駅の西寄り、木戸をでて右にある。浄土宗知恩院の末寺。寺領30石御朱印。
蓮正法師(直実)の木像を脇段に安置している。十王堂と阿弥陀堂が本堂の前左にある。弥三左衛門稲荷が門内の右にある。この稲荷の本社拝殿には賢人詩人や和漢の禽獣・花草等の彫物があって美麗である。
(増) 病弱な子供は年限を決めてこの稲荷に奉仕すると皆丈夫に育つという。その期間中、稲荷に奉仕している印として男児は髪を奴姿に刈ってもみあげを伸ばし、満期に切って奉納する習慣があった。世間では奴伊奈利と言う。いつも参詣者で賑わっていた。
参考:「熊谷の歴史を彩る史跡・文化財・人物」 熊谷市立図書館
御宮が門内に入って左の方にある。中門と惣門があり、塔中は上品院と上生院である。蓮生法師の廟所が本堂の後ろにある。
熊谷寺縁起に、
熊谷次郎直実は桓武天皇の子孫で、平直方の子である。若くして関東に赴き、久下直光の婿となった。成長して武勇著しく、都の侍賢門の合戦(源義平との戦い)では悪源太義平に属して十六騎武者の随一と呼ばれた。また石橋山の合戦で臥木(ふせき)隠れで匿ってくれた恩賞として、蔦に鳩の紋がついた幕を、右大将頼朝公より拝領した。外にも勲功の感状を21通まで賜った。その後寿永3年(1184) 二月七日摂津国一の谷の合戦で平敦盛の首を取ったが、自分でも息子直家を戦場で失った悲しみを抱え、敦盛の父母の歎きを思いやり、無常の儚さを悟って菩提を弔った。直実は弓馬の家(武家)に生れたので死後を恐れなかったが、その後は仏門への思いが消えることはなかった。
時を経て建久3年(1192)の冬、鎌倉に於いて久下権頭直光と久下・熊谷の境界を争論した後、逐に髻(もとどり・髪を頂に集め束ねた所)をはらい、伊豆国の走湯山に馳せ入った。翌年には都に上って法然上人の弟子となり、二心なき念仏の行者「蓮生」となった。
その後暫くした元久二年(1205)、蓮生が故郷へ帰りたいと法然上人に願いでると、自ら画かれた迎接(ごうしょう・臨終に阿彌陀仏が往生者を浄土に迎える)曼陀羅と、自ら作られた尊像を授かった。蓮生はこれを笈(おい・行脚僧などが背負う箱)に入れ、武蔵国へ下る時は、不肖自分は西方の行者だからと一時も西に背を向けなかったので、馬にも逆向きに乗って口を引かせた。
このような蓮生法師の歌に
浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向ふて後見せねば
蓮生は建永二年(1207)九月四日午後に往生する(死ぬ)と村岡の地(村岡は川向いで昔は駅であった)に札を立てさせた。その日は空に音楽が聞こえ、良い香りが漂った。伝え聞いて集まった人びとは数千人にのぼった。
蓮生は体を清め袈裟を着て、法然上人から頂いた阿弥陀来迎画をかけ、姿勢を正して合掌し、念仏の声と共に眠るようにして往生した。紫雲(仏が乗って来迎する雲)が草菴の上に一時ほど止って西の方向へ指して行った。これは上品上生(最上位)の霊場であることを示している。のち天正年中(1573~1593)に幡随意上人が中興開基した。それが熊谷寺である。
弥陀如来縁起に、
熊谷次郎大夫俊則(直実の父)は長年子供ができない事を悲しみ、この弥陀如来尊像を十七日間心を込めて祈っていたら、瑞夢(ずいむ・吉兆の夢)を蒙り、直正が産まれた。益々強く尊像を拝んでいたら直実も産まれた。直正は十八歳で死去したが、直実は長生きして同じ尊像を拝んでいた。直実に命終の(死ぬ)日限を告げたのはこの弥陀如来尊像だった。これより後世の人は「証拠の弥陀」と名付けて敬っている。
その昔、隣の里の道心者(仏道に帰依した人)がこの尊像を盗み出し、熊谷宿の中程まで持出したが、どうしても宿の外へ持ち出す事ができず、田中某の軒下に捨てて去った。のち尊像を盗んだ道心者は、事の顛末を仏前で懺悔し、本堂に籠ること度々であった。
◯鎮守弥三左衛門(やそざえもん)稲荷の神体は弘法大師の作である。直実が普段から尊んで信仰心が有ったので、猛敵を討ちなびく陣頭の時、熊谷弥三左衛門と名乗り直実に加勢し勝利に導いた。殊(こと)に一ノ谷の合戦には大手に向い鎬(しのぎ)を削り戦っていると、彼の人が来て付添い加勢した。余りの不思議さにその姓名を問えば、常に汝が信じる稲荷明神である。急難を救うため熊谷弥三左衛門として世に現れていると言い、その行方をお隠しになった。即に居城に宮祠を営んで是を崇(あが)め、今は当山に鎮守し奉っている。今でも非常に霊験新にして遠境近里隔なく、往来の旅人まで、晴雨に係わらず社頭に歩みを運んでいる。
当山什宝
蓮生法師上品(じょうぼん)往生証拠阿弥陀如来、元祖円光大師御自作尊像、光名号、和歌名号、斧替の名号
理書(各円光大師御真筆)、直実母衣絹名号、同旗名号、弥陀如来(蓮生法師御自作)、十五遍名号(同御自筆なり)、直実運気之巻、幕(石橋山の功名によって源頼朝公より拝領す)、蓮生法師笈(おい)、同念珠、同鉄鉢、同鉦、子孫置状、同御自筆、直実乗鞍、同鐙(あぶみ)、同軍扇子、同斧、逆馬絵(狩野清信筆、蓮生法師和歌は徳大寺大納言実維(さねふさ)卿御筆)、迎接曼荼羅(ごうしょうまんだら)(円光大師より蓮生法師へ授与)、泰(タイ)産裸形阿弥陀如来(三国伝来)、大黒天(伝教大師作蓮生法師信仰)、弥陀三尊(平盛方信仰熊谷家代々伝来)、(正一位熊谷弥三左衛門)稲荷大明神(神体弘法大師作、本地十一面大臂(ひ))
御名号(蓮生追善の為、音誉上人の筆)、地蔵菩薩(熊谷千代鶴姫守本尊)、熊谷家系、野太刀、聖徳太子(十六才御姿御自作)、四句偈(げ)文(蓮生法師自筆)、善導大師像(同作)、経盛(つねもり)返状、敦盛の鎧貫(よろいぬき)(大経小経)、曼荼羅、幡随上人寿牌、同火防名号、同不断光物の名号、同御袈裟并数珠(切支丹退治の時御着)、同花押、此外宝物等略之
(増) 東鑑 建久三年壬子(1192)十一月廿五日 能谷次郎直実と久下権守直光とが(頼朝の)御前で(訴訟の)対決を遂げた。これは武蔵国の能谷と久下との境界の相論のことである。直実は武勇では一人当千の名声を馳せていたが、対決では一、二を聞いて十を知る才能に欠け、たいそう不審な点が残ったので、将軍家(源頼朝)が何度も尋問された。その時、直実が申した。「このことは梶原平三景時が直光を贔屓(ひいき)しているので、あらかじめ(直光の主張が)理にかなっていると申し上げたものであろう。そこで今、直実が何度も御下問を受けることになったのである。御裁決では直光がきっと勝訴することになろう。そうであれば道理にかなっている(直実の)文書とて無用だ。どうしようもない」。(直実は)まだ事が終っていないのに、調べてきた文書などを巻いて御壺(坪庭)の中に投げ入れて座を立った。なお憤りに耐えられず、西侍で自ら刀を取って髻(もとどり)を切って言葉を吐いた。「殿(頼朝)の御侍まで上がることができた」。そして(直実は)南門を飛び出して、家にも帰らず行方をくらました。頼朝はたいそう驚かれた。一説には西を目指して馬を走らせたといい、あるいは京都の方に向かったのであろうという。そこで(頼朝は)雑色(ぞうしき)を相模・伊豆の諸所と箱根・走湯山などに急いで派遣し、直実の行く手を遮って遁世を止めるよう、御家人と衆徒らに命じられたという。
又いう、同十二月廿九日 今日走湯山(伊豆山)の専公坊が、年末の巻数(かんじゅ)を献上し、その機会に申した。「直実法師の上洛の事は、ひたすらに私の諫言によって思い止まりました。ただし『すぐに御所に参上することはできない。しばらく武州(武蔵国)に隠居する。』と申しております」。
又いう、建久六年(1195)八月十日 。熊谷二郎直実法師が京都から(鎌倉に)やって来た。過去の武の道を棄て来世の仏縁を求めてより以降、もっぱら心を西方浄土に繋ぎ、ついに姿を東山にくらませた。今度の将軍家(源頼朝)の御在京の際も所存があって参らなかった。追って千里の峻難を凌ぎ、泣いて五内の蓄懐を述べた。そこで(頼朝の)御前に召された。(直実は)まず厭離穢土、欣求浄土の趣旨を申し、次いで兵法の心得や合戦の故実などを話した。(直実は)身は今は法体であるが、心はまだ真俗を兼ねており、これらのことを聞いた者で感嘆しない者はなかった。今日、武蔵国に下向したという。しきりに引き留められたが、「後日、参上します。」と称して退出したという。
又いう、承元二年(1208) 能谷二郎直実入道は、九月十四日の未の刻に臨終を迎えると広く告げ知らせたので、当日に至ると、結縁の僧侶や俗人が、その東山の草庵を囲んだ。時刻になって、衣・袈裟を着て礼盤に上り、姿勢を正し座って合掌し、声高に念仏を唱えて臨終を迎えた。以前から全く病気はなかったという。
(参考資料 現代語訳吾妻鏡 吉川弘文館)
「子孫へ置状縮図
子々孫々に至るまで、よくよく知らしむるべき旨
一、先祖相伝の所領安堵御判形(ごはんぎょう)七つ、および保元元年(1156)から
建久年中(1190-1199)までの軍忠に対する御感状二十一通を相伝えるべき事
一、主君に対し逆儀あるべからず、また武の道を守るべき事
一、法然上人御自筆御理書と迎接(ごうしょう)曼荼羅(阿弥陀来迎図)を信心すべき事
この3ヶ条の外、自身の器量に応じて、語を覚る(ものごとの道理を弁える)べき事 以上、置状とする
建久六年(1255)二月九日 蓮生 花押 」
寺記には直実は都を去って熊谷に帰り庵で亡くなったとあるが、東鑑の記述では京都東山の僧庵で亡くなったとあり、話が合わない。更に調査検討を要する。
いにしえの 鎧にかへし古衣 風の射る矢も通らざりけり 蓮生 花押
(増) 享保四年(1719年)初夏(陰暦四月) 忍領北河原村 照岩寺八景の詩歌
題 「熊谷晩鐘」 中御門前宰相宣顕卿
勇士猶存一古墳。緬懐白旆、擁三軍。黄昏過、客為追予。驚却鐘声馬上聞。
(大意:勇士は猶あの古墳にいるようだ。白旗をたなびかせ三軍を従えた遠い昔を思っていた。黄昏時、旅人が自分を追うような気がして、驚いて振り返ってみると、鐘の音を馬上で聞いた。なんと素晴らしい光景なことよ。)
享保十八年(1733)中春(陰暦二月) 八条中将藤原隆英朝臣が重ねて泉山八景の和歌の御書題を改正云々と、照岩寺の古文書に書かれている。
「熊谷晩鐘」 高野前権大納言藤原保光卿
鐘の音に 聞けばむかしの 夕暮も あはれ身にしむ 袖や濡さん
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