◯平田山清善寺
曹洞宗成田龍淵寺の末寺。寺領は三十石。惣門の横額は、拈華林指月印書(ねんげりんしげついんしょ)。薬師堂は、門の向こう正面にある。円通大師堂。石碑は、唐画の円通大師の像を刻み、裏の銘は、北山とある。石橋は、門前に架かる青い一枚石で、幅一間半、縦二間半余ある。小見村真観寺岩窟の扉といわれている。
(増) 当寺は、成田五郎家持の長男五郎左衛門尉資員の次男、成田形部少輔顕忠が、永享十二年(1440)に草創し、龍淵寺五世の僧を招いてここに住まわせた。その後、松平薩摩守忠吉朝臣が多くの堂塔を再建したという。
◯天満宮
佐間村の入り口にあり、神体は春日の作で、古木の梅が社内にある。この梅は大木で、およそ二囲いもあるが、高さは約一間半しかない。いつの頃か雷火のためにことごとく焼かれ、わずか周りのふちだけが残った。中は空洞で、近年、その中から若木が生えてきて繁っている。八重の白梅が咲いて、いつの頃からか神木といわれるようになった。
別当は慈眼山安養院、下忍遍照院末寺である。
◯天真山高源寺 曹洞宗上崎村隆興寺の末寺。
◯正木丹波守利英の墓 同寺門内の脇にある。
碑面には、「天正一九年(1591)3月2日」と「当寺開基傑宗道英居士 成田下総守殿家臣 正木丹波守利英」が刻まれている。
(増)正木丹波守利英は成田家の老臣である。天正の籠城の時には、佐間口の大将だった。大手口の防戦が難儀していた時、行田口より町に入って寄せ手(敵)の後を破り陣に返る時、「忠の有る者」といって大いに敵の軍を混乱させ、隙に乗じて敵軍を追うなど厳しい活躍をした。これによって、大手口の味方の諸将は力を得て、共に敵を追退させた。これは利英の作戦によるものである。その他いろいろな軍功が有るが、ここでは説明を省く。
◯沼尻
(増)沼の尻辺りなので皆そういう。行田より東松山への往還の今の歩卒屋敷のあたりである。
この辺りから見ると、大沼は、青々として太湖に等しく、松杉(しょうさん)が繁茂していて大山のようだ。 そもそも忍城はどこから望んでも見ることができなかったが、ただこの沼尻からだけは低い垣と白壁や櫓の瓦を見ることができた。
天文の頃、上杉謙信が当城を攻めあぐんでいた時、この辺りより城中の形勢を見回ったという。成田記によれば、天文二十二年(1553)年三月下旬、またまた西上野に軍を出した時、北越の軍勢が城外に詰め寄ったけれども、城の防備が無双で四方が深いぬかるみのためなかなか容易に攻めかかることができなかった。
このため、大将の謙信自らが大物見として、佐間下忍の方へ馬で回って城中の形勢を見回ったところ、忍の城兵は、大将とみなして「上手くいけば撃ちとめよう」として、鉄砲隊十余人が一度に撃ってきたけれど謙信の身には当たらなかった。その時謙信は馬の鼻を城の方へ向け、扇を開いたまましばらく冷静に睨んでいた。そして落ち着いて退いたことは、城中でもその勇ましい品格の者と感賞した。その時 空が暗くなり急に雷鳴し風雨がはげしくなったので、この日の攻防はなかった。
翌日足軽同士の攻防があった。双方互角で死人多く雌雄未だ半ばの処に、信濃の戸倉城の大石源左衛門尉入道より、急を要することを示すための回状連絡が入った。その内容は、「北条氏康が伊豆、相模の仲間を統率して小田原を出発し忍の後援に出た」との噂がある。また「東上野の前橋へ出て陣を張る」との噂もあると。その事実の有無は未だ不明とはいえ、ご注進申し上げるとあるので、謙信はどう判断したかわからないが、翌日包囲網を解き平井城に引き上げた。
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