2012年2月9日木曜日

忍城(巻之216 埼玉郡之18 忍領)

第11冊-頁17 忍城
  忍城は埼玉郡の西部にあり、平城で東側が正面、西側が裏面を向いている。本丸・二丸・三丸、及び内曲輪・外曲輪、櫓・濠と城門12を備える。本城・外曲輪とも池・沼や深田が守りの固めとなって防備がよく、関東七名城の一つである。
  外曲輪の門は、長野口・北谷口・皿尾口・持田口・大宮口・下忍口・佐間口の7つあり、外側は全て田畑となっており、城下は曲輪の内にある。又、東南の佐間口辺りから東北の北谷口にかけて忍川を引き入れ、自ずから堀を構えている。曲輪の周囲は凡そ2里半。広さは推して知るべし。
  [東鑑]に忍三郎・忍五郎・忍小太郎・忍入道などが載っているが、これらの人々は在地を名にしたもので此処に住んでいたのは間違いない。しかしこの頃は城塁があったと思えない。[小田原記]と[関東古戦録]を合わせて考えると、成田下総守親泰入道宗蓮が児玉武蔵大掾(たいえん)重行を欺き殺して所領を奪い忍城を築いたという。重行を忍大丞(たいじょう)ともいう。
   [成田系譜]によれば、成田が忍の城主となったのは文明年中(1469~1487)である。また宗祇法師が[東路土産]に載せている武州成田下総守顕泰の屋敷での歌と説明文は
「あし鴨の 汀(みぎわ=水際)は雁の 常世かな」  宗祇
まさに水郷である。館の周囲は幾重にも沼があり蘆(あし)が霜枯れ、34町四方に多くの水鳥や鴨が見え渡っていたと云う。また連歌会などもあった。宗祇が此処へ来た年月ははっきりしないが、文明の頃と云われている。この記[東路土産]に云う顕泰は親泰の父である。しかし説明文の様子は忍城の地形によく合うので、この頃すでに成田氏が此処に移っていたのではないか。
  一説に云う永正年中(1504~1520)に成田氏が此の地に移ったというのは誤りである。これより前に既に城塁があり、その頃に成田氏が修理したのであろう。当時の関東は上杉管領の支配下にあり、成田氏もその旗下に属していた。親泰が亡くなり、その子下総守長泰が城主であった時の事である。永禄四年(1561)三月に新管領上杉景虎が鶴岡八幡宮へ社参した時に長泰は総門にいたが、管領に対し作法無礼であると景虎が怒り、扇で長泰の首を打ち烏帽子を打ち落した。長泰は無念に思い、その後は上杉に背いて小田原北条家の旗下に属し、親泰の孫の下総守氏長まで3代にわたり当忍城に住んでいた。
  天正十八年(1590)太閤秀吉が小田原城を攻めた時、成田氏長と弟左衛門尉泰親は小田原方の加勢に加わり、当城には留守として成田肥前守泰季を置いていた。行田口に島田出羽守・坂本将監・福田治部右衛門・吉野源太左衛門・同源三・同源七、歩兵を合わせて500人だった。また本庄越前守がこの行田口を守っていたという説もある。長野口には柴崎和泉守・同新四郎・三田加賀守・同次郎兵衛・鎌田次郎左衛門・成沢庄五郎・秋山惣右衛門ら300人。北谷口を守るのは栗原十郎兵衛・藤井大学・横田一学・沼野兵庫・江口主水、雑兵を合わせて250人。皿尾口は篠塚山城守・安藤次郎左衛門・宮原左近・長瀬與三郎・松橋内匠、軽卆を合わせて250人。またこの皿尾口を固めた家人は松岡豊前守・山田河内守だったという説もある。持田口に籠る城兵は、長監(ながてる)因幡・松木織部・長瀬新八・黒新八ら175人。一説に持田口は成田土佐・田山又十郎だったともいう。大宮口は、斎藤右馬助・佐藤弥一郎・門井主水・平賀又四郎・布施田弥兵衛・松岡十兵衛・小寺右馬介らの手勢230人。忍口を守る家人は、酒巻靱負(ゆぎえ)・手島采女・青木兵部・矢沢玄蕃・桜井藤十郎・堀勘五郎ら670人。佐間口を固める家人は、正木丹波守・福島主水・内田三郎兵衛・同源内・桜井文右衛門、軽率を合わせて430人。その他は、栗原摂津守・笹沼十郎・山田又兵衛・加藤五郎兵衛・吉野織部・中村主水・大四郎左衛門・鈴木弾正・佐藤某・村野市左衛門・伴近林・加藤隼人・中村藤十郎・吉羽彦之丞・同兵衛・米原織部などが遊軍となって各口を見回る。城兵は総勢2,000人余りで敵を待ちかまえていた。
  寄せ手は石田治部少輔三成が大将として、城の東方半里にある渡柳村に本陣を構え、小塚を多く造って城へ攻め寄せた。副将は伊藤丹後守重実・鈴木孫三郎重朝と降人(こうにん・降参した人)の北条左衛門太夫氏勝と佐野・足利の兵を合わせて7,000人余りが下忍口・大宮口を攻めた。佐間口へは長束大蔵少輔正家・遠見甲斐守時之・中村式部少輔氏種と羽生・関宿の降人を合わせて4,600人が埼玉村に陣を敷いた。長野口・北谷口への寄せ手は、大谷形部少輔吉隆・松浦安太夫宗清・堀田図書介勝吉と木柄(館林城、鹿沼城?)の降人を合わせて6,000人余り。皿尾口への寄せ手は、中郷式部少輔有能・野々村伊予守雅春と古河・鹿沼の降人を合わせて5,000人余り。持田口だけは戦略的に兵を配備しなかった。寄せ手は合わせて26,000人、城兵は僅かに2,460人余りに過ぎなかったが、元来要害堅固なので寄せ手は攻めあぐんでいた。
  その時に三成は「城の地が低いので水攻めにする」と命令した。本陣から南西の方向にある樋上村・堤根村に新しく土手を作り、袋・鎌塚・太井の三村にかかる古い土手(自然堤防)に繋いで、六月十一日に完成した。南は荒川を堰入れ、北は中条から利根川の水を注ぎ入れて水攻めを行った。六月十六日には外曲輪は殆ど水没したが本丸は未だ恙(つつが)無く、徒らに日数が過ぎた。そのうち案に相違して袋と堤根の間で土手が崩れて、逆に石田方の通路が途絶えてしまい、寄せ手は非常に危なくなった。そこへ加勢として浅野弾正少弼(しょうひつ)・木村常陸介・赤座久兵衛らが馳せ来り、浅野は長野口へ陣を構え、赤座は石田勢に加わり、木村は皿尾口に控えた。
  このような中、小田原にいた城主氏長は山中山城守長俊の策に従って裏切りの心を生じ、自ら書状を書いて忍城を敵方へ明け渡すよう言い遣わすと、すぐ命令に従って城を浅野長政に明け渡したと云う。
  忍城は同年(1590)8月松平主殿助家忠に賜り一万石を領して在城していたが、文禄元年(1593)二月十九日家忠は下総国上代に移り、忍城は左中将忠吉卿(薩摩守殿と称す)へ賜った。慶長五年(1600) 忠吉卿が尾張国清州城へ移ると御番城となった。それから34年たって寛永十年(1633)松平伊豆守信綱の居城となり、同十六年(1633)阿部豊後守忠秋に替り、今もその子孫鉄丸の居城となっている。
  昔松平伊豆守信綱が居た頃までは城の構えも狭く、たいそう疎略な造営であったが、阿部豊後守忠秋の時に補修して、今のように大手口・丸馬出・櫓などを建て連ねたという。
  当城を忍と名付けたのは此の地が元上忍村と云ったからであろう。今も城の南は下忍村に続いている。上忍村はないので多分城の辺りが上忍村であったのだろう。しかし土着の人によると、この辺りは持田村と谷之郷の入会地(いりあいち・共同で利用した土地)だという。


第11冊-頁19 本丸
  今は建物がない。東に木戸、南東に門がある。この門をでると二丸に至る。東の木戸をでると諏訪郭に至る。ここも本丸に含まれる。四方全てに土塁を巡らし、塀をかけ並べ、周囲は沼で、東側のみ堀を構えている。また本丸の西の辺りを井戸郭、道場郭という。

諏訪社  

陣鐘: 本丸の木戸門の東にかかる。天正の籠城の時に、池上村普門寺から持ってきて陣鐘にしたもので、この寺はむかし施無畏寺と号したという。またある説にはそうではなく、いつの頃か城周りの沼の土砂を浚った時に水底からでてきたと云う。
いかにも古そうな鐘である。延慶二年(1389)の銘がある。

第11冊-頁20 二丸
  本丸の東にあり、今城主が住んでいる。西側に本丸へ行く門がある。南はくいちがいに土塁と塀があり、そこに太鼓門があって三丸に通じている。また北西に木戸門があり、そこをでて西へ折れると裏門が建っている。この門から内郭上新井に通じる。この二丸は南・北・東の三方に塀を立て、周囲の沼を要害としている。

二重櫓: 領主屋敷の北にある。阿部豊後守忠秋の時に作った。(=多聞櫓?)

二重櫓: 裏門の土塁の側にある。忠秋が三丸の三重櫓を新造した時に余った材料で造ったので残木矢倉と呼ぶ。

米蔵: 屋敷の北にある。寛政年中(1789~1801)に幕府から城の備蓄米増加を命ぜられた時に造ったので新囲米蔵という。

武器庫: 米蔵の北にある。

第11冊-頁20 三丸
  二丸の太鼓門の南に続いている。城代の屋敷があり、その西の方に出丸へ通じる木戸門がある。また南に成田門がある。この門をでると勘定所と家老屋敷がある。
勘定所から西南の方向に熊谷門・不立門・下忍門がある。下忍門の外に丸馬出(門を守るために前に出た半円形の郭)を設けている。ここから内郭下新井へ通じる。
又、勘定所の東に櫓下門・沼橋門などがあり、その北の方に大枳殻(からたち)口から内行田曲輪に通じる。
  三丸は東と南の二方に土塁と塀があり、その外側は全て沼である。殊に西の方の沼は最も広く幅3町もある。土塁は4町余りある。

三重櫓: 成田門の外、南の土塁に続いてある。この櫓も阿部豊後守忠秋が造営したものである。最も高く、中山道の久下の土手辺りからも見える。

勘定所: 櫓下門の土塁に続いている。

厩(うまや): 大枳殻口の北にある。

第11冊-頁20 内曲輪
内行田郭: 三丸から沼を隔てた東で、ここに侍屋敷がある。この地がもと行田の内だったので行田屋敷と称する。ここから南の門(向吹門)を出て橋を渡れば、外郭江戸町へ通じる。西の方は大枳殻口に続く。東の方に大手門がある。ここから行田町へ通じるので行田口ともいう。北の方に北谷門がある。門の外に橋を渡し、それをでると足軽町である。

上新井郭: 本丸から沼を隔てた西にある。西と南に外郭へでる口がある。南は中新井郭へ続く。ここは橋を設けて往来している。この郭の西と北にも土塁がある。

中新井郭: 上新井郭の南にある。ここも西に土塁を設け、四辺すべて沼を要害としている。南の方に下新井郭へ通ずる橋がある。

下新井郭: 中新井郭の南にあり、西北に外郭へでる口がある。東の方は三丸・下忍門に続き、そこから南に下忍村へでる口がある。この郭も四辺すべて沼で、西から南にかけて土塁がある。

以上の内郭はいま殆ど侍屋敷になっている。

第11冊-頁21 外曲輪
江戸町: 内行田の東南に続いている。ここも侍屋敷になっている。東の方に行縢門(ぎょうとうもん)があり、佐間組の足軽町に通じる。四面に川と沼があって守りの堅めとする。この郭内に普門寺と長永寺の跡がある。共に明暦三年(1657)に埼玉村へ移った。

田町: 内郭中新井の西にあり、ここにも侍屋敷が建っている。西方に持田口門、南東に大宮口門がある。この郭の北は片矢場郭で、東西は沼になっている。

片矢場: 田町の北に続き、上新井の西にある。ここも東・西・北の三方は沼を要害としている。西北の隅に皿尾口門がある。皿尾口門の北に中将屋敷という所がある。忠吉卿の別館があった所で、今は家臣の小野源五郎が住む。又、皿尾口門から東の方に鉄砲場がある。その先に新道門があり、その門から袋町にでる。

袋町: 新道門の外をいう。北の方は長光寺橋に至り、南は北谷門に接し、東は小路を隔てて北谷町である。

蓮華寺*忍名所:  袋町の長光寺橋の側にある。  鬼子母神堂  三十番神堂

北谷町: 袋町の東にあり、足軽町で谷郷組という。北は長光寺橋におよび、南は行田町に続いている。

長光寺跡: 北谷町の行田町寄りにある。この寺は明暦三年(1657)に埼玉村へ移った。

足軽町六ヶ所: これらは郭の外にある。一つは東南佐間口門の外で佐間組という。一つは佐間組の東裏で新組と称する。一つは東北長野口門の外で長野組という。一つは西方持田組門の外で持田組という。一つは持田の小名(こな)山鳥にあり山鳥組という。一つは南方下忍口門の外で下忍組という。

忍川: 二つの流れとなって郭外の東・南・北を巡り流れている。忍領用水の下流で、持田村から城内の沼に注ぎ、ここで二つに分れて、一つは直ちに東南の方に入り、一つは外郭の北に沿って東へ流れ、長野村へ注ぐ。川幅は共に3間ほど。

橋三ヶ所: 共に板橋で、忍川に架かる。一つは北谷口門の外にあり長光寺橋という。長さ3間、幅9尺。一つは長野口門の外にあり小沼橋という。一つは天満橋という。長さと幅は同じ。


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