2012年1月13日金曜日

増補忍名所図会について

「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6 年 (1835)、 同 11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。

  文政8年 (1825)  洞李香斎が「忍名所図会」を著作。
            現在その所在は確認出来ていない。
  天保6年 (1835)  忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を
            増補。
            天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。
  天保11年 (1840)   岩崎長容が2度目の増補版を作成。
            名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑
            の類いを補足。
            忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。
            天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が
            確認できる。

「増補忍名所図会」の復刻版は1971年(行田郷土史文化会発行)と2006年(行田市郷土博物館友の会発行)に発行されましたが、今回は天保11年版に近い2006年の復刻版をテキストとして使用しました。

資料 2006年(平成18年)6月30日
       行田市郷土博物館友の会編集・発行 「増補忍名所図会」


増補忍名所図会マップ

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「増補忍名所図会」序(現代語訳)



序 芳川波山

   忍の地は沃野(よくや)がひろびろと開け、荒川が南をめぐり、利根川が北に横たわり、富士の雪が筑波のかすみに映じ、浅間の煙が日光の雲に接し、霊山(れいざん)がはるか天涯(てんがい)にそびえ、近くは城を守っている。
   吾公がここに移封されてより、恩雨仁風(おんうじんぷう)がひとしく庶民を被い、人々はその政を謳歌して賛美し、鼓楽(こがく)を聞いて互いに祝賀している。松村竹里(しょうそんちくり)にも、日ごとに人煙(じんえん)は増え、桑畑や稲田にも荒れたままの地がなくなっている。戦国の時、成田氏がこの地に拠り北条氏の楯となり、ために兵火は天をこがし、馬塵(ばじん)は地にみなぎり、屍は野に伏し、骨は葬られずして野にさらされていた。ああ、なんといたましいことではないか。
   うやうやしくおもんみるに神君家康公の大いなる徳により、天下が統一され、泰平の世となって二百年あまりになろうとしている。
今の人は安んずるところに安んじ、見るところを見て、遊蕩(ゆうとう)を俗となし淫逸(いんいつ)を務めとなし、未だかつて塗炭倒懸(とたんとうけん・非常な生活苦)の苦しみを知らない。吾公の封内の地には、旧祠古刹(きゅうしこさつ)、絶勝名区(ぜっしょうめいく)が、いたるところにある。しかしながら干戈争闘(かんかそうとう)の世以来、その由来をくわしく知りえぬようになっている。
   公の臣下の佐竹・岩崎二子は、好事(こうず)の士であり、城勤務の余暇に東西に奔走し、旧記や口碑(言い伝え)を調べ、史書に照らし、八方資料を探してこれを図にし文字にし、数年の久しきに及んで、集めて何巻かの書に収め、燦然(さんぜん)として備わらざるなきものを作りあげた。彼らはこれを公に献じた。
   公は甚だ喜ばれ、私に巻首の序を記すことを命ぜられた。公のよろこびは、ただ郷里の富めること、田畝(でんぽ)のおびただしいこと、名勝の美なることにあるのみでなく、古に感じて今を顧み、既往(きおう)を見て将来を戒めようとされるところにある。なぜならば、至治(しじ)の弊が必ず奪靡(しゃび)に至るのは勢の然らしむるところだからである。故にそのようになる原因をよく知り、きつくするところはきつくし、ゆるめるところはゆるめ、世の中を敗壊(はいかい)に至らしめざれば、則ち永く無窮の福を受けるであろう。思えばこの書の益するところは大なるものである。

   天保六年(1835)七月十八日  臣 芳川逸 謹撰

   参考資料: 「忍藩儒 芳川波山の生涯と詩業」 村山吉廣 著


序  岩崎長容


    洞李香斎が古い事を学ぶ人に参考になればと作った「忍名所図会」という書を主君(松平忠尭公)がご覧になったところ、足りない所や漏れた事が多いのを惜しまれ、私へ増補版を作るよう仰せになった。私は才能もなく知識も少ないので、このような大事をお受けするのはいかがかと思ったが、恐れ多くも主君の仰せであり、承諾することになった。
   それから日々あちこちを走り巡り、宮寺の縁起社伝を始め、ある時は田圃で仕事する百姓に、またある時は魚採りする翁に問い、古文書の記述と比べたり、自分の考えを少し書き加えて五巻になった。これを「増補忍名所図会」と題して主君に奉ることになった。まだ漏れがあるかもしれないが、それについては後日詳しい人に増補を仰せつけられるよう願い奉る。 
 
   このようなことができたのは主君の深い御恵みによるもので、いつまでもお元気に、全ての民に喜びと楽しみになるよう願っている。

    
天保六年(1835)七月  長容しるす


凡例

・此書は洞李香斎作「忍名所図会」(本書)の漏れを増し、不足を補うものである。 増補には(増)マークを付けた。
 
・本書に載っている寺院巡拝次第やご詠歌は特に関連ないなら省いた。
 
・本書には多くの神祠や仏寺が載っているが、開基や建祠された時代が古いもの以外は省いた。
・祠乗寺記(神社や寺の記録)などは、後世に書いたのもあり全く信じがたいが、古くから伝わることもあるので、暫定としてそのまま載せ、後日の検討に備えた。
・本書の図は粗雑で間違いも多いので全てつくり直した。
・神祠仏寺における左右は本尊の左右、道路における左右は行人の左右である。
 
・此書の古事奇談などは、現地の古老が伝える口碑を聞いたまま載せたもので、虚実(内容が事実か否か)を論じていない。

 

付言

   此書を奉ったのは天保六年なので既に六年が過ぎた。その後に捜索見聞したことも少なくなく、それらを記録しないのは惜しいので、さらに増補することにした。それを書き進めて一二三の巻が清書済みになってから、新たに探り求めたことができたので、やむなく新たに付録一巻を造って入れた。
   先書(天保六年版全五巻)に続く第六巻第1冊は、忍八景(20年ほど前に針的という盲医が作った)と天正の攻城を載せているだけなので省いた。また寺院神社の図なども熊谷寺以外は皆省いた。名勝の地、古書の図、古器などはいくつか追加し、引用文書・口碑の類いを多く補足した。
   このような背景なので先書とはあちこち異なることに戸惑わないでほしい。また六年の間には神社寺院の境地に移り変わりがあるので、今と合わない事が多い。これらを読者に察していただきたい。

   天保十一年(1840)  岩崎長容しるす

城周辺1(武蔵国、埼玉郡、忍)

武蔵国の大意(いわれ)
  神武天皇から十二代、景行天皇四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えぞ)征伐から帰陣の時、秩父の山に武具を収め山の神を祭った。武具を収めた国なので武蔵国と云う。

  日本紀によれば、武蔵国の秩父ヶ嶽はその姿が怒り立つ勇者のようであった。日本武尊はこの山を美しい(気高く、感動させる)と東(あずま)征伐の為に祈祷し奉り、兵具を岩蔵に奉納(納理)した。これ故に武蔵国という。武具を指し置くの義、読みはムサシである。
  旧事記に胸指(むさし)の国とあるのは剣のことである。剣は最も重要な武具だからである。後に名が雅でないので武蔵国に改めたと云う。

埼玉郡 
 (増)調べてみると、和名抄には武蔵国埼玉(佐伊多末)、延喜式神名帳には武蔵国埼玉郡(小四座)、前玉神社(二座云々)とある。此の郡は古くより埼玉とのみいう。万葉集には佐吉玉云々、前玉云々とあり和名抄とは異なる。伊と喜は相通ずれば、さいとも読める。崎と埼の字の意味は違う。(未考) 

  武蔵国の国分寺の土中より掘り出された古瓦の中から、武蔵国の名を印したものが多数ある。其の形を写した書の中にある瓦は極めて古いものである。古より埼の字を用いたと見える。それにもかかわらず古くは崎西郡という俗説あるが誤りである。延慶の頃(1308~1311)より天正の頃(1573~1592)迄の文書に崎西と書いたものもある。崎西といえるは郡の西である。葛飾郡(古くは、下総国なり今は武蔵国に分)の地の西を葛西といい、東を葛東というに同じ。これが本当だろう。

 鴛鴦(おし)とも書く。
 (増)忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説(詳細は後述)がある。
  この地を「岡の郷」という伝聞がある(水田の中に岡の如く見えたからと云う)。成田氏長の妻の歌に
   岡の郷 忍びの松にかり寝して 夢はかりなる をしの一聲
(忍びの松は下忍御門の内にある加藤氏門前の並木と云う。沼尻組屋敷前の松という説もあり不明。)
  郷とは大里小里をまとめたものである。郷について詳しい説があるがここでは省く。岡の郷は、佐間・下忍・持田などをまとめて一郷としたのであろう。また中古(上古の次、平安時代ころ)より何処にも荘の地名がでてくる。この辺りは「篠の根の荘」で、広く南は吉見辺り(荒川向い)までを云うらしい。
  また皿尾村の北方を「永井庄」と呼ぶ。庄の中に郷がある。荘ともいう。諸説あるが略す。永井庄は幡羅郡永井村(妻沼能護寺辺り)であろう。ここはむかし斎藤実盛が住んでいた所である。斎藤実盛は小松内府の荘園である武蔵永井の荘の別当であった事が知られている。
  長野村辺りから東方六七里をまとめて「太田庄」と云われている。忍から五里ばかり東方に、鷲の宮という大社があり、いつの頃からか地名になった。東鑑に武蔵国太田庄鷲宮血流云々とある。古い神祠であり、太田庄と古くから呼ばれていた証しである。
  今この辺りで羽生領、吉見領など領主がいないのに領と呼ぶ地名がある。天正の頃、羽生は井戸氏、後に大久保氏の領地であった。また吉見は上田能登守の領地であった。その領の名が残っているのだろう。

(付録) 領名の条で、羽生領を井戸某と述べているのは誤りである。正しくは木戸伊豆守。

(付録) 郷名の条で、岡の郷と云っていたとは洞李香斎翁の説である。今考えると、岡の郷という口碑(言い伝え)は少なく、忍と岡は草書体の字が似ているので誤ったのだろう。忍の郷という証しもないが、忍なら古くからの名称である。

城周辺2(御城)

◯御城
(増) 大昔忍三郎と云う人より代々の居館の地であった。延徳二年(1490)成田下総守親泰(ちかやす)は、ここに移住し新たに城を築いた。天正十八年(1590)成田下総守氏長(うじなが)は、関白秀吉公に降参した。秀吉公は関八州を神君(家康)にお与えになった。その後神君は 松平下野守忠吉朝臣へ忍領を与えた。
慶長五年(1600)以後は御番城となった。寛永十年(1633)に松平伊豆守信綱候の居城となり、同十六年(1639)からは阿部豊後守忠秋侯の代々の居城であった。文政六年(1823)より、吾が君(松平下総守)の御居城となった。

   城地の風光は塁上に松杉が生い茂り、旭に映(うつ)しては常盤の色を現し、風に響いては千代の声となり、塁外の深沼(しんしょう)の水波はさらさらと流れて大湖に等しく、広々と緑をたたえ、水上には鴛鴦(おしどり)・鳧(かも)・雁(かり)が飛び翔(かけ)て、金鯉(きんり)銀鮮(ぎんりん)浮遊して楽しめた。これは皆国家万代(ばんだい)の瑞祥(ずいしょう)にして、古の霊沼(れいしょう)霊台(れいだい)と言われた。

   成田記によると、大職冠鎌足十二代の後裔、綾小路右近少将義孝朝臣の嫡(よつぎ)、権大納言行成の子(二男)忠基(ただもと)は、武家となり武蔵に下って幡羅郡(はたらぐん)に住んだ。その子供は幡羅太郎と言う。その(幡羅太郎の)子供は初めて成田の地に移り、地名を苗字とした。成田太夫(たいふ)と言う。後に式部大輔(たいふ)に任命された。伊予守頼義の叔父でもある。その長男は太郎助廣と言う。二男は別府二郎行隆・三男は奈良三郎高長・四男は玉井四郎助実(すけざね)と言う。各近郷に分居していた。そして世替りしても、それぞれ互角の勢力があり、これを武蔵国成田の四家と言った。しかし応永の末より文明の頃(1480〜1503)には成田家の武威がひいでて、他の三家は、成田家の家臣になった。
   この助広より五代の嫡男五郎家時は、文武兼備えていて成田家は倍繁栄した。応永廿七年(1420)三月七日死去し、嫡男は早世して二男五郎左エ門尉(さえもんのじょう)資員(すけかず)が家を継いだ。しかし生来から虚弱でまた淫酒に耽り、永享二年(1430)九月十一日三十二歳にして死去した。その嫡男大九郎顕泰(あきやす)は八歳で家督を継ぎ、老臣らが補佐して顕泰を立てた。
   同十一年(1439)足利持氏(鎌倉公方)は、上杉憲実(関東管領)に敵対して捕えられた。この時顕泰は十七歳になっており上杉に加勢して軍功があった。持氏は、憲実に和を乞うたが、(尚雉染せられて?)将軍は許さず、鎌倉永安寺で自害した。翌年顕泰は去年上杉家に対して抜群の軍忠あったとして、管領上杉清方の推挙に依って下総守を受領した。なおその後も数度の軍忠があった。文明十二年(1480)に家を嫡子太郎次郎親泰に譲って其の身は隠者となり、剃髪して清丘入道と言った。
   親泰は父の訓えを守って成長しても鎌倉方にあった。文明十八年(1486)に上杉定正功臣太田道灌を誅伐する時、顕定(山内上杉)は、意図的に定正(扇谷上杉)に加勢し、親泰も軍に従った。この年に親泰は下総守に任命された。
   近郷忍の地は其の地理がよく、ずっと前からその地を望んでいたが、忍の大丞は太田道灌と縁者だったので黙っていた。今道灌が滅亡して定正も勢力が衰え、延徳元年(1489)には上杉両家は既に確執に及んでいた。親泰は時が来たと歓び顕定に訴へ一気に責めれば、忍の大丞は力尽きて館に火をかけ一族自害した。延徳二年(1490)より城の経営に取りかかり翌年成就して、ここに移った。大永二年(1522)の夏に親泰は嫡男太郎五郎長康に家を譲り、出家して宗廉庵と称して幡羅郡奈良の里に隠居所を建て転居した。(中略)長泰は享禄年中(1528〜1532)中務少輔(なかつかさしょう)に任官した。その嫡左馬介氏長と共に北条家に属して数度の軍忠があった。
   記に暇がないほど、武蔵の旧家と称し、北条氏も是を対応すること親族のようだと言われたとか。調べてみると成田家は足利左馬頭(さまのかみ)基氏より代々管領家の幕下で、上杉憲政越後に赴(おもむ)いた後は、北条氏康に属していた。
   (参考資料 成田記 大沢俊吉訳 歴史図書社)

   石原村民家に伝わる成田家伝と言われる書がある。証(あかし)とするには不足であるが、拠り所が有って書かれるものなので暫(しばらく)ここに出して考えの手がかりとした。成田記と合せて考えてもよいと思う。

成田家伝
   武蔵国に七党ある。丹の党とは宣化天皇の末孫丹治の姓で、青木・勅使河原・安保(あぼ)である。横山党・猪俣党は敏達天皇の末裔で小野姓にして、荻野・岡部・横山である。児玉党は藤原姓で本庄・倉賀野である。私の党は私市(きさい)姓で、川原・久下である。其の外は大概亡びて今はない。又四家ありと言う。其の第一は忍の成田である。先祖は大職冠十二代の後裔、綾小路右近少将義孝に子供が二人いた。一男は大納言行成で、今の世尊寺の開祖である。次男は武蔵守忠基である。
   忠基より五代の孫を式部大輔(たいふ)助高と言う。武蔵国司と成って幡羅郡に住んだ。その時代の人は幡羅の大殿と言った。この助高は伊予入道(源伊予守頼義)の外戚の叔父である。ところで頼義が奥州の(安倍)貞任・宗任の追討の大将軍として下向し、武蔵を通った時、この郡へ立寄られた。多くの武士は残らず出仕した。此の時助高も大将頼義の所へ参上しようと出馬し、頼義も助高の館へ参上しようとしたが、途中で行き逢った。助高は下馬して礼をし、頼義も下馬して礼をした。助高は頼義の叔父の為、双方お互いに下馬して礼をした。成田家は現在も大将対面の時は互に下馬して礼をするのが、この家の作法である。
   この助高に子供が四人いた。長男は成田五郎・二男は別府・三男は奈良・四男は玉井と言う。別府は左衛門尉行隆と言い、行隆には子供が二人いた。兄は左衛門佐(さえもんのすけ)行助、弟は治部大輔義行で、兄弟二人を両別府と言う。義行の子は別府小太郎義重、その子は行重、寿永の頃(1182〜1185)、源義経に従い一ノ谷の戦に先登し、鎌倉殿より勲功の賞に預かり、この家は特別に栄えた。これより北南といふ苗字の侍に分かれた(北河原 南河原)。
   このように根本は同じで、嫡子庶子は歴然として明らかで、末孫になっても、成田も玉井も奈良も別府も皆互角の勢力で栄えており、それぞれが下知を受けていた。それゆえ文明年中(1469~1487)までは成田・酒巻・両別府・久下・奈良・玉井・須賀・忍・北南の地侍は、何れも互角の勢力で、公方・管領の下知に従った。
   その後関東が大いに乱れ、成田下総守入道宗蓮(親泰)が忍に移ると、近隣の諸人は饗(もてな)した。それから忍の城を築いたが此の城は沼の中なので、造作ははかばかしくなく、近隣の諸将へ毎年人夫を雇い、多年を費やしこの城の要害を立てた。そうであるから初めは皆頼まれたので人夫を遣したが、後には続けて数年断らず続けたら、いつとなく自然に宗蓮へ役を出すようになり、皆彼の下知に従った。宗蓮一代の中、近隣の諸将を下知し、その子下総守長泰の時代には地侍千騎の大将となった。
「人はただ威につくようになるのだ」と小田原北条氏綱の批評が有ったとか。

(増) 御城の地形、屋鋪等の古の様子を考えると、今の御本丸、二、三の丸より、東は沼橋まで、南は下忍御門当りまで、西は田町、外矢場辺までの小城であったと思われる。谷郷村旧記に、今の内行田・北谷等は田地であったが城地となり、又今の内行田の久伊豆明神は行田町の鎮守であったとある。これは古き社にて、この辺は町で有ったと見え、社の東に向いていること考えると、もしくは、本町通りの突当りに有ったと思われる。すべて鎮守あるいは火防の神であっても、町の突当り、或は隅の方に祭ることがまま有った。
   成田記に大手口・皿尾外張・持田口外張などと書かれ、今の様とは古は違っており、なお考えなければならない。今皿尾村に外張という処があるが、砦などがある所かは分からない。

城周辺3(諏訪大明神 、地獄橋、縁切橋 、鉦打橋、多度両宮、東照大権現宮、御城下 )

(増) 諏訪大明神(御本丸側廓に鎮座、諏訪曲輪という神祠が有る)は忍城の鎮守である。神祠四座は中央に諏訪大明神、右に天照皇(てんしょうこう)大神宮、左に稲荷大明神と八幡大神がある。当社の宝物は塗重藤の弓、矢箙(えびら)葵御紋蒔絵である。各々は松平忠吉朝臣より奉納された。祭神は健御名方尊(たけみなかたのみこと)、神主は高木長門、当社を勧請(かんじょう)した年月は詳(つまびらか)ではない。社家の説に御城を築くより早く有ったと言う。又俗説にむかしは持田村に有ったのをここに遷(うつ)したと言う。御城地が持田の地なるが故と言える。今同村に字は沼尻という処に諏訪の旧地ある。同南条と云う所には神に供えた田畑がある。

(付録) 御本丸の条で、諏訪神社が元あった場所を持田村沼尻と書いたのは誤りである。沼尻は中里村の枝郷。

(付録) 鐘掛け松  お城の内側の諏訪曲輪の土手にある。天正の籠城の時使用されたものといわれている。その鐘は、阿部候が白河城へ移動した。松は、後世に植え続けているのか若木である。  

古鐘の銘  
   銘字に誤りが多いので読むべきでない。また考えるべきもの(特筆する)が無いのでそのままを記す。

  武蔵国崎西郡池上郷にある施無畏寺の梵鐘を治鋳す
右当寺は曩祖(のうそ)が関東右大将(源頼朝)家の御菩提所の為に建立せしめ奉るなり。而してこの鐘は梁上公(盗賊)が忽ちに光を盗み取り、掊て(うって)之を破すと雖も蹤(あと)に就いて即ち求め得て元の如くに治鋳せしむ。
仍って(よって)銘を作(な)して曰く。

  今此の鐘を籚(かけぎにか)く、古青銅を新たにし、
  即ち土子(土地の人)の為に兀(おさ)に命じて工を全くす、
  侈奄(しえん・大いさ)は度に叶い、治鋳の功を終る
  清音響を振わし、無明の夢を驚かす
  外内九域、悉く聖衷を仰ぐ
  文武百砕、各々巨忠を抽(ぬき)んず
  招提長同、政理普く通じ、
  暁夕勤めを致し、久しく梵風を扇がん

 願主正六位上 左衛門尉藤原朝臣道敏 敬白
               大工 遠江権守 朝重
延慶二年十一月五日

◯地獄橋
   北谷から帯曲輪に掛かる橋。この橋は浅間山や赤城山などの寒風が吹き付けると非常に寒い。俗説では、風が強い時は橋の下へ落ちる事もあるので地獄橋になったというが、この俗説はあまり信用できない。

(付録)  檪鬂堀(れきびんぼり) 
   場所ははっきりしない。天正十八年(1590)に籠城した際、城南の要害が弱いというので、氏長の息女が侍卒を率いて掘った堀である。檪鬂(れきびん・耳際の髪に刺したクヌギの髪飾り)を使って指図したので堀の名にしたとか。
(山本周五郎の小説「笄堀」で、奥方真名女が武士の妻達と堀を掘った話の元ネタか)

◯縁切橋
   上荒井から内矢場に掛かる橋。成田氏長が小田原へ出陣した時、内室や家臣等と別れを惜しんだ所である。今は嫁いで行く者がこの橋を渡るのを忌む。名が悪い為であろう。

(増) 成田記にもこの類いの話があるが略す。
(成田記に氏長が横瀬の娘=甲斐姫の実母と別れた時に見送った橋とある)
   同書には忍籠城の諸士が退城の時、本丸を伏し拝み、君臣三世の縁(三世に繋がる主従の因縁)もこれ限りかと落涙した所とも云う。

◯鉦打橋(かねうちばし)
   沼尻から袋町に掛かる橋。

(増) 鉦打橋は下忍御門の外張から百石町へ掛かる橋である。今は水野某屋敷と山田某下屋敷の辺りに、むかし鉦打聖が住んでいたので、俗に鉦打橋と呼び習わしたのだろう。
因みに、鉦打聖について述べる。一遍上人が諸国遊行した時に帰依した僧侶は数多くいたが、その中で炊事役をしていた者を何阿弥と呼んでいたとか。後に僧となり、あるいは一般人のままで、阿弥と号し念仏行者として鉦を打ち諸国を修行する者を、俗に鉦打聖と呼んだ。今もあちこちにある。ここに住んでいた鉦打聖も後に埼玉村に住んだ。

◯秀衡駒繋松
   江戸町の畠山某の庭の中にあった。そのむかし藤原秀衡がここを通った時、駒を繋いで休んだ所と云う。由縁の詳細は不明。

(増) 大木だが星霜(歳月)五六百年には見えない。後世に植え続けたのだろうか。不明。

◯浅間宮 
   江戸町の伴某の庭の中にあって、松平忠吉朝臣の勧請(かんじょう)といわれる。

(増) 多度両宮は、帯曲輪にあり、文政九年(1826)に君侯(松平下総守)が伊勢国桑名の多度山より移したものである。

(増) 東照大権現御宮は、下荒井にあり、文政八年(1825)に造営、別当寺は摩柅山(まじさん)金剛寺である。

◯ご城下 (町割の開始時期は明らかでない)

(増) 昔は、今の本町だけで、その後、新町・下町等が追加された。

◯行田 (町の総称で、別に業田の字を使ったが、今は、専ら行の字を使用している)
   上・中・下町・大工町等の町名があった。

(付録) 行田と云う号が古くより有った証
   東鑑二十五に行田兵衛尉・鴛小太郎・鴛四郎太郎が云々とある。

◯本町 
(増) 古い地図には、行田本宿とあり、今の新町は、行田横町筋となっている。ここは日光街道の駅で、江戸から十五里である。北は、新郷宿へ二里、館林へ四里、西は、熊谷へ二里で、各地への連絡の便は良い。市の店では、諸国の産物を揃え、毎月、一・六の日には市を開き、色々な物を交換売買した。この市が始まったのは、天文十三年(1544)正月六日といわれている。

2012年1月12日木曜日

城南1(清善寺、天満宮 、高源寺、沼尻)

◯平田山清善寺 
  曹洞宗成田龍淵寺の末寺。寺領は三十石。惣門の横額は、拈華林指月印書(ねんげりんしげついんしょ)。薬師堂は、門の向こう正面にある。円通大師堂。石碑は、唐画の円通大師の像を刻み、裏の銘は、北山とある。石橋は、門前に架かる青い一枚石で、幅一間半、縦二間半余ある。小見村真観寺岩窟の扉といわれている。

(増) 当寺は、成田五郎家持の長男五郎左衛門尉資員の次男、成田形部少輔顕忠が、永享十二年(1440)に草創し、龍淵寺五世の僧を招いてここに住まわせた。その後、松平薩摩守忠吉朝臣が多くの堂塔を再建したという。

◯天満宮 
  佐間村の入り口にあり、神体は春日の作で、古木の梅が社内にある。この梅は大木で、およそ二囲いもあるが、高さは約一間半しかない。いつの頃か雷火のためにことごとく焼かれ、わずか周りのふちだけが残った。中は空洞で、近年、その中から若木が生えてきて繁っている。八重の白梅が咲いて、いつの頃からか神木といわれるようになった。
別当は慈眼山安養院、下忍遍照院末寺である。

◯天真山高源寺 曹洞宗上崎村隆興寺の末寺。

◯正木丹波守利英の墓  同寺門内の脇にある。
  碑面には、「天正一九年(1591)3月2日」と「当寺開基傑宗道英居士 成田下総守殿家臣 正木丹波守利英」が刻まれている。

(増)正木丹波守利英は成田家の老臣である。天正の籠城の時には、佐間口の大将だった。大手口の防戦が難儀していた時、行田口より町に入って寄せ手(敵)の後を破り陣に返る時、「忠の有る者」といって大いに敵の軍を混乱させ、隙に乗じて敵軍を追うなど厳しい活躍をした。これによって、大手口の味方の諸将は力を得て、共に敵を追退させた。これは利英の作戦によるものである。その他いろいろな軍功が有るが、ここでは説明を省く。

◯沼尻 
(増)沼の尻辺りなので皆そういう。行田より東松山への往還の今の歩卒屋敷のあたりである。
  この辺りから見ると、大沼は、青々として太湖に等しく、松杉(しょうさん)が繁茂していて大山のようだ。 そもそも忍城はどこから望んでも見ることができなかったが、ただこの沼尻からだけは低い垣と白壁や櫓の瓦を見ることができた。
  天文の頃、上杉謙信が当城を攻めあぐんでいた時、この辺りより城中の形勢を見回ったという。成田記によれば、天文二十二年(1553)年三月下旬、またまた西上野に軍を出した時、北越の軍勢が城外に詰め寄ったけれども、城の防備が無双で四方が深いぬかるみのためなかなか容易に攻めかかることができなかった。
  このため、大将の謙信自らが大物見として、佐間下忍の方へ馬で回って城中の形勢を見回ったところ、忍の城兵は、大将とみなして「上手くいけば撃ちとめよう」として、鉄砲隊十余人が一度に撃ってきたけれど謙信の身には当たらなかった。その時謙信は馬の鼻を城の方へ向け、扇を開いたまましばらく冷静に睨んでいた。そして落ち着いて退いたことは、城中でもその勇ましい品格の者と感賞した。その時 空が暗くなり急に雷鳴し風雨がはげしくなったので、この日の攻防はなかった。
  翌日足軽同士の攻防があった。双方互角で死人多く雌雄未だ半ばの処に、信濃の戸倉城の大石源左衛門尉入道より、急を要することを示すための回状連絡が入った。その内容は、「北条氏康が伊豆、相模の仲間を統率して小田原を出発し忍の後援に出た」との噂がある。また「東上野の前橋へ出て陣を張る」との噂もあると。その事実の有無は未だ不明とはいえ、ご注進申し上げるとあるので、謙信はどう判断したかわからないが、翌日包囲網を解き平井城に引き上げた。