2012年2月9日木曜日

熊谷町、久下村(巻之220 大里郡之2 忍領)

第11冊-頁85  熊谷町
  熊谷町は熊谷宿とも言う。広瀬郷に属し江戸より16里である。地名の起こりは、大昔当所の谷に大きな熊が住んでいて住民を悩ませていた。熊谷次郎直実の父・次郎太夫平直定が此の熊を退治した事から、地名を熊谷という。また直定が屋号にも唱え、直実も続けて名乗った。これらは熊谷系譜や宿内の熊谷寺縁起等に載っている事であるが、正しいかどうかは分からない。
  当所は中山道の宿駅で江戸の方の鴻巣宿より4里6町余で、さらに上方の深谷宿ヘは2里27町である。また上野国の新田道は、熊谷から中山道を深谷へ行く途中で分かれる。北の方へ2里半で埼玉郡妻沼、東の方へ2里で行田町である。また当所に分岐路が4つあり、皆中山道の上の方で分岐している。上野国世良田道は榛沢郡中瀬まで3里半、上野国足尾銅山道亀岡まで4里、相州道松山町へ3里、秩父道榛沢郡小前田まで3里半、これら皆 当所にて人馬の継ぎ立て(宿継ぎ)をする。
  宿の長さ17町半で江戸に近い方を本町といい、次を新宿、その次を熊谷寺の門前町という。人家は970戸。多くは両側に連ねて住んでいる。
  昔の道は熊谷寺の裏門の方にあったが、文禄四年(1596)三月今のような町割りに変わり、東は佐谷田村および埼玉郡平戸村となる。南は荒川に沿い対岸は手島・村岡の2村である。西南から西は石原村に接し、北は肥塚村および埼玉郡箱田村に隣する。東西も南北もおよそ15町である。
  昔は毎月二・七の日に市が立って大変にぎやかであったが、近年衰微して歳末にのみ市が立つという。用水は隣村の石原村に堰を設け荒川の水を引く。これを成田用水と言う。
  当所は昔熊谷氏の所領であったが、その後の事の詳細は分からない。文明の頃より忍の成田氏の所領となる。天正十八年(1590)より幕府領となる。寛永十六年(1639)阿部豊後守忠秋に賜り、今はその子孫の鉄丸が領している。検地は元和七年(1621)大河内金兵衛が確認した。後年開発した新田は、正徳元年(1711)と元文元年(1736)の二度改訂した。
高札場は熊谷宿の中ほどにある。

小名(こな): 本町、新宿、下町、上町、門前町、横町 

荒川: 南の村境を流れる。平常時の川幅四十間、河原含めて幅五十間もあるだろう。この川に渡船場は二か所ある。

星川: 水源は二派ある。一つは宿の南裏にある石上寺境内の池より流れで、他の一つは成田用水が下流に来て一条の川となる。久山寺境内より湧き出る水も後者の川に注ぐという。
堤: 南の方にあって高さ1丈1尺である。天正二年(1574)小田原北条氏が築いた堤だろうといわれる。世間では熊谷堤といわれる。

高城明神社*忍名所 末社、天神、神楽堂 霊水 社宝(麾扇、軍配、鏃、鉾、刀、天国刀)
光明院、万宝院、海宝院、正覚院
千形明神社*忍名所
熊野社
星の宮
稲荷社三宇

熊谷寺*忍名所  寺宝(金襴袈裟、弥陀像、放光名号、和歌名号、斧替名号、理書、直実の母衣、同旗名号、蓮生作の阿弥陀如来、蓮生直筆の十五遍名号、連生の笈数珠鉄鉢鉦、直実が乗った鞍鎧斧軍扇、連生画像(逆馬画)、迎接曼荼羅、名号、四句偈文、地蔵像など)
鐘楼  閻魔堂、地蔵堂、稲荷社 蓮生の墓 敦盛追善碑

久山寺 弁天社、地蔵堂、閻魔堂
報恩寺*忍名所  山門 鐘楼 薬師堂 白山社
石上寺*忍名所  観音堂、毘沙門堂、地蔵堂、千体仏堂、伊勢両社、鹿島社、星川の池は、星川の水源である。
光明寺
常福寺  薬師堂 天神社
円照寺  鐘楼 住吉金毘羅合社
西蔵院  弁天社 薬師堂
大善院  愛宕牛頭天王稲荷合社

旧家者忠兵衛
  布施田を氏とする。先祖は信州の源八兵衛尉広綱の子孫で、布施田六郎大夫入道了閑広光の長男の半次郎広映がいた。広映は弓馬が達者だったので、武者修行として当国忍に来た。成田丹波守泰行(成田系図に泰行は無い。左衛門尉泰親の子に左馬助泰之という者あり、この人か)の旗下に属して、後に成田の婿となる。
  広映の子山城守長章も成田肥前守の婿となり武功があったので、後に武州三ヶ尻に城を築いた。深谷の上杉憲光が成田氏長の領地を略奪した戦さで、しばしば功績をあげた。この頃 北条氏康より感謝状を賜り、今日に至るまで家に蔵している。その後 天正十八年(1900)小田原落城の時六月六日小田原にて戦死する。
  その子左京亮長映は三ヶ尻の陣屋にいたが、忍城を落去った後当所に来て熊谷町を取立てた。文禄四年(1596)三月に熊谷宿の町割りを改める時にその事を司り、その後代々名主・陣屋を兼務して今の忠兵衛に至るという。
(氏康が出した感謝状 略)
また、名主の勘右衛門も同じ布施田の出身で、大河内金兵衛が出した下知状を5通も蔵しているので古い家と見える。

旧家者栄蔵
  伊勢国の生まれで長野越後守某。忍の成田の客分としていた時、忍城を落ち去った後、当所に移り子孫代々土着して熊谷宿の名主・本陣を兼任している。
その家譜や記録の伝承が無いので、詳細は分からない。しかし先祖越後守の孫・喜三の時、成田氏より出した文書四通を持ち伝えている。これは古い家であることには間違いない。
(四通あり 略)

旧家者新右衛門
  本陣・問屋を兼任し、竹井氏である。先祖は竹屋右衛門督兼俊の後胤で藤原俊信の長男である。竹井新左衛門尉信武として生まれた。母は別府尾張守長吉の娘で、天文二十二年(1553)五月十七日の出産の時、庭先の井戸の中に竹が生えていたことから竹屋氏の発祥となり竹井にあらためた。信武の父俊信は、後奈良院の北面警護していたが、故あって勘当を被り当国の別府に蟄居していた。
  信武の出生の後勘当の許しが出て、信武をここに残して帰京した。信武に二子いて長男は出家して栄光と称し村内の石上寺を開いた。次男の新左衛門信次が家を継ぎ、その子は善兵衛信久、信久の長男甚五右衛門信親は阿部豊後守忠秋の家臣となり、次男の梶塚源五右衛門某は秋元氏の家臣となり、三男新右衛門正信が家をまとめて当所に土着し、子孫が相続して今の新右衛門に至る。これらは家譜に載っているけれども、もとより他の証拠が有るわけも無く、また天文の頃に勘当を被り当地に蟄居していたなど受けがたいものもあるが、この伝えのまま記録に残す。
  家に具足1領を持っている。黄糸の縅(おどし)で玉庇も有るので、戦争に用いたものと見える。また鞍、鎧、刀も持ち伝える。刀は長さ3尺余りで寒念仏と名が付いている。このほか名主・本陣の中に石川、鯨井などの姓を氏とするものがいる。皆、成田家臣の子孫であるといえる。


第11冊-頁90  久下村
  久下村は江戸より一五里。久下郷のあった所であるが、その名がついたわけは分からない。むかし熊谷直実の一族、久下権守直光が、此の地に住んでいたことは【東鑑】等に書かれており、かの父祖よりこの地名は有ったのだろう。直光は後に当所を去って丹波へ移ったが、その闕所(けっしょ・領主の欠けた土地)を鎌倉の勝長寿院に寄附したことが、【東鑑】に元久二年(1205)六月二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進された云々とある。勝長寿院は今廃寺になっており、寺伝を尋ねる手段はない。なお後述する久下氏の居所跡(久下直光城跡)の条に、その略伝を出したので参考にして欲しい。
  民戸三百戸余。東は埼玉郡大井村及び足立郡榎戸・大芦の2村、南は江川村・下久下村、荒川を隔て津田村新田・小泉村の計四村、西北は元荒川を隔て佐谷田村と埼玉郡大井村である。広さは東西1里11町余、南北は10町程。中山道が中央を貫いている。用水は元荒川の水を引いている。
  此の地が成田氏の領地となったのも古き事である。かの家の分限帳に、永300貫文久下刑部大輔長亮、又久下孫四郎31貫500文と載っている。これを久下の末孫と見ることができるが、正しく此の地に居たかは調べられない。家康公御入国後は忍城付の村となったが、寛永十六年(1639)に阿部豊後守忠秋に賜わり、今も鐵丸の領地である。検地は大河内金兵衛が改めたと云うが年代は伝えられていない。
高札場は二ヶ所ある。

小名(こな): 
北市田 土地の人はここを市田太郎の居所跡と云う。太郎は武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)である。今は畑となっている。
殿川棚 元荒川の淵である。市田権守直光が馬を洗った所と地元の人は云う。 
千本松 御狩 大野 大千坊 古城 鎮守耕地 鳩三地 皿沼 源太屋敷 田郭 新宿本村 申新田

荒川: 村の南を流れ、幅15間。水除の堤がある。又この川には渡船がある。
元荒川: 村の西北、大里郡と埼玉郡の郡界を流れる。幅2間~25間に及ぶ。

三島社 
愛宕社 
牛頭天王社 
飯玉権現社 
八幡社  大荒磯崎明神
雷電社 
山王社 
稲荷社二宇
東竹院*忍名所  寺宝(袈裟一領、成田分限帳一冊) 
山門 衆寮 鐘楼 白山社 久下墓 上杉墓
普門寺 観音堂 三峯社 天神社
正覚寺 地蔵堂 天神社
医王寺 秋葉社 
吉祥院 天神社 
観照庵  観音堂 弁天社
正法院 八幡社 愛宕社
大日堂 
石地蔵*忍名所

久下直光城跡
  村の南の堤の外にある。今は畑で、畝数2反5畝である。直光権守と称す。【東鑑】に拠ると、久下直光は熊谷直実の叔母の夫である。直実が直光の代官として上京した時、直光を捨て平中納言頼盛の家臣となったことにより、すき間が生じた。直実が源家に帰参した後もお互いに不快で、直光はしばしば直実の領地に違乱(いらん・苦情のべる)を行い、訴訟に及んだことがある。これは建久三年(1192)の事である。
  【丹波志】によると、この後まもなく当所を去って、丹波へ移ったと確認されており、かの国に久しく子孫が相続して在していた。また調べてみると【丹波志】に直光の父を久下二郎重光と云い、小山兼光(藤原秀郷の曾孫)の流れの藤原氏で、小山下野守朝政の弟である。【太平記】に重光は、源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、一番に頼朝の陣に馳せ参じた褒美に、一番の家紋を賜わった故事が書いてある。ともかく当所に住んだのは重光・直光の二代である。また【源平盛衰記】【平家物語】等の書に、久下二郎実光、久下三郎、久下源内などがみえるが、これは直光の一族である。

市田太郎居跡
  村の南、往還(中山道)のそばにある。ここも畑になっている。地元の人はここを北市田と云う。市田太郎は当国の七党の一つ、私市党(きさいとう)の支流で、行田の城主成田下総守氏長の甥である。領知であるために成田の縁家となって旗下に属している。氏長や成田近江守泰徳等を助援(助勢)して久下の邸を守っている。小田原陣の時、氏長兄弟は小田原に籠り、太郎は無勢なので久下の居所を捨て、忍の城に入って籠城したが、遂に成田氏長と共に降参した。


第11冊-頁93  下久下村
  下久下村は江戸よりの行程15里は前村(久下村)と同じ。当村及び屈戸・江川の三村はもと一村であったが、新川の堀割より分村したと云う。民戸40戸余。東は江川村、南は津田村新田、西北は久下村である。広さは東西13町余、南北は二町ばかり。水利が不便なので全部畑である。
  古は成田の領地であったが、家康公御打入後は幕府領となった。寛永十六年(1635)に阿部豊後守に賜わり、今は子孫鐵丸の領地である。検地も阿部氏が糺した。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 将監屋敷(今は川欠(かわかけ:水害で農地にできない土地)となっている。庄屋喜左衛門の祖先、木村将監の屋敷跡と云う。)

荒川: 村の南を流れる。幅20間余。北方の久下村との境に古川跡がある。幅5間。

三島社

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