2012年2月9日木曜日

前砂村、吹上村、榎戸村、大芦村、明用村(巻之150 足立郡之16 忍領)

第8冊-頁37  前砂村
前砂村は江戸よりの行程13里半。郷名箕田(みだ)郷・箕田庄は前村(中井村)に同じ。戸数58戸。東は三ツ木・中井の二村、南は小谷・三町免・明用の三村で、西は吹上村と元荒川を隔てて埼玉郡下忍村に接し、北も埼玉郡袋村である。
家康公御打入の後は幕府領(御代官)になったが、寛文四年(1664)山岡十兵衛の領地となり、後に幕府領となり、元禄十年(1698)阿部豊後守が領地となって今の鉄丸に至る。検地は慶長十二年(1607)伊奈備前守が糾した。その後延宝五年(1678)山岡十兵衛が再び糾し、今もその水帳(検地帳)を用いている。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 通殿 新田通り やなせ 宮脇 おむたし 山ノ神 藪

元荒川: 村の北を流れる。吹上村から来て足立郡と埼玉郡の境を流れ、三ツ木村へ入る。川幅15間。

氷川社 神明熊野天神合社 稲荷門客人諏訪合社
宝蔵寺


第8冊-頁38  吹上村
吹上村は江戸よりの行程14里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村{前砂村}に同じ。広さは東西16町、南北10町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数100戸余、多くは街道の左右に並び建っている。
この村は古くは成田下総守の領地であり、家康公御打入の後は幕府領で忍城付きの村であったが、慶安(1648~1652))の頃は日下部作之丞・小笠原三郎右衛門・佐伯伝右衛門・市岡左太夫・岡三四郎等の知行地であった。又元禄年中(1688~1704)に村民の記したものに、下組の中に地頭林大学頭とあり、此の下組と云うのは今小名(こな)で下宿と呼ばれる所で、此の頃は大学頭の知行地であったようだ。その後元禄十一年(1699)前村と同じく、村内一円を阿部豊後守が賜り、今子孫鉄丸の領地である。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 上 中 下宿 菖蒲沼 細瀬 遠所 王子塚 新田裏

元荒川: 村の西北を流れる。川幅13間ばかり。此の川にさが橋と称する橋がある。此の橋は、なぜか川の中央に塚のような土台を築き、それへこちら側から長さ3間の石橋を架け、土台から対岸へは土橋を架けている。これが埼玉郡との境だと云う。さが橋とはさかい橋の転語なのだろう。

山王社*忍名所  稲荷社 天王社 天満宮 庚申堂
氷川社
稲荷社
勝龍寺*忍名所  鐘楼 仁王門
東曜寺  薬師堂 毘沙門堂
持宝院

褒善者牧右衛門
吹上村の村民である。父は早く死に、母に篤く仕えていたが、母は生まれつき頑な(かたくな)な上に久しく病いにかかり、いよいよスジの通らない事を云うが、いささかもその心に違うことなく看病し、神仏に祈祷したり、あるいは得難い薬を求めたりして病いが平癒することを願った。このようにして既に8年になるが、少しも怠けることがなかった。
また牧右衛門の妻さしも夫と共に心を尽くして姑に仕えたので、延亨二年(1745)八月領主阿部豊後守がその孝行を褒賞して、夫婦に米若干を与えたと云う。


第8冊-頁39  榎戸村
  榎戸村は東西5町余り、南北六町余り。東は吹上村、南は大蘆村、西は大里郡久下村で、北は元荒川で、対岸は埼玉郡鎌塚・大井の二村である。戸数35戸。村内に中仙道が通り、道幅2間余り。江戸への行程14里は前村(吹上村)に同じ。
正保(1645~1648)の頃は小笠原三郎右衛門の知行地であったが、ここも元禄年中(1688~1704)に阿部豊後守が賜り、元文元年(1736)に検地して今その子孫鉄丸の領地である
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 上 中 下 横町 中田 下田

元荒川: 村の北、郡境を流れる。川幅5~6間。この川に堰を設け、近くの八ケ村の用水を引いている。榎戸堰と呼ぶ。

宝性寺  稲荷社 弁財天社 天満宮

旧家者半十郎
  榎戸村の村民。眼の治療を生業とする。氏を横田といい、古えは陸奥国会津郡の民だったが、寛永十一年(1634)当所にきて土着した。
その家系を見ると、山内五郎左衛門尉俊綱の後胤で、俊綱から六代目の横田兵部大輔俊治が始めて横田を氏とした。その子刑部大輔頼俊はまた山内と称した。この人から六代目の山内越中守俊泰の次男を横田左馬助光広といい、これが半十郎の祖先である。それより左馬助長房・左馬助光房・丹波守隆房・安芸兵庫善九郎など連綿と記しているが、事跡や年代は全く不明である。ただ善九郎は天正十八年(1590) に流浪したとあるのみだが、何れに仕えたかは載っていない。又それより後のことは全く伝承がない。祖先が使ったものとして槍一筋を蔵する。


第8冊-頁39  大蘆村
  大蘆村は、江戸より行程14里半。今は庄名を唱えないが、古い水帳には箕田(みだ)庄、あるいは箕田村の内とある。村の広さ東西12町余り、南北15町。東は明用村、南は荒川を挟んで対岸の横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の3村に隣接し、西は大里郡久下村、北は榎戸・吹上の二村である。民戸165戸。
  当村は正保(1645~1648)の頃は市岡左太夫と井上次兵衛の領地で、元禄(1688~)の初めは幕府領と市岡對馬守甲斐庄三郎右衛門の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領する。検地は慶長十二年(1612)大河内金兵衛が糺した後、貞享元年(1684)近山興左衛門・熊澤武兵衛が改めた。
高札場は村の中央より少し北寄りにある。

小名(こな): 中内手 砂原 新在家

荒川: 村の西南を流れる。川幅30間。この川に渡し場がある。大蘆の渡と呼ぶ。ここは多摩郡八王子から日光への往還である。

氷川社  稲荷社
大天八公社  稲荷社
大神宮二宇
道祖神社
雷電社三宇
浅間社
稲荷社二宇 
諏訪社 
龍光寺*忍名所  天神社 白山社 衆寮
醫王寺  阿陀堂
大寳院 


第8冊-頁40  明用村 
  明用村は村民鶴間氏が開墾した所で、古は鶴間村と稱していたが、いつの頃よりか今のように改められた。又昔は三町免村も当村に含まれて一村だった。箕田郷に属し、江戸からの行程13里余り。広さは東西6町、南北8町余り。東は三町免・前砂の二村に接し、西南二方は大蘆村に隣接する。北は前砂村である。戸数30戸余り。
  正保(1645~1648)の頃は幕府領と酒依喜右衛門・戸川主水の領地であった。慶安五年(1652)御代官南條金右衛門が検地し、その後元禄十一年(1698) 阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領している。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 大地頭 西鄕地 久下分 谷中 富士塚 半成 出口

三島社  末社 天王社 稲荷社 天満宮
第六天社   
観音寺  聖天社 観音堂

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