2012年1月12日木曜日

城南2(富士浅間大神、西行寺地蔵院、麿墓山)

◯富士浅間大神
  埼玉村の入口右手の山上にあり。女人禁制の札が建っている。延喜式の神名帳に記載されている神社である。
神体は鱐(このしろ)という魚に乗っているという。当村の出生の神である。氏子の者に限らず当村にすむものは、鱐を食うことを堅く禁ずる。もし誤って食べれば、必ず凶が有るといわれている。
  例祭は六月十四日。三月から太太神楽(だいだいかぐら)を修業している。《太太神楽=伊勢神宮に奉納する神楽(歌舞)》

◯国王山西行寺地蔵院
  天台宗の江戸上野寺の末寺で、丸墓山麓にある。本尊は地蔵菩薩(長さ二尺、忠泰和尚の作)。
(増) 当山の開基は人皇三二代の用明天皇の御子である聖徳太子の舎人(とねり)調子麻呂である。推古天皇の御世に太子が、甲斐の黒色の駒に乗って駿河国の富士の嶽に登ったとき、舎人の調子麻呂がただ一人これに従った。太子は山頂にて四方をはるかに望んで、「これより東方に紫雲が盛んに湧き上がっている所がある。私が推量するに武蔵野国の埼玉郡辺りになるだろう。彼の地は仏法の東の霊場になるだろう。吾は明年死ぬだろう。汝(お前)調子麻呂は吾が廟をここに建てて朕が常々尊崇する地蔵菩薩を安置せよ」と仰せられた。この地蔵は南嶽の思太和尚(浮屠薩氏の説に聖徳太子はこの和尚の化身という)の作である。この時のあの太子の像、今この寺に存るかどうかわからない。
  推古帝の二十九年(622)二月一日夜、太子が斑鳩の宮で亡くなる。王臣(おうしん、帝の臣)や百姓(一般の人民)の愁嘆は計り知れない。この月に河内の磯の長陵に葬られた。御遺言により役目として調子麻呂は御遺骨を首に掛けて武州に下向し埼玉の郡に来た。どこを御墳墓に定めようかと、あちこちを尋ね求めたが納得できる処がない。今この麿墓(丸墓)の地に来た時、御遺骨が大きな岩のごとく重くなって上がらない。調子麻呂はこれこそ太子の御心に叶う霊地と考え、すぐに御遺骨を納め堂を建て例の地蔵尊を安置し、また一棟の堂を建立して国王山地蔵院と名のった。    
  人皇三十六代皇極天皇一年(642)十一月蘇我入鹿大臣が軍を統率して聖徳太子の御子の山背大兄王の住んで居られる斑鳩の宮を包囲して攻め戦った。大兄王は作戦を計った。それは獣の骨を寝所に置き、子弟二十三人を率いてひそかに膽駒山(いこまやま、生駒山のこと)に隠れました。兵どもは火を放って宮中を焼き、炭の中の骨を見て王は焼死なさったとして、包囲を解いて退陣した。その後 子弟二十三人は斑鳩寺の塔内に入って神仏に誓いを立てて、皆首をくくって死んだ。その時焚いた香の煙は、万物の源泉をなすように盛んに上昇して天雲に通じたようだ。男は即座に天上の仙人となり、女は即座に天女となって、煙雲に乗って西を指して飛び去った。
調子麻呂はまた大兄王の御遺骨を取って武州に下り、太子のお墓に一所にお納めした。 この寺を西行寺と号す。この読み方は大兄王が西を指して飛び去った故にそういう。またその墓を麿墓ということは調子麿がここに建立した故である。
  人皇三十七代孝徳天皇の御世(みよ、645~654)に天王寺に於いて、霊鷲山(りょうじゅせん、釈迦が法華経を説いた山)に上宮太子(じょうぐうたいし、聖徳太子の別称)の像をおつくりになった。この時、上宮太子の廟所を武州埼玉郡の西行寺に所有させ五十余町を寄付された。この太子像は菩薩なので、国家安全の備えになる。巨勢麿(藤原巨勢麿)は、帝の命によって、寄進状に載せた。
  皇極天皇二年(646)の時、西行寺と称するようになってから、この寺はいまだに断絶したことはない。しかし、永禄天正の兵火によって、すべて焼失した。その後、山のふもとに一棟の小さな御堂を営なまれ、その太子と地蔵の二像を安置した。今の西行寺がこれである。

◯丸梅   
  西行寺の東方の田圃にある。五間四方にも繁茂する白梅である。太子の舎人である調子麿が当寺を草創して庭の前に植えたものだといわれている。丸は麿の誤りである。

◯麿墓山(いまの丸墓山)
  小さな山で、山頂に地蔵堂がある。麓から四五十間登る。天正一八年(1590)、忍城水攻めの時石田三成はこの山に本陣をかまえ、城中へ大砲を打ち込もうしたが、城がよく見えず、下忍遍照院にあたったと云われる。この山から忍城まで8~9町ある。山の上から行田を望む風景が素晴らしい。

(増) 永禄二年(1559)上杉謙信が忍城を攻めた時もこの山に登り城中を観察したと「成田記」に記されている。


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