)にある。
碑面 蓮乗院泰翁道寿居士 旧塔再建営
天正十九辛卯年八月十七日川原姓今村佐渡守重光
(付録) 南河原村
今村重光の子孫今村何某の家に、古文書「成田氏長の状」を保管している。内容は、
『この都度、内意の趣旨(成田家に仕えること)は承知しました。こちらへ此の旨をもって相勤すべきです。これにより五十貫文の支配ができることを、此の条項であてがう。帳面(文書)の内容で領知(領有して支配)することを、すべて可とする。
天正五年(1577) 三月九日 (氏長印) 今村源左衛門殿』
(増) 長門本(平家物語の読み本)によると、
『浜の大手から蒲生冠者範頼が大将軍として五万騎で押し寄せた。我も我もと先陣を目指す中、武蔵国私党(しとう)河原太郎高直と同次郎盛直兄弟が馳せ来りて馬を飛びおり、生田の森の城戸口を攻め破り城中へ入った。守る城側は備中国住人真鍋四郎のはずが、実際には四郎は一の谷におり、弓の名手五郎助光が木戸口に配置されていた。河原太郎が逆茂木を乗り越えるのを見た助光が間をつめ弓を射ると河原太郎の左側の草摺(くさずり・鎧の胴の下に垂らし大腿部を被い護るもの)の端に当たった。河原太郎が膝がすくみ弓を杖にして立っているのを弟小次郎が寄ってきて兄を肩に掛け戻る所を、助光が二の矢を射た。小次郎の右膝に当たると小次郎は兄を枕に倒れた。云々。』
今村佐渡守重光は川原太郎高直の末裔で成田家中に属していた。天正の役(忍城水攻め)で籠城して軍功があったと云う(軍記等に所見なし)。子孫もこの村(南河原村)におり、今村河原太郎左衛門と称す。同所入口に川原高直旧所と記した石標がある。
(増) 高直旧館の跡
南河原村の北裏側にある。土塁や堀の面影が少し残っており、昔を忍ぶことができる。おそらく今村佐渡守重光の旧館であろう
(増) 多度両社
利根川の内側の土手近くにある。文政年中(1818〜1831)に松平侯が北伊勢から遷された。霊験著しいと近国に轟いている。
(増) 神護山浄泉寺
曹洞宗龍淵寺の末寺。下川上村の川近くにある。寺領御朱印二十石。本尊は阿弥陀如来(一尺ほどの座像で、作者不明)。
浄泉寺縁起
そもそもいつ誰が開山したか不明。保延六年(1140)に建立した門があり、七百年が経っている。それよりやや古い熊野権現を祭っている。龍淵寺三世の桂儒和尚を招いて開祖とした。上杉謙信の開基と書いたお札が堂内にある。前を星川が流れ後ろは静かな林になっており、本堂・山門・廻廊・鐘楼・寮舎・坊舎など全て備えている。六世になって慶長九年(1604)十一月、神君家康公より御朱印二十石を賜り、代々相続している。
このような霊場だからであろうか天保三年(1833)上州邑楽郡五箇村の田島氏から阿弥陀尊像が奉納された。この尊像は東武蔵にいた某侯が持仏(守り本尊)としていたのをいただいて持ち帰ったもので、家の持仏としたら代々病難が続き、漸く治まったので、良し悪しを考えず村の御堂へ納めた。するとまた一族に祟りや種々の病難が起こった。不思議にも家の主へ夢でここから南西に衆生結縁の地があるのでそこへ移住させよとお告げがあった。どうするか考えていたら又夢のお告げがあったので一族に相談した。一族の中江袋のものが、南西なら自分の隣村にある下川上浄泉寺ではないかと云うと、皆同意した。
こうして阿弥陀尊像をこの浄泉寺へ迎え本尊の前に安置すると、感応霊験あらたかで、近里遠境から参拝する人が群れをなした。誠に念仏衆生接取不捨という教えの瑞祥(めでたいしるし)である。益々日々盛んに貴賎問わず参拝に訪れ、門前に市ができた。それ故その因縁を説き、功徳を称え、末永く伝えるため山門に記す。
四天門 四天王を安置する 惣門 保延六年の棟札がある
鐘楼 四天門の東にある 熊野権現 寺の東、森の中にあり、浄泉寺の鎮守
熊野縁起
ある夜、寺の上で急に雷電暴風が起こった。雲の中には白衣に長い冠をつけ、たくさんの従者をつれた神様がいた。神様は惟道(開祖桂儒和尚)の前に来て、「我は紀州熊野権現だが、長い間和尚の教えを聞き、護法の為にここへきた。寺境の東に安置すべし」と告げた。惟道だけが見え他人には見えなかった。惟道は限りなく歓び、すぐに神様が指定した所に神祠を造った。このことから山号を神護山とした。惟道は永正一六年(1519)十月七日遷化(死去)。
(付録) 池守村子安明神の伝
神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり、色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。
天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。
よって 再び今のように鎮座していただいた。
◯愛染明王
下川上村の西寄りにある。
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