2012年1月12日木曜日

城南3(天祥寺、 盛徳寺、小崎沼 他)

(増) 海東山天祥寺
   埼玉神社が鎮座する埼玉村の入口左にある。藩主松平家の菩提寺。天保七年(1836)松平忠尭(ただたか)がこの地に造営した。堂塔壮麗で異香が漂い、清浄寂寞とした霊場である。

◯可児才蔵の墓
   天祥寺門前の杉林の中にある。可児才蔵(かにさいぞう)は小田原攻めや関ヶ原の戦いで活躍した人で武勇で有名。福島正則の家臣であったが後に阿部侯に仕え、子孫が現存する。この森の竹を少しでも取ると祟りがあるという言い伝えがある。

(増) 埼玉山盛徳寺
盛徳寺の古瓦
   埼玉村の東端にある。新義真言宗で、長野長久寺の末寺。この寺は平相国清盛の建立と云う。また平重盛の建立という説もあり、由緒は不明だが古刹である。今も土中から様々な型が附いた瓦があちこちで掘り出される。この瓦はかなり古いのもので、その中に大同元年(806)の文字がある瓦があったと云う。もし平清盛の建立であれば再建であろうか。(大同元年は平安初期で平清盛はそれから約340年後の人)
  
◯小埼沼
   埼玉村の端、田圃の中の小さな池である。そばに松が一本植えられ、石碑が建っている。ここは万葉集に歌われた古い名所だが、長い年月を経てくさむらに埋もれているのを、先の忍城主阿部正因(まさより)が深く惜しみ、永代不朽のため石碑(万葉歌碑)を建てた。

(増) 万葉歌碑に刻まれた銘の大意と歌二首

武蔵小埼沼
   古の地名で武蔵の小埼沼と称したのはここである。万葉和歌集から考証すると寛平五年(893)から既に869年も経ち、その古さを知るべきである。和歌に歌われる名所であった  この地が、雑草や雑木に覆われ、隠れてしまうのは大変惜しまれるので、その地名を石に刻み不絶不朽と為す。
   武蔵の小埼沼の鴨を見て作った歌
  「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に 降り置ける霜を 掃うとならし」
   武蔵国の歌
  「埼玉の 津におる舟の 風をいたみ 綱はたゆとも ことな絶へそね」
         宝暦三年(1753)九月十五日  忍城主 阿部正因 建

(増) さし暮る 洲崎に立つる 埼玉の 津におる舟も 氷閉じつつ  定家

(増) さき玉の をさきの池に 咲く花は あやめにまさる かきつばた哉  読人不知


(増) 百塚
   埼玉村、若小玉村、下長野村辺りに小さな山状の塚が四五十ヶ所ある。特に埼玉村には大きい塚が多い。地元ではこれを百塚と呼ぶ。この塚は自然にできたものではなく、人が築いたのだろう。踏みならすと内部に空洞があるような音がする。その堀り崩したのを四つか五つみると、大岩で組んであった。地元の人によると、この中に鉄物、環などがあったと云う。私も小見村観音山で出土したのを見たが、青銅製の飯櫃(めしびつ)と思しきもので、錆びて底はかなり朽ちているが、蓋もあり大変古風なものであった。
   思うに、その昔、地位の高い人を葬った墓ではないだろうか。また、はっきり分からないが、この辺りのみにあるのは元々小さな山があった為で、そこに穴を掘って造ったのではないか。

(付録)  鎌田屋敷
   埼玉村に屋敷がある。保元の頃(1156~1159)鎌田兵衛正清(源義朝の家臣)という人がいた。東鑑には鎌田次郎兵衛行俊・鎌田図書左衛門尉信俊・鎌田三郎入道西阿の名がある。また成田分限帳に鎌田修理の名があり、成田家にも鎌田某がいた。
鎌田屋敷には西仏(阿弥陀像)などがあった。しかし誰が居た屋敷か不明。調査検討を要す。
(将軍塚古墳のすぐ東)

(増) 辛味大根  
   忍名産と称する辛味大根は埼玉村で作られる。他村に移し植えると必ず形状風味も普通のものになってしまうと云う。風土の違いであろうか。毎年松平侯が幕府へ献上しているのはこの大根である。風味がよく、形はカブに似て、大きいものは周囲約一尺もある。熱い汁ものにすると苦くなるが、生でおろしにすると誠に上品な味になる。
   総じて埼玉村は畑が多く、春夏秋冬に作る野菜は皆、行田の市で売られる。特に大根とウドは他郷(よそ)より風味がいい。




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