2012年1月13日金曜日

増補忍名所図会について

「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6 年 (1835)、 同 11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。

  文政8年 (1825)  洞李香斎が「忍名所図会」を著作。
            現在その所在は確認出来ていない。
  天保6年 (1835)  忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を
            増補。
            天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。
  天保11年 (1840)   岩崎長容が2度目の増補版を作成。
            名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑
            の類いを補足。
            忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。
            天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が
            確認できる。

「増補忍名所図会」の復刻版は1971年(行田郷土史文化会発行)と2006年(行田市郷土博物館友の会発行)に発行されましたが、今回は天保11年版に近い2006年の復刻版をテキストとして使用しました。

資料 2006年(平成18年)6月30日
       行田市郷土博物館友の会編集・発行 「増補忍名所図会」


増補忍名所図会マップ

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「増補忍名所図会」序(現代語訳)



序 芳川波山

   忍の地は沃野(よくや)がひろびろと開け、荒川が南をめぐり、利根川が北に横たわり、富士の雪が筑波のかすみに映じ、浅間の煙が日光の雲に接し、霊山(れいざん)がはるか天涯(てんがい)にそびえ、近くは城を守っている。
   吾公がここに移封されてより、恩雨仁風(おんうじんぷう)がひとしく庶民を被い、人々はその政を謳歌して賛美し、鼓楽(こがく)を聞いて互いに祝賀している。松村竹里(しょうそんちくり)にも、日ごとに人煙(じんえん)は増え、桑畑や稲田にも荒れたままの地がなくなっている。戦国の時、成田氏がこの地に拠り北条氏の楯となり、ために兵火は天をこがし、馬塵(ばじん)は地にみなぎり、屍は野に伏し、骨は葬られずして野にさらされていた。ああ、なんといたましいことではないか。
   うやうやしくおもんみるに神君家康公の大いなる徳により、天下が統一され、泰平の世となって二百年あまりになろうとしている。
今の人は安んずるところに安んじ、見るところを見て、遊蕩(ゆうとう)を俗となし淫逸(いんいつ)を務めとなし、未だかつて塗炭倒懸(とたんとうけん・非常な生活苦)の苦しみを知らない。吾公の封内の地には、旧祠古刹(きゅうしこさつ)、絶勝名区(ぜっしょうめいく)が、いたるところにある。しかしながら干戈争闘(かんかそうとう)の世以来、その由来をくわしく知りえぬようになっている。
   公の臣下の佐竹・岩崎二子は、好事(こうず)の士であり、城勤務の余暇に東西に奔走し、旧記や口碑(言い伝え)を調べ、史書に照らし、八方資料を探してこれを図にし文字にし、数年の久しきに及んで、集めて何巻かの書に収め、燦然(さんぜん)として備わらざるなきものを作りあげた。彼らはこれを公に献じた。
   公は甚だ喜ばれ、私に巻首の序を記すことを命ぜられた。公のよろこびは、ただ郷里の富めること、田畝(でんぽ)のおびただしいこと、名勝の美なることにあるのみでなく、古に感じて今を顧み、既往(きおう)を見て将来を戒めようとされるところにある。なぜならば、至治(しじ)の弊が必ず奪靡(しゃび)に至るのは勢の然らしむるところだからである。故にそのようになる原因をよく知り、きつくするところはきつくし、ゆるめるところはゆるめ、世の中を敗壊(はいかい)に至らしめざれば、則ち永く無窮の福を受けるであろう。思えばこの書の益するところは大なるものである。

   天保六年(1835)七月十八日  臣 芳川逸 謹撰

   参考資料: 「忍藩儒 芳川波山の生涯と詩業」 村山吉廣 著


序  岩崎長容


    洞李香斎が古い事を学ぶ人に参考になればと作った「忍名所図会」という書を主君(松平忠尭公)がご覧になったところ、足りない所や漏れた事が多いのを惜しまれ、私へ増補版を作るよう仰せになった。私は才能もなく知識も少ないので、このような大事をお受けするのはいかがかと思ったが、恐れ多くも主君の仰せであり、承諾することになった。
   それから日々あちこちを走り巡り、宮寺の縁起社伝を始め、ある時は田圃で仕事する百姓に、またある時は魚採りする翁に問い、古文書の記述と比べたり、自分の考えを少し書き加えて五巻になった。これを「増補忍名所図会」と題して主君に奉ることになった。まだ漏れがあるかもしれないが、それについては後日詳しい人に増補を仰せつけられるよう願い奉る。 
 
   このようなことができたのは主君の深い御恵みによるもので、いつまでもお元気に、全ての民に喜びと楽しみになるよう願っている。

    
天保六年(1835)七月  長容しるす


凡例

・此書は洞李香斎作「忍名所図会」(本書)の漏れを増し、不足を補うものである。 増補には(増)マークを付けた。
 
・本書に載っている寺院巡拝次第やご詠歌は特に関連ないなら省いた。
 
・本書には多くの神祠や仏寺が載っているが、開基や建祠された時代が古いもの以外は省いた。
・祠乗寺記(神社や寺の記録)などは、後世に書いたのもあり全く信じがたいが、古くから伝わることもあるので、暫定としてそのまま載せ、後日の検討に備えた。
・本書の図は粗雑で間違いも多いので全てつくり直した。
・神祠仏寺における左右は本尊の左右、道路における左右は行人の左右である。
 
・此書の古事奇談などは、現地の古老が伝える口碑を聞いたまま載せたもので、虚実(内容が事実か否か)を論じていない。

 

付言

   此書を奉ったのは天保六年なので既に六年が過ぎた。その後に捜索見聞したことも少なくなく、それらを記録しないのは惜しいので、さらに増補することにした。それを書き進めて一二三の巻が清書済みになってから、新たに探り求めたことができたので、やむなく新たに付録一巻を造って入れた。
   先書(天保六年版全五巻)に続く第六巻第1冊は、忍八景(20年ほど前に針的という盲医が作った)と天正の攻城を載せているだけなので省いた。また寺院神社の図なども熊谷寺以外は皆省いた。名勝の地、古書の図、古器などはいくつか追加し、引用文書・口碑の類いを多く補足した。
   このような背景なので先書とはあちこち異なることに戸惑わないでほしい。また六年の間には神社寺院の境地に移り変わりがあるので、今と合わない事が多い。これらを読者に察していただきたい。

   天保十一年(1840)  岩崎長容しるす

城周辺1(武蔵国、埼玉郡、忍)

武蔵国の大意(いわれ)
  神武天皇から十二代、景行天皇四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えぞ)征伐から帰陣の時、秩父の山に武具を収め山の神を祭った。武具を収めた国なので武蔵国と云う。

  日本紀によれば、武蔵国の秩父ヶ嶽はその姿が怒り立つ勇者のようであった。日本武尊はこの山を美しい(気高く、感動させる)と東(あずま)征伐の為に祈祷し奉り、兵具を岩蔵に奉納(納理)した。これ故に武蔵国という。武具を指し置くの義、読みはムサシである。
  旧事記に胸指(むさし)の国とあるのは剣のことである。剣は最も重要な武具だからである。後に名が雅でないので武蔵国に改めたと云う。

埼玉郡 
 (増)調べてみると、和名抄には武蔵国埼玉(佐伊多末)、延喜式神名帳には武蔵国埼玉郡(小四座)、前玉神社(二座云々)とある。此の郡は古くより埼玉とのみいう。万葉集には佐吉玉云々、前玉云々とあり和名抄とは異なる。伊と喜は相通ずれば、さいとも読める。崎と埼の字の意味は違う。(未考) 

  武蔵国の国分寺の土中より掘り出された古瓦の中から、武蔵国の名を印したものが多数ある。其の形を写した書の中にある瓦は極めて古いものである。古より埼の字を用いたと見える。それにもかかわらず古くは崎西郡という俗説あるが誤りである。延慶の頃(1308~1311)より天正の頃(1573~1592)迄の文書に崎西と書いたものもある。崎西といえるは郡の西である。葛飾郡(古くは、下総国なり今は武蔵国に分)の地の西を葛西といい、東を葛東というに同じ。これが本当だろう。

 鴛鴦(おし)とも書く。
 (増)忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説(詳細は後述)がある。
  この地を「岡の郷」という伝聞がある(水田の中に岡の如く見えたからと云う)。成田氏長の妻の歌に
   岡の郷 忍びの松にかり寝して 夢はかりなる をしの一聲
(忍びの松は下忍御門の内にある加藤氏門前の並木と云う。沼尻組屋敷前の松という説もあり不明。)
  郷とは大里小里をまとめたものである。郷について詳しい説があるがここでは省く。岡の郷は、佐間・下忍・持田などをまとめて一郷としたのであろう。また中古(上古の次、平安時代ころ)より何処にも荘の地名がでてくる。この辺りは「篠の根の荘」で、広く南は吉見辺り(荒川向い)までを云うらしい。
  また皿尾村の北方を「永井庄」と呼ぶ。庄の中に郷がある。荘ともいう。諸説あるが略す。永井庄は幡羅郡永井村(妻沼能護寺辺り)であろう。ここはむかし斎藤実盛が住んでいた所である。斎藤実盛は小松内府の荘園である武蔵永井の荘の別当であった事が知られている。
  長野村辺りから東方六七里をまとめて「太田庄」と云われている。忍から五里ばかり東方に、鷲の宮という大社があり、いつの頃からか地名になった。東鑑に武蔵国太田庄鷲宮血流云々とある。古い神祠であり、太田庄と古くから呼ばれていた証しである。
  今この辺りで羽生領、吉見領など領主がいないのに領と呼ぶ地名がある。天正の頃、羽生は井戸氏、後に大久保氏の領地であった。また吉見は上田能登守の領地であった。その領の名が残っているのだろう。

(付録) 領名の条で、羽生領を井戸某と述べているのは誤りである。正しくは木戸伊豆守。

(付録) 郷名の条で、岡の郷と云っていたとは洞李香斎翁の説である。今考えると、岡の郷という口碑(言い伝え)は少なく、忍と岡は草書体の字が似ているので誤ったのだろう。忍の郷という証しもないが、忍なら古くからの名称である。

城周辺2(御城)

◯御城
(増) 大昔忍三郎と云う人より代々の居館の地であった。延徳二年(1490)成田下総守親泰(ちかやす)は、ここに移住し新たに城を築いた。天正十八年(1590)成田下総守氏長(うじなが)は、関白秀吉公に降参した。秀吉公は関八州を神君(家康)にお与えになった。その後神君は 松平下野守忠吉朝臣へ忍領を与えた。
慶長五年(1600)以後は御番城となった。寛永十年(1633)に松平伊豆守信綱候の居城となり、同十六年(1639)からは阿部豊後守忠秋侯の代々の居城であった。文政六年(1823)より、吾が君(松平下総守)の御居城となった。

   城地の風光は塁上に松杉が生い茂り、旭に映(うつ)しては常盤の色を現し、風に響いては千代の声となり、塁外の深沼(しんしょう)の水波はさらさらと流れて大湖に等しく、広々と緑をたたえ、水上には鴛鴦(おしどり)・鳧(かも)・雁(かり)が飛び翔(かけ)て、金鯉(きんり)銀鮮(ぎんりん)浮遊して楽しめた。これは皆国家万代(ばんだい)の瑞祥(ずいしょう)にして、古の霊沼(れいしょう)霊台(れいだい)と言われた。

   成田記によると、大職冠鎌足十二代の後裔、綾小路右近少将義孝朝臣の嫡(よつぎ)、権大納言行成の子(二男)忠基(ただもと)は、武家となり武蔵に下って幡羅郡(はたらぐん)に住んだ。その子供は幡羅太郎と言う。その(幡羅太郎の)子供は初めて成田の地に移り、地名を苗字とした。成田太夫(たいふ)と言う。後に式部大輔(たいふ)に任命された。伊予守頼義の叔父でもある。その長男は太郎助廣と言う。二男は別府二郎行隆・三男は奈良三郎高長・四男は玉井四郎助実(すけざね)と言う。各近郷に分居していた。そして世替りしても、それぞれ互角の勢力があり、これを武蔵国成田の四家と言った。しかし応永の末より文明の頃(1480〜1503)には成田家の武威がひいでて、他の三家は、成田家の家臣になった。
   この助広より五代の嫡男五郎家時は、文武兼備えていて成田家は倍繁栄した。応永廿七年(1420)三月七日死去し、嫡男は早世して二男五郎左エ門尉(さえもんのじょう)資員(すけかず)が家を継いだ。しかし生来から虚弱でまた淫酒に耽り、永享二年(1430)九月十一日三十二歳にして死去した。その嫡男大九郎顕泰(あきやす)は八歳で家督を継ぎ、老臣らが補佐して顕泰を立てた。
   同十一年(1439)足利持氏(鎌倉公方)は、上杉憲実(関東管領)に敵対して捕えられた。この時顕泰は十七歳になっており上杉に加勢して軍功があった。持氏は、憲実に和を乞うたが、(尚雉染せられて?)将軍は許さず、鎌倉永安寺で自害した。翌年顕泰は去年上杉家に対して抜群の軍忠あったとして、管領上杉清方の推挙に依って下総守を受領した。なおその後も数度の軍忠があった。文明十二年(1480)に家を嫡子太郎次郎親泰に譲って其の身は隠者となり、剃髪して清丘入道と言った。
   親泰は父の訓えを守って成長しても鎌倉方にあった。文明十八年(1486)に上杉定正功臣太田道灌を誅伐する時、顕定(山内上杉)は、意図的に定正(扇谷上杉)に加勢し、親泰も軍に従った。この年に親泰は下総守に任命された。
   近郷忍の地は其の地理がよく、ずっと前からその地を望んでいたが、忍の大丞は太田道灌と縁者だったので黙っていた。今道灌が滅亡して定正も勢力が衰え、延徳元年(1489)には上杉両家は既に確執に及んでいた。親泰は時が来たと歓び顕定に訴へ一気に責めれば、忍の大丞は力尽きて館に火をかけ一族自害した。延徳二年(1490)より城の経営に取りかかり翌年成就して、ここに移った。大永二年(1522)の夏に親泰は嫡男太郎五郎長康に家を譲り、出家して宗廉庵と称して幡羅郡奈良の里に隠居所を建て転居した。(中略)長泰は享禄年中(1528〜1532)中務少輔(なかつかさしょう)に任官した。その嫡左馬介氏長と共に北条家に属して数度の軍忠があった。
   記に暇がないほど、武蔵の旧家と称し、北条氏も是を対応すること親族のようだと言われたとか。調べてみると成田家は足利左馬頭(さまのかみ)基氏より代々管領家の幕下で、上杉憲政越後に赴(おもむ)いた後は、北条氏康に属していた。
   (参考資料 成田記 大沢俊吉訳 歴史図書社)

   石原村民家に伝わる成田家伝と言われる書がある。証(あかし)とするには不足であるが、拠り所が有って書かれるものなので暫(しばらく)ここに出して考えの手がかりとした。成田記と合せて考えてもよいと思う。

成田家伝
   武蔵国に七党ある。丹の党とは宣化天皇の末孫丹治の姓で、青木・勅使河原・安保(あぼ)である。横山党・猪俣党は敏達天皇の末裔で小野姓にして、荻野・岡部・横山である。児玉党は藤原姓で本庄・倉賀野である。私の党は私市(きさい)姓で、川原・久下である。其の外は大概亡びて今はない。又四家ありと言う。其の第一は忍の成田である。先祖は大職冠十二代の後裔、綾小路右近少将義孝に子供が二人いた。一男は大納言行成で、今の世尊寺の開祖である。次男は武蔵守忠基である。
   忠基より五代の孫を式部大輔(たいふ)助高と言う。武蔵国司と成って幡羅郡に住んだ。その時代の人は幡羅の大殿と言った。この助高は伊予入道(源伊予守頼義)の外戚の叔父である。ところで頼義が奥州の(安倍)貞任・宗任の追討の大将軍として下向し、武蔵を通った時、この郡へ立寄られた。多くの武士は残らず出仕した。此の時助高も大将頼義の所へ参上しようと出馬し、頼義も助高の館へ参上しようとしたが、途中で行き逢った。助高は下馬して礼をし、頼義も下馬して礼をした。助高は頼義の叔父の為、双方お互いに下馬して礼をした。成田家は現在も大将対面の時は互に下馬して礼をするのが、この家の作法である。
   この助高に子供が四人いた。長男は成田五郎・二男は別府・三男は奈良・四男は玉井と言う。別府は左衛門尉行隆と言い、行隆には子供が二人いた。兄は左衛門佐(さえもんのすけ)行助、弟は治部大輔義行で、兄弟二人を両別府と言う。義行の子は別府小太郎義重、その子は行重、寿永の頃(1182〜1185)、源義経に従い一ノ谷の戦に先登し、鎌倉殿より勲功の賞に預かり、この家は特別に栄えた。これより北南といふ苗字の侍に分かれた(北河原 南河原)。
   このように根本は同じで、嫡子庶子は歴然として明らかで、末孫になっても、成田も玉井も奈良も別府も皆互角の勢力で栄えており、それぞれが下知を受けていた。それゆえ文明年中(1469~1487)までは成田・酒巻・両別府・久下・奈良・玉井・須賀・忍・北南の地侍は、何れも互角の勢力で、公方・管領の下知に従った。
   その後関東が大いに乱れ、成田下総守入道宗蓮(親泰)が忍に移ると、近隣の諸人は饗(もてな)した。それから忍の城を築いたが此の城は沼の中なので、造作ははかばかしくなく、近隣の諸将へ毎年人夫を雇い、多年を費やしこの城の要害を立てた。そうであるから初めは皆頼まれたので人夫を遣したが、後には続けて数年断らず続けたら、いつとなく自然に宗蓮へ役を出すようになり、皆彼の下知に従った。宗蓮一代の中、近隣の諸将を下知し、その子下総守長泰の時代には地侍千騎の大将となった。
「人はただ威につくようになるのだ」と小田原北条氏綱の批評が有ったとか。

(増) 御城の地形、屋鋪等の古の様子を考えると、今の御本丸、二、三の丸より、東は沼橋まで、南は下忍御門当りまで、西は田町、外矢場辺までの小城であったと思われる。谷郷村旧記に、今の内行田・北谷等は田地であったが城地となり、又今の内行田の久伊豆明神は行田町の鎮守であったとある。これは古き社にて、この辺は町で有ったと見え、社の東に向いていること考えると、もしくは、本町通りの突当りに有ったと思われる。すべて鎮守あるいは火防の神であっても、町の突当り、或は隅の方に祭ることがまま有った。
   成田記に大手口・皿尾外張・持田口外張などと書かれ、今の様とは古は違っており、なお考えなければならない。今皿尾村に外張という処があるが、砦などがある所かは分からない。

城周辺3(諏訪大明神 、地獄橋、縁切橋 、鉦打橋、多度両宮、東照大権現宮、御城下 )

(増) 諏訪大明神(御本丸側廓に鎮座、諏訪曲輪という神祠が有る)は忍城の鎮守である。神祠四座は中央に諏訪大明神、右に天照皇(てんしょうこう)大神宮、左に稲荷大明神と八幡大神がある。当社の宝物は塗重藤の弓、矢箙(えびら)葵御紋蒔絵である。各々は松平忠吉朝臣より奉納された。祭神は健御名方尊(たけみなかたのみこと)、神主は高木長門、当社を勧請(かんじょう)した年月は詳(つまびらか)ではない。社家の説に御城を築くより早く有ったと言う。又俗説にむかしは持田村に有ったのをここに遷(うつ)したと言う。御城地が持田の地なるが故と言える。今同村に字は沼尻という処に諏訪の旧地ある。同南条と云う所には神に供えた田畑がある。

(付録) 御本丸の条で、諏訪神社が元あった場所を持田村沼尻と書いたのは誤りである。沼尻は中里村の枝郷。

(付録) 鐘掛け松  お城の内側の諏訪曲輪の土手にある。天正の籠城の時使用されたものといわれている。その鐘は、阿部候が白河城へ移動した。松は、後世に植え続けているのか若木である。  

古鐘の銘  
   銘字に誤りが多いので読むべきでない。また考えるべきもの(特筆する)が無いのでそのままを記す。

  武蔵国崎西郡池上郷にある施無畏寺の梵鐘を治鋳す
右当寺は曩祖(のうそ)が関東右大将(源頼朝)家の御菩提所の為に建立せしめ奉るなり。而してこの鐘は梁上公(盗賊)が忽ちに光を盗み取り、掊て(うって)之を破すと雖も蹤(あと)に就いて即ち求め得て元の如くに治鋳せしむ。
仍って(よって)銘を作(な)して曰く。

  今此の鐘を籚(かけぎにか)く、古青銅を新たにし、
  即ち土子(土地の人)の為に兀(おさ)に命じて工を全くす、
  侈奄(しえん・大いさ)は度に叶い、治鋳の功を終る
  清音響を振わし、無明の夢を驚かす
  外内九域、悉く聖衷を仰ぐ
  文武百砕、各々巨忠を抽(ぬき)んず
  招提長同、政理普く通じ、
  暁夕勤めを致し、久しく梵風を扇がん

 願主正六位上 左衛門尉藤原朝臣道敏 敬白
               大工 遠江権守 朝重
延慶二年十一月五日

◯地獄橋
   北谷から帯曲輪に掛かる橋。この橋は浅間山や赤城山などの寒風が吹き付けると非常に寒い。俗説では、風が強い時は橋の下へ落ちる事もあるので地獄橋になったというが、この俗説はあまり信用できない。

(付録)  檪鬂堀(れきびんぼり) 
   場所ははっきりしない。天正十八年(1590)に籠城した際、城南の要害が弱いというので、氏長の息女が侍卒を率いて掘った堀である。檪鬂(れきびん・耳際の髪に刺したクヌギの髪飾り)を使って指図したので堀の名にしたとか。
(山本周五郎の小説「笄堀」で、奥方真名女が武士の妻達と堀を掘った話の元ネタか)

◯縁切橋
   上荒井から内矢場に掛かる橋。成田氏長が小田原へ出陣した時、内室や家臣等と別れを惜しんだ所である。今は嫁いで行く者がこの橋を渡るのを忌む。名が悪い為であろう。

(増) 成田記にもこの類いの話があるが略す。
(成田記に氏長が横瀬の娘=甲斐姫の実母と別れた時に見送った橋とある)
   同書には忍籠城の諸士が退城の時、本丸を伏し拝み、君臣三世の縁(三世に繋がる主従の因縁)もこれ限りかと落涙した所とも云う。

◯鉦打橋(かねうちばし)
   沼尻から袋町に掛かる橋。

(増) 鉦打橋は下忍御門の外張から百石町へ掛かる橋である。今は水野某屋敷と山田某下屋敷の辺りに、むかし鉦打聖が住んでいたので、俗に鉦打橋と呼び習わしたのだろう。
因みに、鉦打聖について述べる。一遍上人が諸国遊行した時に帰依した僧侶は数多くいたが、その中で炊事役をしていた者を何阿弥と呼んでいたとか。後に僧となり、あるいは一般人のままで、阿弥と号し念仏行者として鉦を打ち諸国を修行する者を、俗に鉦打聖と呼んだ。今もあちこちにある。ここに住んでいた鉦打聖も後に埼玉村に住んだ。

◯秀衡駒繋松
   江戸町の畠山某の庭の中にあった。そのむかし藤原秀衡がここを通った時、駒を繋いで休んだ所と云う。由縁の詳細は不明。

(増) 大木だが星霜(歳月)五六百年には見えない。後世に植え続けたのだろうか。不明。

◯浅間宮 
   江戸町の伴某の庭の中にあって、松平忠吉朝臣の勧請(かんじょう)といわれる。

(増) 多度両宮は、帯曲輪にあり、文政九年(1826)に君侯(松平下総守)が伊勢国桑名の多度山より移したものである。

(増) 東照大権現御宮は、下荒井にあり、文政八年(1825)に造営、別当寺は摩柅山(まじさん)金剛寺である。

◯ご城下 (町割の開始時期は明らかでない)

(増) 昔は、今の本町だけで、その後、新町・下町等が追加された。

◯行田 (町の総称で、別に業田の字を使ったが、今は、専ら行の字を使用している)
   上・中・下町・大工町等の町名があった。

(付録) 行田と云う号が古くより有った証
   東鑑二十五に行田兵衛尉・鴛小太郎・鴛四郎太郎が云々とある。

◯本町 
(増) 古い地図には、行田本宿とあり、今の新町は、行田横町筋となっている。ここは日光街道の駅で、江戸から十五里である。北は、新郷宿へ二里、館林へ四里、西は、熊谷へ二里で、各地への連絡の便は良い。市の店では、諸国の産物を揃え、毎月、一・六の日には市を開き、色々な物を交換売買した。この市が始まったのは、天文十三年(1544)正月六日といわれている。

2012年1月12日木曜日

城南1(清善寺、天満宮 、高源寺、沼尻)

◯平田山清善寺 
  曹洞宗成田龍淵寺の末寺。寺領は三十石。惣門の横額は、拈華林指月印書(ねんげりんしげついんしょ)。薬師堂は、門の向こう正面にある。円通大師堂。石碑は、唐画の円通大師の像を刻み、裏の銘は、北山とある。石橋は、門前に架かる青い一枚石で、幅一間半、縦二間半余ある。小見村真観寺岩窟の扉といわれている。

(増) 当寺は、成田五郎家持の長男五郎左衛門尉資員の次男、成田形部少輔顕忠が、永享十二年(1440)に草創し、龍淵寺五世の僧を招いてここに住まわせた。その後、松平薩摩守忠吉朝臣が多くの堂塔を再建したという。

◯天満宮 
  佐間村の入り口にあり、神体は春日の作で、古木の梅が社内にある。この梅は大木で、およそ二囲いもあるが、高さは約一間半しかない。いつの頃か雷火のためにことごとく焼かれ、わずか周りのふちだけが残った。中は空洞で、近年、その中から若木が生えてきて繁っている。八重の白梅が咲いて、いつの頃からか神木といわれるようになった。
別当は慈眼山安養院、下忍遍照院末寺である。

◯天真山高源寺 曹洞宗上崎村隆興寺の末寺。

◯正木丹波守利英の墓  同寺門内の脇にある。
  碑面には、「天正一九年(1591)3月2日」と「当寺開基傑宗道英居士 成田下総守殿家臣 正木丹波守利英」が刻まれている。

(増)正木丹波守利英は成田家の老臣である。天正の籠城の時には、佐間口の大将だった。大手口の防戦が難儀していた時、行田口より町に入って寄せ手(敵)の後を破り陣に返る時、「忠の有る者」といって大いに敵の軍を混乱させ、隙に乗じて敵軍を追うなど厳しい活躍をした。これによって、大手口の味方の諸将は力を得て、共に敵を追退させた。これは利英の作戦によるものである。その他いろいろな軍功が有るが、ここでは説明を省く。

◯沼尻 
(増)沼の尻辺りなので皆そういう。行田より東松山への往還の今の歩卒屋敷のあたりである。
  この辺りから見ると、大沼は、青々として太湖に等しく、松杉(しょうさん)が繁茂していて大山のようだ。 そもそも忍城はどこから望んでも見ることができなかったが、ただこの沼尻からだけは低い垣と白壁や櫓の瓦を見ることができた。
  天文の頃、上杉謙信が当城を攻めあぐんでいた時、この辺りより城中の形勢を見回ったという。成田記によれば、天文二十二年(1553)年三月下旬、またまた西上野に軍を出した時、北越の軍勢が城外に詰め寄ったけれども、城の防備が無双で四方が深いぬかるみのためなかなか容易に攻めかかることができなかった。
  このため、大将の謙信自らが大物見として、佐間下忍の方へ馬で回って城中の形勢を見回ったところ、忍の城兵は、大将とみなして「上手くいけば撃ちとめよう」として、鉄砲隊十余人が一度に撃ってきたけれど謙信の身には当たらなかった。その時謙信は馬の鼻を城の方へ向け、扇を開いたまましばらく冷静に睨んでいた。そして落ち着いて退いたことは、城中でもその勇ましい品格の者と感賞した。その時 空が暗くなり急に雷鳴し風雨がはげしくなったので、この日の攻防はなかった。
  翌日足軽同士の攻防があった。双方互角で死人多く雌雄未だ半ばの処に、信濃の戸倉城の大石源左衛門尉入道より、急を要することを示すための回状連絡が入った。その内容は、「北条氏康が伊豆、相模の仲間を統率して小田原を出発し忍の後援に出た」との噂がある。また「東上野の前橋へ出て陣を張る」との噂もあると。その事実の有無は未だ不明とはいえ、ご注進申し上げるとあるので、謙信はどう判断したかわからないが、翌日包囲網を解き平井城に引き上げた。

城南2(富士浅間大神、西行寺地蔵院、麿墓山)

◯富士浅間大神
  埼玉村の入口右手の山上にあり。女人禁制の札が建っている。延喜式の神名帳に記載されている神社である。
神体は鱐(このしろ)という魚に乗っているという。当村の出生の神である。氏子の者に限らず当村にすむものは、鱐を食うことを堅く禁ずる。もし誤って食べれば、必ず凶が有るといわれている。
  例祭は六月十四日。三月から太太神楽(だいだいかぐら)を修業している。《太太神楽=伊勢神宮に奉納する神楽(歌舞)》

◯国王山西行寺地蔵院
  天台宗の江戸上野寺の末寺で、丸墓山麓にある。本尊は地蔵菩薩(長さ二尺、忠泰和尚の作)。
(増) 当山の開基は人皇三二代の用明天皇の御子である聖徳太子の舎人(とねり)調子麻呂である。推古天皇の御世に太子が、甲斐の黒色の駒に乗って駿河国の富士の嶽に登ったとき、舎人の調子麻呂がただ一人これに従った。太子は山頂にて四方をはるかに望んで、「これより東方に紫雲が盛んに湧き上がっている所がある。私が推量するに武蔵野国の埼玉郡辺りになるだろう。彼の地は仏法の東の霊場になるだろう。吾は明年死ぬだろう。汝(お前)調子麻呂は吾が廟をここに建てて朕が常々尊崇する地蔵菩薩を安置せよ」と仰せられた。この地蔵は南嶽の思太和尚(浮屠薩氏の説に聖徳太子はこの和尚の化身という)の作である。この時のあの太子の像、今この寺に存るかどうかわからない。
  推古帝の二十九年(622)二月一日夜、太子が斑鳩の宮で亡くなる。王臣(おうしん、帝の臣)や百姓(一般の人民)の愁嘆は計り知れない。この月に河内の磯の長陵に葬られた。御遺言により役目として調子麻呂は御遺骨を首に掛けて武州に下向し埼玉の郡に来た。どこを御墳墓に定めようかと、あちこちを尋ね求めたが納得できる処がない。今この麿墓(丸墓)の地に来た時、御遺骨が大きな岩のごとく重くなって上がらない。調子麻呂はこれこそ太子の御心に叶う霊地と考え、すぐに御遺骨を納め堂を建て例の地蔵尊を安置し、また一棟の堂を建立して国王山地蔵院と名のった。    
  人皇三十六代皇極天皇一年(642)十一月蘇我入鹿大臣が軍を統率して聖徳太子の御子の山背大兄王の住んで居られる斑鳩の宮を包囲して攻め戦った。大兄王は作戦を計った。それは獣の骨を寝所に置き、子弟二十三人を率いてひそかに膽駒山(いこまやま、生駒山のこと)に隠れました。兵どもは火を放って宮中を焼き、炭の中の骨を見て王は焼死なさったとして、包囲を解いて退陣した。その後 子弟二十三人は斑鳩寺の塔内に入って神仏に誓いを立てて、皆首をくくって死んだ。その時焚いた香の煙は、万物の源泉をなすように盛んに上昇して天雲に通じたようだ。男は即座に天上の仙人となり、女は即座に天女となって、煙雲に乗って西を指して飛び去った。
調子麻呂はまた大兄王の御遺骨を取って武州に下り、太子のお墓に一所にお納めした。 この寺を西行寺と号す。この読み方は大兄王が西を指して飛び去った故にそういう。またその墓を麿墓ということは調子麿がここに建立した故である。
  人皇三十七代孝徳天皇の御世(みよ、645~654)に天王寺に於いて、霊鷲山(りょうじゅせん、釈迦が法華経を説いた山)に上宮太子(じょうぐうたいし、聖徳太子の別称)の像をおつくりになった。この時、上宮太子の廟所を武州埼玉郡の西行寺に所有させ五十余町を寄付された。この太子像は菩薩なので、国家安全の備えになる。巨勢麿(藤原巨勢麿)は、帝の命によって、寄進状に載せた。
  皇極天皇二年(646)の時、西行寺と称するようになってから、この寺はいまだに断絶したことはない。しかし、永禄天正の兵火によって、すべて焼失した。その後、山のふもとに一棟の小さな御堂を営なまれ、その太子と地蔵の二像を安置した。今の西行寺がこれである。

◯丸梅   
  西行寺の東方の田圃にある。五間四方にも繁茂する白梅である。太子の舎人である調子麿が当寺を草創して庭の前に植えたものだといわれている。丸は麿の誤りである。

◯麿墓山(いまの丸墓山)
  小さな山で、山頂に地蔵堂がある。麓から四五十間登る。天正一八年(1590)、忍城水攻めの時石田三成はこの山に本陣をかまえ、城中へ大砲を打ち込もうしたが、城がよく見えず、下忍遍照院にあたったと云われる。この山から忍城まで8~9町ある。山の上から行田を望む風景が素晴らしい。

(増) 永禄二年(1559)上杉謙信が忍城を攻めた時もこの山に登り城中を観察したと「成田記」に記されている。


城南3(天祥寺、 盛徳寺、小崎沼 他)

(増) 海東山天祥寺
   埼玉神社が鎮座する埼玉村の入口左にある。藩主松平家の菩提寺。天保七年(1836)松平忠尭(ただたか)がこの地に造営した。堂塔壮麗で異香が漂い、清浄寂寞とした霊場である。

◯可児才蔵の墓
   天祥寺門前の杉林の中にある。可児才蔵(かにさいぞう)は小田原攻めや関ヶ原の戦いで活躍した人で武勇で有名。福島正則の家臣であったが後に阿部侯に仕え、子孫が現存する。この森の竹を少しでも取ると祟りがあるという言い伝えがある。

(増) 埼玉山盛徳寺
盛徳寺の古瓦
   埼玉村の東端にある。新義真言宗で、長野長久寺の末寺。この寺は平相国清盛の建立と云う。また平重盛の建立という説もあり、由緒は不明だが古刹である。今も土中から様々な型が附いた瓦があちこちで掘り出される。この瓦はかなり古いのもので、その中に大同元年(806)の文字がある瓦があったと云う。もし平清盛の建立であれば再建であろうか。(大同元年は平安初期で平清盛はそれから約340年後の人)
  
◯小埼沼
   埼玉村の端、田圃の中の小さな池である。そばに松が一本植えられ、石碑が建っている。ここは万葉集に歌われた古い名所だが、長い年月を経てくさむらに埋もれているのを、先の忍城主阿部正因(まさより)が深く惜しみ、永代不朽のため石碑(万葉歌碑)を建てた。

(増) 万葉歌碑に刻まれた銘の大意と歌二首

武蔵小埼沼
   古の地名で武蔵の小埼沼と称したのはここである。万葉和歌集から考証すると寛平五年(893)から既に869年も経ち、その古さを知るべきである。和歌に歌われる名所であった  この地が、雑草や雑木に覆われ、隠れてしまうのは大変惜しまれるので、その地名を石に刻み不絶不朽と為す。
   武蔵の小埼沼の鴨を見て作った歌
  「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に 降り置ける霜を 掃うとならし」
   武蔵国の歌
  「埼玉の 津におる舟の 風をいたみ 綱はたゆとも ことな絶へそね」
         宝暦三年(1753)九月十五日  忍城主 阿部正因 建

(増) さし暮る 洲崎に立つる 埼玉の 津におる舟も 氷閉じつつ  定家

(増) さき玉の をさきの池に 咲く花は あやめにまさる かきつばた哉  読人不知


(増) 百塚
   埼玉村、若小玉村、下長野村辺りに小さな山状の塚が四五十ヶ所ある。特に埼玉村には大きい塚が多い。地元ではこれを百塚と呼ぶ。この塚は自然にできたものではなく、人が築いたのだろう。踏みならすと内部に空洞があるような音がする。その堀り崩したのを四つか五つみると、大岩で組んであった。地元の人によると、この中に鉄物、環などがあったと云う。私も小見村観音山で出土したのを見たが、青銅製の飯櫃(めしびつ)と思しきもので、錆びて底はかなり朽ちているが、蓋もあり大変古風なものであった。
   思うに、その昔、地位の高い人を葬った墓ではないだろうか。また、はっきり分からないが、この辺りのみにあるのは元々小さな山があった為で、そこに穴を掘って造ったのではないか。

(付録)  鎌田屋敷
   埼玉村に屋敷がある。保元の頃(1156~1159)鎌田兵衛正清(源義朝の家臣)という人がいた。東鑑には鎌田次郎兵衛行俊・鎌田図書左衛門尉信俊・鎌田三郎入道西阿の名がある。また成田分限帳に鎌田修理の名があり、成田家にも鎌田某がいた。
鎌田屋敷には西仏(阿弥陀像)などがあった。しかし誰が居た屋敷か不明。調査検討を要す。
(将軍塚古墳のすぐ東)

(増) 辛味大根  
   忍名産と称する辛味大根は埼玉村で作られる。他村に移し植えると必ず形状風味も普通のものになってしまうと云う。風土の違いであろうか。毎年松平侯が幕府へ献上しているのはこの大根である。風味がよく、形はカブに似て、大きいものは周囲約一尺もある。熱い汁ものにすると苦くなるが、生でおろしにすると誠に上品な味になる。
   総じて埼玉村は畑が多く、春夏秋冬に作る野菜は皆、行田の市で売られる。特に大根とウドは他郷(よそ)より風味がいい。




城南4(観音堂、聖天宮、満願寺のしだれ桜、堤根松原、八幡宮(常世姫神社)他)

(増) 若王山
   埼玉村の東側、田圃の中にある。この山にも塚の岩窟がある。近年この岩窟が崩れた時、中から鉄の太刀や金の輪などが出土した。太刀は一振りのままであったが、錆びて朽ち果て金物(かなもの)のみ残っていたとか。 この山に忍藩の焔硝蔵(火薬庫)がある。

(付録)  若王山
   埼玉村にある。岩窟から太刀などが掘り出された事を考えると、成田家から厩橋城へ人質として行った若王丸を葬むった塚ではないだろうか。永禄年中(1558-1570)に成田長泰が上杉謙信と和睦した時、人質として末子若王丸を上州厩橋城へ、手島美作守をつけて遣わした。後に鎌倉で長泰と謙信が不和になった為、厩橋の人質若王丸を盗み出した所を城中の兵に追われ、やむなく利根川を泳ぎ越そうとしたが、若王丸は川の中で溺れ死んでしまった。美作守はそのまま若王丸を脇に抱え、辛うじて忍へ帰ったと云う。
   上之村の泰蔵院伝によると、若王丸は厩橋から帰って内匠介泰蔵と改名し、後に出家して成田山を建立したという。思うに成田氏長が弟若王丸の為に一寺を建立したのかもしれない。
(北越軍記や北条盛衰記では人質若王丸は利根川で溺れ死んだとあり、成田記では人質若枝丸は忍城に生還してのち泰蔵となったと云う)

(付録) 陣場 渡柳村にあり。天正の攻撃時に石田三成の陣地であった。
陣場の松というのがあったが、天明の頃枯れた。

(増) 桜本坊
   屈巣村の左手にある。本尊は薬師如来(長さ約1尺、行基菩薩の作)。別当は医王山円光院。京都聖護院の末寺。
   建長六年(1254)執権北条時頼が建立。開山は広安寺広林僧都、永仁六年(1298)二月一日遷化(死去)。中興開基は広安寺五代の孫円光院宥賢法師。文亀二年(1503)寺が焼失したが、同三年再建し、円光院と名付けた。天文二十一年(1552)六月遷化(死去)。
   天正十九年(1591)神君家康公が当地で鷹狩りした時、放した鷹が見えなくなり、探していたところ境内の桜の梢に留っていたとか。家康公はこれを大変喜ばれ、ありがたい事に寺領の御朱印と桜本坊という名前を下された。元和年中に御朱印は焼失したが、桜の木は今も庭にある。
   寺の宝物は、薬師如来(運慶の作)、不動明王(弘法大師の作の立像で長さ1尺7寸)、毘沙門天(護法親王の筆)

◯観音堂
  同村の左手にあり、本尊は馬頭観音(長さ約80cm、作者判らず)で、別当は大悲山観音寺である。この像の由来は加藤肥後守清正が朝鮮の陣中まで曳きつれた秘蔵の馬を持っていたが、舘林の城主福島左衛門太夫正則方へ行った帰りに馬がここで病気になった。依って若干の金銀等を庄屋に与えいたわるよう頼み下人たちも馬に付けて残したのに、庄屋は極めて貪欲な人で下人たちを騙して一緒に馬を打ち殺し、多くの金銀等を分けあった。すると此の夜庄屋をはじめ身内の者に至るまで悉く狂乱してしまった。そのため馬頭観音をまつり祈願すると病が快復した。

◯此村の名の云われは、むかし大きな鷲が大木へ巣を作り近郷の子供を取って食べるので村では困っていた。そこで同村の桜本坊と普済寺の僧が立会って祈ると鷲は何処かに逃げ去った。これより村の名になったと云い伝われている。

聖天宮 野村の中程右手にある。別当は胎智山満願寺。長野村の長久寺の末寺である。本尊は不動明王。長さと作者は判らない。

(増)お堂の前に大木の枝垂れ桜がある。枝垂れ長くて花の頃は艶やかである。

堤根松原が堤根村のはずれにあり、鴻巣への往還である。俗に百本松という。

(増)八幡宮は渡柳村東裏の畑の中にある。住民の話では、郡鎮守で凡そ千年余りにもなる古社であると云う。調べてみると社が二つある。一社は若宮八幡宮、一社は稲荷神社という。延喜式神名帳に載る埼玉の二座とあるのはこれではないか。前に述べた埼玉郡の浅間祭神は一座にしてしかるべく縁もない。この社は二座にして殊更に古く郡鎮守と伝えている事を考えると延喜式神名帳にのっているのに同じだ。本居宣長は云っている、古社は今では皆、八幡・神明・稲荷だけなのは興味深いことである。つまりこれ等もその類だろう。此社あたりの字を八幡という。又おもうにこの社より埼玉村迄はわずかな隔たりなので、古くは埼玉村の神社なのかも知れない。もうすこし考えてみる必要がある。

城南5(遍照院 駒形)

◯医王山遍照院 新義真言宗
   下忍村のわずかな町家の裏にある。寺領は二十五石。本尊は大日如来。長さと作者は不明。金毘羅大権現が当寺の入口にある。霊験著しいため晴雨をいとはず参詣人が絶えまなかった。正月、五月、九月(忌むべき月)には太々神楽(だいだいかぐら)が行われた。此の日はことさら多くの人がお参りした。薬師堂は寺内の東にある。秀衡(ひでひら)の松は門前左手にあり、一本松と碑が建っている。

秀衡松の碑銘(源漢文)
(増) 土地の人が伝へて言う、忍城の東、遍照院は藤原陸奥守秀衡が建てた所である。或る人疑って奥州の鎮守府は、ここからの距離は数百里もあるので、その力の及ぶ所ではないと。考えてみると東鑑に秀衡は代々の資力に拠り、出羽・陸奥の押領使(警察・軍事的官職)となり、富み栄えて当時は比べるものが無かった。鎌倉の源右大将頼朝といえども、なお隣国との友好を修めていた。三世(藤原三代)が相い続いて仏陀を信じ其の経営するところの仏寺もはなはだ多かった。いやしくも意を挙げて興し造った。なんで遠いことをはばかる必要があるか。
   そのようなわけで院の興る所以(ゆえん)はまさしく松の樹に在る。土地の人が又伝う。ある年秀衡がここを通り道辺の松根で休息した時、その樹をいとおしみ、居続けた。そこで樹のあたりに一寺を建立し、懐に入れていた護身の薬師像を安置した。その後六百有余年、樹はますます生い茂り、人呼んで秀衡の松と言う。
   盲医鍼的は、落ち着いていて鋭敏で常人とは違っていた。一本の鍼は多くの病を治療した。以前樹の下を過ぎてすぐに波の音を聞きてはっと思い当たることがあった。のち享和三年(1803)夏六月、樹に雷震し枝幹(しかん)を全部焼いた。この時に鍼的は松の声を聞いたことを思い出した。そういうわけで職人に命じ其の全形を彫り、これを薬師堂の楣(ひさし)に張付けた。そうしてまた木は朽ち易いので、碑を建て之を永遠に伝えるため銘をお願いした。

銘によると
   一本松が生い茂って已(すで)に六百年、松の枝ぶりは鸞鳳(らんほう)が翼を張り、虯龍(みずちりゅう)が天に騰(あ)がるが如く、四季翠(みどり)を含み、多くの屋敷に垂下した。陸侯(秀衡)は昔ここにいつづけた。枝葉東に靡(なび)く、遺愛の延びるところを何で考えないのか。一朝にして変化して灰燼(かいじん)と為る。濤声を聞いて思いが起こった。鍼的雷を恨み、天籟(てんらい・自然の音)がわれを牖(みちび)くこと、因(ちな)みに父母のようだ。その憔悴(しょうすい)を痛むが、忘れず負けず。術(すべ)では救い難く、医王(薬師如来)は守らない。ああ天の定めであろうか、(いやそうではない)いずれこれを咎(とがめ)るだろう。此の碑を建てる事は千歳の寿ではないか、地久しく天長し、松や朽ちず。
   忍藩儒員 眉山 佐阪通恭撰拠
   同藩退職 鹿鳴 秋山晴興書拠篆

文化七年(1810)次庚午(かのえうま)四月甲申(きのえさる)朔(ついたち)八之日辛卯(かのとう)鍼科
中野鍼的これを建てる。

古器
   唐銅(からかね)で亜鉛を交ぜたような金属である。三つの鈴はおなじ金属で、 中に物があってよく鳴る。三角の処には図のごとく地金を刻(きざみ)起して今の山葵(わさび)おろしのようである。

(増) この松は享和年中(1801〜1804)に雷火の為に焼けてしまった。若木を植えようと旧根を掘り出した時に、その下よりこの鈴を堀出した。図のとおりである。
   この器は何という物か分からない。天和三年(1683)四月十一日に高崎領上野国群馬郡保渡田(ほとだ)村の畑で、大杉の下より薬師仏と共に掘出し、今同村の西光寺と云う寺にある器をみると、是によく似ているが、さらに博雅の人に聞いたほうが良いだろう。



(増) 薬師如来縁起に、そもそも当寺の薬師如来は行基菩薩の御作である。御脇立は日光・月光の二菩薩と十二神将を安置している。遠い昔は奥州信夫郡信夫郷に安置されていた。その頃奥州平泉の城主鎮守府の将軍藤原秀衡卿は仁安元年(1166)春よりはからずも眼病を患い、すこしも見えなかった。医薬のききめもなく至難の折に、南部盛岡の城主盛岡信濃守は謀略を企てた。三ノ戸の崎見次郎及び出羽国山形の城主山形帯刀(たてわき)と語らい、秀衡の眼病の様子を見ながら、この虚に乗じて秀衡一家を亡ぼし奥州を手に入れようと軍勢を催促した。ところが高館次郎が聞き附け、秀衡の元へ註進した。これによって子息三人が衣川の衣の関へ出張り土居柵木を設けて防戦の用意をした。この時秀衡卿は御守り本尊の薬師如来へ心願をたて十七日間の断食をし、何卒仏力を以て眼病を全快なさしめ給えと一心に念じた。誠に利益あらたにして満願の日に、眼中の雲ははれ、速やかに全快したので、衣の関へ出張り南部の大敵を追いはらった。
   これに依って秀衡卿は如来の利益が莫大なることを有難く思われ、翌仁安二年(1167)に御堂の再建を考えた。同年四月八日の暁の御夢に「これより辰巳(南東)の方を目当てに鎌倉往還の途中、忍の郷に有縁の地が有る。彼の処へ送るのがよい」と如来のお告げがあった。薬師尊像を御輿に乗せ秀衡寵愛の牛に引かせ、家臣の栗原五郎秀時に命じて送らせた。八月八日に当山へ御宿泊した時、何故だかわからないが、その夜中に彼の牛が衰えて落命した。ところが住寺円慶並びに栗原五郎はその夜に如来の御夢想を蒙(こうむ)り、これぞ有縁の地なりと御告げが有った。両人は奇異の思いをなし、且つ霊夢が符合したので、すぐに薬師如来を当山に安置した。彼の落命の牛は薬師堂の南へ埋め、印に松の木を植えた。栗原五郎は奥州へ立帰り秀衡に言上した。その後秀衡より、本堂・大塔・庫裏・客殿・鐘楼・山門・仁王門の以上七宇、その外に六ヶ寺を御建立が有った。そのおり、彼の牛の姿を画かせ送られた。則ち当山の宝物である。それで印の松は今の世までも秀衡の松と云い伝わっている。そのうえ薬師如来が諸(もろもろ)の病難をお救いになるため、お参りは日々に群参し衆人が尊崇(そんすう)している。
   その後年が経て天正一八年(1590)六月中、石田治部少輔三成の兵火により、本堂、大塔をはじめとして六坊まで残らず焼失した。この時の住寺慶儀法印は如来の尊像をお出しになったが地内一円は焼失した。ところが十二神尊像は猛火をさけて大樹の元へ移られ厳然とお立ちになっていた。実に行基菩薩の御作は霊現著しい。
   なお慶長九年(1604)住寺永儀法印の代になって東照神君(家康)が御鷹狩の節、当山に御駕(おが)を入れられ、薬師の由来を住寺に御尋ねした。往昔よりの因縁と火により七堂伽藍が焼失した次第を逐一申し上げた処、すぐに薬師へ御朱印を下された。
   誠に以って利益の有難きことは、わざわざ言うまでもない。眼病の病気をお救いになる。信心している人は誰もが神仏の霊に通じているだろう。

   東鑑に、秀衡は父の譲りを得て跡を継ぎ興廃す。将軍の宣旨を蒙(こうむ)った以降、官禄が父祖を越え、栄耀子弟に及ぶ。また三十三年を送り卒去す。以上三代九十九年の間、造立する所の堂塔は幾千万宇を知らずとある。

◯駒形
   遍照院の裏手で町屋のある辺りをいう。持田村分である。
駒形神社が同所にある。小さい石の宝殿である。むかし藤原秀衡がここを通った時に馬を留めたとか、また源義経だったとの言い伝えもある。いずれにしろ古跡である。

城南6(光明寺、本倉稲荷大明神、勝龍寺、龍光寺、大芦の渡口 他)

◯与楽山光明寺
   前谷村にある。遍照院の末寺。
不動尊の立像は智証大師の作、不動尊の画像は筆者不明。

(増) 光明寺縁起
   当寺の不動尊は智証大師が描かれたものである。むかし弘法大師が遣唐使として渡海したおり、不動尊を信仰して多くの利運を授かったので、その後、縁深き法弟である智証大師が入唐する際、弘法大師は御真筆の不動尊と金紙・金泥の法華観世音を授けた。智証大師は渡海しても不動尊を深く信じていた。
ある時、唐の国中で厄病がはやり人々が苦しんでいると、時の帝が智証大師へ悪病平癒を祈祷すべしと宣旨を下した。智証大師はすぐに彼の不動尊に祈り、17日間護摩8千枚を焚くと忽ち悪病が平癒した。
   智証大師は後に帰朝すると讃岐国喜多郡に寺を建立した。これが明王山智証寺である。彼の不動尊と観世音、法華経の三品をおさめ、読経・礼拝の仏道修行に怠りなかった。
そんな時、西国中に悪病が流行し、人々が悩み伏し苦しんでいたので、智証大師が弘法大師御真筆の不動尊一筆を三幅に写して広め給うと、すぐに悪病が平癒した。
その後、天正年中(1573-1593)になり兵乱を恐れた住職は智証大師御親筆の不動尊を国主へ献上し、残る二品を護持して関東へ下った。この頃関東では悪病が流行し、人間だけでなく禽獣にまで蔓延していた。いたる所で平癒を祈祷しても叶わず、人々の嘆きは大方ではなかった。そこで当村において、民を助けるため、彼の不動尊の前で17日間護摩を焚くと、智証大師御親筆の御利益は著しく、忽ち雲霧が晴れるように悪病が平癒した。
   その後、彼の住職が本国へ帰ろうと思い、彼の二品を持ち帰ろうとしたら、不思議な事に不動尊は盤石のように持ち上がらなかった。またその夜の夢でお告げがあり、ここに堂を建て安置せよと告げられた。住職はここが不動尊の御心に叶う霊場なのではと思い、早速一宇を建て不動尊を安置した。時に天正三年(1575)一月十六日のことであった。これにより今でも正月十六日と半年後の七月十六日が縁日となっている。
   これ故であろうか他郷で悪病が流行ってもこの村では流行らなかった。されば遠くからも、天候に関わらず、参詣者が絶えることない。

(増) 本倉稲荷大明神
   鎌塚村入口から右方にある。ここはむかし領主の郡蔵があったので本倉と呼ぶとか。近年御利益があらたかなので遠くからも参詣する人が多い。
金剛水という井戸が鳥居の側にある。野州古武ヶ原の前鬼隼人が法力によって一夜で掘った井戸と云われている。

◯吹上宿
(増)熊谷と鴻巣の間にあり、商家や茶店が軒を並べて相対し町並みをなしている。宿内二丁ばかり中程に忍への道があり。忍へ一里余である。

山王権現 宿の鎮守であり、土生神(うぶすながみ)となっている。例祭は六月廿一日。

◯吹上山勝龍寺
   浄土宗、鴻巣勝願寺の末寺。寺領八石御朱印。
山門、ほかに金剛力士二王を安置している。長さ一尺。

◯大淵山龍光寺
   曹洞宗、本尊は地蔵菩薩座像で長さ壱尺計ばかり。行基菩薩(奈良時代の僧)の作。 
寺内にいかにも古い古碑がある。文字が書いてあるが風化が進んで読めない。里人は痱病(ひびょう・腫れもの)を患った時にこの碑に祈れば忽ち治ると云う。

◯瑠璃山医王寺 
   新義真言宗、大芦村にある。本尊は薬師如来で長さ八寸ばかり、作者不明。
相伝によると、むかし出羽国から諸国巡礼の修業者が来た時、ここに休んだら俄かに笈(おい・行脚僧などが背負う箱)が重くなって上がらなくなり、ここに安置したとか。

◯大芦の渡口
   荒川の川巾が狭い所である。荒川の様子は別途に記す。川の向いを八つ林、または八渡ともいう(現在の小八林)。八王子から日光へ行く街道(日光脇往還)である。又、この河岸には江戸から運送する船が着く。

(増) 昔の鎌倉街道は今の村岡の渡口を専ら往来したようだが、この大芦の渡口を往来することもあったであろう。
成田記の「成田一族会津に下る」の条に、
   武蔵国荒川にさしかかると、清らかで瀬の早い流れが、石に堰き止められて長い波になっていた。遠くまで鳥の群れが水に浮かび、その中に鴛鴦(おしどり)を見つけ懐かしい忍の名を思い出した。幾年月か住みなれた城を遠く眺めて詠ずると、さらに思いが強くなった。気のすすまないまま船に乗り移り、成田左衛門尉泰親(氏長の弟)の奥方が読んだ句、
  うつせみの よはひしあれば 荒川の 荒き浪間を 漕ぎかへす哉
と歌を吟じながらそこより田園をすぎると・・・云々 略

(増) 入道ケ淵
   榎戸村内にある。往還の右、土手の外にあり、芦が生える小さな池である。その昔、熊谷直実の馬取り権太(直実の馬は権太驪という黒馬である)の弟に権二という者がいた。おとこ気の強い人であったが後に剃髪して権二入道となった。ある時権二は、久下・榎戸村辺りの土手で、なぜか些細な口論から喧嘩となったが、権二は大変強かったので一人で大勢の相手を殺してしまった。後にこの淵へ身を投げて亡くなったと云う。このため入道ヶ淵と呼ぶとか。


城南7(天満宮(棚田神社) 、地蔵堂(権八地蔵)、東竹院 、荒川 他)

(増) 太井村
   太井の郷と云う。太井四ヶ村とは太井村に棚田村・門井村・新宿村を加えたものである。
昔は成田家の家臣大井若狭守の領地であった。若狭守の子孫が今も土民として棚田村におり、保ち伝えた兵具を家の側に埋蔵し、神明宮と崇め祭っていた事は、愛すべき心がけである。今は鐙(あぶみ)のみを伝える。自分で見たら、煤けていたが今のものと変わらなかった。

◯天満宮 
   棚田村真福寺(一乗院末寺、真言宗)の境内にあり、近年ご利益があるとかで、参拝する人も多く、俗に、棚田天神と呼んでいる。例祭は、八月二十五日で、村の鎮守である。

(付録) 門井村 当村は、成田氏の家臣 栗原大学介の領地である。
  今なお当村に、子孫が散在し、古文書を大切に保存する民家がある。 

    一 田 五町九反六十歩  十七貫七百五十文   門井の内
    一 畑 一町五反      二貫 百五十文   同所
   右二十貫分を遣わす。尚(他の事は)従来どうり。
   天正十七年  十二月二十日  氏長   花押  栗原大学介殿
   一 田 三町三反     二十貫文       門井の内  以上
   右二十貫文は夫馬(フウマ、徴発され課役した馬)として供出したので、
   これを免除する。尚(他の事は)従来どうり
       天正十七年  十二月二十日  氏長   花押  栗原大学介殿

◯久下村 
   熊谷と吹上の間の宿場である。
(増) この辺りは、市田の庄久下郷といい、久下権守直光が住んでいたところである。往還(中山道)の南、荒川土手下に城跡といわれる所がある。旧館の跡と言い伝えられている。月日が立ち、その跡は、無くなってしまったが、源太屋敷あるいは、殿川棚・皿沼・大沼等と言われる所がある。また、三島大明神(現在の久下神社)の社があり、この館の鎮守といわれている。また、直光の末裔市田太郎という者がここに住んでいたと伝えられ、そのため、市田の庄といわれていた。もっともな事だと思う。おそらく、旧館の地が、直光より絶えることなく続けて住んでいた土地と、直光と太郎の館とが混同されたのだろう。直光は、鎌倉将軍(源頼朝)の旗下であったことは、人に良く知られているが、その最後は不明である。

   東鑑によると、直光は直実の叔母の夫であった。その縁故で直実が先年、直光の代官として京都大番役を勤めた時、武蔵国の同輩たちも同じ役を勤めて在京していた。その間、仲間が直実を直光の代理という理由で、直実に対して無礼な態度を取った。直実はその欝憤を晴らすため、新中納言(平)知盛卿の家人となって長い年月を送った。たまたま関東に下った時に石橋山の合戦があり、(直実は)平家の味方として源家に弓を引いたが、その後はまた源家に仕えて、度々の戦場で勲功を立てたという。ところが直光を捨てて新黄門(知盛)の家人となったことが、かねての恨みの原因となり、このことから境界の紛争に及んだという。また一ノ谷の合戦の時に、大将源範頼(頼朝の弟)に従ったのは、阿保次郎実光・中村小三郎時経・河原太郎高直・同次郎忠家・小代八郎行平・久下次郎重光とある。
   考えてみると、重光は直光の一族であり、河原・安保・中村等はこの近辺の人であるが、なお良く考えるべきだろう。
   (参考資料 現代語訳吾妻鏡 吉川弘文館)

成田記に、
   市田太郎長兼は、右大将頼朝公の御家人久下権守直光の子孫であり、代々久下に住んでいた。長兼の先祖久下弥三郎兼行は、明応年中(1492~1500)成田下総守親泰に服し、成田家の家臣となり、父弥太郎基兼まで一度も心変わりしなかった。そのため、成田長泰はその忠誠心を感じ、娘を長兼の妻にしたという。天正年中(1573~1591)、忍籠城の時は、持田口の出張りで防備を担当した。成田記に、持田口の出張りには市田長兼を主将として横田近江を添えたとある。主将市田は、代々久下に住んでいたけれども、この地は、防備には不向きで、敵を防ぐことが難しいと考え、久下を捨て、入城した。この人は、氏長の妹婿で正しく縁者なる故とある。

(付録) 久下村の条  市田の庄、和名抄(ワミョウショウ)には、大里郡市田・伊知多
東鑑には元久二年二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進せらる云々とある。

(増) 旧川 久下村の裏に流れる小川をいう。古(元)荒川はここを流れたという。今も民家の屋敷等を掘れば、ことごとく小石が出てくる。川下は綾瀬川といい、隅田川に至る。

(増) 火ともし堤 古川の手前所々にある小さい土手をいう。これは、古い荒川の堤である。天正年間(1573~1591)、忍城へ攻めてきた石田軍はここで日暮になり、提灯、松明を灯したところという。

(増) 地蔵堂 街道の西はずれの堤の上に安置されている。評判の悪童平井権八郎が上州の絹商人を殺害して立ち去ったのはこの辺りで、そのため、里では俗に権八地蔵とも言う。又、東竹院裏の堤にある地蔵ともいわれる。考えるまでもなく東竹院のあたりは、古い往還で人家もまばらで、熊谷堤を夜通ることを旅人は恐れていた。
芭蕉翁の句に
   堤長し 日長し鐘は 熊谷寺   はせを(ばしょう)
  春の日が大変長くなり、夕暮れどきに鐘なと聞こえるが、未だ路がぼんやりと続く、古の様子を想い、忍ぶことができる。

◯梅龍山東竹院  禅寺で曹洞宗龍淵寺の末寺。 御朱印によって寺領は三十石。惣門には横額が掲げられ上法月丹の書がある。山門の高殿には十一面観音が安置されている。鐘楼は寺の敷地の左手にある。禅堂は右手にある。
  直光の墓は本堂の後にある。上杉家の女子の墓が同所にあって、五輪の塔である。文字は見えない。深谷上杉家の娘であるといい伝わる。
  当寺は、建久七年(1196)に久下権守直光の開基である。中興は、永禄年間(1558~1570)深谷の城主の上杉(名不明)が再建した。その後寛永年間(1624~1645)に焼失した以降今の様な堂塔が再三建立されたといわれる。

◯荒川 一面が小石の河原である。水が幾筋にも流れ、春から夏の頃まで鮎が群がる美景の所である。

(増)荒川は、忍より一里程の所にある。水源は秩父の三峯山および中津川より出でて、下流は戸田を経て佃の海に至る。この川は水清らかで初夏のころより鮎が多いので、鵜飼や簗瀬をはったり、投網などいろいろな仕業で漁をしている。鰡(ボラ)や鱒などもまれにとれることもある。鰻もまた多く、現在、江戸で「荒川の大蒲焼」と称して売れるのは、荒川の物が味が良いからである。

(増)鰻については、本朝食鑑に述べられている。関東にもおいしいものがある。江戸の芝漁市で販売される多摩川産は、その味が最も上等である。深川産にもおいしいものが多く有る。その他では利根、箕輪田、中川、荒川産の物がうまいという者が少なくない。
久下の茶屋にはハヤなどを料理して粥にした名産がある。

古歌 荒川の 瀬に立つ鮎の 腸なれは それをうるかと いふへかりけり
   (大意 荒川の瀬でとった鮎の腸だけど、そんなものまで売るのか)
返し 秋さひの 鮎の腸をや うるかとは 聞きしにまさる ちちふねの母
(大意 秋めいた日鮎の腸(うるか=内蔵の塩漬け)を売っているとは、秩父で育った鮎は想像以上に上手いのだろう。うるかは掛け言葉)

  この二首は、秩父風土記簗瀬村の条に載っている。同書の注釈には、村名の謂れは簗を打つ事から始まるとあり、また忍領の川辺では簗代を徴収するなどと書いてあるが、この記録を見ると、間違いごとが多くあかしにならない。
老女の歌は、和漢三才図会に載せた。







< 増補 忍名所図会  巻一  終 >

2012年1月11日水曜日

城北1(蓮華寺、春日大明神、利根川 他)

◯妙法山蓮華寺 
   法華宗池上本門寺の末寺。本尊は三宝尊の一つの日蓮大菩薩で木造で長さは二尺、日法上人作である。本堂の横額に「妙法山」書とかれ、筆者は陳元贇(ちんげんひん、明からの帰化人で元贇焼きの祖)で正統派梅峰堂の書いたもの。

(増)調べてみると、元贇は明代末の人で、我が朝廷の万治の頃(1659)朱舜水と共に明朝の乱をさけて帰化した人。後に尾張に住む。深草元政上人と親しく、常に詩を唱和していたようだ。
鬼子母神堂 本堂の前、右側にあって長さは八寸で伝教大師の作である。
三十番神堂 本堂の前左手にある。
古碑 南無日朗菩薩とあり、裏には元応二年(1320)正月二十一日とある。今年(文政六年(1824)・洞李香斎が著述した)で五百四年経つ。
日朗上人の真筆の碑は門の内側の左手にある。日蓮上人作の大黒天がある。

略縁起
  当山の開基は日朗菩薩である。当寺の大昔は、真言宗として同国埼玉郡小見村に有ってすでに数百年になった。しかし文永年間(1264~1275)に日朗菩薩が佐渡へ旅行する時、黄昏になってしまい、しきりに一夜を望まれた。住職はその難儀を憐れんで、寺内に招き、暫く道路の状況や行き方を語っているうちに、宿善(前世の善根)を催し、最後には仏法の大義や顕教密教におよび数々の問答となった。最終的に法華(宗)に話題が白熱し立場が逆転した状態となり、「この地を日朗菩薩に提供するので、長く法華宗の霊場として建てませんか」と申したところ、日朗深く歓び即時に「妙法山蓮華寺」と改められ、天下安全、国家豊饒、二世(現世と来世)満願のための霊場になった。
   百余年を経て、忍の城主成田何某が城の鬼門に当たる所に、一乗妙典(一乗の理を明らかにした優れた経典=法華経)の精舎(寺院)を建て祈願所としたいとしていた折、幸いにもこの寺を中興して、元亀の頃(1570~1573)行程一里ばかりの忍領の谷郷へ移動した。その後永く国家鎮護の寺とした。

◯谷郷村 谷郷の郷(サト)という。 地元では、谷(ヤ)の郷(ゴウ)という。

◯春日大明神
   谷郷村の畑の中の森の内にある。大和国奈良より遷したといわれる。年月は詳しくはわからない。当村及び行田町の出生神としている。例祭日は決まっていない。別当は山定院で修験道でなる。

(増)古は奈良より神の使いとして鹿が来ていたが、ある時地元民が鹿を殺してしまった。その人は狂乱して死んだとか。それより後は鹿が来なくなったと地元では言い伝わる。またこの村中で里芋を植えることを禁じている。植えれば必ず祟りがあるといわれてる。当社に限っての由縁があるだろうが詳しくは知らない。

(増)成田記によると、当社は藤原氏の祖神であるので、成田家代々が崇め祀った。中略 天正十五年丁亥の春、成田氏長が当社へ参詣して、武運長久を祈願し拝殿に於いて奉納の連歌を興行した。氏長が発句し、随従の連歌師・園生、隋伝、小姓の桂千菊、横池虎一、堤笹千代などが連歌に加わったと。
その発句一二を記す。( )内は大意。
   むすべ猶 霧の花さく 神の春      氏長(発句575)
   (生まれろもっと 霧の花が咲くという 神の春)
   さしそう月に 朱(シュ)の玉垣     隋伝(77)
   (射し添う(さらに光が映える)月に朱色の玉(きれいな)垣根が見える)
   度々に 榊葉うたう 声はして      千菊(575)
   (たびたびに(折々に)榊の葉が うたうような声がして)
   とものうままに 袖のかすかす       虎一(77)
   (伴の男の言うことだと、袖の擦れるような小さな音がして)
   立ちかえる 都のかたや 近からし     笹千代(575)
   (まっすぐ立って見てみると 都の方が 近いらしい)
   道の行神 暮***けり  国松(77)
   (今回の旅の神は、夕暮れ瞬間を知っているのだろうか)
   かさなれる 山のかげより霞来て      能長(575)
   (幾重にも重なっている 山のかげより 霞が出てきて)
   春を知らする 雨のしつけさ        虎次(挙句77)
   (春を知らせるような なんと雨の静かな事よ)

◯行田山明王院 山伏(修験道)、谷郷村入口右手にある。不動尊(智証大師の画の脇二童子は智光大師の筆である)身代(みがわり)不動という。不動堂の横額の行田山は阿部正識(まさつね)侯の筆である。

(増) 当院不動尊は園城寺の什宝二幅のうち其一幅という。代々つたえられている話に成田下総守(名知れず)が園城寺に、しばし滞在した事があった。後に関東へ下った時にその什宝を取得し、その後当院へ預けた。古は行田新町、今の法性寺前あたりにあり、寛永年中(1624〜1645)にここに移した。開祖は阿遮利宗貞と言う。治承三年(1179)八月八日遷化(死去)した。

(増) 駒形大明神 谷郷村の西よりの字は二つ家という所にある。代々つたえられている話に皿尾村の雷電宮へ右大将頼朝卿よりの奉幣(ほうへい)の為に梶原景時が来た時、馬より下りて休憩した場所と言われている。神体は駒の頭を置き、きわめて古雅なる物である。但し木を刻んだ物である。

(増) 梶塚大権現 駒形社の東、畑の中にある。寛政年中(1789〜1800)に石碑を建てた。梶塚大権現と彫る。この辺すべて梶塚という。梶原景時が皿尾村の雷電宮へ参る時、馬を繋ぐ場所と言われている。最近迄は碑もなく名前だけだった。里人などが此の処を馬に乗って通り、或は誤って不浄の類を隠せば、たちまち不吉な事があったので、今のように碑を建、瑞垣(みずがき)を結んで崇祭(すうさい)した。この村の内、昔鶴ケ岳の宮寺領であった事が東鑑にあるが、今その地が何れかは分からない

   東鑑に、寛元五年(1247)七月十六日 大納言法印鶴岡別当職に補する後、今日始めて拝賀有り。また宮寺領武蔵の国矢古宇(やごう・谷郷)郷内、別当の得分を以て御読経料所と為し始め置かる所で、不断に大般若経を転読するとある。

(増) 利根川 又の呼び名を刀弥川、坂東太郎という。坂東第一の大河である。酒巻及び中条のあたりで川幅十丁余もある。季春(春の末)より首夏(初夏)の頃まで水源の雪解けで水が増加する。

(増) 利根川産物  鯉、鱸(すずき)、鮎児、鱒、鮭、鰻
   本朝食鑑によると、およそ鮭は東北の大河で採れる。本朝式に丹波・丹後・若狭・越前・但馬・因幡より生鮭を貢献した記述がある。今では越後・越中・飛騨・陸奥・出羽・常陸の水戸・秋田に最も多く、下総の銚子・下野の中川・上野の利根でも産する。また夏の未から云々とある。


   本朝食鑑によると、浅草川の産には美味しいものが多い。その他では利根川・箕輪田・中川・荒川の産で絶勝なものが少なくないと。
(参考資料 東洋文庫 本朝食鑑 島田勇雄訳註 平凡社)

(増) 百川朝宗(ひゃくせんともむね)が云うに、利根川は上野国の利根郷より流れ出て多くの川々が落合って川路二十八里余を流れる。栗橋関所の前より二流に分かれ、南の方は権現堂川という。江戸へ落合う。もう一つは栗橋宿より東の方へ流れ、赤堀川という。川下は下利根川と呼び東海の銚子口へ落ちる。

刀弥河泊乃可波世毛思良受多多和多里奈美爾安布能須安敞流伎美可母
(万葉集3413 利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波に逢ふのす 逢える君かも)

利根川は 上は濁りて 下澄て あるにはかなき 君そ恨めし
笹分は 袖こそゆれめ とね川の 石はふむとも いさ川原より




城北2(阿弥陀堂、須加城址 、中条川岸、酒巻川岸 他)

◯阿弥陀堂
   須加村の利根川土手の下にある。別当は小庵如来堂。江戸上野寛永寺の末寺。本尊は阿弥陀如来(長さ一尺二寸、作者不明)。

この阿弥陀仏は、須加村の百姓与右衛門の庭で、雪が降っても積もらず時々光明を放つ所から掘出したものである。与右衛門が領主へ申し出ると、如来をござに包み忍藩江戸屋敷へ遣わした。厩(うまや)の二階に置かれると、また光明を放つことが度々であった。
   その噂が桂昌院(将軍綱吉の生母)に伝わり、上野寛永寺に堂宇を建てて安置した。その時に桂昌院は眼を煩い、全く見えなくなった。いろいろ治療しても効果なく、特に眼病に熟練した薩摩藩の藩医田宮一山がいろいろ手を尽くしたが治らなかった。桂昌院はしかたがないと思い、日頃から信じていたこの如来に、朝夕一心に祈願するしかなかった。
   ある夜の夢で、如来が枕元に立たれ、元あった忍の須加村へ安置すれば病が治るとお告げがあった。桂昌院は不思議にもまた有難く思われ、早速この地へ如来を送ると忽ち平癒したので、この辺りに田地を寄付された。
   この時、医師一山は、凡夫の力及ばざるを感じ、また如来の利益著しきを信じて、藩医の職を辞し、ここにきて住まわれた。これが庵の開山である。後この地で遷化(死去)された。

(増) 江戸上野でこの如来があった所を信濃坂という。この如来が善光寺と同体だからとのこと。

    如来を安置する厨子は桂昌院の寄進。
    無量寿堂の額は忍城主阿部正識(まさつね)の筆
    阿弥陀堂の額は薩摩中将吉貴の寄付、琉球中山王の索書、
    清国福建省皷山沙門大心禅師の真蹟

「阿弥陀堂 為一山老人」
横額は横六尺余り、縦三尺ほど。
金色の地に紺青の文字








(増) 須賀修理亮泰隆の旧館跡
   荒木村から須賀村に入る道の右手にある。大塚や櫓下などの地名が残るのみでその形跡はない。田畦になっている。須賀泰隆は成田氏長の姉婿で、代々成田家に属し、天正一八年(1549)の籠城では成田一門として本丸に居た。

成田記によると、
『上州館林青柳城主赤井勝元は、北武蔵攻略には先に忍城を攻め落とせば他の城は手を下さずとも降参すると考え、天文五年(1536年)八月軍勢五千余騎を従え、忍城を攻めようと利根川を渡って住吉(荒木と上新郷の境辺り)の南に陣をしいた。忍城主成田長泰はこれを聞き、だまって敵を待つことはないと、城から一里余り出て、荒木川(いまの星川)を前に橋を壊し小箕(いまの小見)の堤を楯として敵が川から上るところを攻めようと待ち受けていた。
   折しも長雨で荒木川が増水して渡りにくくなっていた。赤井勢がためらっている所へ、須加城にいた須賀隆宗は郷士五百余りを引連れ、赤井勢の裏手に回り、幟旗(のぼりばた)をひらめかせて整斉と攻めかけた。赤井勢はその勢いに呑まれてしまった。足利城主白石豊前守一隊が忽ちに崩れ、川を渡って逃げ帰ると赤井勢は一気に動揺して数千の兵士が命令も聞かず散り散りに乱れ、東西に敗走し、利根川を渡るものもいた。須加勢は勝ちに乗じて追討し首三十余をとり、勝どきを揚げて城へ凱旋した。
   大将赤井勝元は遥か北側に陣をしいていたが、僅かな須加軍に見苦しく負けたことに憤慨し、その夜残兵を引連れて須加城へ押し寄せ、三方から火を放って攻め立てた。須加城はもともと簡素で兵力も少ないうえ、大敗した敵から夜討があるとは思いもよらず油断していたため、城を守ることができなかった。須賀隆宗はじめ兵卒は城を逃げ出し、成田の陣に加わった。云々』


◯中条川岸
   利根川土手の下、中条村にある。太平洋からの廻船問屋がある。

◯酒巻川岸
   右に同じ。酒巻村。




城北3(勝呂大明神(河原神社)、観福寺、浄泉寺、愛染明王(伊豆三島神社)、子安明神 他)

(増) 勝呂大明神(今の河原神社)
   南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云われる。高直は摂津国生まれでその昔明神様を信仰していたが、この地へ来たとき川越領勝呂村の住吉神社をここに移した。これより勝呂明神という。社領御朱印四石五斗。別当は本覚院。修験道。

(増) 真南院観福寺
   古義真言宗、一条院の末寺。川原太郎高直の草創という。御朱印四石八斗。高直兄弟の墓碑が本堂の後ろにある。

(増) 今村佐渡守重光の墓が同所(観福寺)にある。
   碑面 蓮乗院泰翁道寿居士 旧塔再建営
   天正十九辛卯年八月十七日川原姓今村佐渡守重光

(付録) 南河原村
   今村重光の子孫今村何某の家に、古文書「成田氏長の状」を保管している。内容は、
『この都度、内意の趣旨(成田家に仕えること)は承知しました。こちらへ此の旨をもって相勤すべきです。これにより五十貫文の支配ができることを、此の条項であてがう。帳面(文書)の内容で領知(領有して支配)することを、すべて可とする。
   天正五年(1577) 三月九日 (氏長印)   今村源左衛門殿』

(増) 長門本(平家物語の読み本)によると、
『浜の大手から蒲生冠者範頼が大将軍として五万騎で押し寄せた。我も我もと先陣を目指す中、武蔵国私党(しとう)河原太郎高直と同次郎盛直兄弟が馳せ来りて馬を飛びおり、生田の森の城戸口を攻め破り城中へ入った。守る城側は備中国住人真鍋四郎のはずが、実際には四郎は一の谷におり、弓の名手五郎助光が木戸口に配置されていた。河原太郎が逆茂木を乗り越えるのを見た助光が間をつめ弓を射ると河原太郎の左側の草摺(くさずり・鎧の胴の下に垂らし大腿部を被い護るもの)の端に当たった。河原太郎が膝がすくみ弓を杖にして立っているのを弟小次郎が寄ってきて兄を肩に掛け戻る所を、助光が二の矢を射た。小次郎の右膝に当たると小次郎は兄を枕に倒れた。云々。』

   今村佐渡守重光は川原太郎高直の末裔で成田家中に属していた。天正の役(忍城水攻め)で籠城して軍功があったと云う(軍記等に所見なし)。子孫もこの村(南河原村)におり、今村河原太郎左衛門と称す。同所入口に川原高直旧所と記した石標がある。

(増) 高直旧館の跡
   南河原村の北裏側にある。土塁や堀の面影が少し残っており、昔を忍ぶことができる。おそらく今村佐渡守重光の旧館であろう

(増) 多度両社
   利根川の内側の土手近くにある。文政年中(1818〜1831)に松平侯が北伊勢から遷された。霊験著しいと近国に轟いている。

(増) 神護山浄泉寺
   曹洞宗龍淵寺の末寺。下川上村の川近くにある。寺領御朱印二十石。本尊は阿弥陀如来(一尺ほどの座像で、作者不明)。

浄泉寺縁起
   そもそもいつ誰が開山したか不明。保延六年(1140)に建立した門があり、七百年が経っている。それよりやや古い熊野権現を祭っている。龍淵寺三世の桂儒和尚を招いて開祖とした。上杉謙信の開基と書いたお札が堂内にある。前を星川が流れ後ろは静かな林になっており、本堂・山門・廻廊・鐘楼・寮舎・坊舎など全て備えている。六世になって慶長九年(1604)十一月、神君家康公より御朱印二十石を賜り、代々相続している。
   このような霊場だからであろうか天保三年(1833)上州邑楽郡五箇村の田島氏から阿弥陀尊像が奉納された。この尊像は東武蔵にいた某侯が持仏(守り本尊)としていたのをいただいて持ち帰ったもので、家の持仏としたら代々病難が続き、漸く治まったので、良し悪しを考えず村の御堂へ納めた。するとまた一族に祟りや種々の病難が起こった。不思議にも家の主へ夢でここから南西に衆生結縁の地があるのでそこへ移住させよとお告げがあった。どうするか考えていたら又夢のお告げがあったので一族に相談した。一族の中江袋のものが、南西なら自分の隣村にある下川上浄泉寺ではないかと云うと、皆同意した。
   こうして阿弥陀尊像をこの浄泉寺へ迎え本尊の前に安置すると、感応霊験あらたかで、近里遠境から参拝する人が群れをなした。誠に念仏衆生接取不捨という教えの瑞祥(めでたいしるし)である。益々日々盛んに貴賎問わず参拝に訪れ、門前に市ができた。それ故その因縁を説き、功徳を称え、末永く伝えるため山門に記す。

    四天門 四天王を安置する  惣門 保延六年の棟札がある 
    鐘楼 四天門の東にある  熊野権現 寺の東、森の中にあり、浄泉寺の鎮守 

熊野縁起
   ある夜、寺の上で急に雷電暴風が起こった。雲の中には白衣に長い冠をつけ、たくさんの従者をつれた神様がいた。神様は惟道(開祖桂儒和尚)の前に来て、「我は紀州熊野権現だが、長い間和尚の教えを聞き、護法の為にここへきた。寺境の東に安置すべし」と告げた。惟道だけが見え他人には見えなかった。惟道は限りなく歓び、すぐに神様が指定した所に神祠を造った。このことから山号を神護山とした。惟道は永正一六年(1519)十月七日遷化(死去)。

(付録) 池守村子安明神の伝
   神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり、色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
   昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。
   天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。
よって 再び今のように鎮座していただいた。

◯愛染明王
下川上村の西寄りにある。

2012年1月10日火曜日

城東1(八幡宮、大長寺、長久寺、久伊豆大明神、我空堂、白山妙理大権現 他)

◯八幡宮 八幡町にあり神主は松岡若狭という。

(増)田中の八幡という。本社末社とも壮麗である。昔は田の中にあって小さなお宮であったものを成田下総守が修繕して鎮守とした。是より城守八幡という。その後今のような町割(区画)があり八幡町という。八幡町は巧匠が多く住んでいたので大工町とも云う。裏町を木挽町という。

◯亀通山行田院大長寺
   京都百万遍知恩院の末寺で下町の突き当りにある。本尊は阿弥陀仏で長さ3尺ばかり、作者知らず。多聞天堂が門の向かい側にある。額が多く香閣篆書(こうかくてしょ)や南楼関其寧(なんろうせききねい)がある。鐘楼が門内にある。
大仏[唐銅の釈迦仏坐像で長さ八尺、蓮座は六尺、高さ二尺余り]紗門信阿(さもんしんあ)和尚が奉納する。

古碑 門内にあり暦応(りゃくおう)二二年(1341)とあり酉年まで五百年、二二は四の古字である

(増) 小沼堂 大長寺の末寺。長野口御門の外にある小さい堂である

(増) 芭蕉翁句碑  古池や蛙飛びこむ水の音  はせを(芭蕉)

唐銅の地蔵仏[坐像六尺]

亀甲松の跡  町の裏にある。松は枯れて無い。謂われは判らない。

(増) 長野村 民家があり桜の馬場と云う。東の外れに馬場が有るためである。

◯馬場 三丁程の土手の上に彼岸桜が何株かあり花の咲くころは殊によい。

(付録) 長野村 長野三郎が住みし旧地と云う。武蔵風土記にこの場所は秩父(畠山)重忠の弟長野三郎重清が住みし里とあるが、土地の様子は分からない。
東鑑十五に鴛三郎は重清也云々とある。同四十八に永野次郎太郎・忍小太郎云々とある。

◯応殊山擁護院長久寺
   新義真言宗で山城国宇治郡報恩院の末寺。馬場の中程にあり地領三十石の御殊印。本尊は観世音菩薩[坐像三尺作者不詳]。不動堂が本堂の前右にある。
此の寺は、文明年間(1469~1487)の半ばころ成田下総守顕泰が建てたもので代々祈願処とした。開山は通伝上人である、文明年間死去。

◯久伊豆大明神 長久寺の北にある。

(増) 我空堂 小さい庵である、村の中程にあり、薬師如来を祀ってある
(増) 縁起
   此の薬師如来は仏工が刻んだものではなく、画工が描いたものでもない。大権聖者の加持力によるもので凡人には見えることはない。御利益がある事は鏡に姿が写るように、谷に木霊が響くがごとくである。昔、弘法大師がおいでになった時、この地を加持し木を植えて、「ここに薬師如来がおります。ここにきて頼みたるものは必ず利益(神仏が人間に与えるお恵み、幸運)を受ける」と云った。其頃はこの木から光明がかがやくことがあると云う。木は何の木とも伝えていない。
  いつの頃か大榎が有り根元より水が湧き出、その水で諸病が癒えたと云う。時代は明らかではない。しかし大師よりは数百年の後と聞く。大師の植えた後に植え続けて何度も替ったのだろう。元禄初めの頃は杉の枯れ株が少し残っていたが、それも朽ち果て何もなく垣根を結って置いて数年たつ。元禄14年(1702)に今の仏像を安置し奉った。これは元の枯れ株のあとである。昔有る人が御堂を造営しようと思ったが、その夜夢に塔堂は造営してはいけないとお告げがあったという。昔のように木を置くだけでよいとのお告げもないが、変わらず御利益があるは、如来の計らいで凡人の目には見えないが常にここに如来がいることが明らかになった。
   正徳六年(1710)三月この地に住んでいる僧が死んで親しき友人二人がここに葬った。其夜、二人の者が発狂して云う。我この地に死体を埋めて薬師如来をけがし、其の罪は重くしてこの苦悩をうけていると云いながらすぐに掘り出し他所へ移したらすぐに恢復した。
此処に薬師如来が居ると云う大師の言葉を疑う者はない。是より衆人の信仰はますます盛んになった。
  この地はいつ頃からか判らないが生い茂った森から毎夜夜更けになるとから臼を突く音あり、何者の仕業ともわからない。その音、ガッカラガッカラと聞こえる。是に依り俗に、がっからの森と呼んでいる。 今この辺の田圃をがっからというのは森の跡である、土地によってはがっからの薬師と呼ぶ者がある。俗に言う蛸薬師虎薬師の類と思い、がっからとはどういう謂われだろうかという人がある。地名であることを知らないとそう思うだろう。ここに来た人が御利益を得るは大権現聖者の開基した霊場であるからである。心強い味方である、大師のお力は龍花の暁に至るまで永久につづく。尊び信ずべし。

(増)薬水の井戸 薬師堂の側にありこれを汲み湯として浴すれば諸病に効き目がある。享保(1716~1735)のころ迄は遠くから多くの人が訪ねてきて村の賑わいは云いようがないほどで、或いは芸妓を招き宴会をおこなったとある。これほどの賑わいとなり村人は此の水を汲み取り各自浴室を設け儲けようとしたことにより村中の口論となり、遂に領主より浴場や宴会を停止させたので茶店や旅館もいつか元の農家となったので、次第に来る人が少なくなった。けれども法水(仏法が煩悩を洗い清めるのを水にたとえていう語)の御利益を得る事は今も変わらない。来て浴すると諸病が必ず恢復する。此の水の不思議なことは僅かの湯桶に数十人がはいっても濁ることがない。じつに薬師如来の霊験著しいことを信ずるべきである。

◯白山妙理大権現 
   長野村の東寄りにあり、当村の鎮守である。薬師如来の小庵は、若小玉村の中ほどにあり、阿波徳島の平等寺に似せて作ったという。


城東2(岩窟地蔵尊、浅間山(八幡山古墳)、萎竹、小針沼、真願寺 他)

(付録)若小玉村 わくたまという。若のちぢまりである。又若を和久と読ませる古例がある。当村は若小玉小次郎直家の居住の地という。その旧地はどこか分からない。殿山と云う所あるが、再考が必要である。武蔵国若小玉の一党はみんな団(団扇)の紋を付けていたなど軍記の語に見られる。

◯岩窟地尊(いまの地蔵塚古墳) 
   若小玉村の中ほど西寄の山のふもとにある。入口には、たて六尺、よこ三尺の扉等がある。四方に切組みがあり、内法(うちのり)は六尺、四面いずれも似た形をしている。

◯浅間山(いまの八幡山古墳) 
(増) 若小玉村のたんぼの中にあり、往還より右手のほうにある。高さは、およそ八間(約14.5m)ほど、周囲は二丁(約218m)ほどで、この山にも岩窟がある。青石が組まれ、その形は小見埼玉にある小見真観寺古墳と同じである。中に、石碑に八幡宮と彫って祭ってある。岩窟の八幡と言われている。石の径は、大きいもので二間ほど、小さいもので七〜八尺ですべて六枚ある。

◯愛宕山(いまの地蔵塚古墳と八幡山古墳の間辺り)
(増) 浅間山に並んであり、高さ、周囲とも浅間山に同じで、山の上に祠(ほこら)がある。

(増) 萎山(しなびやま) 
   若小玉村の入り口右手の民家の裏にある。しなび竹が生えているのでこの名とし、古い碑が二つ藪の中にある。ひとつは、元久元年(1204)とあり、今年末で632年経っており、もうひとつは文永三年(1266)とあり、同じく574年経っている。碑には梵字のようなものがあるが、大方は磨り減り砕かれており判読することができない。

◯萎竹 
しなひ竹
   民家の裏にある。むかし弘法大師が当地を廻ってこられた時、農民与八という者の家に立ち寄り、杖竹(つえだけ)を所望された。此者、極めて欲深な者で、「私の山の竹は、ことごとくしなびており、杖にはなりません」と断った。それからは不思議なことに毎年生えてくる竹は、皆しなびていたという。今は山もだんだんにうちこわして畑としたため自然に竹も生えなくなった。
   弘法大師はまた同村の千蔵という者の家で、同じく竹を所望したところ、気持ちよく承諾された。その時大師は、自分のふくさを取り出して、一首の歌を書いて下さった。これを今も所持しており、私も見たいと思い持ち主にお願いしたが、朽ち果てて文字も良く見えないため見る事が出来なかった。

今年、生えた竹を七、八月頃に切って乾かしたように、肉厚は薄く、太く、周りは七、八寸を超えるものもあり、花生けなどに用いるのに、はなはだ雅である。
   色が青く、常の竹と変わらない。苦竹(マダケ・メダケ)である。枝や葉も替わることがない。

(増) 小針沼 
   小針村の南西にある。東西径三丁程、南北五丁程である。斎条川その他の小川が多数流れ集まって水が溜り、一年中水がさんさんとしている。下流は埼玉の川に流れている

(付録)小見村 小見左衛門時家が旧地という。時代は不明。

(付録)白旗明神 白川戸村にある。天文年中(1532〜1555)に上杉謙信が上野国より攻撃して来た時、ここで軍勢を揃えた。そのため今はその場所を馬揃(ばそろい)と呼んでいる。それからこの場所に白旗一流(ひとながれ)を取り落したのを、土地の人が拾いこれを石櫃(せきひつ)に入れ土の中に埋め杉の木を植えた。今でも白旗明神と崇(あがめ)祭られるが杉樹ばかりで神祠はない。

◯慈雲山真観寺
長久寺の末寺では最古の寺。小見村の入口、日光脇往還の向いにある。寺領10石御朱印。
観世音堂が本堂の西にある[仏像の長さを知らず]
寝釈迦堂が山門の内側右手にある。[仏像は青銅製で長さ六尺程」
阿弥陀堂が山門の内側左手にある。
山門[外に金剛力士二王を安置」
岩窟が本堂の後にあって観音堂の脇より入る。長さ八尺の正方形の青石で組まれた岩窟で、そこには縦三尺×横二尺の入口がある。内部も青石で広さ八尺の正方形、石地蔵を安置していた。

(増)  真観寺縁起
   当山は観音菩薩(古賢剏締の梵刹観音薩埵)が降りたった(垂応の)霊場である。時は推古天皇(豊御食炊屋姫)の御代にあたり、摂政聖徳太子(上宮太子)の命令によって大仁鞍作島臣が東国の街道を整備し、肥沃な土地に良田を開き、水路を安定させ、開拓を進めていた。仏師でもある鞍作島臣はこの地に来て計り知れない霊場だと感じ、観音菩薩像(自手観音施無畏の像)を彫刻し、伽藍を作って安置した。当山が栄えた頃は厳かな堂坊が無双の荘観だったとか。
   しかし興廃起伏の時を経て次第に荒廃し、本堂の形のみ残るが、柱は傾き、甍は崩れ、雨露に朽ち、荒れ果てた地になろうとしていた。人皇八十四代順徳天皇の御代、建保年中(1214~1219)になり、滝憲阿闍梨という僧が久しい霊場の頽廃を嘆き、これを再興した。朝夕の御勤めなど当山を支え(朝夕に本尊の瑜迦を修し)、寄付を東西に募る(他疏を東西に唱えられる)こと、約二十四回にして漸く旧観に戻った。滝憲阿闍梨は仁治三年(1243)八月死去した。当山中興の開祖である。それから三百年余りの年月を経て密教(真言宗)が盛んな地となった。
   また元亀年中(1570~1573)には、古河公方足利氏による兵火の巻き添えをくい、堂舎僧坊は1棟も残らず焼けてしまった。しかし本尊施無畏の尊像は老松の枝に掛かっていて灰塵とならずにすんだ。そこで小さな堂舎を建てこれを安置した。その後天正十八年(1590)石田勢の水攻めにあい、大いに荒廃した。
   このような数度の災いにより、古の形も無くなっていたが、慶長九年(1604)十一月、観音菩薩の由来が東照神君家康公のお耳に達し、寺領十石の御朱印と境内竹木乱防の御制札を賜った。これにより当山が盛えて昔に戻った。
   境内には昔から古墳(丘墟)がある。寛永の頃(1624~1645)、これを掘って土の階段を築こうとしたら、土中に石籠が見つかった。大きさは八九人が入れる程で、石を組んで櫃(おひつ)のような形である。昔何のために作ったのか分らない。伝える文書も言い伝えも無い。今はこの中に石地蔵を安置して窟(いわや)の地蔵と呼ぶ。実に不思議な古墳である。


(増) 法華坊
   観音堂の西方四五十歩で、民家がある所。ここは北谷蓮華寺の旧地だった。三十番神(法華経を守護する神)の石詞が小高い所にある。元亀年間(1570~1573)に今の北谷に移ったと寺記に書かれている。


城東3(荒木天神、長善沼、天洲寺)

◯荒木天神
   荒木村の中程右手にある。村の守り神(出生神)。例祭は7月25日、この日はささら祭が奉納される。ささらは少し品のない踊り(鄙ぶりたる技)だった。

長善沼 
   荒木村の東にある。荒木四郎長善は北条家の家臣として1万石を領有していたが、ここが居城の跡である。ところどころにある小さな土手が掻上城(積み上げて作った城)の面影を残す。沼の中にも小高い所があり、村人はこれを御殿地と呼んでいる。

(増) 今もこの長善沼から鏃(やじり)、銃丸、鎧の鉄物などが堀り出される事がある。村人が云うには荒木四郎長善は成田家の氏族で、忍城にいたが職を退いた後ここに掻上城を築き住んでいたとか。
   成田家の没落と共に没したのか不明。更に調査検討を要す。成田記には荒木越前がでてくるので荒木四郎は同じ血筋の人であろうか。又この城がいつ没落したか分っていない。天正十八年(1590)の籠城では、須加や市田のように要害を捨て忍城に入ったのかも不明。天文五年(1536)に成田と赤井が戦った時、この辺りは陣地になったはずである。しかし成田記に須加城は記述されているが荒木城の記述は全くない。なお東国諸戦記にも見たことがない。はたして掘出された兵器は本当に戦さの際に貯めおいたものだろうか。
  成田記では、『上略 上野国青柳の城主赤井山城守勝元が、近年勢いを増し、上野国の板倉・飯野・北大島・藤岡・面島・小泉・足利等の城主を幕下となし、近国を押領し天文五年 (1536) 八月、上武の境である利根川を渡り、住吉の東に陣をすえて忍城を攻めようとした。忍城主成田中務少輔長泰は城から一里ほど押出し、荒木川を前に橋を壊し、小箕(小見)の土手を盾に備えていた。おりからの雨で水かさが増し敵が川を渡りかねている所に云々 下略』とある。

◯聖徳山天洲寺 荒木村の南にあって曹洞宗清善寺の末寺。 
   太子堂が門内の向こうにある。太子立像は十六歳の時の自作である。同所内陣の横額の「聖徳太子」の四字は、阿部正識の御筆である。同所の外額の「太子堂」は、佐文山の筆(阿部候の儒学士)である。山門に、石像の四天王が安置されていて長さは各六尺である。

(増)縁起
   日本一尊い東皇太子(聖徳太子)が十六歳の時の鏡に映った御影(ぎょえい)の縁起である。救世観音が上宮太子に姿を変えて、日本国の民衆の利益のため、人皇三十二代用明天皇の御子にお生まれになり、同三十四代推古天皇の皇太子になられた。
太子は、あらゆる政治を執行され王道の模範である十七条の憲章をつくられました。古今の風俗を戒め、法敵の守屋(物部氏系の豪族)を誅殺し、我が国に初めて仏法を興隆させた。
   天竺(インド)震旦(中国の古称)より仏像や教義・論蔵(経典)を拝み迎えて、即座に紫震殿に於いて勝鬘径(しょうまんきょう、大乗仏典の一つ)を講義された。三宝(仏法僧)の功徳(くどく)を教化し千人余りの僧尼を読み諭した。且つ亦、摂津の国に四天王寺を仏法最初の寺院として、また国々の国府寺(国分寺)並びに所々に多数の大寺院を建立されました。
   それ以来、日本は仏法繁栄の御国になったといえる。又、百済国の感徳王に命じて、諸々職司(しょくし、役目)の者を招き士農工商など万業の奥義を学習させ、今ここで我が国に、それを日本国中に広く伝えた。営業・事業は偏(ひとえ)に皇太子の恩徳を受けない者はない。
   また当寺の尊像は太子十六歳の時、父天皇のお悩みの平癒をお祈りしている自分の容姿を、鏡に向かってつくられた日本一尊いご自作のお姿である。よって十六歳の孝養の御影とし、また悪魔を降伏した御形(みかた、神体や仏像)としても崇め申し上げるものである。
   そもそも当寺に安置いただいたのは、人皇四十五代聖武天皇の時代、神亀三年(726)に行基(菩薩)が尊像を背負ってきて、今のお堂の東に方にある大きな沼の、その中央にある島に安置したのである。
その後、後醍醐天皇の御世の元応二年(1320)、荒木四郎という者がこの尊像を沼の中の大きな島に移して、この島を城地として居住した。そのため尊像は毎夜光明を放ち、また沼の中より龍灯(=灯籠)が灯っていた。その他に霊験あらたなること明白であった。これによって、四郎は信仰する気持ちになり、すぐに当寺を開基し摂津の四天王寺の霊地をまねて山を聖徳山と号し寺名を天洲寺とした。
    四方に、四天王、住吉、八王子などの社を歓請し、中央に御堂並びに山門、回廊等の甍(いらか)を並べて建立した。それ以来、東皇太子として崇めました。天正年間(1573~1593)、故あって荒木長善の代に至って館を遠境に移した。今旧館を名づけて長善沼という。島を太子島という。今でも、沼の中より龍灯が出現し宝前に出てきた。その他霊験あらたなる事は古今同じといえども、星霜(せいそう、年月)が相当移って、諸堂はことごとく風雨のために傾きすでに衰廃していた。そこに去る寛文十一年(1671)、忍の城主阿部豊後守藤原朝臣忠秋候は、尊像が風雨で傷むことのないように太子堂を寄進した。


城東4(新郷宿 、 別所の松原、 大亀の甲、川俣御関所 他)

◯新郷宿
(増)宿内は五丁ばかりの長さで日光街道の駅である。川俣の関所へ三丁、舘林へ二里、行田へ二里である。茶店、旅店、商家、農家など軒を並べ、道は東西に分かれている。

◯与木大明神
   宿の中ほど東側にある。昔洪水で弊に神号を書きつけた杉の木二本が流れついた所から、これを祭る。何の神かはわからない。杉は大木になっている。

(増)たぶん寄木(水辺に着いた木)で作られた物であろう。ちなみに以下を参考に引用して伝える。江戸砂子という書物には、与木大明神は洲崎町にあると書かれている。源義家朝臣が安倍貞任、宗任を征するため東国へ下向の時。ここに馬を留めた。この寄木の社を拝もうとして、その来歴を訊ねた。地元の漁師がいうことには、この社は日本武尊と橘姫を祭る所です。橘姫が海中に身を投じた時、その身が砕けて所々に飛散しました。ここに流れ着いた木を社に祭り、二神を勧請し寄木大明神として崇めるといい伝わるとか。当社もこの類か。

◯天王宮  宿の北、突き当りにあって大社である。 
宿内の出生(産土)神としている。例祭は、六月二十四日である。

◯別所の松原 新郷より別所への道の片側にある。この松原へ行く前の小川が、上武との国境になっている。

(増)大亀の甲羅 
   新郷の村長の須永某が所蔵し伝えている。昔、この家に一人の下男がいた。上野の国の生まれで家は利根川に近い。老婆がいるこの二十歳位の下男は、性格が温厚実直でよく親に仕えていた。主人の家でもよく勤めたので、周囲の人は皆この下男をかわいがった。下男は毎日主家の仕事を務め終わると、家に帰って親の面倒を見る事が普通であった。
   ある日親の元へ行こうとして利根川を船舟で渡ろうとした時、あやまって川へザブンと落ちてしまった。ちょうど増水していて舟と人とは遥かに離れてしまったけれど、もとより水に手なれた下男なので、やすやすと岸の方へ泳ぎ着こうとした。
   その時急に波が立ち騒ぎすざましい光景の中、水中より一匹の大亀が浮かび出て、下男をめがけて追ってきた。下男は、これを見て驚き恐れて逃げようとしたが、やがて背中から抱きつかれて食われそうになった。下男は逃れたい思いで、腰の刀を引き抜き、力任せに後ざまにしたたかに突いた。亀は明中(眼)を、突かれて弱る所を続けさまに切り伏せ、そのままその亀を引っ張って岸に登りかろうじて危難を逃れた。亀を自分の解いた帯で縛り、側の松に結び付けた。家に帰りしかじかの事と語り聞かしたら、皆舌を巻いて恐あった(悪いことが起きなければと)。
   夜が明けて、主家に帰ろうとしてその場所に来てみるとそのまま亀は死んでしまっていた。これを提げて主家に帰り、あった事など語り主家に帰ってくるのが遅くなったことを詫びたところ、主家の人々これを聞いて奇異な想いをする一方、且つその過ちなかったことを歓んだ。これは全く孝行の現われであって、よくこの危難を逃れたものだと下男を賞した。その亀の甲を二つにし、一つは主家の家に置き、もう一つは下男の家に送り孝行の証としたとか。

◯川俣の関所
(増)別所の北、利根川の堤の上にある。女性、鉄砲など改める(厳しく検査する)ことは、 箱根や新井の関所と同様である。



2012年1月9日月曜日

城西1(久伊豆大明神、正覚寺、阿弥陀寺、剣明神、長福寺、宝蔵院、常慶院 、泉蔵院、久伊豆明神雷電宮、岩蔵明神 他)

◯久伊豆大明神 大宮口御門の外にあり、別当は亀行山峯雲寺、修験道である。当社の鳥居は、往古は今の沼尻組屋敷の東はずれにあった。その頃、神君家康公が御入国の時、どうしてか笠木に亀が昇っているのを御覧になり、吉瑞(きちずい)の印と御感悦であった。これより号して亀行山というようになった。

(増) 大宮御門というのもこの久伊豆大明神があったのでその名がついた。荒井、田町等の出生神である。

◯慶祐橋 持田組屋敷の裏、大宮口より持田村へ行側の川に架かる橋をいう。一偏上人の門下慶祐の退転の跡なのでそう呼ばれている。

大雄山正覚寺 
持田村の往還の左にあり、浄土宗鴻巣勝願寺に属す。知恩院末寺。寺領三十石。阿部侯の代々の位牌処である。古碑が門内に置かれ、文永十一年(1274)の年号がある。当御本丸の堀より出たといわれている。

(増) 寺伝に、往古は真言宗の梵刹(ぼんせつ・寺)であり、久しく荒廃していたのを成田氏長が開基した。鎌倉光明寺廿一世の智教上人をお招きし、長くここに居らした。この人は当寺の中興開祖である。その後松平下野守忠吉侯が菩提寺とした。忠吉侯の嫡男である梅貞大童子(ばいていおおどうじ)殿の墓碑が寺内にある。

◯持田山阿弥陀寺 正覚寺より一丁ほど右にあり、時宗藤沢清浄光寺(しょうじょうこうじ)末寺。開基は二世遊行上人である。

(増) 諏訪明神 阿弥陀寺の裏手、一丁ばかりにある。御城内の諏訪明神は、古はこの所にあった。今の社は後に祭ったものである。

(増) 剣明神 往還の右にあり、祭神は素盞烏尊(すさのうのみこと)と日本武尊である。

(増) 常楽山長福寺 
  剣明神の後にあり、持田村の新義真言宗宝蔵寺の末寺。当寺は法印祐慶阿闍梨という聖の開基である。寺内に墓碑があり、寛平三年(891)の年号が彫られている。

(増) 宝寿山地蔵院宝蔵寺 持田村の往還の右にあり、小平村の新義真言宗成身院の末寺。宝治二年(1248)、延応二年(1240)等の古碑印塔がある。

(増) 星川の末 熊谷へ行く道は星川を左手に集めている。忍の用水である。川の源は石原村及び熊谷の石上寺の庭にある池より湧き出ている。その池を星川の池という。この川辺は初夏の頃より蛍多くて夜景がことに良い。夕ぐれが過ぎ、貴賤の区別なく蛍狩にうち集って行けば、川風が千町田の早苗を波うちゆらせ、物思いする人の袖などで露の玉かと乱れ来る蛍の光、大変涼しく見えるがうちわをふる(うちもけつべく(打ちものをたたき))処女らが蛍を狩争う影さえも映している

(増) 常慶院 
  持田村・皿尾村へ行く道の左手にあり、曹洞宗成田龍淵寺末寺。寺伝に、成田親泰の姉(名はわからず)は龍淵寺の四世以州和尚に受戒して尼となり、朝夕念仏に集中し一心に修行を行なっていた。さらに以州を招いて、庵に来てもらう事を乞うたようだ。師は大変老い衰えていたので、その徒弟の養仙が来た。永正十三年(1516)五月に尼が死去したので、一寺を建立して大用山常慶院と号した。開山は養仙和尚で、尼の墓碑は印塔にある。

(増) 深田 常慶院より東の方、皿尾口御門の外の皿尾村辺りに田が処々にある。天正の役に野々村伊予守がこの村に陣を張り、皿尾口に押し寄せても左右深田で進退自由ならず、城中の小勢に散々に打ち砕かれた。今なお田圃の中より打物・鉄物の類を掘り出せること時々あるようだ。

(増) 掻上城跡 皿尾村にあると云うが、その地は定かでない。外張という地か、もしくは旧地と言われている。

(増) 永井領の石標 
  村の入口、南の巷(分かれ道)に、「是ヨリ北長井領」の石碑がある。

考えてみるに、この村より北は永井の庄というのは、後の世の人が誤ってこの様に記してしまったのだろう。

◯与昌庵
  皿尾村に入る入口左にある。薬師堂は別になっており、俗にこの薬師を姫薬師と呼ぶ。成田氏長の息女が建てたもので、婦人の願いがよく叶うらしい。諸願に際し納めるかわらけ(素焼きの盃)に穴をあけ、糸を通したものが堂内にたくさん在る。
阿部侯の家来加藤氏の娘は生まれながらの盲であったが、この薬師に祈願したら、日ならずして見えるようになったそうである。毎月20日の日だけ願いをかけるという。

◯無量寿山泉蔵院
  新義真言宗。下忍遍照院の末寺。皿尾村の中ほど右にある。

(増) 昔はたくさんの堂舎があったが、今は僅かに小庵のみである。天正の水攻め攻防では寄せ手の野々村伊予守の本陣であった。

◯久伊豆明神雷電宮
  皿尾村の西端にある。文治四年(1188)四月成田五郎成景が建立した古い社と神官が語っている。鳥居から社まで白梅がたくさんあり、初春は特に美しい。神主は青木主殿。

◯岩蔵明神
  池上村の西寄り右側にある。疫神(やくびょうがみ)。例祭三月十五日。神主は茂木丹後。


城西2(久伊豆明神(上之村神社) 、龍淵寺 他)

(増) 成田郷
  今の上之村である。成田(式部太郎)助高の館は東光寺の辺りにあった。八幡・天神などを祭っていた。殿山や堀の内などの地名に名残りがある。
  上之村というのは、成田を名字にしたので上の村(かみの村)と称したというが、恐らく間違いだろう。これまで上之村と云う事は他に見たことがないからである。また一説に、雷電が座す地なので神の村というのを上の村と字を誤ったという。この説はどうか。検討要す。
  鎌倉大草子(室町時代の鎌倉・古河公方を中心に関東の歴史を記した書)によれば、足利成氏が成田へ攻めてきたのは文明十年(1478)七月である。このとき太田道灌は荒川を越えて成田と鉢形の間に着陣したという。
  この村は埼玉郡と幡羅郡の境にあり、成田家伝にも幡羅郡成田の地云々とある。この辺り一帯は武蔵国の西北端だが、里のさきに遠くまで田畑が広がり、眺望が非常に良い。西方遠くに険しい山々が連なり青い波のように見える。富士山が秩父の嶺々から抜き出ている。

(増) 回国雑記 (室町時代の旅行記、道興准后の作)
  成田で初めて富士山を詠んで
言の葉の みちも及ばぬ 富士の根を いかで都の 人に語らん  准后
また逗留して
俤の 替る富士のね 時しらぬ 山とは誰か ゆうべ曙    同

◯久伊豆明神
  雷電宮。上之村の中ほど右側にある大社で、松や杉が繁茂して森のようである。例祭が六月二十八日にあり神輿を渡す。別当が輿に乗り、二匹の駿神馬に神職が乗ってお供をする。 社の前の道を馬に乗って通ると祟りがあるので、塁を築き別の道を造った。これが馬道である。
 御祭神として末社の太郎坊と次郎坊が本社の左右にあり、比売神が本社の後ろにある。神体には両腕がない。不器用な者が祈れば叶うそうで、もしかするとボロ布の切れ端や、工匠が使う道具などが社前にかけてあるのは願い事が叶った故であろうか。
稲荷社が左側、天満宮が右側にある。
神泉が雷電宮の後ろにある。霊泉で一年中水が増減しない。干天に雨を祈る際は、この水を汲み神前に捧げる水を替えると忽ち感応があった。
随神門が鳥居と本社の間、鐘撞堂が随神門の内にある。鳥居が社地入口に南向きで建つ。鳥居は石で造られ高さ一丈余り。
別当は伊豆山久見寺で、雷電社の右側にある。新義真言宗、一乗院(上之村)に属す。
雷電社領三十石御朱印。当社は雷除けのお守り札を出している。雷を恐れる者が懐に抱けば気が転じて恐れないと云う。貴賎問わず参詣がある。

◯太平山龍淵寺
  上之村の北寄りにある。曹洞宗。越前国南条郡にある慈眼寺の末寺。寺領百石御朱印。

(増) 本堂、僧坊を全て備える寂寞たる霊場と云える。
御宮(寺内東寄りにある)
権現水(御宮のそばにあり、極めて霊泉である)
龍ケ淵(寺内の藪の中にある。六寸沼とも云うが、この淵に住む龍は普段六寸程の小蛇なのでそう呼ぶそうだ。)
下馬札(惣門の前、脇正面に建つ)

制札が下馬札の脇にある。
  「 禁制   龍淵寺
   一、軍勢も何人も乱暴狼藉を禁ずる
   一、放火を禁ずる
   一、地元の人や農民に対する不法な申し掛けを禁ずる
   以上の条々硬く停止せしめる。違背の輩は速やかに厳科に処す。
    天正十八年四月  
              御朱印 」

  龍淵寺の寺記によると、開基は和菴清順で、生まれた国もどこで亡くなったかも不明だが、当時は羅漢和尚と呼ばれていた。
  当時の成田の城主は成田五郎(家時)で、ある夜白い蓮華の夢を見た。不思議に思い、明朝城の周辺に白い蓮華がないか探させたが見つからなかった。この時、城の南東に阿弥陀堂があり、そばの木の下に一人の異僧が静かに座り、その手に白い蓮を持っていた、その様子が凡僧でなかったので、立ち帰りありのままを五郎に報告した。
  城主成田五郎はすぐ連れて来るように指示した。急ぎ使いをたて、その僧を城に招きたいと伝えたが、僧は事情があるのでと承諾しなかった。しかし使いが再三に及ぶとようやく登城した。成田五郎は、会って本当に凡僧でないと分ったので、「貴僧がこの地に留まり永く国家清平・五穀豊穣・衆生利益を祈願していただけるなら寺院を建て寄進したい」と伝えると、僧は喜び、「それでは成田の大淵を給わりたい」と乞う。五郎は、「それは容易いが彼の淵には古くから毒龍が潜み人を害することが多いので、他に浄清な土地があればそちらがいいのでは」と云ったが、僧が「彼の淵は化縁の地なので」と強く望むと、五郎は僧の意志に任せた。また五郎が「彼の淵は深さ数十丈あり、容易に埋められない」と云うと、僧は「それは差支えない」と彼の地へ赴いた。僧は淵に着くと水上を平地のように歩いて進み、淵の中央にある島に座った。お世話する為に送った人々は呆然として言葉もなく、急ぎ立ち帰って五郎にありのままを報告した。五郎は奇異に思い、やはり仏菩薩の化身だと考えた。やがて寺院を建て、永銭二百貫文の土地を寄付して、太平山龍淵寺と号し、彼の僧を和菴清順和尚と名付けて住まわしめ、五則法問の儀式を怠りなくとりおこなわせた。
  大淵が全て平地となったのは応永十八年(1411)七月七日の夜であった。清順がこの場所に来て凡そ54年経ち、もはや大淵が昔に戻る事はないと云った。その後二代旗雲に仏道法務を譲って忽然と姿をくらまし、行方知らずとなった。
  天正十八年(1590)四月に神君家康公が近くを鷹狩りされた際、龍淵寺へ来られ、住僧呑雪を御前へ召された。そもそも呑雪は三河国西郷氏の生れで、若い頃から俗世を離れ仏門を修行熟知した後に当寺の住職となった人である。家康公は幼少の頃から呑雪と知り合いで、関東入国の初めに太平山に来たのは、天下泰平・当家長久の吉相であると悦ばれ、寺領百石の御朱印と門前三カ条の制札などを紙にしたためた。これを龍淵寺の什宝とし、制札は写して門前に建てた。
  また寺の東に井戸がある。家康公が楊枝で指揮して掘らせた場所である。権現水と名付け、その時家康公が座られた場所に祠を建て神霊を祭っている。以前は門前の道が真っ直ぐであったが、通行の際に仏の尊像を馬上から見下すのは恐れ多いと、すぐに今のように曲がった道にした。この道を御応野道と云う。
  このような恩徳を蒙り、現在まで五則法問などを怠ることなく、清浄寂寞たる霊場になった。
  当寺の什宝は、金地団扇、陣鈴、三尺無節の竹箟、価百貫画、印子香炉二つ、蜀紅袈裟、神君御膳具、唐盆五枚(内二枚は後にお上へ差し上げた)。

(付録)三千坊沼 前谷村にある。古は大沼で今は田圃となっている。大昔この沼に鐘が沈んだのを成田龍淵寺の和尚加蔵主が法力で取り上げ、寺に持って行った。その時休んだ処を鐘置橋という(鐘置橋は皿尾より上之村へ行く中程の小川に架かる橋を云う)。そうして龍淵寺に有ったが今は常陸国筑波山にあるという。


城西3(東光寺、泰蔵院、報恩寺 他)

◯医王山東光寺 
  村の西にあり、宗洞宗龍淵寺の末寺、堂塔は彫り物等があり美麗である。 本尊は薬師如来(長さ一尺で春日の作)

(増)言い伝えでは此の薬師如来は岡部六弥太の信仏(信じている仏)である、一月、四月、五月の八日に多くの人が参拝する。放生会(仏教の不殺殺戒により魚鳥などを、山野池沼に放ち供養する仏会)がある

(増)光明山一乗院無量寿寺 村の西寄りの田圃の方に出ている。新義真言宗高野山金剛院に属する無本寺(独立した寺で末寺のないもの)である。涅槃像の掛け軸(横二間半縦三間、彩色美しく筆跡は見事である。二月十五日が縁日である) 寺の言い伝えによると、大同元年(806)の創建である。数度の火災に遭って建て替えられ塔堂は古くはないと云う。記録も又、絶えて分からないと云う。此の辺りすべて秋庭(秋葉)と云う。

(増)成田山泰蔵院 
  村の中程にあり、曹洞宗龍淵寺の末寺である。
成田記に、当寺は成田内匠助泰蔵の開基である。そもそも成田泰蔵は長泰の三男である。しかし可愛がられて成長し、兄氏長や泰親より勢力が有った。さる永禄八年(1566)家督の騒動があったが、父長泰は髪を落とし仏門に入り嫡子氏長へ家督を譲り、一門家中が無事におさまったのを祝った。しかし外祖父の曽我刑部は長泰の夫人と計り泰蔵を跡に立てようとしたが、もう家督の済んだうえは如何かと後難を恐れて外祖父の曽我刑部は切腹した。叔父の刑馬助は自分の家に蟄居したので、栄枯はすぐに代わり、氏長や泰親は木が茂るがごとく、泰蔵は秋の木の葉の風に散るように甲斐なき身となった。同十年秋、母の旭(あさひ)が亡くなってからはますます世を味気なく思い、頻りに仏門を慕っていた。龍淵寺の前の明庵和尚が当国騎西の寿昌寺に隠居しているのを招請し、是を師として朝夕語堂(悟りの道)に励んだ。成田の辺りに西方寺という時宗の一字があった。今は仏像や碑も雨露にうたれ、石碑や塔婆も草木のなかに隠れて、只狐狸のいるだけなのを幸いに、再建する事を思いたった。兄の氏長に請うとたちまち成就して成田山泰蔵院と改め、庵を開山して龍淵寺の末寺と決め、泰蔵は念仏三昧で亡くなった。其の後変わらずに今にたえる事がない

(増)成田落鴈
  成田千畝接東西、鴈陣横斜落遠室、春去秋来留此地、年々応飽稲梁豊
(東西に成田の広大な土地が広がっている、鴈の群れは遠くの田圃に斜めに降りてゆく、 春が去りまた秋が来て此の地に留まる、毎年稲は豊かに実る)

           日野前大納言資時卿の和歌
いくつつく 成田の面に 落る鴈 いつミの山の 峯を越来て 
(意訳:いっぱいに広がる成田の土地に降りる鴈が見える、いつか見たあの山の峯を越えて来たんだなあ)

泉山八景は、男体山の清風、筑波山の夕日、利根川を下る帆、熊谷の晩鐘、長井の夜雨、泉山の秋月、成田の落鴈、赤城の暮雪である。

(増)箱田村 筥田(はこた)太郎が住んでいた里である。屋敷の跡がある。東鑑には建久元年(1990)云々、三十七番筥田太郎云々、三十八番南太郎籐九郎、成田太郎云々とある。

(増)肥塚村 肥塚太郎光長の遺跡がある。肥塚は代々熊谷家の家臣であることが、熊谷家の家系に載っている。

古碑 肥塚某の旧地という所にある。
石の厚さ二寸、 長さ三尺八寸。

私が仏になるとき、十方の衆生が、まことの心をもって、信心をおこし、我が国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないならば、私は正しい覚りを得ません(念仏往生の願)
康元(1257)三月

応安八年(1375)三月十七日  遒義禅門
横二尺二寸、 長四尺五寸。




(増)熊谷宿 忍より西の方にある。距離は二里、鴻巣へ四里八丁、深谷へ三十丁、熊谷次郎直実の旧跡である。

(増)候(松平)の陣屋が町の中程北側にあって往還より見える。此の裏の田圃に熊野権現の有るところを直実の館跡という。
  此の宿場は中仙道の中でも頗る都会の地であり商家が軒を並べ四方のお金が爰に集まり、食べ物、飲み物、市、食堂が多く人が沢山集まるところである。南の方の本田・畠山の山家より毎日紫薪(しばまき)を馬で出し交易している。
  式内(神明帳に載っている)高城の社は中程北側にある。千形神社は同側に鎮座している。すべて此の辺りを千形庄という。蓮生法師の墓碑は木戸の外の北側にひっそりとある。是より西は石原である。北の方の道は妻沼への道である、二里余りである。宿場内に、田町・新町・本町・横町等の小名がある。二と七の日に市が立つ。

◯熊谷山大慈院報恩寺 
  本町へ入り一町ばかり北側にある。曹洞宗龍淵寺の末寺。山門・楼門・本堂・庫裏が備わって壮麗である。惣門横額の熊谷禅林は、阿部正識公の書いたものである。

(増) 寺伝に、
  昔は浄土の寺だったが、十三世前、転じて曹洞宗となる。蓮生法師熊谷直実の木像は、大昔は当寺にあったが、訳あって彼の寺(熊谷寺)に送った。


城西4(高樹明神、 直実古館趾 、熊谷堤 他)

◯高樹明神(現在は高城神社) 
  町の中ほど北側にあり、出生神である。例祭は6月23日。神楽殿は本社の右にあり、末社が本社の四方に配置され、鳥居は、本社と入口瑞垣半ばにある。神主は福井喜太夫。

(増) 祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)で、延喜式神名帳に武蔵国大里郡高樹神社(小一座)は大樹が生い茂り、森々として神殿のたたずまいが立派とある。
  縁起に、武蔵国大里郡熊谷郷高樹神社は、延喜の神名帳に載っており、その崇め祭られるは、幾千年にも及んでいる。されど荒れ廃れる事、既に久しくなれば、その本縁(本当のこと)を知る者はいなかった。熊谷直実が氏神であると村の人々が言い伝えるだけで、年月はそぞろに過ぎていった。昔は倹約していた為であろうか、暗い森の中に祠がわずかに残るだけで、幣を奉げる人も途絶えて、神官の振る鈴の音も淋しかった。ここに神徳の現れる時が再び来るのだろうか。
寛文十年(1670)二月始めより里人が言うには、この社の傍に小楢(コナラ)の木があって、古木で高さは八丈五尺ほど、囲みは壱丈五尺ほど、枝は、十四、五間にひろがっていた。また、地上三尺あたりに空洞があり、その口は七寸ほどで、その中は、少し広くて、洞穴のようで、その内から清水が湧き出て絶える事がなかった。若(も)し、内外清浄(ないげせいじょう・家内三宝大荒神の清め)を怠らないでこの水を用いて、もろもろの病を治療すれば、必ず神仏の霊に通じ効能を得た。
  この事が、近国へ伝わり、毎日のように人が多く集まった。この水で洗えば、諸病に効き目があり、特に信じがたいことには、数年来、目のわるかった者が七日の間に明快を得、そのほか耳が聞こえなかった者を治し、足の萎えた者も立てるようになると話題になった。病にかかれば遠方も厭わず、春より秋に至るまで、参り詣でる人はおびただしく数千人に及んだ。昼となく夜となく肩を連ねて足を運び、我先にと霊水を受けていた。
  空穴から湧出す流れもだんだんと少なくなった為、傍の井戸から清らかな朝に湧き上がる水を汲んで、彼の霊水を加えて全員に施したが、病を治すのに効き目があった。されば神徳の明らかなご利益を信じ、その功徳を求めて願を立てる者、霊験を得てお礼参りする人の撒く鵞眼(ががん・銭)と麞牙(しょうげ・上等の白米)、掛け並べたる絵馬など数え切れなかった。それにとどまらず、その村の家々は俄に賑わって神徳の恵みをありがたく思った。
  この地は、忍城の領内で、今の国老従四品侍従兼豊後守阿部朝臣忠秋が知るところとなり、その跡を継いだ播磨守正能は、ことさらに心を注いで、力をいれた。神社も新しくなれば、神徳もいよいよ増え、人々は畏れ敬(うやま)った。
  神書に心を寄せる者が申すのには、この社は、高皇産霊尊の跡を受け賜ると、竊(ひそか)に考えられていた。実際に、太安万侶(おおのやすまろ)が記す古事記高木神は、高皇産霊神の別神と思われ、木の字は、倭訓相通(わくんそうつう)の例もあれば、いかにもあることである。そもそも高皇産霊神と申すは、天照大神と相並び、八百万(やおろず)の神の長にあらせられ、誠に尊い御垂迹(ごすいじゃく)であることは申すまでもない。昔は、神祇官(じんぎかん)の官邸に崇め祭って朝廷を守り、国家を鎮めた尊神なれば、その霊威は諸国に光を被(おお)い、東方の遠き所にも勧請し奉り、大変尊く恐れ多かった。然らば今この霊水も、天安河(あめのやすかわ)のなごりで、陰陽不測の理を浅学非才の者がたやすく申すべきではないが、東坡先生(北宋時代の詩人)が、「神の徳は、水の地中にあるが如し」と言うように何処にでも神明が宿っている。左氏伝(孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書のひとつ)に、民は神の主なりと言う事で推しはかると、久しくかすかな神徳の、今、威厳を見せるのは、人々の敬(うやま)い崇める事によって、このように広く大いなる業績を聞き及んで得た結果である。敬いてお祝いするのは、ますます国家を保護し、城主の寿 城を増し、村民が永く恵に潤い、例式の祭りが絶えないように願うところである。

右忍の拾遺職(侍従)の求めに応じてこれをつくる。和語は、余が熟知しているわけではないが、その懇請を固辞しない。いささか伝聞が多い事柄を述べているが、それもやむを得ない。
 寛文十年(1671)の夏      弘文院学士

高城神社の什宝は、天国宝刀(長さ二尺七寸五分)、刀一振(広国銘が有る長さ二尺九寸)、上指矢(ジョウシヤ、神への奉納用の特殊な飾り矢)一筋(相模国住国広作、長さ八寸、幅一寸)

天国の刀記に(源漢文)
  昔聞いたことである。文武天皇の時代(697~707)、天国は冶金工をしていて、太刀を作り始めた。極めて精妙(精密で巧みな事)で特に同格の作者はいなかった。それゆえ本物の刀を得たい者は天国に頼めば、実に天国が高い能力で素晴らしい刀を作るので、世間が絶賛した。
  余の一門の元祖村山次郎・入道清久は、かつて武州八王子の北に城を持ち居住していた。その家柄で天国宝刀を保存し代々の宝物として秘密にしてきた。清久が亡くなり子の清武が継いだ。清武は羽生城を拠点として数十年も威名(威勢と名声)は輝いていた。ある時外兵の攻撃を受けたとき、城を防衛していたが克服できず自軍は大敗した。清武に二子がいた。長男はその名を隠し、二男の名は清昌という。城が落ちる時に、長兄は家譜図書を収め、清昌はその太刀を確保した。
  そうこうして後に、長兄が尾張に住むと聞き、清昌はこれを求めたが得られなかった。 清昌は一人家にいて仕事に就かず熊谷駅に隠居していた。清昌に清春が生まれ、清春に清次が生まれる。余の父・清春は石井氏をめとった。余が生まれ後に、捨てられて僧となる。親戚は皆、村山の祀り・家系が絶えるかもという。
  父は言う。昔吾は大きな武功をなしたが、世の中の変遷・変乱に遭い、また言うことも無くなった。有為(様々な因縁によって生じた現象)事は、夢・幻のようだ。わが子清次が僧侶になる命令をきかない。父は余の出家奉公をついに許した。
石井氏がすでに亡くなったからには、ついに家を挙げて寄進し、清次を婿養子に出し、自ら剃髪し、止心庵主を名乗った事を祖先に報告した。
  残念ながら清家はすでに世継ぎが絶えていた。故にその天国の宝刀を高樹大明神祠に奉納された。君主であり城主の豊後守阿部正武候はこれを聞いて、使者に刀を取りに行かせ刀鑑定の本阿弥を召した。しっかりと見ていた本阿弥は、「真(本物)であって贋物ではない」と称えた。これによって阿部候は「国宝である」といわれた。
  その後命により刀工が砥ぎ清め、宝物を盛って神社に帰納した。以来永く神器となっている、現在社司は宝刀の古い記録によせて、その原因や由来を写し、この証を余に書いてくれと乞う。さらに家譜伝を付ける。以って永久に続くこととなる。
寛延三年(1750)中秋の吉日(八月十五日 吉日)
奉勅 前住永平後菫大乗見隠洛峰大山妙玄白竜 書時年八十二
(奉勅の大意 前住職の永平は大乗仏教を大切に管理監督し繁栄させて、京に隠居している。 峰大山妙玄白竜がこれを書く。八十二歳の時。)

(増) 白竜和尚伝 白竜は村山清次の次子にして母は石井氏である。幼くして僧となる。永平卍山和尚の弟子となり、白竜と称した。白竜、たまたま故郷に帰って父母に孝行した。母は、その幼くして寺にいることをあわれんで甘いものを与えた。父の清次が白竜に言ったことは、家を出て僧となったからには、仏法をもって親と思い、仏法のために身を捨てて路上で素食することが、天下に尊いことなのだ、と丁寧に訓えた。それからは、心を禅理に傾け、怠ることはなく、ひたすら江湖(ごうこ・禅宗の人が修行に集まるところ)に遊履(ゆうり・歩いて旅すること)して、耆徳(きとく・年をとって徳望の高い人)を訪れ修行してまわった。
得法(禅等の奥義を会得すること)の後、福井の永平寺に住んで、又、席を京都の源光に改め、加賀の大乗寺に移住して、新たに京都の西の郊外に妙玄寺を興したという。

(増) 千形神社 高樹社の西にあり、祭神については判明せず。至って古い社のようである。この宿内に円照寺があり、熊野山千形院と号す。平戸村を千形庄と呼ぶ事がある。

◯ 直実古館跡
駅(馬止)から北へ二町ばかりの所にある。熊野権現の社がある所と伝えられる。
洞李香斎翁は戸田八丁村に東行寺という寺があり、熊谷直実の城の地であったと言っている。佐谷田村に字八丁という地名があるが東行寺という寺はない。思うに東竹院のことであろう。近世の文書に久下東行寺東竹院などと書かれている。ところで東竹院は久下直光の旧跡である。直実と直光を混乱して取り違えたのであろう。

東鑑  頼朝、熊谷宿の地頭職を直実に与える
治承六年(1182)六月五日。熊谷二郎直実はただ朝夕に身辺警固の忠節に励むだけではなく、去る治承四年(1180)に佐竹冠者を追討した時に特に勲功があった。頼朝はその武勇に感心されたので、武蔵国の旧領等について、久下直光の押領を止め、直実が支配するようにご命令になった。しかし直実はこの頃熊谷にいて、今日鎌倉に参上したのでその下文(くだしぶみ)を賜ったという。
武蔵国大里郡熊谷次郎平直実に所領を与え、地頭職に任ずる事を下命する。
この所領は、先祖が相伝してきたものである。そこで久下権守直光の押領を停止し、直実を地頭職に任ずる。
その理由は、佐竹四郎が常陸国奥郡の花園に立て籠もり、鎌倉から攻めた時、直実は万人に先駆け、敵の一陣を破り、一人当千の働きにより高名をあらわした。その褒賞として能谷郷の地頭職に任ずる。子々孫々に至るまで永久に他人の妨げがあってはならない。百姓等はよくよく承り、けっして間違いがあってはならない。
    治承六年(1182) 五月三十日

   参考: 「現代語訳 吾妻鏡」 五味文彦編 本郷和人編 

(増) 熊谷堤
駅の南裏にある。昔から熊谷堤は長い街道であった。佐谷田や八丁、久下の辺りまで街道が堤(どて)の上を通っていた。

芭蕉翁の碑
新宿の木戸から北へ向い町屋のはずれにある。久下の条にも述べた。
堤(どて)ながし 日長し鐘は 熊谷寺


城西5(熊谷寺、弥三左衛門稲荷)

◯蓮生山熊谷寺
  駅の西寄り、木戸をでて右にある。浄土宗知恩院の末寺。寺領30石御朱印。
蓮正法師(直実)の木像を脇段に安置している。十王堂と阿弥陀堂が本堂の前左にある。弥三左衛門稲荷が門内の右にある。この稲荷の本社拝殿には賢人詩人や和漢の禽獣・花草等の彫物があって美麗である。

(増) 病弱な子供は年限を決めてこの稲荷に奉仕すると皆丈夫に育つという。その期間中、稲荷に奉仕している印として男児は髪を奴姿に刈ってもみあげを伸ばし、満期に切って奉納する習慣があった。世間では奴伊奈利と言う。いつも参詣者で賑わっていた。
参考:「熊谷の歴史を彩る史跡・文化財・人物」 熊谷市立図書館

御宮が門内に入って左の方にある。中門と惣門があり、塔中は上品院と上生院である。蓮生法師の廟所が本堂の後ろにある。

熊谷寺縁起に、
  熊谷次郎直実は桓武天皇の子孫で、平直方の子である。若くして関東に赴き、久下直光の婿となった。成長して武勇著しく、都の侍賢門の合戦(源義平との戦い)では悪源太義平に属して十六騎武者の随一と呼ばれた。また石橋山の合戦で臥木(ふせき)隠れで匿ってくれた恩賞として、蔦に鳩の紋がついた幕を、右大将頼朝公より拝領した。外にも勲功の感状を21通まで賜った。その後寿永3年(1184) 二月七日摂津国一の谷の合戦で平敦盛の首を取ったが、自分でも息子直家を戦場で失った悲しみを抱え、敦盛の父母の歎きを思いやり、無常の儚さを悟って菩提を弔った。直実は弓馬の家(武家)に生れたので死後を恐れなかったが、その後は仏門への思いが消えることはなかった。
  時を経て建久3年(1192)の冬、鎌倉に於いて久下権頭直光と久下・熊谷の境界を争論した後、逐に髻(もとどり・髪を頂に集め束ねた所)をはらい、伊豆国の走湯山に馳せ入った。翌年には都に上って法然上人の弟子となり、二心なき念仏の行者「蓮生」となった。
その後暫くした元久二年(1205)、蓮生が故郷へ帰りたいと法然上人に願いでると、自ら画かれた迎接(ごうしょう・臨終に阿彌陀仏が往生者を浄土に迎える)曼陀羅と、自ら作られた尊像を授かった。蓮生はこれを笈(おい・行脚僧などが背負う箱)に入れ、武蔵国へ下る時は、不肖自分は西方の行者だからと一時も西に背を向けなかったので、馬にも逆向きに乗って口を引かせた。
このような蓮生法師の歌に 
  浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向ふて後見せねば

蓮生は建永二年(1207)九月四日午後に往生する(死ぬ)と村岡の地(村岡は川向いで昔は駅であった)に札を立てさせた。その日は空に音楽が聞こえ、良い香りが漂った。伝え聞いて集まった人びとは数千人にのぼった。
蓮生は体を清め袈裟を着て、法然上人から頂いた阿弥陀来迎画をかけ、姿勢を正して合掌し、念仏の声と共に眠るようにして往生した。紫雲(仏が乗って来迎する雲)が草菴の上に一時ほど止って西の方向へ指して行った。これは上品上生(最上位)の霊場であることを示している。のち天正年中(1573~1593)に幡随意上人が中興開基した。それが熊谷寺である。

弥陀如来縁起に、
熊谷次郎大夫俊則(直実の父)は長年子供ができない事を悲しみ、この弥陀如来尊像を十七日間心を込めて祈っていたら、瑞夢(ずいむ・吉兆の夢)を蒙り、直正が産まれた。益々強く尊像を拝んでいたら直実も産まれた。直正は十八歳で死去したが、直実は長生きして同じ尊像を拝んでいた。直実に命終の(死ぬ)日限を告げたのはこの弥陀如来尊像だった。これより後世の人は「証拠の弥陀」と名付けて敬っている。
その昔、隣の里の道心者(仏道に帰依した人)がこの尊像を盗み出し、熊谷宿の中程まで持出したが、どうしても宿の外へ持ち出す事ができず、田中某の軒下に捨てて去った。のち尊像を盗んだ道心者は、事の顛末を仏前で懺悔し、本堂に籠ること度々であった。





鎮守弥三左衛門(やそざえもん)稲荷の神体は弘法大師の作である。直実が普段から尊んで信仰心が有ったので、猛敵を討ちなびく陣頭の時、熊谷弥三左衛門と名乗り直実に加勢し勝利に導いた。殊(こと)に一ノ谷の合戦には大手に向い鎬(しのぎ)を削り戦っていると、彼の人が来て付添い加勢した。余りの不思議さにその姓名を問えば、常に汝が信じる稲荷明神である。急難を救うため熊谷弥三左衛門として世に現れていると言い、その行方をお隠しになった。即に居城に宮祠を営んで是を崇(あが)め、今は当山に鎮守し奉っている。今でも非常に霊験新にして遠境近里隔なく、往来の旅人まで、晴雨に係わらず社頭に歩みを運んでいる。

当山什宝 
蓮生法師上品(じょうぼん)往生証拠阿弥陀如来、元祖円光大師御自作尊像、光名号、和歌名号、斧替の名号 
理書(各円光大師御真筆)、直実母衣絹名号、同旗名号、弥陀如来(蓮生法師御自作)、十五遍名号(同御自筆なり)、直実運気之巻、幕(石橋山の功名によって源頼朝公より拝領す)、蓮生法師笈(おい)、同念珠、同鉄鉢、同鉦、子孫置状、同御自筆、直実乗鞍、同鐙(あぶみ)、同軍扇子、同斧、逆馬絵(狩野清信筆、蓮生法師和歌は徳大寺大納言実維(さねふさ)卿御筆)、迎接曼荼羅(ごうしょうまんだら)(円光大師より蓮生法師へ授与)、泰(タイ)産裸形阿弥陀如来(三国伝来)、大黒天(伝教大師作蓮生法師信仰)、弥陀三尊(平盛方信仰熊谷家代々伝来)、(正一位熊谷弥三左衛門)稲荷大明神(神体弘法大師作、本地十一面大臂(ひ))
御名号(蓮生追善の為、音誉上人の筆)、地蔵菩薩(熊谷千代鶴姫守本尊)、熊谷家系、野太刀、聖徳太子(十六才御姿御自作)、四句偈(げ)文(蓮生法師自筆)、善導大師像(同作)、経盛(つねもり)返状、敦盛の鎧貫(よろいぬき)(大経小経)、曼荼羅、幡随上人寿牌、同火防名号、同不断光物の名号、同御袈裟并数珠(切支丹退治の時御着)、同花押、此外宝物等略之

(増) 東鑑 建久三年壬子(1192)十一月廿五日 能谷次郎直実と久下権守直光とが(頼朝の)御前で(訴訟の)対決を遂げた。これは武蔵国の能谷と久下との境界の相論のことである。直実は武勇では一人当千の名声を馳せていたが、対決では一、二を聞いて十を知る才能に欠け、たいそう不審な点が残ったので、将軍家(源頼朝)が何度も尋問された。その時、直実が申した。「このことは梶原平三景時が直光を贔屓(ひいき)しているので、あらかじめ(直光の主張が)理にかなっていると申し上げたものであろう。そこで今、直実が何度も御下問を受けることになったのである。御裁決では直光がきっと勝訴することになろう。そうであれば道理にかなっている(直実の)文書とて無用だ。どうしようもない」。(直実は)まだ事が終っていないのに、調べてきた文書などを巻いて御壺(坪庭)の中に投げ入れて座を立った。なお憤りに耐えられず、西侍で自ら刀を取って髻(もとどり)を切って言葉を吐いた。「殿(頼朝)の御侍まで上がることができた」。そして(直実は)南門を飛び出して、家にも帰らず行方をくらました。頼朝はたいそう驚かれた。一説には西を目指して馬を走らせたといい、あるいは京都の方に向かったのであろうという。そこで(頼朝は)雑色(ぞうしき)を相模・伊豆の諸所と箱根・走湯山などに急いで派遣し、直実の行く手を遮って遁世を止めるよう、御家人と衆徒らに命じられたという。
  又いう、同十二月廿九日 今日走湯山(伊豆山)の専公坊が、年末の巻数(かんじゅ)を献上し、その機会に申した。「直実法師の上洛の事は、ひたすらに私の諫言によって思い止まりました。ただし『すぐに御所に参上することはできない。しばらく武州(武蔵国)に隠居する。』と申しております」。
  又いう、建久六年(1195)八月十日 。熊谷二郎直実法師が京都から(鎌倉に)やって来た。過去の武の道を棄て来世の仏縁を求めてより以降、もっぱら心を西方浄土に繋ぎ、ついに姿を東山にくらませた。今度の将軍家(源頼朝)の御在京の際も所存があって参らなかった。追って千里の峻難を凌ぎ、泣いて五内の蓄懐を述べた。そこで(頼朝の)御前に召された。(直実は)まず厭離穢土、欣求浄土の趣旨を申し、次いで兵法の心得や合戦の故実などを話した。(直実は)身は今は法体であるが、心はまだ真俗を兼ねており、これらのことを聞いた者で感嘆しない者はなかった。今日、武蔵国に下向したという。しきりに引き留められたが、「後日、参上します。」と称して退出したという。
  又いう、承元二年(1208) 能谷二郎直実入道は、九月十四日の未の刻に臨終を迎えると広く告げ知らせたので、当日に至ると、結縁の僧侶や俗人が、その東山の草庵を囲んだ。時刻になって、衣・袈裟を着て礼盤に上り、姿勢を正し座って合掌し、声高に念仏を唱えて臨終を迎えた。以前から全く病気はなかったという。
(参考資料 現代語訳吾妻鏡 吉川弘文館)

「子孫へ置状縮図
  子々孫々に至るまで、よくよく知らしむるべき旨
一、先祖相伝の所領安堵御判形(ごはんぎょう)七つ、および保元元年(1156)から
   建久年中(1190-1199)までの軍忠に対する御感状二十一通を相伝えるべき事
一、主君に対し逆儀あるべからず、また武の道を守るべき事
一、法然上人御自筆御理書と迎接(ごうしょう)曼荼羅(阿弥陀来迎図)を信心すべき事
   この3ヶ条の外、自身の器量に応じて、語を覚る(ものごとの道理を弁える)べき事
 以上、置状とする
      
建久六年(1255)二月九日  蓮生 花押  」



  寺記には直実は都を去って熊谷に帰り庵で亡くなったとあるが、東鑑の記述では京都東山の僧庵で亡くなったとあり、話が合わない。更に調査検討を要する。
  いにしえの 鎧にかへし古衣 風の射る矢も通らざりけり  蓮生 花押

(増) 享保四年(1719年)初夏(陰暦四月) 忍領北河原村 照岩寺八景の詩歌
題 「熊谷晩鐘」 中御門前宰相宣顕卿
勇士猶存一古墳。緬懐白旆、擁三軍。黄昏過、客為追予。驚却鐘声馬上聞。
(大意:勇士は猶あの古墳にいるようだ。白旗をたなびかせ三軍を従えた遠い昔を思っていた。黄昏時、旅人が自分を追うような気がして、驚いて振り返ってみると、鐘の音を馬上で聞いた。なんと素晴らしい光景なことよ。)

享保十八年(1733)中春(陰暦二月) 八条中将藤原隆英朝臣が重ねて泉山八景の和歌の御書題を改正云々と、照岩寺の古文書に書かれている。

「熊谷晩鐘」 高野前権大納言藤原保光卿
鐘の音に 聞けばむかしの 夕暮も あはれ身にしむ 袖や濡さん


城西6(石上寺、村岡の渡、熊久橋 他)

 星河山石上寺
  横町にある。新義真言宗一乗院の末寺。本尊は正観世音(聖徳太子作で長さ不明)
多聞天堂が門の向いの小高い所にある。地蔵堂がその側にある。
清泉が庭の中にある。大きさは八間。水が澄んでいて魚や水草がことごとく見える。底に多くの穴があり水が湧き出ている。一年中水量が変わらず、星川の水源という。
  云い伝えによると、熊谷寺にある蓮生法師の木像は元々石上寺の藪の中にあったもので、寺が退転していた頃は子供等が持って遊んでいたと云う。後に熊谷寺へさしあげたそうだ。

(増) 蓮生の木像がどこから来たか明確ではない。前掲の法恩寺にあったとも石上寺にあったとも云われている。何か訳あって仏像や什器などを他寺へ送ることもあるだろうが、熊谷にある蓮生の像なので、その寺が由緒正しいという古い証になるだろうに、おかしな話である。

◯熊谷桜 石上寺の門内に数本あり、花の頃はしばらく美麗である

(増) 言い伝えに、当寺は昔、石原の城主、城和泉守家臣秋山雅楽介が開いた処である。其の後年代を経て荒れ果てたものを宿場の竹井某なる人が再建した

(増) 止心庵  当時の住職は、剃髪前は村山次郎清次と云う
  止心庵主安清は、初めは村山次郎清次と名乗り武州熊谷の人である。武州八王子城主村山次郎入道清久の子孫である。父を清春という、其の子の清昌は成人して熊谷の庄屋となり家は代々富豪である。清次は石井氏を娶り白龍を生む。
  清次は晩年に禅の道に入り永平卍山和尚のところで禅の真理を話あうこと甚だしい。一日中考えてわだかまりが初めて解けて心が安静になる、依って自ら安清をと名乗る。又、覚玄律師に付いて凡ての法華経を学び戒律を守る事甚だしい。安清は嘗て撃剣射術を得意とした。出家後は人が撃剣射術を問うても一言も答えない。石井氏が亡くなった後、とうとう家財を親戚に施し報恩(寺)の古徹禅師に投じて剃髪し僧となる。止心安清と名乗り庵を村の星川に作り住み世人との関係を断ち修行する。
  自分の心にあう事があれば自ら其の訳を話し,謡って楽しむ。人は是を星川道人と云う。元禄五年(1673)いつものように廬老(止心安清)無物の喝を発し爽快に死んだ。寿五十六歳、遺命に従がいて火葬して水葬する。
「高樹明神の前述の文章の伝とは少し食い違いがある、なぜかは判らない。天国(あまくに)については自分で書いたものなので疑いようもない。疑えば又此の説を捨てるようなものだ」

◯星川 宿の南裏を流れて下流は忍の沼に入る。

村岡の渡 
横町通りから南へ約五丁で荒川となる。松山道と、他には、本多・畠山・小川等の山里に行く。

(増) 代々受け伝えるところ、昔の鎌倉街道で、今も、松山、川越を経て府中に至る。相模国の大山参詣に行く上州・信州の人々は、専(もっぱ)らこの街道だけを行き来した。

◯妻沼道 
石原町中程の北側に分れ道がある。妻沼まで約二里である。

(増) 城和泉守掻上城址 石原村の西寄にある。今、松平候の郷蔵のある所に本丸があった。少し北の方に二の丸や屋敷などがあった。今は城家の家臣の子孫が、当村に散在している。

城家伝に、 
城伊庵、織部(伊庵の子)、和泉守は、武田信玄に仕えて、鉄砲大将を勤めた。駿河国沼津に住み、後に、信州に移った。武田家滅亡の後、天正十年(1582)に徳川家康に仕え、石原村に住み、七カ村を受領した。この家伝は、成田家伝と合わせて、石原村の民家に伝わる古文書のひとつである。

(増) 和泉守墓碑 字坪井という地の東漸寺に 、数百年前に建てた墓碑がある。

(増) 旧川 佐谷田村の辺りより湧き出て、久下、吹上等の北に流れている。綾瀬川の上流である。荒川も元はこの辺りを流れていた。寛永年中(1624~1643)に今の東竹院の西に堤を築き流れを変え、和田川・吉野川と合流させ今のように流れている。総じてこの村には、多く水砂を吹き出している小池が所々にある。熊谷石上寺の星渓園に類するものである。

(増) 熊久橋 佐谷田と熊谷の境界、往還の小川に架かる石橋を言う。昔は、直実と直光が土地の境界を争って掛けた橋と言われている。

東鑑 建久三年(1192)十一月五日 熊谷次郎直実と久下権守直光とが(頼朝の)御前で(訴訟の)対決を遂げた。これは武蔵国の熊谷・久下との境界の相論のことである。

(増) 八町の渡口 佐谷田村より手島村への渡しである。初冬より橋を掛け、夏は、舟で渡したという。佐谷田村字八丁の地からこの名でよばれた。手島の渡とも言われた。手島村は、成田の家臣手島美作守の旧地であり、今は、吉見領である。

< 増補忍名所図会  巻四 終 >

2012年1月8日日曜日

忍名所図会跋(ばつ)

忍名所図会跋(ばつ)
   府県の志(歴史を本紀・列伝・志・表で記述する紀伝体の志)は古昔より有るが、世が治まって(徳川家康の世になって)以来鴛城は候国と為り二百余年が経つが、いまだ志あるのを聞かなかった。我公がここに封を移して二十年、初めてその人が出た。すなわちその書を見るに実にこれ文教の教化と呼べるものであった。それなので洞李翁の記録は漏脱がまた多く、覧る者は残念に思った。今回岩崎長容があまねく捜し究索(きゅうさく)し補い、その遣(つかい)を遂げ、全書を完成した功績は大きい。予はこれを借覧して、感じたことがあったので、聊(いささ)かその跋を書した。

   庚子(かのえね)季秋  為幻老漢璋識   松崖書

尻書き
   多才な人達(洞李香斎と岩崎長容)があれこれ優れた技を駆使し、たとえ木であろうと石であろうと、良い品々を心のままに探し求めて見事な形にまとめ、増補忍名所図会となったものである。文章を作る技もまたすばらしい。
   忍近郊の世上を想うに、昔ながらの武蔵野のはずれなので、都人(みやこびと)の行き交いなどあるはずもなく、埼玉の津、小崎沼、利根の笹原など僅かばかりを除けば、古の歌にでた所もない。名前など聞いたことがないだろう。
   そのようななか、延喜式神名帳や和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に始まり、少し前の軍記物(平家物語、東鑑、成田記など)を引用し、社伝・寺記や里人の口伝・石碑などを、あるがままに選ばず捨てず拾い集めたものだ。
   木でも石でも藁で作ったものでさえ匠の苦労があるもので、なかには見劣りするのもあるだろうが、うわべを飾るのではなく現実に即しありのままに載せているので、ぜひ見て読んでいただきたい。

以上、少しばかり尻書きとして加えた。  黒沢翁麿





2012年1月7日土曜日

解説『増補忍名所図会』と岩崎長容・松平忠堯

  『増補忍名所図会』は忍藩主松平忠堯が家臣岩崎長容に洞李香斎筆の「忍名所図会」の増補を命じたものである。長容は天保六年(1835)に増補版六巻(五巻とも)を作製し松平忠堯に献上し、さらに同十一年(1840)二度目の増補を行った。現在、洞李香斎の「忍名所図会」は所在が確認出来ず、天保六年版と思われるものの不完全な写本が一冊、行田市郷土博物館にある。天保十一年版は須加村川島家本をはじめ、国立国会図書館、国立公文書館、埼玉県立図書館などに写本が収蔵されている。江戸時代には刊行されず、写本で流布したので、本によっては内容の誤脱が著しいものもある。
   行田市郷土博物館蔵の「増補忍名所図会」には洞李香斎、芳川波山、岩崎長容の巻頭言が記されている。香斎の巻頭言には「いにし未の秋(=文政六年(1824))に忍にやってきて名だたる小埼沼をはじめとして書き写したのは秋里籬島や竹原のぬし(春朝斎)の跡を追ったつもりであった」とある。安政九年(1780)に秋里籬島・竹原春朝斎により『都名所図会』が刊行されたのをはじめとして『大和名所図会』『和泉名所図会』『摂津名所図会』など多くの名所図会が刊行された。香斎はこれらの名所図会に影響を受け、「忍名所図会」の作成を思い立った事がわかる。文政八年に完成したが、本人も満足のいく内容ではなかったらしく、刊行はおろか他人に見せるのも憚った(はばかった)と記している。
   芳川波山の巻頭言には松平忠堯の家臣、佐竹と岩崎が休暇に東西を奔走し旧記を閲覧し碑文を尋ね、史書を参考にして数年をかけて書物にして忠堯に献上し、忠堯は波山に巻頭言を命じたとある。『埼玉叢書(そうしょ)』の『増補忍名所図会』の解説には佐竹と洞季香斎を同一物としているが、その確証はない。
   また、それに続く岩崎長容の巻頭言には、洞季香斎が記した「忍名所図会」を忠堯が見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ長容に増補を命じた。長容は日々彼方此方を歩いて名勝旧蹟を訪ね社寺の縁起を求め、農夫や漁夫にも話を聞き古文書を調べ「増補忍名所図会」五巻を作製し、藩主に献上したとある。さらに天保六年(1835)の増補後に知りえた知見を元に二度目の増補を行った。前回掲載した社寺の図は熊谷寺を除き全て省き、名勝の図一、二追加するなどして天保十一に全四巻、附録一巻を作製した。
   岩崎長容は文化六年(1809)四月、松平家家臣岩崎長休の次男として生まれた。通称権九郎、左甚吾、左一とも名乗った。長容は諱(いみな)で「ながかた」と読む。作品の署名には主に長容を使用していた。勘定奉行や勝手掛などを勤めた。絵画や俳句に巧みで、他の作品に砲術師範井狩家のために描いた「砲術形状図式」がある。また現在所在が確認できないが弘化二年(1845)に忍藩主松平忠国の命で描いた「大阪御合戦絵巻」がある。この絵画を模写したものが伝わっており、納められた箱の蓋の裏に長容が作製の由来を認めている。明治十三年(1880)十月十二日死去した。
   松平忠堯は享和二年(1802)桑名藩主松平忠翼(ただすけ)の長男として江戸鳥越の藩邸で生まれた。文政四年(1821)家督を継ぎ桑名藩主となり、同六年(1823)に転封により忍藩主となった。以後12年余藩主として転封後の多難な藩政にあたった。「忍名所図会」の増補は、新しい領地の情報収集の目的でもあったと考えられる。天保九年(1835)に隠居し家督を弟忠彦(たださと)に譲った。元治元年(1864)八月一四日に死去、墓所は天祥寺にある。
  『増補忍名所図会』は昭和四年(1929)に柴田常恵・稲村垣元編『埼玉叢書 第二』に川島家本を底本として掲載された。昭和四六年には行田郷土文化会により郷土史家森尾津一の稿本(行田市立図書館所蔵)を元に刊行された(昭和61年復刊)。『増補忍名所図会』の刊行は今回四度目、川島家本を底本として刊行は『埼玉叢書』に続き二度目となる。

  「増補忍名所図会(行田市郷土博物館友の会)」より抜粋