2012年2月9日木曜日

城下町、長野村、佐間村、下忍村、持田村(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁21 城下町
  城下町は大手口の外にあるが外曲輪の内側である。西は忍城、南は佐間口門を境とし、北は忍川を隔てて皿尾・谷之郷の二村、東は長野村である。この忍川に沿って土塁を築き、北谷口と長野口の二門で守りの堅めとしている。
  総名は行田町で、上町・下町・新町・八幡町などの小名(こな)がある。また此の地は谷之郷の中なので、谷之郷行田町ともいう。忍庄に属す。此の地が町になったのも古いことで、成田下総守が城主であった頃から城付きの町場で地子(じし)免許の地(地代を払い許可を得て居住する地)だったと云う。家康公ご入国後、左中将忠吉卿がご在城の頃に再び地子の免許が発せられたことにより、今のように棟を連ねる街並みとなった。
  調べてみると行田は古い地名である。東鑑の承久三年(1221)宇治合戦における手負人の中に、小代小次郎・行田兵衛尉と並んで載っている。小代は比企郡小代郷の事で今もそこに正代村がある。同様に行田は当地で、住んでいる地名を氏としたのである。
  当地は江戸から上野国館林への往来、及び八王子千人組の者が日光山へ行く往還の宿駅で、中山道鴻巣宿へ2里半、比企郡松山町へ4里、埼玉群内の上新郷へ1里25町、上州邑楽郡川俣村へ2里6町である。その他、下総・常陸の二国から相模国や中山道へ往来する人馬が通る。埼玉郡加須村へ3里半、騎西町へ3里、羽生町場へ2里半、大里郡熊谷へ2里、須賀・下中条・酒巻の三村へ各1里半、幡羅郡俵瀬・葛和田の二村へ各2里半である。
  江戸からの行程15里。毎月一と六の日を市の日と定め、上町・下町・新町でかわるがわる市を開く。家数557戸。
高札場は上町内の、新町と北谷口に接する交差点にある。

上町: 上町は大手門の前で、東は下町に続き、南は新町で、北は北谷の足軽町に接する。当町が人馬をつなぐ宿駅である。

下町: 下町は上町の東に続き、長野口までの間である。

新町: 新町は上町から南へ分岐した通りである。故に行田横町ともいう。この町の中ほどから西へ小道があり、その奥に町奉行役所がある。

八幡町: 八幡町は新町の中ほどから東へ折れて、斜めに下町の南へでる通りである。鎮守八幡が立つ地なので地名とした。また当町を大工町ともいう。

八幡社
大長寺*忍名所  毘沙門堂 塔頭  一行院  千手院
法性寺  愛宕社  秋葉社
長徳寺  愛宕社

褒善者藤左衛門
  町年寄を務める吉兵衛の父である。母に仕えて孝を尽くしたので、安永八年(1779)八月に領主阿部豊後守が米20俵を与え、翌九年からは母生涯の間、毎年米10俵ずつ孝養の為に与えたと云う。
  この藤左衛門は旧家で先祖を古橋越後守と称し、下野国安蘇郡唐沢城の城主佐野某に仕えていたが、後に辞して武蔵国に来り、埼玉郡長野村に住み、天正十九年(1592)に亡くなった。その子雅楽助の時、文禄二年(1594)に当所に移り、今の吉兵衛まで十代に及び、町の年寄役・問屋を務めたので、領主より苗字を唱える事を許された。古橋を氏とする。

褒善者三左衛門
  母に孝養を尽くすことで評判で、宝暦五年(1755)六月領主阿部豊後守が米20俵を与えた。

褒善者太郎右衛門
  父に孝を尽くしたので、安永九年(1780)八月領主阿部豊後守が銀3枚を与えた。

褒善者安次郎と妹てふ
  兄弟ともに父に孝養を尽くすことで評判で、天明四年(1784)十二月領主阿部豊後守が米20俵を与え、かつ二人の生涯にわたり月俸二口を与えたと云う。

旧家者与右衛門
  先祖を吉羽彦之丞といい、その子図書某は成田下総守氏長に仕えて、埼玉郡池守村に住んでいたが、成田氏が滅亡した後浪人となり、天正十九年(1591)の頃、当町へ移り、寛永十年(1633)に亡くなった。その子清左衛門から今の与右衛門まで、代々町年寄役を務めたので領主から苗字を許された。
  家譜・旧記などは伝えてないが、成田分限帳に吉羽図書の知行36貫文と載っているのに合致する。家に具足(鎧)一領と指物(鎧の背にさした小旗や飾り)を蔵する。指物は先祖彦之丞が使ったものと伝承されている。周囲が練絹になっており、絹に角縫いされている。長さ3尺5寸、幅2尺6寸5分。その図を示す。
  また行田町に成田家の家臣風間伊予守と同家臣三田加賀守の子孫という者がいる。成田分限帳に永楽50貫文風間伊予守、永楽300貫文三田加賀守定重と載っているので、これらはまさしく子孫で、同じ頃に商人になったのであろう。


第11冊-頁23  長野村
  長野村は忍城長野口の東側。江戸からの行程15里、庄名(忍庄)は行田町と同じ。調べてみると、東鑑に畠山重忠の弟で長野重清という人がでてくるが、当地の住人で地名を名字にしたのであろう。管領上杉の老臣に長野信濃守があり、また忍成田家の家臣に長野一孤斎がいた。これらは長野重清の子孫ではあるまいか。もしそうならば当地は古くから開けていた所である。
  民家280戸。少し町並みをなし、商家が軒を連ねる。東は若小玉村、南は埼玉・佐間の二村、西は行田町、北は谷之郷と小見の二村に隣接。東西10町、南北30町で、成田堰と小宮堰の用水を引いている。
  家康公御入国後に左中将忠吉卿の領地になったが、慶長五年(1600)に忠吉卿が所替えとなっても忍城付きの地として御城番が支配した。その後、寛永十年(1633)山岡十兵衛・有馬石見守・戸田久助・内藤半六・肥田十左衛門・会田小左衛門・石川八太夫・久世権之助等八人に賜り、正保の頃(1645~1648)も未だ八人の知行地であったが、その後、石川と久世の知行地は召し上げて大久保団四郎・松平下総守に替え賜った。元禄十年(1697)には幕府領となり、翌年阿部豊後守に賜い、現在も子孫鉄丸が領している。
  検地は慶長十三年(1608)大河内金兵衛が糺し、元禄十二年(1699)に領主阿部豊後守が再び改めた。
本田以外に、村の東に持添の新田がある。むかし埼玉沼という沼だったのを享保十三年(1728)埼玉・小針・若小玉・当村の民が願い上げて開発し、享保十六年(1731)筧(かけい)播磨守が検地して租米数を定めたが、洪水が多発して他村へも妨げとなったので、宝暦四年(1754)新田の中央に土手を築き、東側を新田、西側を元の沼とした。これは当村と若小玉村の持ち分として永銭を納めることで新田としている。ここは幕府領である。
高札場は村の西・北の間にある。

忍川: 村の西から南へ流れる。幅5間ばかり。埼玉村へ通じる土橋がある。聖天橋と呼ぶ。

小名(こな): 足軽町(忍城下に属す) 田端 馬場通 畑中 橋場 馬場 堀内 中斉 花ノ木 白山 流通

神明社
白山社*忍名所
稲荷社
長久寺*忍名所  久伊豆社
成就院
多福寺  愛宕社
林泉寺  天神社
玉蔵院  毘沙門堂
明王院
吉祥院


第11冊-頁24 佐間村
  佐間村は忍城佐間口の南にある。江戸よりの行程15里は前村(長野村)と同じ。家敷130戸。東は長野・埼玉の二村、南は樋上(ひのうえ)村、西は下忍・持田の両村に交り、北は忍城及び行田町である。東西23町、南北22町。成田用水を利用している。
  領主は忍城主の遷替(せんたい:移り変わり)と同じく、今は阿部鐵丸が領主である。検地は慶長(1596~1615)の頃に前村(長野村)と同じく糺した後、享保十四年(1729)に領主豊後守が改めた。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 足軽町(城下町に属す) 新組町(これも城下に属す) 平野 御蔵裏
新組前 新田 柳原

忍川: 村の北にあり、城内の沼より流れ出る。当村と足軽町の間を流れて長野村に達する。川幅6間。足軽町へ通う板橋がある。天神橋と称する。

天神社*忍名所  神明社 稲荷社 諏訪社 聖天社
清善寺*忍名所  観音堂 薬師堂 鐘楼 塔頭 太盛院 林昌院 
高源寺*忍名所 
妙音寺

正木丹波守屋敷跡
村の中程で、今の領主の米蔵と郷蔵が立っている辺りである。丹波守は成田下総守氏長に仕え、天正十八年(1600)忍城に立て籠もり、佐間口を守り、落城後当所に土着して死去した。


第11冊-頁25 下忍村
  下忍村は忍城下忍口の南にある。江戸への行程15里と水利(成田用水)は前村(佐間村)と同じ。下と区別して呼ぶのは忍城に対して云うことである。東鏡に忍三郎・忍五郎・忍小太郎・忍入道などの名があるが、これらは当所の住人で在名を氏としたので、忍は古い地名であることが分かる。又成田分限帳に25貫文の下忍主殿なるものがあり、これも当所の在名を名乗っているのだろう。
  家敷140戸。東は袋・樋上の二村に相接し、南は足立郡前砂村で、元荒川を境としている。西は鎌塚・持田の両村に添い、北も持田村である。広さは東西6町、南北25町余。
  領主の遷替は前村(佐間村)に同じく、忠吉卿が領知の頃は家人小笠原半右衛門の給地だったことが、上中条村常光院に蔵する古い書付に見える。検地も慶長(1596~1615)の頃に前村(佐間村)と同じく改めた。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 
袋町 城下町に属す。 
津ノ戸 南の方で、昔津戸三郎が住んでいた所と伝わるが、この説は受け難い。多摩郡上保谷村に三郎為守の城蹟がある。
清水 村民が私的に清水村とも唱える。成田分限帳20貫文清水土佐、20貫文同助十郎、51貫文清水伊勢助、30貫文清水内匠が載っている。これらの人が当所に住んで在名を氏に唱えている。又上中条村常光院は、昔聖天院と号し当所に在ったのを、文禄三年(1595)に彼地へ移転した。天正十八年(1590)太閤秀吉より同寺へ出した制札には、武蔵国忍之内清水正伝院と見える。これらからも古い地名であることには間違いない。
大徳寺 寺蹟であるが詳しい伝えがない。
高畑 新屋敷 四ッ谷 前原 ぞう殿

元荒川: 村の南境を流れる。川幅十五間。

久伊豆社  天神社 愛宕社
薬師堂*忍名所   仁王門 鐘楼 弁天社 大日堂 地蔵堂 別当遍照院 
大毘羅権現社
観音寺   東福坊 青蓮寺 東之坊 中之坊 西之坊 千手院 
明光寺   弥陀堂 
寶養寺   観音堂 
中村寺


第11冊-頁26 持田村
  持田村は忍城持田口の西にある。江戸への行程15里と用水(成田用水=忍川の上流)は前村(下忍村)と同じ。亀甲庄と呼ぶ。持田はもともと当て字で、昔は糯田(もちだ)と書いていた。由良氏(太田金山城主)文書の頼朝が新田上西入道へ出した下文の中に、
  『埼西郡の糯田の住人らヘ下す 
  定補の郷司・職事(しきじ)は
  新田入道殿にやるものとする
  新田上西入道を、その職 仁を為して郷の仕事を遂行すべし。
  すなわち住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない。
  治承五年(1181)十一月  源朝臣 判 』

また岩松文書には、文永三年(1266)岩松家本領地の注文(注進の文書)武蔵の所に糯田郷と載せ、及び応永十一年(1404)岩松右京大夫の所領の注文にも同郷を出してあるので、新田家より岩松へ受け継がれたものと見られる。
  持田と書き改めたのも古いことで、持田氏の系譜に持田左馬助忠久は武蔵の生まれで、深谷の上杉則盛に仕えていた。その子右馬助忠吉も上杉に仕えていたが、上杉の没落後、菅沼小大膳に仕えていたと見られる。この人は当所の生れで在名を氏に唱えたものだろう。また成田分限帳には、持田右馬助永楽銭五貫文、持田長門永楽銭51貫文と載っている。これらも忠久の一族である。
  屋敷は156戸あり。東は下忍村、南は鎌塚村と大里郡佐谷田村、西は大井・小鋪田・戸出の3村、北は皿尾・中里・上之村である。広さは東西32町、南北23町。大村なので、村内を私的に上中下の三組の分けて運営していたといわれる。
  東南の方に、小名(こな)前谷と呼ぶ所がある。少し昔に開墾した新田で、本村のほかに民家40戸程が集って住んでいる。故に地元の人はここを前谷村と云う。
  当村も家康公ご入国の後、忍城付きの村となり、今は阿部鉄丸の領地である。検地は前村(下忍村)と同年(慶長の頃)に伊奈備前守が糺した。
高札場は三ヶ所にある。

小名(こな): 足軽町(城下町に属す) 山鳥(これも同じ) 大宮(忍城大宮口の門外) 前谷(前述) 須ヶ谷(菅谷) 宿通り 新宿 新屋敷 堀之内 新堀 南條 駒形 古荒

米蔵: 領主が建て置いたもの

久伊豆社  別当峯雲寺 
剣宮*忍名所 
天神社 諏訪社 八幡社 大天獏社 天神社二棟
正覚寺*忍名所  什宝(釈迦像、「天神明號」の掛軸、お守り筒、開山明誉の木造)
鐘楼 稲荷浅間合社(忠吉卿の御子梅貞童子のお墓がある)
林正寺  観音堂
長福寺*忍名所
賽蔵寺
吉祥寺
正福寺
常慶院*忍名所
阿弥陀寺*忍名所  熊野社
専勝寺*忍名所
観音寺
光明寺*忍名所
清眼寺  観音堂 秋葉社 弁天社


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