2012年2月9日木曜日

上川上村、下川上村、大塚村、犬塚村、中江袋村、馬見塚村、斎条村(巻之218 埼玉郡之20 忍領)

第11冊-頁63 上川上村
  上川上村は江戸からの行程16里、太田庄に属す。東は大塚・下川上の二村、南は上之村、西から北は上中条村である。広さは東西13町、南北6町ばかり。民戸80戸。村内に僅かの溜井を作って用水にしている。下川上・上中条・南河原・大塚・中江袋などの村々もこの溜井を引いて用水にしている。
  当村はむかし川上三郎が住んでいたと伝えられる。三郎は「保元物語」に載っている武蔵の人である。その後、山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。
  調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦(武州上杉氏と古河公方の戦い?)で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。詳しくは幡羅郡八ツ口村長昌寺の条に述べる。
  この村は慶長の頃(1596~1615)幕府領であったが、寛永年中(1624~1645)に南條金左衛門・深尾五郎右衛門・伴五兵衛・斎藤久右衛門・小栗勘八郎などの知行地に賜い、元禄十一年(1698)になって阿部豊後守の領地となり、享保十九年(1734)には又幕府領に戻り、明和七年(1770)に松平大和守の領地になった。検地は前村と同じく、慶長改めの後、享保十八年(1733)領主豊後守が新田の地を改めた。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 天神河原 十二所 東曲輪 宿

星川: 村の南を屈曲して流れる。川幅4間。

熊野社  末社 八幡 若宮 稲荷 荒神 
稲荷社
天神社
医王寺  薬師堂
観音堂  地蔵堂


第11冊-頁64 下川上村
  下川上村は江戸への行程16里で上川上村と同じ。忍庄と唱える。民戸90戸余り。広さは東西・南北とも10町ばかり。南は上池守・上池上の二村、西は上川上と上之村、南は南河原村である。
  家康公御入国の後は幕府領であったが、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸の領地である。検地は前村(上川上村)と同じく、慶長改めの後、延亨二年(1745)豊後守が再び糺した。
高札場は村の南境に立つ。

小名(こな): 鶴木宮 土器町 市海道 桜島 柳原 仏具免 縄子田 江戸町 中町
南えこせ 北えこせ 絶覚寺

星川: 南方を流れる。川幅6~7間。この川に土橋が架る。長さ10間。

三島明神社
牛頭天王社
弁天社
浄泉寺*忍名所  門 四天門 開山堂 衆寮 鐘楼 弁天社 天神社 秋葉社 熊野社
宝乗院 金毘羅社
弥勒院
愛染堂*忍名所


第11冊-頁65 大塚村
  大塚村は江戸への行程16里で下川上村と同じ。村の広さは東西10町余り、南北8~9町ばかり。民戸26戸。東は南河原村、南は馬見塚・中江袋・下川上の三村で、西は上川上村、北は上中条村である。当所も寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜り、暫く領して宝永七年(1710)一族の阿部讃岐守へ分地したが、享保十九年(1734)に阿部帯刀が本家を相続してまた元に戻り、今は子孫鉄丸の領地である。検地は安永四年(1775)に領主が糺した。
高札場は東境にある。

小名(こな): 前谷 大釜 新堀

龍昌寺
熊野社
観聚院  観音堂

旧家者五郎左衛門
  大塚村の庄屋を務める。先祖松岡豊前守勝政は成田家譜代の侍で、1,000貫文で処遇されていた。天正十八年(1590)に忍城が落城した後に大塚村に住んでから子孫が連綿と続いて今に至る。勝政の名は成田分限帳には長達と載っている。改名したのであろう。


第11冊-頁65 犬塚村
  犬塚村は江戸からの行程16里。民戸77戸。東は斎条村、南は和田・馬見塚の二村、西は南河原村、北は酒巻村に隣接している。広さは東西11町、南北14町。北河原用水を引き用いる。
  家康公御入国後、当村は松平主殿頭家忠に賜った。「家忠日記」の天正十九年(1591)六月六日の条に943石3斗1升、犬塚村と西新井村を賜った事を載せている。この西新井村とは当時は別村だったが、今は当村に含まれ小名(こな)にある。正保の頃(1645~1648)は幕府領のほかに、阿部豊後守・伊藤長五郎・丸山市太夫・矢頭金左衛門・高林太郎兵衛・漆戸八兵衛・成瀬九兵衛・山田長右衛門らの領地であった。
  「寛永譜」を調べてみると、矢頭金左衛門重次が元和十九年(1633)武州忍の領内に知行地を賜うとあるのは当村のことである。豊後守に賜ったのは近村と同じく寛永十六年(1639)であろう。その他の賜った年は不明。そのあと元禄十三年(1700)になり、伊藤以下の小さな地を合わせて阿部豊後守に賜って、今は子孫鉄丸が領する。
高札場は村の中程にある。

小名(こな): 西新井 五段町 柳町 中間町 古川町

星川: 村の南を流れる。当所で上流の村々の悪水がこの川に合流し、川幅も他村より広く、60間に及ぶ。

蔵王権現社
稲荷社二宇
十二天宮
愛宕社
雷電社


第11冊-頁66 中江袋村
  中江袋村は江戸からの行程16里。民家29戸。東は馬見塚村、西は下川上村、南は池守村、北は南河原村に隣接している。広さは東西3町、南北10町余り。用水は上川上村の溜井から引いている。
  当村は家康公御入国後から寛文の頃(1661~1673)まで幕府領であったが、元禄の初めに中山利右衛門の領地となり、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸まで続いている。検地は明暦二年(1656)曽根五郎左衛門が糺した。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 掃除町 瓦町 後町 小堰元

星川: 村の南を流れる。川幅13間~17間。

剣明神社 弁天
第六天社
稲荷社
長徳寺  二十五菩薩堂 天神社 金毘羅社


第11冊-頁66 馬見塚村
  馬見塚村は太田庄に属す。江戸からの行程16里。民戸65戸。村内の東の方に御堂塚と呼ぶ小塚がある。この辺りに昔馬市がたち、この塚の上に登って馬の良し悪しを見分けたので、いつとなく村名になったという。「成田分限帳」に永21貫文馬見塚三河と載っているが、この人は当村に住み在名を氏としたのであろう。
  村の広さは東西11町、南北7町ばかり。東は犬塚村、南は和田・中池守・下池守の3村、西は中江袋村、北は犬塚村と中江袋村である。北河原用水を引いて水田に注いでいる。
当村は寛永・正保の頃は御手洗伝左衛門・酒井七郎右衛門・山田長右衛門・森川三右衛門らの知行地であった。その後、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領している。
高札場は二ヶ所ある。村の東と村の西。

小名(こな): 高田町 上萎田町 中萎田町 西神際町 東神際町 吉際町 一本木町

星川: 村の南。川幅13間~18間。この川に土橋が架かる。長さ10間。

久伊豆社
神明社
稲荷社
諏訪社
西善院
天神社 稲荷社 薬師堂


第11冊-頁67  斎条村
  斎条村は江戸への行程16里は前村(馬見塚村)と同じ。民戸128戸。成田分限帳に「永20貫文斎条伊賀」と載っているが、これは当村の人である。東は荒木村、南は白川戸村、西は犬塚・馬見塚の2村で、北は酒巻・下中条の二村と隣接する。広さは東西18町、南北17町ばかり。用水は星川の水を引いて田に注いでいる。
  当村は正保の頃(1644~1648)は阿部豊後守・大久保平四郎・須田義左衛門・鵜殿大學らの領地であった。義左衛門に賜ったのは寛永十年(1633)だが、他の賜った年は不明。その後、元禄十一年(1699)に合わせて豊後守に賜ってから今も子孫鉄丸が領している。
高札場は南東の方にある。

小名(こな): 北戸 中江崎 台

星川: 村の南方を流れる。川幅は12間、広い所は35間ある。

斎条堰: 当村で星川の水を溜めておき、扖樋(いりひ・水を引き入れる水門の樋)を設けて、水を引入れ、(斎条という村名をつけた)一條の流れをなし、当村と下流13ヶ村の用水となる。これを齋條堰用水という。扖樋の長さ8間、内寸5尺4寸。

剣社
浅間社
諏訪社
八幡社
天神社
弁天社
雷電社
矢矯明神社
熊野神社
宝泉寺  薬師堂
多聞院


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