第11冊-頁55 北河原村
北河原村は江戸よりの行程15里・用水(北河原用水)は前村(酒巻村)に同じ。南北二村に分れたのは古い事で、寿永の頃は河原太郎高尚・同次郎忠家兄弟の所領だった。北河原は忠家が領し、南河原は高尚が領したといい伝える。されどこれも後でいうことであるので、その頃完全に南北を分かち唱えた証とも言い難い。
東は酒巻と当村の新田があり、南は同じ新田と南河原・上中条及び幡羅郡日向村と接し、西は福川を隔てて同郡葛和田村、北も同じ川を隔てて俵瀬村と対している。
広さは東西18町、南北7町で民家157戸。古くより幕府領であったが、元禄十一年(1698)村内を六つに分け、今の藤方勘右衛門、大沢仁十郎、宮崎勘右衛門・戸田市郎兵衛、西尾藤四郎、松前徳三郎の祖先に賜わった。検地は元禄十年(1697)酒井河内守が改めた。
高札場は六ケ所にある。
小名(こな) 上宿、下宿、久保、天袋、里、立野
福川: 西から北へ屈曲して郡境を流れる。川幅8間。二つの土橋が架かる。
利根川堤: 西寄り北に続いている。利根川の水除けの大堤である。高さ2丈。
十二所権現社
若宮八幡社
熊野社
稲荷社
照厳寺:
禅宗臨済派で相州鎌倉の円覚寺の末山である。寺領十二石余のご朱印は慶安二年(1649)八月二十四日に賜り泉福山と号す。本尊に釈迦を安置する。
寺伝によると、当寺は河原次郎忠家の家臣、森入道道本が主人の追福のために草創したと云う。しかし寿永三年(1184)摂津国一の谷に於いて戦死した河原太郎高直、同次郎忠家兄弟の位牌を置いた。山号(泉福山)は高直の送り名・泉福院直入讃高から、また寺号(照岩寺)は忠家の送り名・照岩寺直心道盛から、それぞれ文字を用いた。開山を詞久という。嘉慶二年(1388)九月二日亡くなる。開基の道本は正治二年(1200)四月二日亡くなっているので、開山と開基の年代がさらに違ってくる。さりながら古刹とは見えるが、記録にも伝えが無いので確認できない。村の民・五郎左衛門は彼の道本の子孫で森氏であるが、これも確かなる事も無い。
薬師堂: 客殿の後の方の小高い所にある。薬師は定朝の作と言える。昔はこの堂の前の利根川の堤の上より遠望する所が景勝の地だったので、今より四代前の住僧は眼前の地名を以って八景の題を作り、公家(殿上人)の詩歌を乞い得て珍蔵(珍しいと秘蔵する)とした。今は堤の上の松杉が生い茂り、古の様子は絶えてない。詩歌は、以下の通り。
黒髪山晴乱
ふもとなる 水海かけて 晴れにけり 黒髪山の 山の嵐に
中院右大臣道躬公
風引白雲一帯長 満山晴景不尋常 攅峯峭壁翠微色 千古挂来仏日光
唐橋小納言在簾朝臣
筑波夕照(せきしょう:夕映え)
暮れかかる 里のをちなる 筑波山 そことさやかに 夕日さす影
冷泉大納言為久卿
筑波山嶺道三千 遠映斜陽聳満天 風色凝眸将援筆 半紅半雫興雲連
勤修寺中納言高顕卿
利根川帰帆
雲ひらく 利根の川との 見るうちに こなたやとまり 帰る舟人
武者小路前権大納言実陰
奔流如箭甲東関 直下千艘一望間 囘首僧房憐世態 沂洄豊日幾人還
高辻中納言総長卿
熊谷晩鐘
鐘の音に 聞くは昔の 夕暮れも あはれ忍ぶる 袖や濡らさん
高野権中納言保光卿
勇士尚存一古墳 緬懐白旆擁三軍 黄昏過客為追弔 驚却鐘聲馬上聞
中御門前宰相宣顕卿
長井夜雨
いねかてに 夜半も長井の 秋はさそ をもひやるたに 雨そさひしき
高松従三位重季卿
英雄千歳古祠存 林樹陰森日易昏 秋雨終宵如溌墨 応須天意在忠魂
勘解由小路前大納言韶光卿
泉山秋月
秋清き 岩間に月の かけとめて いつみの山の 名をや流さん
武者小路前参議公野卿
決皆島辺秋色清 夜深虚閣断経声 一輪白日碾昇處 光照高僧覚海明
防城蔵人頭左大弁俊将朝臣
成田落雁
いくつらそ 成田の面に をつる雁 いつみの山の 峰をこえ来て
日野前大納言資時卿
成田千畝接西東 雁陣横斜落遠空 春去秋来留此地 年年応飽稲梁豊
葉室権中納言頼胤卿
赤城暮雲
降りつもる 雪にあかきの 山ひとり 暮れ残る色を 見せてかかやく
西三条前大納言公福卿
冉冉同雲布 赤城雪陸離 稍埋東郭履 因動灞橘詩
村外行踪絶 天辺往鳥遅 風寒肌起粟 一望欲昏時
八条中将隆英朝臣
鐘楼 亀岡稲荷社 観音堂
北河原新田
北河原新田は、本村の南東にある。この村は元禄の改めに初めて載っているので、元禄十年(1697)の本村の検地があった頃より分かれて一村となっていたのである。
東は酒巻村、南は南河原村、西より北にわたって本村である。四方ともに3町程の地にして戸数20戸。金田市郎の知行地である。
高札場が村の中程にある。
伊勢宮
第11冊-頁57 南河原村
南河原村は江戸からの行程16里余り。太田庄に属す。南北二つに分れ、ここが河原太郎高直の領地であったことは北河原村の条で述べた。戸数112戸。東は犬塚村、南は上中条村、北は北河原村に隣接する。広さは東西28町、南北30町。用水は上川上村の溜井から水田に引いている。
当村は家康公御入国後は幕府領であったが、慶長十三年(1608)に伊奈備前守忠次が検地して寛永四年(1627)に村内を五つに分け、日根野長右衛門・梶原七郎兵衛・松平隼人・松平斎宮・森川三左衛門に賜った。そのうち梶川某の領地は幕府領に戻ったが、その頃に開拓した新田は元禄年中(1688~1704)に伊奈半十郎が検地した。元禄十年(1697)に全体の所替えがあり阿部豊後守が賜ったが、寛永七年(1630)に阿部讃岐守に分地し、子孫帯刀が享保十九年(1734)に本家が相続して以来、本家阿部氏に復して、今の子孫鉄丸に至っている。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 屋敷 東 新井 茅原 町 新屋敷 曲目 北 新田 中新田 向新田
勝呂神社(今の河原神社)*忍名所 別当本覚院
諏訪社
稲荷社
八幡社
浅間社
観福寺*忍名所 鐘楼 弁天社 天神社 諏訪社 真珠院 天神社 金山権現社 観音堂
河原兄弟碑
河原太郎私市(きさい)高直・同次郎忠家の碑である。中古まで村の北の畑の中にあったのを農民河原太郎左衛門が「自分の先祖の碑である」として、後になって此処に移したという。碑面には一つは文応二年(1261)、もう一つは文永二年(1265)と彫られている。どちらも阿弥陀像と施主の名がある。まさしく供養塔である。
河原兄弟の碑とするには年代が違うが、正保(1645~1648)の改めの国図に、小高い塚を書き、側に河原兄弟墓と記しているので、この碑に疑いがあるにしても、少し前までこの碑があったことで、村内墳墓所があったことは間違いない。今のように塚が崩れて畑にしてしまった年代などは伝わってない。
鶴塚
村の西で、塚の上に古い松の木が1本ある。神君家康公が忍城に御滞留してこの辺りで鷹狩りされた時、ここで鶴をとらせたので、鶴塚と名付けたという。
旧家者賢次郎
氏を河原と云う。家系はあるが後に付会(無理に繋ぎ合わせた)したものである。言い伝えによると、古えは河原氏であったが、中古(しばらく前)今村と名乗り、今から五代の祖、太郎左衛門重信が享保年中(1716~1736)に復姓して再び河原を氏とした。彼の家系というのはこの頃に付会したものであろう。しかし成田下総守が先祖源左衛門に与えた判物があるので旧家であるのは間違いない。成田氏の文書は下記に示す。家系は特筆すべきものがないので省く。
『この度の成田家に仕えるという内意の趣旨は承知した。
よって50貫文支配する事をこの条にてあてがう。
本書により領知せしめることを全て可とする。
天正五年三月九日 氏長花押
今村源左衛門どの 』
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