第11冊-頁40 渡柳村
渡柳村は江戸より15里の行程である。民家60戸余り。四境は、東は利田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村である。広さは東西25町、南北20町。成田用水を引き用いている。
寛永(1624~1645)・正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかに、阿部豊後守・芝山権左衛門・佐久間久七郎などの知行地だったが、元禄十一年(1699)村内全域を阿部豊後守が賜り、今、子孫鐡丸に至っている。検地は元禄十二(1670)年に時の領主阿部氏が糺した。
高札場は村の南にある。
小名(こな):
黄金寺 村内の本性寺の蹟を云う。この名は本性寺の本尊が黄金仏だからである。
陣場 村の西を云う。天正十八年(1591)に石田治部少輔三成が忍城を攻めた時、本陣とした所である。ここに陣場の松という大木があったが、天明年中(1781~1789)に枯れたと云う。この辺に塚が9つある。石田三成が忍城攻めの時に渡柳に本陣をすえ、城に向けて伏椀のような塚をたくさん築いて仕寄せ(城へ攻め寄せる陣地)にしたと伝えられるのは、この塚である。そのなかに戸場口山と呼ぶ塚がある。この塚の中より最近石棺が掘り出された。その中に長さ9尺程の野太刀があり、今は村内の本性寺に収め置いてある。地元の人の話では、この塚は当所に住んでいた渡柳彌九郎を葬った塚であると云う。成田分限帳に永18貫文渡柳将監とあるが、在名を氏名としたもので、彼は彌五郎の子孫ではないだろうか。それならば三成が築く前からあった古塚であることが分る。
八王子社 八幡
八幡社
諏訪社
稲荷社
二ツ宮
神明社
天神社
本性寺 釈迦堂
長福寺 秋葉社
万法院
第11冊-頁40 利田村
利田村は、江戸からの行程15里、検地の年代(元禄12年領主阿部氏検地)、用水(成田用水)等が前村(渡柳村)に同じ。民家35戸。村の大きさは凡そ10町四方の地で、東は廣田村、南は袋新田、西は渡柳村、北は埼玉村である。当村は正保の郷帳に高木甚左衛門の知行地とある。
寛永系譜を見ると、高木九助廣正は後に筑波守と改め,、慶長四年(1600)に御城番として忍城を守った。然るに病いによりお役御免を願いでたが叶わず、忍城の近くに3,000石を賜ひ、さらに隠居の地として忍領内に1,600石の地を賜った。同十一年に廣正が亡くなり、子の正綱が父の領地と忍城御城番を継いで、廣正の隠居の地1,600石の地と合せて賜った。
後の元禄十年(1698)まで高木氏の領地であったが、明くる元禄十一年(1699)に前村(渡柳村)と同じく阿部氏に替賜はり、今も子孫鐵丸の領地である。
高札場は村の東にある。
小名(こな): 新田 東
天神社
稲荷社
正福寺
第11冊-頁41 野村
野村は、江戸よりの行程15里、検地(元禄12年領主阿部氏検地)、用水(成田用水)等は前村(利田村)と同じ。渡庄と唱える。民家140戸余り。ここは元は廣野であったが、慶長年中(1596~1615)に開発するとそのまま村名となった。東は屈巣村、南は元荒川を隔てて足立郡寺谷・箕田(みだ)の二村に接し、西は埼玉郡袋村及新田・堤根村等で、北は渡柳・埼玉・廣田の3村である。広さは東西30町、南北11~12町。当村は正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかに、高木甚左衛門・弓削源七郎の知行地であった。高木氏に賜ったことは前村に述べた。明くる元禄十一年(1699)に前村と同じく阿部氏が賜ってから今も子孫鐡丸の領地である。
高札場は二ヶ所あり、東の方と西の方にある。
小名(こな): 上分 下分 篠原 揚原 宿
元荒川: 村を南へ流れる。幅十四間より十七間に至る。
氷川社
天満宮
神明社
久伊豆神社
八幡社
正覚寺 阿弥陀堂 山王稲荷合社
満願寺 観音堂 聖天社、阿弥陀堂
第11冊-頁41 屈巣村
屈巣村は江戸への行程15里は前村(野村)に同じ。戸数328戸。東は関新田・安養寺の両村、南は元荒川迄で足立郡市縄・寺谷の二村、西は足立郡箕田村と埼玉郡の野村で、北は廣田村である。広さは東西15町、南北30町。天雨水(あまみず)を溜めて水田に注ぐ使っている。家康公御入国の後より忍城付きの村で、今は阿部鉄丸の領地である。検地は延寶八年(1681)阿部播磨守が行った。
村の東に元屈巣沼と云う東西30町、南北4町余りの沼あったが、当村及び上会下・郷地・安養寺の四村の村人の請願で享保十三年(1729)に開発し、屈巣沼新田・上会下村新田・郷地新田・安養寺新田と云う。同十六年(1732)筧播磨守が検地して高入となり、各村の新田なので屈巣沼新田と云う。
後に故あって、上会下・郷地の新田も当村の持分となる。故に二つの新田を屈巣沼請と云う。その他の安養寺村にて開いた所は、今も同村の持添である。又関新田村もいつの頃かこの新田を持添とし、今はすべて五村による入合(共同利用)の新田となっている。
昔から当村で持添とする屈巣沼新田は、明和七年(1771)に松平大和守の領地となり、屈巣沼請は幕府領に属す。
高札場は村の南にある。
小名(こな): 上谷田 柹木 市場 中郷 宮前 船塚
元荒川: 村の西南を流れる。川幅16間で、渋井橋と云う土橋が架かる。橋の長さ9間半、幅9尺。
天神社
円通寺 鐘楼
観音寺 観音堂
普済寺
真福寺
桜本坊*忍名所 薬師堂 鷹留桜
褒善者小兵衛
屈巣村の百姓である。妻こんと共に父母に孝養を尽くしたので、安永八年(1779)領主阿部豊後守が褒賞して米20俵を与え、翌九年から毎年米10俵ずつ与えて、父母を養う助けとした。
第11冊-頁45 関根村
江戸からの行程15里。東は上下の外田ヶ谷2村、南は北根村と赤城村、西は小針村、北は真名板・阿良川の二村に隣接。村の広さは東西3町、南北2町ばかり。用水は関根落しで堀の悪水を引き注いでいる。
家康公御打入の後、正保の頃(1645~1648)は加藤数馬之助の知行地で、現在は子孫の勝之助が領する。検地の年代は不明。
高札場は村の南に建つ。
小名(こな): 本村 元屋敷 新田
山王社
稲荷社
東泉寺 薬師堂
第11冊-頁45 上真名板村・下真名板村
上真名板村と下真名板村の両村は1つの庄と唱える。江戸から16里の行程。当村はもと上下の分ちなく、正保国絵図(正保元年(1644)に作った地図)では一村だが、元禄(1688~1704)の改めで上下二村になっているので、正保と元禄の間に分れた事が分る。しかし元一村の地なので境界が入り組み、説明しにくいので、合わせて述べる。
東は阿良川村、南から西にかけて関根・小針・下須戸の三村、北は上新郷・串作の2村が隣接する。広さは東西30町、南北13町。用水は関根村と同じく、関根落しで堀の悪水を引き注いでいる。
家康公御入国の後は幕府領で、慶長の頃(1596~1615)大河内金兵衛が検地した。正保(1645~1648)の改めで阿部豊後守・荒川右馬之助・内藤権右衛門の知行地となった。[寛永譜](寛永諸家系図伝)に「荒川右馬之助定安が寛永十年(1633)六月武蔵国において200石の加増を賜る」と載っているのは当村のことである。それもいつの頃か変り、今は内藤熊太郎・同丈之助・蜂屋十郎左衛門・戸田一郎兵衛・藤方勘右衛門の知行地である。
高札場は三ヶ所ある。
小名(こな): 中島耕地 古河入耕地 源次郎耕地 下根
久伊豆社
稲荷社
花蔵院 薬師堂
全龍寺 観音堂
第11冊-頁46 広田村
広田村は江戸よりの行程14里。戸数150戸。村の四境は東が関新田・屈巣の2村、南が野村、西が埼玉村、北が赤城村である。広さは東西30町、南北10町ばかり。成田用水を引く。
当村は正保(1645~1648)の郷帳には高木甚左衛門の領地となっているが、そのあと阿部氏の領地となった事と検地の年代(元禄十二年領主阿部氏検地)は利田村と同じである。そのほか慶安元年(1648)に時の地頭高木甚左衛門が検地したことが伝わっている。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 番場 三ヶ谷 向フ領 矢端 本村 東間 六軒
鷺宮 別当金剛院
稲荷社
天神社
諏訪社
八幡社
山王社
天神社 別当護宝院
廣徳院
長蔵院
観音院
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