須加村の利根川土手の下にある。別当は小庵如来堂。江戸上野寛永寺の末寺。本尊は阿弥陀如来(長さ一尺二寸、作者不明)。
◯この阿弥陀仏は、須加村の百姓与右衛門の庭で、雪が降っても積もらず時々光明を放つ所から掘出したものである。与右衛門が領主へ申し出ると、如来をござに包み忍藩江戸屋敷へ遣わした。厩(うまや)の二階に置かれると、また光明を放つことが度々であった。
その噂が桂昌院(将軍綱吉の生母)に伝わり、上野寛永寺に堂宇を建てて安置した。その時に桂昌院は眼を煩い、全く見えなくなった。いろいろ治療しても効果なく、特に眼病に熟練した薩摩藩の藩医田宮一山がいろいろ手を尽くしたが治らなかった。桂昌院はしかたがないと思い、日頃から信じていたこの如来に、朝夕一心に祈願するしかなかった。
ある夜の夢で、如来が枕元に立たれ、元あった忍の須加村へ安置すれば病が治るとお告げがあった。桂昌院は不思議にもまた有難く思われ、早速この地へ如来を送ると忽ち平癒したので、この辺りに田地を寄付された。
この時、医師一山は、凡夫の力及ばざるを感じ、また如来の利益著しきを信じて、藩医の職を辞し、ここにきて住まわれた。これが庵の開山である。後この地で遷化(死去)された。
(増) 江戸上野でこの如来があった所を信濃坂という。この如来が善光寺と同体だからとのこと。
如来を安置する厨子は桂昌院の寄進。
無量寿堂の額は忍城主阿部正識(まさつね)の筆
阿弥陀堂の額は薩摩中将吉貴の寄付、琉球中山王の索書、
清国福建省皷山沙門大心禅師の真蹟
「阿弥陀堂 為一山老人」
横額は横六尺余り、縦三尺ほど。
金色の地に紺青の文字
(増) 須賀修理亮泰隆の旧館跡
荒木村から須賀村に入る道の右手にある。大塚や櫓下などの地名が残るのみでその形跡はない。田畦になっている。須賀泰隆は成田氏長の姉婿で、代々成田家に属し、天正一八年(1549)の籠城では成田一門として本丸に居た。
成田記によると、
『上州館林青柳城主赤井勝元は、北武蔵攻略には先に忍城を攻め落とせば他の城は手を下さずとも降参すると考え、天文五年(1536年)八月軍勢五千余騎を従え、忍城を攻めようと利根川を渡って住吉(荒木と上新郷の境辺り)の南に陣をしいた。忍城主成田長泰はこれを聞き、だまって敵を待つことはないと、城から一里余り出て、荒木川(いまの星川)を前に橋を壊し小箕(いまの小見)の堤を楯として敵が川から上るところを攻めようと待ち受けていた。
折しも長雨で荒木川が増水して渡りにくくなっていた。赤井勢がためらっている所へ、須加城にいた須賀隆宗は郷士五百余りを引連れ、赤井勢の裏手に回り、幟旗(のぼりばた)をひらめかせて整斉と攻めかけた。赤井勢はその勢いに呑まれてしまった。足利城主白石豊前守一隊が忽ちに崩れ、川を渡って逃げ帰ると赤井勢は一気に動揺して数千の兵士が命令も聞かず散り散りに乱れ、東西に敗走し、利根川を渡るものもいた。須加勢は勝ちに乗じて追討し首三十余をとり、勝どきを揚げて城へ凱旋した。
大将赤井勝元は遥か北側に陣をしいていたが、僅かな須加軍に見苦しく負けたことに憤慨し、その夜残兵を引連れて須加城へ押し寄せ、三方から火を放って攻め立てた。須加城はもともと簡素で兵力も少ないうえ、大敗した敵から夜討があるとは思いもよらず油断していたため、城を守ることができなかった。須賀隆宗はじめ兵卒は城を逃げ出し、成田の陣に加わった。云々』
◯中条川岸
利根川土手の下、中条村にある。太平洋からの廻船問屋がある。
◯酒巻川岸
右に同じ。酒巻村。
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