第11冊-頁28 皿尾村
皿尾村は忍城皿尾口の北にある。太田の庄という。江戸よりの行程15里は前村(持田村)と同じ。屋敷は29戸。東は谷之郷、南は忍城と持田村、西は中里村、北は上中下の池守村である。広さは東西も南北も11町余りの村で、小宮堰の水を用水としている。
当村も昔より忍城付きの地で、今は阿部鉄丸の領地である。検地は延享三年(1746)の改定と伝わっているが、近郷と同じく慶長十三年(1608)にも改めがあったであろう。ここより忍城の後背を望む様子をここに載せる。
高札場は村の北東の方にある。
小名(こな):
外張 村の北西にある。成田下総守が忍にいる頃、外張は城内に属した土地であった。今はすべて陸田となっているので、城内だったとは見当もつかない。調べてみると、永禄四年上杉輝虎(後に謙信)が皿尾城を築き水戸監物入道玄斎を置いてこれを守らせた。しかし玄斎は成田下総守に心を通じ上杉に背いたので、輝虎は怒ってその城を焼き払ったことが、北越軍記や松隣夜話などに載っている。今の村内は格別に城跡と思われる所が無いので、おそらくは当初の事であって忍城内に属するとは、伝えの誤りだろう。
駒形、 小在家、 堂前
久伊豆雷電合社*忍名所
八幡社
神明社
天神社
駒形明神社
高太寺 薬師堂
泉蔵院*忍名所
阿弥陀堂
第11冊-頁30 谷之郷
谷之郷は忍城北谷口の北にあり、太田庄、あるいは忍庄ともいう。江戸からの行程15里は前村(皿尾村)と同じ。昔の谷之郷は広い土地で、今の忍城・郭内や城下町辺りも当村に関わる所が多くあった。正保(1645~1648)の改めでは谷村となっている。いま谷之郷と書くが、読みはやごうと云う。
男衾郡本田村教念寺の寄附状に、康暦元年(1379)一〇月一日 彦次郎貞康の陳述で、「やのごうの内、彦四郎名の田2町2反を寄進してお渡しした所」と載っているのは当所のことである。このことより昔から「やのごう」とも「やごう」とも呼んでいたと思われる。
家数120戸。東は長野村、西は皿尾・上中下池守の四村で、北は和田村と白川戸村、南は忍城と城下町と隣接する。広さは東西13町、南北20町。前掲した康暦元年の文書によれば当時は、村内に教念寺の領地もあったことが分る。
家康公御打入の後は忍城付きの地として、領主が遷替し、現在は阿部鉄丸が領している。検地は慶長十九年(1614)大河内金兵衛が改めた。
高札場は村の東北の方にある。
小名(こな): 足軽町(忍城の外郭の中) 二ツ家 堀ノ内 小橋 上ノ谷 飯倉
春日社*忍名所 別当山定院
神明社
宝積寺 八幡社 薬師堂
明王院*忍名所
白山社
第11冊-頁30 白川戸村
江戸から16里の行程。調べてみると、成田の家臣に白川戸隼人という人がおり、当地の住人で地名を氏にしたと思われるので、古くから開けていた土地である。村の広さは東西8町、南北4町。東は荒木村、西は和田村、南は小見村、北は斎条村に隣接する。
正保年中(1645~1648)は永井勘九郎・匹田喜右衛門の知行地だったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜り、現在は子孫鉄丸が領している。誰がいつ検地したか不明。
高札場は村の南東の方にある。
星川: 村の北方を流れる。川幅12間。この川に長さ12間の土橋が架る。
小名(こな): 江崎 押切 新田
御所明神社
西明寺 薬師堂 文殊堂
第11冊-頁31 小見村
江戸から16里半の行程で、太田庄あるいは亀之庄と称する。土着の人によると、当地はむかし小見信濃守登吉の領地だったので後に村の名にしたという。この登吉は成田の家臣で100貫文を得ていたことが成田分限帳に載っている。逆にこの人が小見に住んでいて地名を氏にしたのかもしれない。成田記には小見源左衛門・小見源蔵という名もある。これらも小見信濃守登吉の一族であろう。
民家80戸。東は若小玉村、南は長野村、西は白川戸村、北は荒木村に隣接。村の広さは東西12町、南北も12町。斎条堰の水を用水とする。
家康公御入国後、当村は忍城付きの村だったが、寛永十年(1633)六月十八日岡部丹波守・内藤半六郎・岡田主馬の三人の知行地となり、その後元禄十一年(1698)今の阿部鉄丸の家に賜った。検地は元禄十三年(1700)伊奈備前守が改めた。
高札場は村の西の方にある。
星川: 村の北を流れる。川幅14間。棒川橋と呼ぶ土橋が架る。
小名(こな): 辻前通り 宿通り
久伊豆社
諏訪社
天神社
真観寺*忍名所 観音堂 籠堂 釈迦堂 弁天堂 仁王門
嶺雲寺
専蔵院
蓮華寺跡
第11冊-頁32 若小玉村
江戸から16里半の行程、太田庄あるいは亀之庄と称し、検地は元禄十三年(1700)伊奈備前守の改めで、いずれも前村(小見村)に同じ。
古に若児玉小次郎という人が住んでいた地で、その頃は地名も若児玉だったが、後に若子玉と書き、更に今の若小玉になったと云う。調べてみると、[東鑑]の嘉禎四年(1238)二月二十三日、「将軍供奉到着交名」のなかに若児玉小次郎と書かれているが、これは土着の人が云う小次郎であろう。また建長二年(1250)三月閑院殿造営のなかに若児玉次郎とあり、これもその一族であろう。現在、村内の小名(こな)鞘戸は小次郎の屋敷跡であり、中古(しばらく前)まで屋敷鎮守の祠があり、奥の宮と称していたと伝えられる。しかし今は全て陸田となって祠も無い。
民戸130戸。東は小針村、南は長野村、西は長野・小見の二村、北は星川を隔てて下須戸村に隣接する。東西13町、南北11町。斎条堰から水を引いて水田を耕している。
家康公御打入の後は忍城付きの土地であったが、寛永九年(1632)加藤清兵衛・浅井次右衛門の知行地となり、浅井の知行地は寛文十年(1670)に召し上げられ、加藤の知行地も元禄十年(1697)から幕府領となった。寛文十年(1670)酒井河内守が検地した。寛文十一年(1671)二月全て阿部豊後守に賜り、現在は子孫鉄丸が領する。
村の南東に持添の新田があり。これを埼玉沼新田という。今は悪水溜井の沼となり、永銭を納めている。ここの検地などについて長野村の条で述べた。明和六年(1769)松平大和守に賜り、今も変わらない。
高札場は西にある。
小名(こな): 枳(からたち・むかし枳権現という社があった地) 十輪寺(あるいはしなび山という。ここに住む農民徳右衛門の屋敷に、広さ3畝、高さ1丈ほどの塚があり、竹林が鬱蒼しているが、此の竹は芽がでた当初は普通の筍だが、次第に節間にしぼ(しわのような凹凸)ができて奇異なので、小名(こな)をもこう呼ぶと云う)大竹 六本木 勝呂 さやと 中村 八段田 鞘戸耕地
星川: 北の境を流れる。川幅14間。
勝呂明神社
聖天社
八幡社
愛宕社
榛名社
稲荷社
諏訪社
天神社
天王社
遍性寺 弁天社
龍泉寺 薬師堂
地蔵堂
褒善者又六
農民又左衛門の祖父である。父母に孝を尽くしたので、宝暦十三年(1763)領主阿部豊後守が米20俵を与えた。
第11冊-頁33 小針村
江戸からの行程16里、太田庄に属する。民戸170戸。東は赤城村、南は埼玉村、西は若小玉村、北は下須戸・藤間・真名板・関根の四村に隣接。村の広さは東西1里余り、南北5町余り。斎条堰の水を用水とする。
当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領する。本村の南に持添の新田がある。埼玉沼を干拓した地である。この事は埼玉村の条で述べた。
高札場は村の中程にある。
星川: 村の北を流れる。川幅16間。
忍川: 南方を流れ、赤城村と北根村の境で星川と合流する。川幅16間ほど。
蔵王権現社
神仙寺 薬師堂
大福寺 大日堂
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