第11冊-頁93 江川村
江川村も江戸よりの行程15里は前村(下久下村)と同じ。民戸40戸余。当村は正保・元禄の改めには載せなかったが、地元の人は古より村だったと云う。現に隣村の江川下久下村の江川分と唱える地は、もと当村の内であった。荒川の堀替の時別れて別村になった事はその村の条で述べる。
東は久下村、南は荒川を境に江川下久下村、西北は下久下村である。広さは東西2町余、南北1町余。当村も昔より阿部氏の領地である。
高札場は北にある。
小名(こな): 上 下
荒川: 南を流れる。幅30間余。村の東北の久下との境に古川蹟が残っている。幅は7~8間計り。
八幡社
観音寺 地蔵堂
第11冊-頁93 佐谷田村
佐谷田村も、江戸からの行程15里等は前村(江川村)に同じ。古くは、佐谷郷と称していた。民家は180戸余り。東は埼玉郡大井村、西は大里郡熊谷宿及び埼玉郡平戸村、南は元荒川を隔てて大里郡久下村、北は星川を挟んで埼玉郡戸出・持田の二村である。東西は20町ばかり、南北10町で、中山道が村の西を通る。字八町と呼び、古くは成田氏の領分であったが、家康公御入国の後、幕府領となり、移り変わりは前村(江川村)と変わらない。
高札場は四ヶ所ある。
小名(こな): 本村組 中組 吉原 吉見組
荒川: 村の西南に少し掛かる。幅5~6間の瀬が幾つにもなって流れている。
元荒川: 久下村との境を流れる。幅2~3間位。古くは、荒川がこの川に続いて流れていたが、寛永年中(1624~1643)に伊奈半十郎が、当村で水流を改め、今の荒川を堀割してから元荒川と呼ぶようになった。村の西、字八町新田に鎮座する雷電社の御手洗より湧き出る清泉がこの川の水源である。
星川: 埼玉郡戸出村との境を流れる。幅は4間ばかり。
八幡社
末社 神明社 浅間社 天王社 山神社 春日社 道祖神社 稲荷社
雷電社 榛名社 天神社
永福寺
地蔵堂
長福寺
西光寺
福蔵寺
福正院
仙林坊
第11冊-頁94 肥塚村
肥塚村は、民家百戸、東は埼玉郡上村、南は埼玉郡箱田村及び大里郡熊谷町、西は大里郡原島村・幡羅郡柿沼村、北は埼玉郡小曾根・今井・上川上の三村である。東西十町ばかり、南北20町。江戸からの行程は16里半。
開墾の年代は明らかではないが、村内に肥塚殿と称する古墳があり、その碑に康元二年(1256)の銘がある。地元の伝えによると、此地の領主肥塚太郎九郎光長の墳墓である。康元は後深草院御世の年号で「東鑑」の頃なので、肥塚は古くから開けていたことが分る。
又、正平七年(1352)美作左衛門太夫家泰が勲功を賞した感状にも、武蔵野国大里郡枇塚郷と載っている。枇塚は肥塚の仮借(あて字)で、昔はひづかとも唱えていたので枇塚と記載したと思われる。
感状の文は、次のとおりである。
『下美作左衛門太夫家泰
下令早領知相模國愛甲庄内船子郷 梶原五郎左衛門尉跡 武蔵野國
大里郡枇塚郷 牧七郎兵衛跡事
右爲勲功之賞宛行也者、早守先例可被沙汰之状如件
正平七年(1352)二月六日』
これによれば、牧七郎兵衛がここを領地としていた事が分る。又、成田分限帳に、永20貫文肥塚因幡、同13貫文聲塚喜右衛門と載っている。聲塚と書かれているのは仮借(当て字)である。これらは皆、当所の在名を名乗っているようだ。
家康公御入国の後、幕府領となり、正保四年(1647)村内を分割して阿部豊後守に賜った。その後、残る土地を内藤式部少輔に賜り、元禄十一年(1698)内籐の知行地を取り上げ、ことごとく阿部氏の領地となり、今も替っていない。
高札場は南の方にある。
小名(こな) 新里新田 新田 堀ノ内 圓光塚 下田
稲荷社 辯天社 熊野社 八幡社 雀宮 天神社 辛ノ社 姥神社 子神社
道祖神社 白山社 若宮社 牛頭天王社
成就院 天神社
眞蔵寺
観現寺
古碑二基: 村の南寄りにある。一つは、長さ3尺8寸ばかりで、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至 十念若不生者 不取正覚(たとえ私が仏を得たとしても、十方の衆生が、まことの心をもって信心をおこし、我国に生まれたいと願い、十回念仏を唱えてもし生まれないなら、私は正しい覚りを取ることができない)」といくつかの字を彫り、康元丁巳(1257)三月と戴せている。一つは長さ4尺5寸程で、梵字を二行に彫り、應安八年(1655)二月十七日、道義禅門と記している。ある人によると、康元の碑は肥塚太郎九郎光長の墓で、應安の碑は同八郎盛直の碑だと云うが、明確な根拠がないので断定は出来ない。肥塚は、武蔵七党のうちの丹党の枝流で、古くはここに住み在所を氏に唱えたものであろう。
第11冊-頁96 石原村
石原村は、江戸よりの行程16里。広瀬の庄に属す。民家は320戸余り。東は熊谷宿に隣接し、南は荒川を隔てて当村の地があり、そこを越えると、万吉・樋口の二村がある。西は広瀬村・小島村・及び幡羅郡久保島村に続き、北は原島村及び幡羅郡新島村である。東西24~25町、南北23町ばかり。用水は、成田用水と大麻生堰の水を引き用いている。村内に、中山道が走る。道幅四間余り。
当村も成田氏の領地で、成田分限帳に石原式部左衛門永3,000貫文、石原源太兵衛永30貫文、石原民部永15貫文と載っており、これらは当所の人で在名を氏に呼んだのであろう。家康公御打入の後、城和泉守がこの地を賜ったが、まもなく召し上げられた。今も和泉守の陣屋跡が残っている。正保の頃(1644~1647)は、阿部豊後守の領地で、今も子孫鐵丸が領している。検地は、大河内金平が行なったというが、その年代は明らかでない。
高札場は西寄りにある。
小名(こな) 下石原 上 中 下 うへき 坪井 五本榎 一本松 本村
荒川: 村の南を流れる。幅500間ばかり。普段は二瀬か三瀬に分かれて流れている。川の北方に高さ1間ばかりの水除けの堤(土手)がある。
堤: 村の東、小名(こな)(字)下石原の地より築き始めている。これが今の世にいう熊谷堤の元である。高さは3尺ばかり。
赤城久伊豆合社
稲荷社
聖天社
天神社
伊勢宮
諏訪社
眞宗寺
東漸寺
松岩寺
大聖院
一里塚: 村の北西で、中山道の傍らにある。当村と幡羅郡新島村の分が左右に相対し並んでいる。そのほかに、朝日塚・京蔵塚等という僅かな塚があったが、今は無くなり名前だけ残る。
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