上之村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)は前村(小敷田村)に同じ。当村は「むかし成田村と云っていたが、いつの頃からか今のように改めて古い名は小名(こな)に残るだけ」と伝わっている。調べてみると、足立郡に石戸上村・石戸下村があり、他にも上村下村と称する村が多くあるので、当所もむかし成田上村・成田中村・成田下村と分けて呼んでいたのを、後に成田の二字を省き、その後又中下の唱えを廃して上村に統一したのであろう。今も村内を四つに区分けして、上組中組下組成田と分ち呼ぶのはその名残りのようである。
家数250戸。東は池上・小敷田・持田の三村、南は戸出・平戸・箱田の三村と大里郡熊谷宿等に接し、西も大里郡肥塚村、北は埼玉郡上下の川上の二村である。広さは東西24町、南北20町。
当村は天正の頃(1573~)1593)は成田下総守が領していた。家康公御入国の後は左中将忠吉卿の領地であったが、慶長五年(1600)から幕府領となり、寛永十年(1633)松平伊豆守に賜り、同十六年(1639)幕府領に戻り、その後いつの頃からか旗本の知行地に分ち賜った。
実際、正保(1645~1648)の郷帳には、松木市左衛門御代官所、及び太田惣兵衛・三田長右衛門・前田孫市郎・竹内権之丞・永井弥右衛門・本間五郎作・筧勘七・松平次郎左衛門・斎藤久右衛門・筧六郎右衛門・山田左兵衛などの知行地、龍淵寺領・一乗院領・久伊豆神社領が入会(いりあい・共同利用)になる旨が載っている。
又村に伝わる記録によれば、元禄年中(1688~1704)には、山田孫太夫・斎藤久右衛門・前田安芸守・同新五郎・筧助兵衛・竹内五六左衛門・杉浦内蔵允(くらのじょう)・鈴木甚之助・松平次郎左衛門・松平下野守・三田次郎右衛門・本間忠左衛門の知行地であった。しかし同十一年(1698)おしなべて所替えとなり、当村は阿部豊後守に賜って、今も子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は上中下の組に一ケ所ずつある。
小名(こな):
成田 成田式部大輔助高が当所に住み、在名を氏としたものである。よって当時は前述のように、村全体を成田村と称していたが、今は村の北の方の龍淵寺領だけ成田と呼ぶ。これは古の名残りである。
堀之内、殿山 これら二つの小名(こな)も成田氏がいた為にできたものである。その城址はいま堀之内にある。
秋葉 村の南の方である。古は別の一村であったが、成田太郎助廣の五男、秋葉七郎某が住んでいた地である。龍淵寺にある成田家譜には秋庭七郎と載り、成田四郎助綱の弟になっている。この助綱は東鑑にも名前がでているので、地名ができたのも古いことが分る。
五田塚 塚の名である。この塚があるので小名(こな)になった。塚は高さ1丈5~6尺、幅15間ばかり。塚の由来は不明。
下河原 穢多(えた)が住む地である。慶長十三年伊奈備前守が検地した時、除地(じょち・年貢諸役を免除された地)としたという。穢多の者15軒。その中で七郎右衛門の家に成田氏長が出した文書があった。その文は
『□□之長吏職之事、不可有仰相違之旨、如件
(□□の長吏職は相違というべからず)
元亀二年(1571) 十二月九日
七郎右衛門へ』
星川: 村の北を流れる。水源は大里郡広瀬村で荒川を引き分けて同郡石原村に至って二つの流れに分れたうちの一方で、ここまでは特に名もない。村内に小宮堰という堰を設けて、隣りの池上村から下流10ケ村の用水とし、名を星川と呼ぶ。この上流に御鷹橋という長さ5間の橋が架る。言い伝えでは、家康公が鷹狩りされた頃に龍淵寺へ行く為に伊奈備前守が造ったので、御鷹橋という名になったという。
池: 村の中ほどにある。広さ220坪。
久伊豆社*忍名所 末社雷電 姫宮 天神 太郎坊 次郎坊 稲荷 随神門 鐘楼 別当久見寺 社人江守大和 社僧大正院
諏訪社
稲荷社
三郎社
大天魄社
荒神社
天神社二宇
八幡社
龍淵寺*忍名所 宝物 家康公朱印状 成田系図 成田家人分限帳 陣鈴 秀吉公禁制 浅野長吉禁制 本堂 禅堂 衆寮 回廊 山門 表門 裏門 下馬札 制札 鐘楼 東照宮 稲荷社 天神社 弁天社 龍ケ淵 開山座禅石
一乗院 護摩堂 稲荷社 弁天社 聖天社 熊野社 鐘楼
泰蔵院*忍名所 阿弥陀堂 白山社
東光寺*忍名所
円明寺 地蔵堂
安楽寺 天神社 愛宕社
専寿院
地蔵堂
弥陀堂
村の北で小名(こな)堀之内の辺りを云う。これは成田氏が数代住居としていた所で、後年ここから忍城へ移ったという。今は皆陸田となって小さな八幡社があるだけである。
成田家譜などを調べてみると、成田は藤原伊尹(ふじわらのこれただ)公の子、左中将義孝の二男、武蔵守忠基五代式部大輔助高に始まり、助高が当所に住んだので在名を氏としたものである。
これが成田氏の祖で、それから子孫下総守親泰まで八代がここに住んでいたが、文明年中(1469~1487)、(あるいは永正の頃(1504~1521))に忍城へ移ったという。忍城の条で詳しく述べる-。)
「鎌倉管領九代記」の永享十二年(1440)七月一日合戦の条に、一色伊予守は去る正月に鎌倉を逃げ出し、武州成田の館に隠れていたが、北一揆の者ども(成田家の人々)と相かたらい云々、上杉性順と長尾景仲が成田の館へ押し寄せるとあるのは、当所の館である。
第11冊-頁76 上之村新田 箱田村
箱田村は本村(上之村)の西に続く。地元の人によると、上之村の新田といっても箱田村の名も古く、古に箱田三郎が住んでいたと云う。成田系図に箱田右馬允・その子刑部丞廣忠・その子三郎兵衛尉能忠・その子三郎助忠などが載っている。これらは成田の一族でここに住み、箱田をもって家号としたのであろう。
調べてみると、正保の国図にこの村の名はなく、元禄改定の図に始めて載っている。これゆえ箱田は、古は上之村の小名(こな)で、正保より後に分村したので、上之村新田という名を冠しているのだろう。
家数は35戸。東は上之村、西南北の三方は大里郡熊谷宿・石原村・肥塚村などに隣接している。用水は成田用水を引いている。この用水の水源は大里郡広瀬村で荒川を分水し、石原村で二流に分れて、一つは肥塚村から上之村へ注ぎ、これが星川の上流である。もう一つは石原村から直接当村へ入り、これは成田用水が当郡へ入る始めである。
この村は元禄十一年(1698)阿部豊後守正武に賜り、今子孫鉄丸が領する。検地の年代(慶長十三年伊奈備前守)と江戸からの行程16里は前村(上之村)に同じ。
高札場は当所になく、上之村の高札で兼ねる。
稲荷社
伊勢宮
山神社
文殊院
阿弥陀堂
第11冊-頁77 平戸村
平戸村は、江戸からの行程16里、及び検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は前村(箱田村)に同じ。民家の戸数は50戸。東は戸出村、南は大里郡佐谷田村、西は大里郡熊谷宿で、北は埼玉郡の上之村である。東西12町、南北7町余り。南西の方向に中山道の往還があり、佐谷田村より入って熊谷宿に達している。
当村は正保(1645~1648)の郷帳に幕府領のほか、近藤勘右衛門、長田三郎右衛門、荒川又六郎、西山忠次郎の知行地である事が載っている。その後、元禄十一年(1698)阿部豊後守の領地となり、今も替らず子孫鐵丸が相続している。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 前平戸 丸屋敷 馬場 門前
八幡社
他國明神社
稲荷社
超願寺
源宗寺
第11冊-頁77 戸出村
戸出村は、江戸よりの行程16里、検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は、前村{平戸村}に同じ。民家は38戸。東は持田村、南は大里郡佐谷田村、西は平戸村、北は上之村である。東西16町、南北3町ばかりで、水害の起こる土地である。
成田分限帳に戸出彌吉という名がある。これは当村の出身者であろう。当村も、正保(1647)の改定で、西山忠次郎・能勢庄左衛門・大久保四郎左衛門の知行地となったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守賜り、今は子孫阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。
小名(こな) 釜在家 新在家
神明社
戸出明神社
雀宮
龍寶院
地蔵堂
第11冊-頁77 大井村(大井・門井・新宿・棚田)
大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より15里。当村は古えに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。
正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。
民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西20町、南北8町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ。
小名(こな):
門井 東にある。この地名は古い。成田分限帳に永楽2貫文門井善八郎とある。此の地より出た人である。
大井(本村) 新宿 棚田 荒井 番場
元荒川: 南の方、大里郡の境を流れる。大里郡佐谷田村より入って、埼玉郡鎌塚村へ達する。この川は当村にて初めて埼玉郡へ入る。川幅6間。
榛名社
伊勢宮
鷺明神
三島社
神明社
山神社
太神宮
福聚院 阿弥陀堂
真福寺 阿弥陀堂
安養寺
龍蔵寺
徳園寺
慈眼寺
寶性寺
福性院 不動堂
永勝寺
善勝寺蹟
旧家者喜平治
小名門井の名主である。先祖は栗原大学助という成田下総守氏長の家臣であった。家に氏長が与えた文書二通蔵していた。この他には確かな事は伝えてないが、彼の文書の一つは「夫馬の為に10貫文を免ずる」、もう一つは「田畑合わせて20貫文」とある。これは食禄であろう。既に成田分限帳に永20貫文栗原大学と載っている。食禄の数が文書と符号しているので下総守の家臣であったことは間違いない。
文書二通は略
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