2012年2月9日木曜日

埼玉村、堤根村、樋上村、鎌塚村、袋村(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁33 埼玉村
  埼玉村は江戸よりの行程は16里で前村(小針村)と同じ。一の庄に属す。
「和名抄」に載っている郡、郷とも左以多萬と書いてある。地元の人は郡名をさい玉と云い、村名をさき玉と云って読み方を分けている。但し村名をさき玉と云えば埼玉の郷があった地で、郡名の由来の郷である。総説の条でも述べた通りである。
「北越軍記」に永禄五年(1563)六月、北条方より埼玉行田へ出張り云々と書いてあるので、昔この辺は北条家の陣地となってしばしば戦さがあった地と分る。
民家250戸。東は赤城村、西は佐間村、南は渡柳村、北は長野・小針の2村である。広さは東西29町、南北16町。用水は成田堰(忍川)から汲んでいる。
  この村は古くから忍城に属する村で、寛永 (1624~1645) の頃に阿部氏が賜り、延寶八年(1680)に検地があり、子孫鉄丸に至っている。
  この地は大根の名品があり、毎年殿様に献上している。本村の北東に埼玉沼がある。縦十町余り・横十六町程の沼だったが、享保十三年(1729) に伊澤彌惣兵衛が命を受け、当村と長野・若小玉・小針を合わせて四村の農民を使って開発し、四村の持添の新田となった。同十六年(1732)七月には筧播磨守が検地して村の石高となったが、水害が度々起きたので賽暦年中(1751~1764)に新田の真ん中に南北を貫く堤を築き、堤の西側は元のような沼に戻し、長野・若小玉二村の持分とした。東側は今も当村と小針村が所有する新田である。ここは松平大和守の領地である。
高札場は南西の方にある。

小名(こな): 
丸墓 西行寺の境内に丸墓山があるので小名になったのであろう。 若王子 番場 百塚関場 小林浦 藤山 八王子 御下屋敷

将軍山: 高さ三間ほど。将軍塚とも言う。その由来は伝わってない。

御風呂山(鉄砲山古墳): 高さ5間ほど。当村の名が古くから知られていたので、もしやこれ等は国造(くにのみやっこ)や縣主(あがたぬし)などの墳墓ではないかと地元の人は云う。しかし大変古いことなので、そうなのか、それともその後の人の塚なのかは分らない。

忍川: 村の北を流れる。川幅14~15間。この川に長さ12間の土橋が架かる。

埼玉沼(小崎沼を附する): 村の北にある。古は小崎沼とか埼玉津と云って、「万葉集」にも歌われ、当国の名所である。しかしこれは大昔のことで、地形も大きく変わったかもしれず、なんのかのと論じ難いので、とりあえず今の形を述べる。
  埼玉沼は最近まで、ことのほか広かったが、享保(1716~1736)の頃に干拓して一旦皆水田となった。宝暦十二年(1763)にはその半分を元のように沼とした。今の埼玉沼はこれである。広さは東西34町、南北6町あり、この辺の十六村の悪水溜井となっている。
  埼玉津と云ったのは、昔入り江があった頃のことなので、津の所在は分らない。今の利根川の内だろうという説がある。そういうこともあるのではないか。今の会川は、古くは利根川から上新郷と上川俣との間で分れて、埼玉郡内を流れていた。この会川の辺りには古歌に詠んだ古江浦・岩瀬などがある。所々に遺名(昔の名残を示す地名)と思われる地もあるので、あちこちの場所が当時船の集まった所と分る。
  ところが、今地元の人によれば、小崎沼のあたりが埼玉津の旧跡であると云う。埼玉沼より二町ほど南の方で、長さ3間幅1間ほどの小さな池である。
武蔵の小埼沼の鴨を見て作った歌に
「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に降り 置ける霜を掃うとならし」
また武蔵国の歌に
「埼玉の 津におる舟の 風をいたみ 綱はたゆとも ことな絶へそね」
とある。
  小崎沼だという池の周りは皆畑で、南側に僅かに芝が生えて小高いところがある。その上に宝暦三年(1754)九月、忍城主阿部正因(あべまさより)が建てた碑があり、この二首の歌を記している。地元の人の話では、古はこの沼は埼玉沼とつながる入り江だったが、年の経つにつれて徐々に埋もれ、今はこの形だけ残っているという。
  調べてみると、村名から埼玉津の旧跡であると云う説もありえるが、古歌に埼玉の小崎とか埼玉の津などと読む場合は、あながち当所だけ埼玉と云うことではない。とにかく津の所在について、長い年月の後には何が正しいか分るだろう。「紫一本(むらさきのひともと・江戸の名所旧跡探訪記)」には埼玉津は足立郡見沼池あたりと云う。「武蔵名所考」にも埼玉津はこの説を踏襲して、小崎沼は岩槻城下尾ヶ崎村だと云う。これらはみな憶測なので取り上げ難い。今調べてみると埼玉郡羽生の町場の隣に尾埼村があるが、その辺は多くは沼田なので、小崎沼の旧跡のように思われる。しかしながら前述のようにその事実は分らない。

浅間社*忍名所  地蔵堂 諏訪社 武塔天神社 稲荷社 秋葉社 曽根天神社 
盛徳寺*忍名所  
長永寺 
普門寺  地蔵堂  
長久寺   
西行寺*忍名所  丸墓山    
安楽寺  観音堂
龍穏寺  愛宕社 地蔵堂    

鎌田氏の居蹟: 村の北に鎌田五郎左衛門の屋敷蹟がある。この人は成田氏の家臣だと云うが成田分限帳には載っていない。別に永20貫文鎌田修理という人が載っている。これ等は同じ人であろう。

須賀氏の居蹟: 村の南に須賀修理太夫屋敷蹟がある。今は陸田となっており、字御下屋敷と呼ぶ。須賀氏のことは郡内の須賀村の条を併せて見ること。

若王子塚: 村の東にある。盛徳寺の持分である。大きさは幅五間程、高さ二丈余り。
住民の伝えによると、最近まで塚の上に若王子の社があったとのことで、古の国守の王子の墳墓なのでこう呼ぶと云う。その様子から古人の墳墓なることは疑いない。塚の中段に少し欠け崩れた穴がある。そこから内部を見ると、四方を厚さ五六寸の岩で積み上げ、厚さ一尺余りの岩を蓋とした石棺のように見える。外側に何箇所か岩が剥きでた所があり、そこを踏むと内部が空洞のようなので石棺の中は広いことが分る。

第11冊-頁37 堤根村 堤根新田
   堤根村・堤根新田の二村は現在郷庄の呼び名が無い。慶長十三年(1608)の水帳には、向いの箕田郷の内、忍領堤根村と載せてある。この郷名は隣郡の足立郡の村々で多く称えられ、当村も古くは足立郡に属していたと思われる。
  江戸より15里。村内の西方に古堤があり、袋村より起り樋上村に続いている。この堤は天正十八年(1590)に石田三成が忍城を水攻めにしようと、久下堤を切って荒川の水を堰入れした時に新たに築いたと云う。後この堤の下に村落が出来たので、ただちに村名とした。
  当村は正保の改には樋上村と合併して一村とし、樋上堤根村と載せ、元禄の改にはこれを分ち、外に堤根新田を置き、合計3村とした。それ故本村及び新田の境界は詳しく分ちがたく、その大略を云えば、東は渡柳村、南は袋新田、西は下忍村、北は樋上村である。広さは東西5町、南北18町。民戸68戸。成田用水を引いて使っている。検地は慶長十三年(1608)の改である。領主の遷替は前村(埼玉村)に同じく、今は阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。

小名(こな) 荻原 上新田 本村 野新田

稲荷社二宇
永徳寺 歓喜天社 地蔵堂


第11冊-頁37 樋上村
  樋上村は前村(堤根村)で説明したように、正保の頃は堤根村と一村であったが、元禄の改めに分けて二村とした。そのため領主の遷替、検地の年代、用水等すべて堤根村と同じである。四境は東が堤根と渡柳の二村に接し、南が堤根村、西が下忍村、北が佐間村である。広さは東西3町、南北8町余。民戸29戸。村内にも前村{堤根村}から続く堤がある。
高札場は村の南にある。

小名(こな): 青柳 蒲原

天神社
宝珠院  観音堂


第11冊-頁38 鎌塚村
  鎌塚村は江戸より14里、民戸88戸である。東は下忍村、南は元荒川を境に足立郡吹上村、西は大井村、北は持田村である。広さは東西15町、南北2町。ここも成田用水を利用している。
  男衾郡(おぶすまぐん)本多村教念寺の康安(こうあん:1361~1362)の寄附状に武蔵国崎西郡鎌塚郷の矢野加賀小次郎・同又五郎が知行跡半分之事(地)所の寄附の状があり、この状に康安二年(1362)六月六日、左兵衛督源朝臣と記載されている。この鎌塚は当所の事で、昔矢野氏の所領であったのをこの年に教念寺へ寄附した。
  家康公御入国後の領主の詳細は分からない。正保(1645~1648)の頃は幕府領のほかは三浦忠太郎の知行地であったが、いつの頃か召しあげられ、貞享・元禄の頃は、小林平右衛門・大岡七郎右衛門・赤井平右衛門等の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜わり、今は子孫の鐵丸の領地である。
高札場は村の東にある。

小名(こな): 大福寺(寺蹟である。天正年中に廃寺となったが、その詳しい事は分からない。) 東通り 八町河原

元荒川: 村の南を流れる。川幅十二、三間。

八幡社
自昌寺 薬師堂 
西勝寺 
寶積院 
寶蔵院 


第11冊-頁38 袋村
  袋村は江戸への行程16里、民戸50戸余である。東は堤根新田、野村、及び元荒川を隔て足立郡川面村、南も足立郡三ツ木・前砂の二村、西も前砂村、北は埼玉郡下忍・堤根の二村である。広さは東西9町、南北10町。ここも成田用水を利用している。
  家康公御入国後より幕府領となり、寛永十六年(1639)に村を分けて阿部豊後守に賜った。元禄年中(1688~1704)は幕府領の他に林大学頭・会田小左衛門、及び阿部豊後守等の知行地となったが、後に一円を豊後守に賜わり、今は子孫の鐵丸の領地である。
  検地は元禄十年(1698)十二月に酒井河内守が幕府領の地を糺し、後享保六年(1721)・同二十年(1735)の二度、時の領主阿部豊後守が若干の新田地を検地した。
高札場は村の西にある。

小名(こな): 寄居耕地(ここに天正十八年(1590)忍城水攻めの時築いた古堤がある。) 本村 台耕地 大神袋耕地

元荒川: 南東を流れる。幅16間。土橋があり、長さは8間である。ここを渡ると足立郡川面村である。この為川面橋と云う。

女禮社 
諏訪社 
稲荷社 
雷電社 
天神社
西福寺 阿弥陀堂


0 件のコメント:

コメントを投稿