第11冊-頁55 北河原村
北河原村は江戸よりの行程15里・用水(北河原用水)は前村(酒巻村)に同じ。南北二村に分れたのは古い事で、寿永の頃は河原太郎高尚・同次郎忠家兄弟の所領だった。北河原は忠家が領し、南河原は高尚が領したといい伝える。されどこれも後でいうことであるので、その頃完全に南北を分かち唱えた証とも言い難い。
東は酒巻と当村の新田があり、南は同じ新田と南河原・上中条及び幡羅郡日向村と接し、西は福川を隔てて同郡葛和田村、北も同じ川を隔てて俵瀬村と対している。
広さは東西18町、南北7町で民家157戸。古くより幕府領であったが、元禄十一年(1698)村内を六つに分け、今の藤方勘右衛門、大沢仁十郎、宮崎勘右衛門・戸田市郎兵衛、西尾藤四郎、松前徳三郎の祖先に賜わった。検地は元禄十年(1697)酒井河内守が改めた。
高札場は六ケ所にある。
小名(こな) 上宿、下宿、久保、天袋、里、立野
福川: 西から北へ屈曲して郡境を流れる。川幅8間。二つの土橋が架かる。
利根川堤: 西寄り北に続いている。利根川の水除けの大堤である。高さ2丈。
十二所権現社
若宮八幡社
熊野社
稲荷社
照厳寺:
禅宗臨済派で相州鎌倉の円覚寺の末山である。寺領十二石余のご朱印は慶安二年(1649)八月二十四日に賜り泉福山と号す。本尊に釈迦を安置する。
寺伝によると、当寺は河原次郎忠家の家臣、森入道道本が主人の追福のために草創したと云う。しかし寿永三年(1184)摂津国一の谷に於いて戦死した河原太郎高直、同次郎忠家兄弟の位牌を置いた。山号(泉福山)は高直の送り名・泉福院直入讃高から、また寺号(照岩寺)は忠家の送り名・照岩寺直心道盛から、それぞれ文字を用いた。開山を詞久という。嘉慶二年(1388)九月二日亡くなる。開基の道本は正治二年(1200)四月二日亡くなっているので、開山と開基の年代がさらに違ってくる。さりながら古刹とは見えるが、記録にも伝えが無いので確認できない。村の民・五郎左衛門は彼の道本の子孫で森氏であるが、これも確かなる事も無い。
薬師堂: 客殿の後の方の小高い所にある。薬師は定朝の作と言える。昔はこの堂の前の利根川の堤の上より遠望する所が景勝の地だったので、今より四代前の住僧は眼前の地名を以って八景の題を作り、公家(殿上人)の詩歌を乞い得て珍蔵(珍しいと秘蔵する)とした。今は堤の上の松杉が生い茂り、古の様子は絶えてない。詩歌は、以下の通り。
黒髪山晴乱
ふもとなる 水海かけて 晴れにけり 黒髪山の 山の嵐に
中院右大臣道躬公
風引白雲一帯長 満山晴景不尋常 攅峯峭壁翠微色 千古挂来仏日光
唐橋小納言在簾朝臣
筑波夕照(せきしょう:夕映え)
暮れかかる 里のをちなる 筑波山 そことさやかに 夕日さす影
冷泉大納言為久卿
筑波山嶺道三千 遠映斜陽聳満天 風色凝眸将援筆 半紅半雫興雲連
勤修寺中納言高顕卿
利根川帰帆
雲ひらく 利根の川との 見るうちに こなたやとまり 帰る舟人
武者小路前権大納言実陰
奔流如箭甲東関 直下千艘一望間 囘首僧房憐世態 沂洄豊日幾人還
高辻中納言総長卿
熊谷晩鐘
鐘の音に 聞くは昔の 夕暮れも あはれ忍ぶる 袖や濡らさん
高野権中納言保光卿
勇士尚存一古墳 緬懐白旆擁三軍 黄昏過客為追弔 驚却鐘聲馬上聞
中御門前宰相宣顕卿
長井夜雨
いねかてに 夜半も長井の 秋はさそ をもひやるたに 雨そさひしき
高松従三位重季卿
英雄千歳古祠存 林樹陰森日易昏 秋雨終宵如溌墨 応須天意在忠魂
勘解由小路前大納言韶光卿
泉山秋月
秋清き 岩間に月の かけとめて いつみの山の 名をや流さん
武者小路前参議公野卿
決皆島辺秋色清 夜深虚閣断経声 一輪白日碾昇處 光照高僧覚海明
防城蔵人頭左大弁俊将朝臣
成田落雁
いくつらそ 成田の面に をつる雁 いつみの山の 峰をこえ来て
日野前大納言資時卿
成田千畝接西東 雁陣横斜落遠空 春去秋来留此地 年年応飽稲梁豊
葉室権中納言頼胤卿
赤城暮雲
降りつもる 雪にあかきの 山ひとり 暮れ残る色を 見せてかかやく
西三条前大納言公福卿
冉冉同雲布 赤城雪陸離 稍埋東郭履 因動灞橘詩
村外行踪絶 天辺往鳥遅 風寒肌起粟 一望欲昏時
八条中将隆英朝臣
鐘楼 亀岡稲荷社 観音堂
北河原新田
北河原新田は、本村の南東にある。この村は元禄の改めに初めて載っているので、元禄十年(1697)の本村の検地があった頃より分かれて一村となっていたのである。
東は酒巻村、南は南河原村、西より北にわたって本村である。四方ともに3町程の地にして戸数20戸。金田市郎の知行地である。
高札場が村の中程にある。
伊勢宮
第11冊-頁57 南河原村
南河原村は江戸からの行程16里余り。太田庄に属す。南北二つに分れ、ここが河原太郎高直の領地であったことは北河原村の条で述べた。戸数112戸。東は犬塚村、南は上中条村、北は北河原村に隣接する。広さは東西28町、南北30町。用水は上川上村の溜井から水田に引いている。
当村は家康公御入国後は幕府領であったが、慶長十三年(1608)に伊奈備前守忠次が検地して寛永四年(1627)に村内を五つに分け、日根野長右衛門・梶原七郎兵衛・松平隼人・松平斎宮・森川三左衛門に賜った。そのうち梶川某の領地は幕府領に戻ったが、その頃に開拓した新田は元禄年中(1688~1704)に伊奈半十郎が検地した。元禄十年(1697)に全体の所替えがあり阿部豊後守が賜ったが、寛永七年(1630)に阿部讃岐守に分地し、子孫帯刀が享保十九年(1734)に本家が相続して以来、本家阿部氏に復して、今の子孫鉄丸に至っている。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 屋敷 東 新井 茅原 町 新屋敷 曲目 北 新田 中新田 向新田
勝呂神社(今の河原神社)*忍名所 別当本覚院
諏訪社
稲荷社
八幡社
浅間社
観福寺*忍名所 鐘楼 弁天社 天神社 諏訪社 真珠院 天神社 金山権現社 観音堂
河原兄弟碑
河原太郎私市(きさい)高直・同次郎忠家の碑である。中古まで村の北の畑の中にあったのを農民河原太郎左衛門が「自分の先祖の碑である」として、後になって此処に移したという。碑面には一つは文応二年(1261)、もう一つは文永二年(1265)と彫られている。どちらも阿弥陀像と施主の名がある。まさしく供養塔である。
河原兄弟の碑とするには年代が違うが、正保(1645~1648)の改めの国図に、小高い塚を書き、側に河原兄弟墓と記しているので、この碑に疑いがあるにしても、少し前までこの碑があったことで、村内墳墓所があったことは間違いない。今のように塚が崩れて畑にしてしまった年代などは伝わってない。
鶴塚
村の西で、塚の上に古い松の木が1本ある。神君家康公が忍城に御滞留してこの辺りで鷹狩りされた時、ここで鶴をとらせたので、鶴塚と名付けたという。
旧家者賢次郎
氏を河原と云う。家系はあるが後に付会(無理に繋ぎ合わせた)したものである。言い伝えによると、古えは河原氏であったが、中古(しばらく前)今村と名乗り、今から五代の祖、太郎左衛門重信が享保年中(1716~1736)に復姓して再び河原を氏とした。彼の家系というのはこの頃に付会したものであろう。しかし成田下総守が先祖源左衛門に与えた判物があるので旧家であるのは間違いない。成田氏の文書は下記に示す。家系は特筆すべきものがないので省く。
『この度の成田家に仕えるという内意の趣旨は承知した。
よって50貫文支配する事をこの条にてあてがう。
本書により領知せしめることを全て可とする。
天正五年三月九日 氏長花押
今村源左衛門どの 』
2012年2月9日木曜日
上川上村、下川上村、大塚村、犬塚村、中江袋村、馬見塚村、斎条村(巻之218 埼玉郡之20 忍領)
第11冊-頁63 上川上村
上川上村は江戸からの行程16里、太田庄に属す。東は大塚・下川上の二村、南は上之村、西から北は上中条村である。広さは東西13町、南北6町ばかり。民戸80戸。村内に僅かの溜井を作って用水にしている。下川上・上中条・南河原・大塚・中江袋などの村々もこの溜井を引いて用水にしている。
当村はむかし川上三郎が住んでいたと伝えられる。三郎は「保元物語」に載っている武蔵の人である。その後、山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。
調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦(武州上杉氏と古河公方の戦い?)で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。詳しくは幡羅郡八ツ口村長昌寺の条に述べる。
この村は慶長の頃(1596~1615)幕府領であったが、寛永年中(1624~1645)に南條金左衛門・深尾五郎右衛門・伴五兵衛・斎藤久右衛門・小栗勘八郎などの知行地に賜い、元禄十一年(1698)になって阿部豊後守の領地となり、享保十九年(1734)には又幕府領に戻り、明和七年(1770)に松平大和守の領地になった。検地は前村と同じく、慶長改めの後、享保十八年(1733)領主豊後守が新田の地を改めた。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 天神河原 十二所 東曲輪 宿
星川: 村の南を屈曲して流れる。川幅4間。
熊野社 末社 八幡 若宮 稲荷 荒神
稲荷社
天神社
医王寺 薬師堂
観音堂 地蔵堂
第11冊-頁64 下川上村
下川上村は江戸への行程16里で上川上村と同じ。忍庄と唱える。民戸90戸余り。広さは東西・南北とも10町ばかり。南は上池守・上池上の二村、西は上川上と上之村、南は南河原村である。
家康公御入国の後は幕府領であったが、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸の領地である。検地は前村(上川上村)と同じく、慶長改めの後、延亨二年(1745)豊後守が再び糺した。
高札場は村の南境に立つ。
小名(こな): 鶴木宮 土器町 市海道 桜島 柳原 仏具免 縄子田 江戸町 中町
南えこせ 北えこせ 絶覚寺
星川: 南方を流れる。川幅6~7間。この川に土橋が架る。長さ10間。
三島明神社
牛頭天王社
弁天社
浄泉寺*忍名所 門 四天門 開山堂 衆寮 鐘楼 弁天社 天神社 秋葉社 熊野社
宝乗院 金毘羅社
弥勒院
愛染堂*忍名所
第11冊-頁65 大塚村
大塚村は江戸への行程16里で下川上村と同じ。村の広さは東西10町余り、南北8~9町ばかり。民戸26戸。東は南河原村、南は馬見塚・中江袋・下川上の三村で、西は上川上村、北は上中条村である。当所も寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜り、暫く領して宝永七年(1710)一族の阿部讃岐守へ分地したが、享保十九年(1734)に阿部帯刀が本家を相続してまた元に戻り、今は子孫鉄丸の領地である。検地は安永四年(1775)に領主が糺した。
高札場は東境にある。
小名(こな): 前谷 大釜 新堀
龍昌寺
熊野社
観聚院 観音堂
旧家者五郎左衛門
大塚村の庄屋を務める。先祖松岡豊前守勝政は成田家譜代の侍で、1,000貫文で処遇されていた。天正十八年(1590)に忍城が落城した後に大塚村に住んでから子孫が連綿と続いて今に至る。勝政の名は成田分限帳には長達と載っている。改名したのであろう。
第11冊-頁65 犬塚村
犬塚村は江戸からの行程16里。民戸77戸。東は斎条村、南は和田・馬見塚の二村、西は南河原村、北は酒巻村に隣接している。広さは東西11町、南北14町。北河原用水を引き用いる。
家康公御入国後、当村は松平主殿頭家忠に賜った。「家忠日記」の天正十九年(1591)六月六日の条に943石3斗1升、犬塚村と西新井村を賜った事を載せている。この西新井村とは当時は別村だったが、今は当村に含まれ小名(こな)にある。正保の頃(1645~1648)は幕府領のほかに、阿部豊後守・伊藤長五郎・丸山市太夫・矢頭金左衛門・高林太郎兵衛・漆戸八兵衛・成瀬九兵衛・山田長右衛門らの領地であった。
「寛永譜」を調べてみると、矢頭金左衛門重次が元和十九年(1633)武州忍の領内に知行地を賜うとあるのは当村のことである。豊後守に賜ったのは近村と同じく寛永十六年(1639)であろう。その他の賜った年は不明。そのあと元禄十三年(1700)になり、伊藤以下の小さな地を合わせて阿部豊後守に賜って、今は子孫鉄丸が領する。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 西新井 五段町 柳町 中間町 古川町
星川: 村の南を流れる。当所で上流の村々の悪水がこの川に合流し、川幅も他村より広く、60間に及ぶ。
蔵王権現社
稲荷社二宇
十二天宮
愛宕社
雷電社
第11冊-頁66 中江袋村
中江袋村は江戸からの行程16里。民家29戸。東は馬見塚村、西は下川上村、南は池守村、北は南河原村に隣接している。広さは東西3町、南北10町余り。用水は上川上村の溜井から引いている。
当村は家康公御入国後から寛文の頃(1661~1673)まで幕府領であったが、元禄の初めに中山利右衛門の領地となり、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸まで続いている。検地は明暦二年(1656)曽根五郎左衛門が糺した。
高札場は村の南にある。
小名(こな): 掃除町 瓦町 後町 小堰元
星川: 村の南を流れる。川幅13間~17間。
剣明神社 弁天
第六天社
稲荷社
長徳寺 二十五菩薩堂 天神社 金毘羅社
第11冊-頁66 馬見塚村
馬見塚村は太田庄に属す。江戸からの行程16里。民戸65戸。村内の東の方に御堂塚と呼ぶ小塚がある。この辺りに昔馬市がたち、この塚の上に登って馬の良し悪しを見分けたので、いつとなく村名になったという。「成田分限帳」に永21貫文馬見塚三河と載っているが、この人は当村に住み在名を氏としたのであろう。
村の広さは東西11町、南北7町ばかり。東は犬塚村、南は和田・中池守・下池守の3村、西は中江袋村、北は犬塚村と中江袋村である。北河原用水を引いて水田に注いでいる。
当村は寛永・正保の頃は御手洗伝左衛門・酒井七郎右衛門・山田長右衛門・森川三右衛門らの知行地であった。その後、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領している。
高札場は二ヶ所ある。村の東と村の西。
小名(こな): 高田町 上萎田町 中萎田町 西神際町 東神際町 吉際町 一本木町
星川: 村の南。川幅13間~18間。この川に土橋が架かる。長さ10間。
久伊豆社
神明社
稲荷社
諏訪社
西善院
天神社 稲荷社 薬師堂
第11冊-頁67 斎条村
斎条村は江戸への行程16里は前村(馬見塚村)と同じ。民戸128戸。成田分限帳に「永20貫文斎条伊賀」と載っているが、これは当村の人である。東は荒木村、南は白川戸村、西は犬塚・馬見塚の2村で、北は酒巻・下中条の二村と隣接する。広さは東西18町、南北17町ばかり。用水は星川の水を引いて田に注いでいる。
当村は正保の頃(1644~1648)は阿部豊後守・大久保平四郎・須田義左衛門・鵜殿大學らの領地であった。義左衛門に賜ったのは寛永十年(1633)だが、他の賜った年は不明。その後、元禄十一年(1699)に合わせて豊後守に賜ってから今も子孫鉄丸が領している。
高札場は南東の方にある。
小名(こな): 北戸 中江崎 台
星川: 村の南方を流れる。川幅は12間、広い所は35間ある。
斎条堰: 当村で星川の水を溜めておき、扖樋(いりひ・水を引き入れる水門の樋)を設けて、水を引入れ、(斎条という村名をつけた)一條の流れをなし、当村と下流13ヶ村の用水となる。これを齋條堰用水という。扖樋の長さ8間、内寸5尺4寸。
剣社
浅間社
諏訪社
八幡社
天神社
弁天社
雷電社
矢矯明神社
熊野神社
宝泉寺 薬師堂
多聞院
上川上村は江戸からの行程16里、太田庄に属す。東は大塚・下川上の二村、南は上之村、西から北は上中条村である。広さは東西13町、南北6町ばかり。民戸80戸。村内に僅かの溜井を作って用水にしている。下川上・上中条・南河原・大塚・中江袋などの村々もこの溜井を引いて用水にしている。
当村はむかし川上三郎が住んでいたと伝えられる。三郎は「保元物語」に載っている武蔵の人である。その後、山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。
調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦(武州上杉氏と古河公方の戦い?)で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。詳しくは幡羅郡八ツ口村長昌寺の条に述べる。
この村は慶長の頃(1596~1615)幕府領であったが、寛永年中(1624~1645)に南條金左衛門・深尾五郎右衛門・伴五兵衛・斎藤久右衛門・小栗勘八郎などの知行地に賜い、元禄十一年(1698)になって阿部豊後守の領地となり、享保十九年(1734)には又幕府領に戻り、明和七年(1770)に松平大和守の領地になった。検地は前村と同じく、慶長改めの後、享保十八年(1733)領主豊後守が新田の地を改めた。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 天神河原 十二所 東曲輪 宿
星川: 村の南を屈曲して流れる。川幅4間。
熊野社 末社 八幡 若宮 稲荷 荒神
稲荷社
天神社
医王寺 薬師堂
観音堂 地蔵堂
第11冊-頁64 下川上村
下川上村は江戸への行程16里で上川上村と同じ。忍庄と唱える。民戸90戸余り。広さは東西・南北とも10町ばかり。南は上池守・上池上の二村、西は上川上と上之村、南は南河原村である。
家康公御入国の後は幕府領であったが、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸の領地である。検地は前村(上川上村)と同じく、慶長改めの後、延亨二年(1745)豊後守が再び糺した。
高札場は村の南境に立つ。
小名(こな): 鶴木宮 土器町 市海道 桜島 柳原 仏具免 縄子田 江戸町 中町
南えこせ 北えこせ 絶覚寺
星川: 南方を流れる。川幅6~7間。この川に土橋が架る。長さ10間。
三島明神社
牛頭天王社
弁天社
浄泉寺*忍名所 門 四天門 開山堂 衆寮 鐘楼 弁天社 天神社 秋葉社 熊野社
宝乗院 金毘羅社
弥勒院
愛染堂*忍名所
第11冊-頁65 大塚村
大塚村は江戸への行程16里で下川上村と同じ。村の広さは東西10町余り、南北8~9町ばかり。民戸26戸。東は南河原村、南は馬見塚・中江袋・下川上の三村で、西は上川上村、北は上中条村である。当所も寛永十六年(1639)に阿部豊後守に賜り、暫く領して宝永七年(1710)一族の阿部讃岐守へ分地したが、享保十九年(1734)に阿部帯刀が本家を相続してまた元に戻り、今は子孫鉄丸の領地である。検地は安永四年(1775)に領主が糺した。
高札場は東境にある。
小名(こな): 前谷 大釜 新堀
龍昌寺
熊野社
観聚院 観音堂
旧家者五郎左衛門
大塚村の庄屋を務める。先祖松岡豊前守勝政は成田家譜代の侍で、1,000貫文で処遇されていた。天正十八年(1590)に忍城が落城した後に大塚村に住んでから子孫が連綿と続いて今に至る。勝政の名は成田分限帳には長達と載っている。改名したのであろう。
第11冊-頁65 犬塚村
犬塚村は江戸からの行程16里。民戸77戸。東は斎条村、南は和田・馬見塚の二村、西は南河原村、北は酒巻村に隣接している。広さは東西11町、南北14町。北河原用水を引き用いる。
家康公御入国後、当村は松平主殿頭家忠に賜った。「家忠日記」の天正十九年(1591)六月六日の条に943石3斗1升、犬塚村と西新井村を賜った事を載せている。この西新井村とは当時は別村だったが、今は当村に含まれ小名(こな)にある。正保の頃(1645~1648)は幕府領のほかに、阿部豊後守・伊藤長五郎・丸山市太夫・矢頭金左衛門・高林太郎兵衛・漆戸八兵衛・成瀬九兵衛・山田長右衛門らの領地であった。
「寛永譜」を調べてみると、矢頭金左衛門重次が元和十九年(1633)武州忍の領内に知行地を賜うとあるのは当村のことである。豊後守に賜ったのは近村と同じく寛永十六年(1639)であろう。その他の賜った年は不明。そのあと元禄十三年(1700)になり、伊藤以下の小さな地を合わせて阿部豊後守に賜って、今は子孫鉄丸が領する。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 西新井 五段町 柳町 中間町 古川町
星川: 村の南を流れる。当所で上流の村々の悪水がこの川に合流し、川幅も他村より広く、60間に及ぶ。
蔵王権現社
稲荷社二宇
十二天宮
愛宕社
雷電社
第11冊-頁66 中江袋村
中江袋村は江戸からの行程16里。民家29戸。東は馬見塚村、西は下川上村、南は池守村、北は南河原村に隣接している。広さは東西3町、南北10町余り。用水は上川上村の溜井から引いている。
当村は家康公御入国後から寛文の頃(1661~1673)まで幕府領であったが、元禄の初めに中山利右衛門の領地となり、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸まで続いている。検地は明暦二年(1656)曽根五郎左衛門が糺した。
高札場は村の南にある。
小名(こな): 掃除町 瓦町 後町 小堰元
星川: 村の南を流れる。川幅13間~17間。
剣明神社 弁天
第六天社
稲荷社
長徳寺 二十五菩薩堂 天神社 金毘羅社
第11冊-頁66 馬見塚村
馬見塚村は太田庄に属す。江戸からの行程16里。民戸65戸。村内の東の方に御堂塚と呼ぶ小塚がある。この辺りに昔馬市がたち、この塚の上に登って馬の良し悪しを見分けたので、いつとなく村名になったという。「成田分限帳」に永21貫文馬見塚三河と載っているが、この人は当村に住み在名を氏としたのであろう。
村の広さは東西11町、南北7町ばかり。東は犬塚村、南は和田・中池守・下池守の3村、西は中江袋村、北は犬塚村と中江袋村である。北河原用水を引いて水田に注いでいる。
当村は寛永・正保の頃は御手洗伝左衛門・酒井七郎右衛門・山田長右衛門・森川三右衛門らの知行地であった。その後、元禄十三年(1700)阿部豊後守に賜り、今も子孫鉄丸が領している。
高札場は二ヶ所ある。村の東と村の西。
小名(こな): 高田町 上萎田町 中萎田町 西神際町 東神際町 吉際町 一本木町
星川: 村の南。川幅13間~18間。この川に土橋が架かる。長さ10間。
久伊豆社
神明社
稲荷社
諏訪社
西善院
天神社 稲荷社 薬師堂
第11冊-頁67 斎条村
斎条村は江戸への行程16里は前村(馬見塚村)と同じ。民戸128戸。成田分限帳に「永20貫文斎条伊賀」と載っているが、これは当村の人である。東は荒木村、南は白川戸村、西は犬塚・馬見塚の2村で、北は酒巻・下中条の二村と隣接する。広さは東西18町、南北17町ばかり。用水は星川の水を引いて田に注いでいる。
当村は正保の頃(1644~1648)は阿部豊後守・大久保平四郎・須田義左衛門・鵜殿大學らの領地であった。義左衛門に賜ったのは寛永十年(1633)だが、他の賜った年は不明。その後、元禄十一年(1699)に合わせて豊後守に賜ってから今も子孫鉄丸が領している。
高札場は南東の方にある。
小名(こな): 北戸 中江崎 台
星川: 村の南方を流れる。川幅は12間、広い所は35間ある。
斎条堰: 当村で星川の水を溜めておき、扖樋(いりひ・水を引き入れる水門の樋)を設けて、水を引入れ、(斎条という村名をつけた)一條の流れをなし、当村と下流13ヶ村の用水となる。これを齋條堰用水という。扖樋の長さ8間、内寸5尺4寸。
剣社
浅間社
諏訪社
八幡社
天神社
弁天社
雷電社
矢矯明神社
熊野神社
宝泉寺 薬師堂
多聞院
和田村、上池守村、中池守村、下池守村、中里村、池上村、小敷田村(巻之218 埼玉郡之20 忍領)
第11冊-頁68 和田村
和田村は江戸への行程16里は前村(斎条村)と同じ。成田分限帳に和田七郎という名が載っているが、これは当村の人である。民戸55戸。東は白川戸・斎条の二村、南は谷郷、西は下池守村で、北は馬見塚村と隣接する。広さは東西15町、南北13町。用水は小宮堰(星川)の水を引いて用いている。
家康公御入国の後は幕府領となり、忍城番が支配し、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸に続いている。検地は慶長十三年(1637)に袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改めた。
高札場は村の北西に方にある。
小名(こな): 上新田 前新田 下新田
星川: 村の北を流れる。 川幅16間。
伊森明神社
蔵王社
宝珠院 護摩堂
第11冊-頁68 上池守村
上池守村の領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、江戸への行程16里、及び用水(小宮堰)等は前村{和田村}に同じである。古は、上・中・下合せて一つの村であった。玄和五年(1619)の割付には池守郷と載っており、同六年(1620)のものより後は村となっている。調べてみると村というのを郷と記したもので中世から行われた郷名ではない。その後、元禄の改定のものに、初めて今のように三村が載っており、上・中・下に分れたのはその頃と思われる。民家が75戸。東は中池守村、南は中里村、西は池上村、北は下川上村である。東西の広さは8町、南北は12町に及ぶ。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 横町 下久保 八木澤 前出 下島間 長大道
星川: 村の北を流れる。川幅12間。この川に長さ10間、幅9尺の土橋が架かる。
天神社三宇
八幡社
神明社
善性寺 牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)
辯天社 地蔵堂
持宝院 天神社 稲荷社
地蔵堂
観音堂
第11冊-頁69 中池守村
中池守村は、上池守村の東に続き、南は皿尾村、東は下池守村、北は馬見塚・中江袋の二村である。東西3町、南北10町。民家は20戸余。領主の変遷、江戸よりの行程16里、検地の年歴(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は前村(上池守村)に同じ。
高札場は東の方にある。
星川: 村の北を流れる。川幅14間。
子安明神社*忍名所 神宝子安玉 子育石
天神社
龍光寺
第11冊-頁69 下池守村
下池守村は、江戸への行程16里、及び領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は中池守村に同じ。東は和田村、南は皿尾村、西は中池守村で、北は馬見塚村である。広さは東西3町、南北9町。民家は18戸である。
高札場は村の東にある。
星川: 村の北を流れる。川幅16間
稲荷社
観音堂
第11冊-頁69 中里村
中里村は、江戸からの行程15里、太田庄に属す。領主の変還、検地(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)・用水(小宮堰)等は下池守村に同じ。家数は50戸余。東は谷之郷(谷郷)、皿尾の2村、南は持田村、西は小敷田村で、北は上池守村である。村の広さは、東西7町余り、南北12町を越す。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 沼尻、 ぞう殿、 新在家
八幡社
雷電社
神明社
萬徳寺
萬徳寺
阿彌陀堂
第11冊-頁70 池上村
池上村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)と領主の変遷は前村(中里村)に同じ。
調べてみると、忍城に掛かっていた延慶二年(1309)の鐘は、陣鐘に用いたものだが、この鐘の銘に「武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺」と載っているのは、当村の新田小敷田村普門寺のことであると伝わっているので、当村が古くから開けていた事が分る。
家数60戸。東は上池上村、南は小敷田村、西は上之村、北は星川を挟んで下川上村である。広さは東西9町余り、南北11町に及ぶ。用水は成田堰の水を引いて田地に注いでいる。検地は慶長十三年(1608)三月新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺した。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上曲輪 中曲輪 下曲輪 道下曲輪
星川: 北の方にある。川幅7間~10間。土橋が架る。橋の長さ10間、幅9尺。
岩倉社*忍名所
荒神社
梅岩院 天神社 白山社
照明院 天神社 熊野社 弁天社
第11冊-頁70 池上村新田 小敷田村
小敷田村は、池上村より分かれた村である。従って江戸の行程16里、,庄名(太田庄)、及び領主の変遷、検地(慶長十三年新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺す)・用水(成田堰)等全て前村(池上村)に同じである。もっとも,別村になったのはさほど古い事ではなく,元録(1688~1703)改定のものに初めて、池上村の新田小敷田村と載っており、分かれた年代はこれでわかる。家数は37軒、東は中里村、南は持田村、西は上之村、北は池上村。広さは東西9町、南北7町ある。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 田中、 上、 下
春日社
普門寺
和田村は江戸への行程16里は前村(斎条村)と同じ。成田分限帳に和田七郎という名が載っているが、これは当村の人である。民戸55戸。東は白川戸・斎条の二村、南は谷郷、西は下池守村で、北は馬見塚村と隣接する。広さは東西15町、南北13町。用水は小宮堰(星川)の水を引いて用いている。
家康公御入国の後は幕府領となり、忍城番が支配し、寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜ってから今の子孫鉄丸に続いている。検地は慶長十三年(1637)に袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改めた。
高札場は村の北西に方にある。
小名(こな): 上新田 前新田 下新田
星川: 村の北を流れる。 川幅16間。
伊森明神社
蔵王社
宝珠院 護摩堂
第11冊-頁68 上池守村
上池守村の領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、江戸への行程16里、及び用水(小宮堰)等は前村{和田村}に同じである。古は、上・中・下合せて一つの村であった。玄和五年(1619)の割付には池守郷と載っており、同六年(1620)のものより後は村となっている。調べてみると村というのを郷と記したもので中世から行われた郷名ではない。その後、元禄の改定のものに、初めて今のように三村が載っており、上・中・下に分れたのはその頃と思われる。民家が75戸。東は中池守村、南は中里村、西は池上村、北は下川上村である。東西の広さは8町、南北は12町に及ぶ。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 横町 下久保 八木澤 前出 下島間 長大道
星川: 村の北を流れる。川幅12間。この川に長さ10間、幅9尺の土橋が架かる。
天神社三宇
八幡社
神明社
善性寺 牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)
辯天社 地蔵堂
持宝院 天神社 稲荷社
地蔵堂
観音堂
第11冊-頁69 中池守村
中池守村は、上池守村の東に続き、南は皿尾村、東は下池守村、北は馬見塚・中江袋の二村である。東西3町、南北10町。民家は20戸余。領主の変遷、江戸よりの行程16里、検地の年歴(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は前村(上池守村)に同じ。
高札場は東の方にある。
星川: 村の北を流れる。川幅14間。
子安明神社*忍名所 神宝子安玉 子育石
天神社
龍光寺
第11冊-頁69 下池守村
下池守村は、江戸への行程16里、及び領主の変遷、検地の年代(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)、用水(小宮堰)等は中池守村に同じ。東は和田村、南は皿尾村、西は中池守村で、北は馬見塚村である。広さは東西3町、南北9町。民家は18戸である。
高札場は村の東にある。
星川: 村の北を流れる。川幅16間
稲荷社
観音堂
第11冊-頁69 中里村
中里村は、江戸からの行程15里、太田庄に属す。領主の変還、検地(慶長十三年袴田七右衛門・成瀬五郎八・佐野孫兵衛・内藤十郎が改め)・用水(小宮堰)等は下池守村に同じ。家数は50戸余。東は谷之郷(谷郷)、皿尾の2村、南は持田村、西は小敷田村で、北は上池守村である。村の広さは、東西7町余り、南北12町を越す。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 沼尻、 ぞう殿、 新在家
八幡社
雷電社
神明社
萬徳寺
萬徳寺
阿彌陀堂
第11冊-頁70 池上村
池上村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)と領主の変遷は前村(中里村)に同じ。
調べてみると、忍城に掛かっていた延慶二年(1309)の鐘は、陣鐘に用いたものだが、この鐘の銘に「武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺」と載っているのは、当村の新田小敷田村普門寺のことであると伝わっているので、当村が古くから開けていた事が分る。
家数60戸。東は上池上村、南は小敷田村、西は上之村、北は星川を挟んで下川上村である。広さは東西9町余り、南北11町に及ぶ。用水は成田堰の水を引いて田地に注いでいる。検地は慶長十三年(1608)三月新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺した。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上曲輪 中曲輪 下曲輪 道下曲輪
星川: 北の方にある。川幅7間~10間。土橋が架る。橋の長さ10間、幅9尺。
岩倉社*忍名所
荒神社
梅岩院 天神社 白山社
照明院 天神社 熊野社 弁天社
第11冊-頁70 池上村新田 小敷田村
小敷田村は、池上村より分かれた村である。従って江戸の行程16里、,庄名(太田庄)、及び領主の変遷、検地(慶長十三年新家忠右衛門・佐野新蔵・石田長兵衛・石田源兵衛・鈴木勘兵衛・神谷庄兵衛・西島手助などが糺す)・用水(成田堰)等全て前村(池上村)に同じである。もっとも,別村になったのはさほど古い事ではなく,元録(1688~1703)改定のものに初めて、池上村の新田小敷田村と載っており、分かれた年代はこれでわかる。家数は37軒、東は中里村、南は持田村、西は上之村、北は池上村。広さは東西9町、南北7町ある。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 田中、 上、 下
春日社
普門寺
上之村、箱田村、平戸村、戸出村、太井村(門井村、棚田村、新宿村)(巻之218 埼玉郡之20 忍領)
第11冊-頁71 上之村
上之村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)は前村(小敷田村)に同じ。当村は「むかし成田村と云っていたが、いつの頃からか今のように改めて古い名は小名(こな)に残るだけ」と伝わっている。調べてみると、足立郡に石戸上村・石戸下村があり、他にも上村下村と称する村が多くあるので、当所もむかし成田上村・成田中村・成田下村と分けて呼んでいたのを、後に成田の二字を省き、その後又中下の唱えを廃して上村に統一したのであろう。今も村内を四つに区分けして、上組中組下組成田と分ち呼ぶのはその名残りのようである。
家数250戸。東は池上・小敷田・持田の三村、南は戸出・平戸・箱田の三村と大里郡熊谷宿等に接し、西も大里郡肥塚村、北は埼玉郡上下の川上の二村である。広さは東西24町、南北20町。
当村は天正の頃(1573~)1593)は成田下総守が領していた。家康公御入国の後は左中将忠吉卿の領地であったが、慶長五年(1600)から幕府領となり、寛永十年(1633)松平伊豆守に賜り、同十六年(1639)幕府領に戻り、その後いつの頃からか旗本の知行地に分ち賜った。
実際、正保(1645~1648)の郷帳には、松木市左衛門御代官所、及び太田惣兵衛・三田長右衛門・前田孫市郎・竹内権之丞・永井弥右衛門・本間五郎作・筧勘七・松平次郎左衛門・斎藤久右衛門・筧六郎右衛門・山田左兵衛などの知行地、龍淵寺領・一乗院領・久伊豆神社領が入会(いりあい・共同利用)になる旨が載っている。
又村に伝わる記録によれば、元禄年中(1688~1704)には、山田孫太夫・斎藤久右衛門・前田安芸守・同新五郎・筧助兵衛・竹内五六左衛門・杉浦内蔵允(くらのじょう)・鈴木甚之助・松平次郎左衛門・松平下野守・三田次郎右衛門・本間忠左衛門の知行地であった。しかし同十一年(1698)おしなべて所替えとなり、当村は阿部豊後守に賜って、今も子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は上中下の組に一ケ所ずつある。
小名(こな):
成田 成田式部大輔助高が当所に住み、在名を氏としたものである。よって当時は前述のように、村全体を成田村と称していたが、今は村の北の方の龍淵寺領だけ成田と呼ぶ。これは古の名残りである。
堀之内、殿山 これら二つの小名(こな)も成田氏がいた為にできたものである。その城址はいま堀之内にある。
秋葉 村の南の方である。古は別の一村であったが、成田太郎助廣の五男、秋葉七郎某が住んでいた地である。龍淵寺にある成田家譜には秋庭七郎と載り、成田四郎助綱の弟になっている。この助綱は東鑑にも名前がでているので、地名ができたのも古いことが分る。
五田塚 塚の名である。この塚があるので小名(こな)になった。塚は高さ1丈5~6尺、幅15間ばかり。塚の由来は不明。
下河原 穢多(えた)が住む地である。慶長十三年伊奈備前守が検地した時、除地(じょち・年貢諸役を免除された地)としたという。穢多の者15軒。その中で七郎右衛門の家に成田氏長が出した文書があった。その文は
『□□之長吏職之事、不可有仰相違之旨、如件
(□□の長吏職は相違というべからず)
元亀二年(1571) 十二月九日
七郎右衛門へ』
星川: 村の北を流れる。水源は大里郡広瀬村で荒川を引き分けて同郡石原村に至って二つの流れに分れたうちの一方で、ここまでは特に名もない。村内に小宮堰という堰を設けて、隣りの池上村から下流10ケ村の用水とし、名を星川と呼ぶ。この上流に御鷹橋という長さ5間の橋が架る。言い伝えでは、家康公が鷹狩りされた頃に龍淵寺へ行く為に伊奈備前守が造ったので、御鷹橋という名になったという。
池: 村の中ほどにある。広さ220坪。
久伊豆社*忍名所 末社雷電 姫宮 天神 太郎坊 次郎坊 稲荷 随神門 鐘楼 別当久見寺 社人江守大和 社僧大正院
諏訪社
稲荷社
三郎社
大天魄社
荒神社
天神社二宇
八幡社
龍淵寺*忍名所 宝物 家康公朱印状 成田系図 成田家人分限帳 陣鈴 秀吉公禁制 浅野長吉禁制 本堂 禅堂 衆寮 回廊 山門 表門 裏門 下馬札 制札 鐘楼 東照宮 稲荷社 天神社 弁天社 龍ケ淵 開山座禅石
一乗院 護摩堂 稲荷社 弁天社 聖天社 熊野社 鐘楼
泰蔵院*忍名所 阿弥陀堂 白山社
東光寺*忍名所
円明寺 地蔵堂
安楽寺 天神社 愛宕社
専寿院
地蔵堂
弥陀堂
古城址
村の北で小名(こな)堀之内の辺りを云う。これは成田氏が数代住居としていた所で、後年ここから忍城へ移ったという。今は皆陸田となって小さな八幡社があるだけである。
成田家譜などを調べてみると、成田は藤原伊尹(ふじわらのこれただ)公の子、左中将義孝の二男、武蔵守忠基五代式部大輔助高に始まり、助高が当所に住んだので在名を氏としたものである。
これが成田氏の祖で、それから子孫下総守親泰まで八代がここに住んでいたが、文明年中(1469~1487)、(あるいは永正の頃(1504~1521))に忍城へ移ったという。忍城の条で詳しく述べる-。)
「鎌倉管領九代記」の永享十二年(1440)七月一日合戦の条に、一色伊予守は去る正月に鎌倉を逃げ出し、武州成田の館に隠れていたが、北一揆の者ども(成田家の人々)と相かたらい云々、上杉性順と長尾景仲が成田の館へ押し寄せるとあるのは、当所の館である。
第11冊-頁76 上之村新田 箱田村
箱田村は本村(上之村)の西に続く。地元の人によると、上之村の新田といっても箱田村の名も古く、古に箱田三郎が住んでいたと云う。成田系図に箱田右馬允・その子刑部丞廣忠・その子三郎兵衛尉能忠・その子三郎助忠などが載っている。これらは成田の一族でここに住み、箱田をもって家号としたのであろう。
調べてみると、正保の国図にこの村の名はなく、元禄改定の図に始めて載っている。これゆえ箱田は、古は上之村の小名(こな)で、正保より後に分村したので、上之村新田という名を冠しているのだろう。
家数は35戸。東は上之村、西南北の三方は大里郡熊谷宿・石原村・肥塚村などに隣接している。用水は成田用水を引いている。この用水の水源は大里郡広瀬村で荒川を分水し、石原村で二流に分れて、一つは肥塚村から上之村へ注ぎ、これが星川の上流である。もう一つは石原村から直接当村へ入り、これは成田用水が当郡へ入る始めである。
この村は元禄十一年(1698)阿部豊後守正武に賜り、今子孫鉄丸が領する。検地の年代(慶長十三年伊奈備前守)と江戸からの行程16里は前村(上之村)に同じ。
高札場は当所になく、上之村の高札で兼ねる。
稲荷社
伊勢宮
山神社
文殊院
阿弥陀堂
第11冊-頁77 平戸村
平戸村は、江戸からの行程16里、及び検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は前村(箱田村)に同じ。民家の戸数は50戸。東は戸出村、南は大里郡佐谷田村、西は大里郡熊谷宿で、北は埼玉郡の上之村である。東西12町、南北7町余り。南西の方向に中山道の往還があり、佐谷田村より入って熊谷宿に達している。
当村は正保(1645~1648)の郷帳に幕府領のほか、近藤勘右衛門、長田三郎右衛門、荒川又六郎、西山忠次郎の知行地である事が載っている。その後、元禄十一年(1698)阿部豊後守の領地となり、今も替らず子孫鐵丸が相続している。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 前平戸 丸屋敷 馬場 門前
八幡社
他國明神社
稲荷社
超願寺
源宗寺
第11冊-頁77 戸出村
戸出村は、江戸よりの行程16里、検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は、前村{平戸村}に同じ。民家は38戸。東は持田村、南は大里郡佐谷田村、西は平戸村、北は上之村である。東西16町、南北3町ばかりで、水害の起こる土地である。
成田分限帳に戸出彌吉という名がある。これは当村の出身者であろう。当村も、正保(1647)の改定で、西山忠次郎・能勢庄左衛門・大久保四郎左衛門の知行地となったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守賜り、今は子孫阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。
小名(こな) 釜在家 新在家
神明社
戸出明神社
雀宮
龍寶院
地蔵堂
第11冊-頁77 大井村(大井・門井・新宿・棚田)
大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より15里。当村は古えに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。
正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。
民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西20町、南北8町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ。
小名(こな):
門井 東にある。この地名は古い。成田分限帳に永楽2貫文門井善八郎とある。此の地より出た人である。
大井(本村) 新宿 棚田 荒井 番場
元荒川: 南の方、大里郡の境を流れる。大里郡佐谷田村より入って、埼玉郡鎌塚村へ達する。この川は当村にて初めて埼玉郡へ入る。川幅6間。
榛名社
伊勢宮
鷺明神
三島社
神明社
山神社
太神宮
福聚院 阿弥陀堂
真福寺 阿弥陀堂
安養寺
龍蔵寺
徳園寺
慈眼寺
寶性寺
福性院 不動堂
永勝寺
善勝寺蹟
旧家者喜平治
小名門井の名主である。先祖は栗原大学助という成田下総守氏長の家臣であった。家に氏長が与えた文書二通蔵していた。この他には確かな事は伝えてないが、彼の文書の一つは「夫馬の為に10貫文を免ずる」、もう一つは「田畑合わせて20貫文」とある。これは食禄であろう。既に成田分限帳に永20貫文栗原大学と載っている。食禄の数が文書と符号しているので下総守の家臣であったことは間違いない。
文書二通は略
上之村は江戸からの行程16里。庄名(太田庄)は前村(小敷田村)に同じ。当村は「むかし成田村と云っていたが、いつの頃からか今のように改めて古い名は小名(こな)に残るだけ」と伝わっている。調べてみると、足立郡に石戸上村・石戸下村があり、他にも上村下村と称する村が多くあるので、当所もむかし成田上村・成田中村・成田下村と分けて呼んでいたのを、後に成田の二字を省き、その後又中下の唱えを廃して上村に統一したのであろう。今も村内を四つに区分けして、上組中組下組成田と分ち呼ぶのはその名残りのようである。
家数250戸。東は池上・小敷田・持田の三村、南は戸出・平戸・箱田の三村と大里郡熊谷宿等に接し、西も大里郡肥塚村、北は埼玉郡上下の川上の二村である。広さは東西24町、南北20町。
当村は天正の頃(1573~)1593)は成田下総守が領していた。家康公御入国の後は左中将忠吉卿の領地であったが、慶長五年(1600)から幕府領となり、寛永十年(1633)松平伊豆守に賜り、同十六年(1639)幕府領に戻り、その後いつの頃からか旗本の知行地に分ち賜った。
実際、正保(1645~1648)の郷帳には、松木市左衛門御代官所、及び太田惣兵衛・三田長右衛門・前田孫市郎・竹内権之丞・永井弥右衛門・本間五郎作・筧勘七・松平次郎左衛門・斎藤久右衛門・筧六郎右衛門・山田左兵衛などの知行地、龍淵寺領・一乗院領・久伊豆神社領が入会(いりあい・共同利用)になる旨が載っている。
又村に伝わる記録によれば、元禄年中(1688~1704)には、山田孫太夫・斎藤久右衛門・前田安芸守・同新五郎・筧助兵衛・竹内五六左衛門・杉浦内蔵允(くらのじょう)・鈴木甚之助・松平次郎左衛門・松平下野守・三田次郎右衛門・本間忠左衛門の知行地であった。しかし同十一年(1698)おしなべて所替えとなり、当村は阿部豊後守に賜って、今も子孫鉄丸が領している。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は上中下の組に一ケ所ずつある。
小名(こな):
成田 成田式部大輔助高が当所に住み、在名を氏としたものである。よって当時は前述のように、村全体を成田村と称していたが、今は村の北の方の龍淵寺領だけ成田と呼ぶ。これは古の名残りである。
堀之内、殿山 これら二つの小名(こな)も成田氏がいた為にできたものである。その城址はいま堀之内にある。
秋葉 村の南の方である。古は別の一村であったが、成田太郎助廣の五男、秋葉七郎某が住んでいた地である。龍淵寺にある成田家譜には秋庭七郎と載り、成田四郎助綱の弟になっている。この助綱は東鑑にも名前がでているので、地名ができたのも古いことが分る。
五田塚 塚の名である。この塚があるので小名(こな)になった。塚は高さ1丈5~6尺、幅15間ばかり。塚の由来は不明。
下河原 穢多(えた)が住む地である。慶長十三年伊奈備前守が検地した時、除地(じょち・年貢諸役を免除された地)としたという。穢多の者15軒。その中で七郎右衛門の家に成田氏長が出した文書があった。その文は
『□□之長吏職之事、不可有仰相違之旨、如件
(□□の長吏職は相違というべからず)
元亀二年(1571) 十二月九日
七郎右衛門へ』
星川: 村の北を流れる。水源は大里郡広瀬村で荒川を引き分けて同郡石原村に至って二つの流れに分れたうちの一方で、ここまでは特に名もない。村内に小宮堰という堰を設けて、隣りの池上村から下流10ケ村の用水とし、名を星川と呼ぶ。この上流に御鷹橋という長さ5間の橋が架る。言い伝えでは、家康公が鷹狩りされた頃に龍淵寺へ行く為に伊奈備前守が造ったので、御鷹橋という名になったという。
池: 村の中ほどにある。広さ220坪。
久伊豆社*忍名所 末社雷電 姫宮 天神 太郎坊 次郎坊 稲荷 随神門 鐘楼 別当久見寺 社人江守大和 社僧大正院
諏訪社
稲荷社
三郎社
大天魄社
荒神社
天神社二宇
八幡社
龍淵寺*忍名所 宝物 家康公朱印状 成田系図 成田家人分限帳 陣鈴 秀吉公禁制 浅野長吉禁制 本堂 禅堂 衆寮 回廊 山門 表門 裏門 下馬札 制札 鐘楼 東照宮 稲荷社 天神社 弁天社 龍ケ淵 開山座禅石
一乗院 護摩堂 稲荷社 弁天社 聖天社 熊野社 鐘楼
泰蔵院*忍名所 阿弥陀堂 白山社
東光寺*忍名所
円明寺 地蔵堂
安楽寺 天神社 愛宕社
専寿院
地蔵堂
弥陀堂
村の北で小名(こな)堀之内の辺りを云う。これは成田氏が数代住居としていた所で、後年ここから忍城へ移ったという。今は皆陸田となって小さな八幡社があるだけである。
成田家譜などを調べてみると、成田は藤原伊尹(ふじわらのこれただ)公の子、左中将義孝の二男、武蔵守忠基五代式部大輔助高に始まり、助高が当所に住んだので在名を氏としたものである。
これが成田氏の祖で、それから子孫下総守親泰まで八代がここに住んでいたが、文明年中(1469~1487)、(あるいは永正の頃(1504~1521))に忍城へ移ったという。忍城の条で詳しく述べる-。)
「鎌倉管領九代記」の永享十二年(1440)七月一日合戦の条に、一色伊予守は去る正月に鎌倉を逃げ出し、武州成田の館に隠れていたが、北一揆の者ども(成田家の人々)と相かたらい云々、上杉性順と長尾景仲が成田の館へ押し寄せるとあるのは、当所の館である。
第11冊-頁76 上之村新田 箱田村
箱田村は本村(上之村)の西に続く。地元の人によると、上之村の新田といっても箱田村の名も古く、古に箱田三郎が住んでいたと云う。成田系図に箱田右馬允・その子刑部丞廣忠・その子三郎兵衛尉能忠・その子三郎助忠などが載っている。これらは成田の一族でここに住み、箱田をもって家号としたのであろう。
調べてみると、正保の国図にこの村の名はなく、元禄改定の図に始めて載っている。これゆえ箱田は、古は上之村の小名(こな)で、正保より後に分村したので、上之村新田という名を冠しているのだろう。
家数は35戸。東は上之村、西南北の三方は大里郡熊谷宿・石原村・肥塚村などに隣接している。用水は成田用水を引いている。この用水の水源は大里郡広瀬村で荒川を分水し、石原村で二流に分れて、一つは肥塚村から上之村へ注ぎ、これが星川の上流である。もう一つは石原村から直接当村へ入り、これは成田用水が当郡へ入る始めである。
この村は元禄十一年(1698)阿部豊後守正武に賜り、今子孫鉄丸が領する。検地の年代(慶長十三年伊奈備前守)と江戸からの行程16里は前村(上之村)に同じ。
高札場は当所になく、上之村の高札で兼ねる。
稲荷社
伊勢宮
山神社
文殊院
阿弥陀堂
第11冊-頁77 平戸村
平戸村は、江戸からの行程16里、及び検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は前村(箱田村)に同じ。民家の戸数は50戸。東は戸出村、南は大里郡佐谷田村、西は大里郡熊谷宿で、北は埼玉郡の上之村である。東西12町、南北7町余り。南西の方向に中山道の往還があり、佐谷田村より入って熊谷宿に達している。
当村は正保(1645~1648)の郷帳に幕府領のほか、近藤勘右衛門、長田三郎右衛門、荒川又六郎、西山忠次郎の知行地である事が載っている。その後、元禄十一年(1698)阿部豊後守の領地となり、今も替らず子孫鐵丸が相続している。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 前平戸 丸屋敷 馬場 門前
八幡社
他國明神社
稲荷社
超願寺
源宗寺
第11冊-頁77 戸出村
戸出村は、江戸よりの行程16里、検地(慶長十三年伊奈備前守)・用水(成田用水)等は、前村{平戸村}に同じ。民家は38戸。東は持田村、南は大里郡佐谷田村、西は平戸村、北は上之村である。東西16町、南北3町ばかりで、水害の起こる土地である。
成田分限帳に戸出彌吉という名がある。これは当村の出身者であろう。当村も、正保(1647)の改定で、西山忠次郎・能勢庄左衛門・大久保四郎左衛門の知行地となったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守賜り、今は子孫阿部鐵丸の領地である。
高札場は村の中程にある。
小名(こな) 釜在家 新在家
神明社
戸出明神社
雀宮
龍寶院
地蔵堂
第11冊-頁77 大井村(大井・門井・新宿・棚田)
大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より15里。当村は古えに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。
正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。
民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西20町、南北8町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。
高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ。
小名(こな):
門井 東にある。この地名は古い。成田分限帳に永楽2貫文門井善八郎とある。此の地より出た人である。
大井(本村) 新宿 棚田 荒井 番場
元荒川: 南の方、大里郡の境を流れる。大里郡佐谷田村より入って、埼玉郡鎌塚村へ達する。この川は当村にて初めて埼玉郡へ入る。川幅6間。
榛名社
伊勢宮
鷺明神
三島社
神明社
山神社
太神宮
福聚院 阿弥陀堂
真福寺 阿弥陀堂
安養寺
龍蔵寺
徳園寺
慈眼寺
寶性寺
福性院 不動堂
永勝寺
善勝寺蹟
旧家者喜平治
小名門井の名主である。先祖は栗原大学助という成田下総守氏長の家臣であった。家に氏長が与えた文書二通蔵していた。この他には確かな事は伝えてないが、彼の文書の一つは「夫馬の為に10貫文を免ずる」、もう一つは「田畑合わせて20貫文」とある。これは食禄であろう。既に成田分限帳に永20貫文栗原大学と載っている。食禄の数が文書と符号しているので下総守の家臣であったことは間違いない。
文書二通は略
熊谷町、久下村(巻之220 大里郡之2 忍領)
第11冊-頁85 熊谷町
熊谷町は熊谷宿とも言う。広瀬郷に属し江戸より16里である。地名の起こりは、大昔当所の谷に大きな熊が住んでいて住民を悩ませていた。熊谷次郎直実の父・次郎太夫平直定が此の熊を退治した事から、地名を熊谷という。また直定が屋号にも唱え、直実も続けて名乗った。これらは熊谷系譜や宿内の熊谷寺縁起等に載っている事であるが、正しいかどうかは分からない。
当所は中山道の宿駅で江戸の方の鴻巣宿より4里6町余で、さらに上方の深谷宿ヘは2里27町である。また上野国の新田道は、熊谷から中山道を深谷へ行く途中で分かれる。北の方へ2里半で埼玉郡妻沼、東の方へ2里で行田町である。また当所に分岐路が4つあり、皆中山道の上の方で分岐している。上野国世良田道は榛沢郡中瀬まで3里半、上野国足尾銅山道亀岡まで4里、相州道松山町へ3里、秩父道榛沢郡小前田まで3里半、これら皆 当所にて人馬の継ぎ立て(宿継ぎ)をする。
宿の長さ17町半で江戸に近い方を本町といい、次を新宿、その次を熊谷寺の門前町という。人家は970戸。多くは両側に連ねて住んでいる。
昔の道は熊谷寺の裏門の方にあったが、文禄四年(1596)三月今のような町割りに変わり、東は佐谷田村および埼玉郡平戸村となる。南は荒川に沿い対岸は手島・村岡の2村である。西南から西は石原村に接し、北は肥塚村および埼玉郡箱田村に隣する。東西も南北もおよそ15町である。
昔は毎月二・七の日に市が立って大変にぎやかであったが、近年衰微して歳末にのみ市が立つという。用水は隣村の石原村に堰を設け荒川の水を引く。これを成田用水と言う。
当所は昔熊谷氏の所領であったが、その後の事の詳細は分からない。文明の頃より忍の成田氏の所領となる。天正十八年(1590)より幕府領となる。寛永十六年(1639)阿部豊後守忠秋に賜り、今はその子孫の鉄丸が領している。検地は元和七年(1621)大河内金兵衛が確認した。後年開発した新田は、正徳元年(1711)と元文元年(1736)の二度改訂した。
高札場は熊谷宿の中ほどにある。
小名(こな): 本町、新宿、下町、上町、門前町、横町
荒川: 南の村境を流れる。平常時の川幅四十間、河原含めて幅五十間もあるだろう。この川に渡船場は二か所ある。
星川: 水源は二派ある。一つは宿の南裏にある石上寺境内の池より流れで、他の一つは成田用水が下流に来て一条の川となる。久山寺境内より湧き出る水も後者の川に注ぐという。
堤: 南の方にあって高さ1丈1尺である。天正二年(1574)小田原北条氏が築いた堤だろうといわれる。世間では熊谷堤といわれる。
高城明神社*忍名所 末社、天神、神楽堂 霊水 社宝(麾扇、軍配、鏃、鉾、刀、天国刀)
光明院、万宝院、海宝院、正覚院
千形明神社*忍名所
熊野社
星の宮
稲荷社三宇
熊谷寺*忍名所 寺宝(金襴袈裟、弥陀像、放光名号、和歌名号、斧替名号、理書、直実の母衣、同旗名号、蓮生作の阿弥陀如来、蓮生直筆の十五遍名号、連生の笈数珠鉄鉢鉦、直実が乗った鞍鎧斧軍扇、連生画像(逆馬画)、迎接曼荼羅、名号、四句偈文、地蔵像など)
鐘楼 閻魔堂、地蔵堂、稲荷社 蓮生の墓 敦盛追善碑
久山寺 弁天社、地蔵堂、閻魔堂
報恩寺*忍名所 山門 鐘楼 薬師堂 白山社
石上寺*忍名所 観音堂、毘沙門堂、地蔵堂、千体仏堂、伊勢両社、鹿島社、星川の池は、星川の水源である。
光明寺
常福寺 薬師堂 天神社
円照寺 鐘楼 住吉金毘羅合社
西蔵院 弁天社 薬師堂
大善院 愛宕牛頭天王稲荷合社
旧家者忠兵衛
布施田を氏とする。先祖は信州の源八兵衛尉広綱の子孫で、布施田六郎大夫入道了閑広光の長男の半次郎広映がいた。広映は弓馬が達者だったので、武者修行として当国忍に来た。成田丹波守泰行(成田系図に泰行は無い。左衛門尉泰親の子に左馬助泰之という者あり、この人か)の旗下に属して、後に成田の婿となる。
広映の子山城守長章も成田肥前守の婿となり武功があったので、後に武州三ヶ尻に城を築いた。深谷の上杉憲光が成田氏長の領地を略奪した戦さで、しばしば功績をあげた。この頃 北条氏康より感謝状を賜り、今日に至るまで家に蔵している。その後 天正十八年(1900)小田原落城の時六月六日小田原にて戦死する。
その子左京亮長映は三ヶ尻の陣屋にいたが、忍城を落去った後当所に来て熊谷町を取立てた。文禄四年(1596)三月に熊谷宿の町割りを改める時にその事を司り、その後代々名主・陣屋を兼務して今の忠兵衛に至るという。
(氏康が出した感謝状 略)
また、名主の勘右衛門も同じ布施田の出身で、大河内金兵衛が出した下知状を5通も蔵しているので古い家と見える。
旧家者栄蔵
伊勢国の生まれで長野越後守某。忍の成田の客分としていた時、忍城を落ち去った後、当所に移り子孫代々土着して熊谷宿の名主・本陣を兼任している。
その家譜や記録の伝承が無いので、詳細は分からない。しかし先祖越後守の孫・喜三の時、成田氏より出した文書四通を持ち伝えている。これは古い家であることには間違いない。
(四通あり 略)
旧家者新右衛門
本陣・問屋を兼任し、竹井氏である。先祖は竹屋右衛門督兼俊の後胤で藤原俊信の長男である。竹井新左衛門尉信武として生まれた。母は別府尾張守長吉の娘で、天文二十二年(1553)五月十七日の出産の時、庭先の井戸の中に竹が生えていたことから竹屋氏の発祥となり竹井にあらためた。信武の父俊信は、後奈良院の北面警護していたが、故あって勘当を被り当国の別府に蟄居していた。
信武の出生の後勘当の許しが出て、信武をここに残して帰京した。信武に二子いて長男は出家して栄光と称し村内の石上寺を開いた。次男の新左衛門信次が家を継ぎ、その子は善兵衛信久、信久の長男甚五右衛門信親は阿部豊後守忠秋の家臣となり、次男の梶塚源五右衛門某は秋元氏の家臣となり、三男新右衛門正信が家をまとめて当所に土着し、子孫が相続して今の新右衛門に至る。これらは家譜に載っているけれども、もとより他の証拠が有るわけも無く、また天文の頃に勘当を被り当地に蟄居していたなど受けがたいものもあるが、この伝えのまま記録に残す。
家に具足1領を持っている。黄糸の縅(おどし)で玉庇も有るので、戦争に用いたものと見える。また鞍、鎧、刀も持ち伝える。刀は長さ3尺余りで寒念仏と名が付いている。このほか名主・本陣の中に石川、鯨井などの姓を氏とするものがいる。皆、成田家臣の子孫であるといえる。
第11冊-頁90 久下村
久下村は江戸より一五里。久下郷のあった所であるが、その名がついたわけは分からない。むかし熊谷直実の一族、久下権守直光が、此の地に住んでいたことは【東鑑】等に書かれており、かの父祖よりこの地名は有ったのだろう。直光は後に当所を去って丹波へ移ったが、その闕所(けっしょ・領主の欠けた土地)を鎌倉の勝長寿院に寄附したことが、【東鑑】に元久二年(1205)六月二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進された云々とある。勝長寿院は今廃寺になっており、寺伝を尋ねる手段はない。なお後述する久下氏の居所跡(久下直光城跡)の条に、その略伝を出したので参考にして欲しい。
民戸三百戸余。東は埼玉郡大井村及び足立郡榎戸・大芦の2村、南は江川村・下久下村、荒川を隔て津田村新田・小泉村の計四村、西北は元荒川を隔て佐谷田村と埼玉郡大井村である。広さは東西1里11町余、南北は10町程。中山道が中央を貫いている。用水は元荒川の水を引いている。
此の地が成田氏の領地となったのも古き事である。かの家の分限帳に、永300貫文久下刑部大輔長亮、又久下孫四郎31貫500文と載っている。これを久下の末孫と見ることができるが、正しく此の地に居たかは調べられない。家康公御入国後は忍城付の村となったが、寛永十六年(1639)に阿部豊後守忠秋に賜わり、今も鐵丸の領地である。検地は大河内金兵衛が改めたと云うが年代は伝えられていない。
高札場は二ヶ所ある。
小名(こな):
北市田 土地の人はここを市田太郎の居所跡と云う。太郎は武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)である。今は畑となっている。
殿川棚 元荒川の淵である。市田権守直光が馬を洗った所と地元の人は云う。
千本松 御狩 大野 大千坊 古城 鎮守耕地 鳩三地 皿沼 源太屋敷 田郭 新宿本村 申新田
荒川: 村の南を流れ、幅15間。水除の堤がある。又この川には渡船がある。
元荒川: 村の西北、大里郡と埼玉郡の郡界を流れる。幅2間~25間に及ぶ。
三島社
愛宕社
牛頭天王社
飯玉権現社
八幡社 大荒磯崎明神
雷電社
山王社
稲荷社二宇
東竹院*忍名所 寺宝(袈裟一領、成田分限帳一冊)
山門 衆寮 鐘楼 白山社 久下墓 上杉墓
普門寺 観音堂 三峯社 天神社
正覚寺 地蔵堂 天神社
医王寺 秋葉社
吉祥院 天神社
観照庵 観音堂 弁天社
正法院 八幡社 愛宕社
大日堂
石地蔵*忍名所
久下直光城跡
村の南の堤の外にある。今は畑で、畝数2反5畝である。直光権守と称す。【東鑑】に拠ると、久下直光は熊谷直実の叔母の夫である。直実が直光の代官として上京した時、直光を捨て平中納言頼盛の家臣となったことにより、すき間が生じた。直実が源家に帰参した後もお互いに不快で、直光はしばしば直実の領地に違乱(いらん・苦情のべる)を行い、訴訟に及んだことがある。これは建久三年(1192)の事である。
【丹波志】によると、この後まもなく当所を去って、丹波へ移ったと確認されており、かの国に久しく子孫が相続して在していた。また調べてみると【丹波志】に直光の父を久下二郎重光と云い、小山兼光(藤原秀郷の曾孫)の流れの藤原氏で、小山下野守朝政の弟である。【太平記】に重光は、源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、一番に頼朝の陣に馳せ参じた褒美に、一番の家紋を賜わった故事が書いてある。ともかく当所に住んだのは重光・直光の二代である。また【源平盛衰記】【平家物語】等の書に、久下二郎実光、久下三郎、久下源内などがみえるが、これは直光の一族である。
市田太郎居跡
村の南、往還(中山道)のそばにある。ここも畑になっている。地元の人はここを北市田と云う。市田太郎は当国の七党の一つ、私市党(きさいとう)の支流で、行田の城主成田下総守氏長の甥である。領知であるために成田の縁家となって旗下に属している。氏長や成田近江守泰徳等を助援(助勢)して久下の邸を守っている。小田原陣の時、氏長兄弟は小田原に籠り、太郎は無勢なので久下の居所を捨て、忍の城に入って籠城したが、遂に成田氏長と共に降参した。
第11冊-頁93 下久下村
下久下村は江戸よりの行程15里は前村(久下村)と同じ。当村及び屈戸・江川の三村はもと一村であったが、新川の堀割より分村したと云う。民戸40戸余。東は江川村、南は津田村新田、西北は久下村である。広さは東西13町余、南北は二町ばかり。水利が不便なので全部畑である。
古は成田の領地であったが、家康公御打入後は幕府領となった。寛永十六年(1635)に阿部豊後守に賜わり、今は子孫鐵丸の領地である。検地も阿部氏が糺した。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 将監屋敷(今は川欠(かわかけ:水害で農地にできない土地)となっている。庄屋喜左衛門の祖先、木村将監の屋敷跡と云う。)
荒川: 村の南を流れる。幅20間余。北方の久下村との境に古川跡がある。幅5間。
三島社
熊谷町は熊谷宿とも言う。広瀬郷に属し江戸より16里である。地名の起こりは、大昔当所の谷に大きな熊が住んでいて住民を悩ませていた。熊谷次郎直実の父・次郎太夫平直定が此の熊を退治した事から、地名を熊谷という。また直定が屋号にも唱え、直実も続けて名乗った。これらは熊谷系譜や宿内の熊谷寺縁起等に載っている事であるが、正しいかどうかは分からない。
当所は中山道の宿駅で江戸の方の鴻巣宿より4里6町余で、さらに上方の深谷宿ヘは2里27町である。また上野国の新田道は、熊谷から中山道を深谷へ行く途中で分かれる。北の方へ2里半で埼玉郡妻沼、東の方へ2里で行田町である。また当所に分岐路が4つあり、皆中山道の上の方で分岐している。上野国世良田道は榛沢郡中瀬まで3里半、上野国足尾銅山道亀岡まで4里、相州道松山町へ3里、秩父道榛沢郡小前田まで3里半、これら皆 当所にて人馬の継ぎ立て(宿継ぎ)をする。
宿の長さ17町半で江戸に近い方を本町といい、次を新宿、その次を熊谷寺の門前町という。人家は970戸。多くは両側に連ねて住んでいる。
昔の道は熊谷寺の裏門の方にあったが、文禄四年(1596)三月今のような町割りに変わり、東は佐谷田村および埼玉郡平戸村となる。南は荒川に沿い対岸は手島・村岡の2村である。西南から西は石原村に接し、北は肥塚村および埼玉郡箱田村に隣する。東西も南北もおよそ15町である。
昔は毎月二・七の日に市が立って大変にぎやかであったが、近年衰微して歳末にのみ市が立つという。用水は隣村の石原村に堰を設け荒川の水を引く。これを成田用水と言う。
当所は昔熊谷氏の所領であったが、その後の事の詳細は分からない。文明の頃より忍の成田氏の所領となる。天正十八年(1590)より幕府領となる。寛永十六年(1639)阿部豊後守忠秋に賜り、今はその子孫の鉄丸が領している。検地は元和七年(1621)大河内金兵衛が確認した。後年開発した新田は、正徳元年(1711)と元文元年(1736)の二度改訂した。
高札場は熊谷宿の中ほどにある。
小名(こな): 本町、新宿、下町、上町、門前町、横町
荒川: 南の村境を流れる。平常時の川幅四十間、河原含めて幅五十間もあるだろう。この川に渡船場は二か所ある。
星川: 水源は二派ある。一つは宿の南裏にある石上寺境内の池より流れで、他の一つは成田用水が下流に来て一条の川となる。久山寺境内より湧き出る水も後者の川に注ぐという。
堤: 南の方にあって高さ1丈1尺である。天正二年(1574)小田原北条氏が築いた堤だろうといわれる。世間では熊谷堤といわれる。
高城明神社*忍名所 末社、天神、神楽堂 霊水 社宝(麾扇、軍配、鏃、鉾、刀、天国刀)
光明院、万宝院、海宝院、正覚院
千形明神社*忍名所
熊野社
星の宮
稲荷社三宇
熊谷寺*忍名所 寺宝(金襴袈裟、弥陀像、放光名号、和歌名号、斧替名号、理書、直実の母衣、同旗名号、蓮生作の阿弥陀如来、蓮生直筆の十五遍名号、連生の笈数珠鉄鉢鉦、直実が乗った鞍鎧斧軍扇、連生画像(逆馬画)、迎接曼荼羅、名号、四句偈文、地蔵像など)
鐘楼 閻魔堂、地蔵堂、稲荷社 蓮生の墓 敦盛追善碑
久山寺 弁天社、地蔵堂、閻魔堂
報恩寺*忍名所 山門 鐘楼 薬師堂 白山社
石上寺*忍名所 観音堂、毘沙門堂、地蔵堂、千体仏堂、伊勢両社、鹿島社、星川の池は、星川の水源である。
光明寺
常福寺 薬師堂 天神社
円照寺 鐘楼 住吉金毘羅合社
西蔵院 弁天社 薬師堂
大善院 愛宕牛頭天王稲荷合社
旧家者忠兵衛
布施田を氏とする。先祖は信州の源八兵衛尉広綱の子孫で、布施田六郎大夫入道了閑広光の長男の半次郎広映がいた。広映は弓馬が達者だったので、武者修行として当国忍に来た。成田丹波守泰行(成田系図に泰行は無い。左衛門尉泰親の子に左馬助泰之という者あり、この人か)の旗下に属して、後に成田の婿となる。
広映の子山城守長章も成田肥前守の婿となり武功があったので、後に武州三ヶ尻に城を築いた。深谷の上杉憲光が成田氏長の領地を略奪した戦さで、しばしば功績をあげた。この頃 北条氏康より感謝状を賜り、今日に至るまで家に蔵している。その後 天正十八年(1900)小田原落城の時六月六日小田原にて戦死する。
その子左京亮長映は三ヶ尻の陣屋にいたが、忍城を落去った後当所に来て熊谷町を取立てた。文禄四年(1596)三月に熊谷宿の町割りを改める時にその事を司り、その後代々名主・陣屋を兼務して今の忠兵衛に至るという。
(氏康が出した感謝状 略)
また、名主の勘右衛門も同じ布施田の出身で、大河内金兵衛が出した下知状を5通も蔵しているので古い家と見える。
旧家者栄蔵
伊勢国の生まれで長野越後守某。忍の成田の客分としていた時、忍城を落ち去った後、当所に移り子孫代々土着して熊谷宿の名主・本陣を兼任している。
その家譜や記録の伝承が無いので、詳細は分からない。しかし先祖越後守の孫・喜三の時、成田氏より出した文書四通を持ち伝えている。これは古い家であることには間違いない。
(四通あり 略)
旧家者新右衛門
本陣・問屋を兼任し、竹井氏である。先祖は竹屋右衛門督兼俊の後胤で藤原俊信の長男である。竹井新左衛門尉信武として生まれた。母は別府尾張守長吉の娘で、天文二十二年(1553)五月十七日の出産の時、庭先の井戸の中に竹が生えていたことから竹屋氏の発祥となり竹井にあらためた。信武の父俊信は、後奈良院の北面警護していたが、故あって勘当を被り当国の別府に蟄居していた。
信武の出生の後勘当の許しが出て、信武をここに残して帰京した。信武に二子いて長男は出家して栄光と称し村内の石上寺を開いた。次男の新左衛門信次が家を継ぎ、その子は善兵衛信久、信久の長男甚五右衛門信親は阿部豊後守忠秋の家臣となり、次男の梶塚源五右衛門某は秋元氏の家臣となり、三男新右衛門正信が家をまとめて当所に土着し、子孫が相続して今の新右衛門に至る。これらは家譜に載っているけれども、もとより他の証拠が有るわけも無く、また天文の頃に勘当を被り当地に蟄居していたなど受けがたいものもあるが、この伝えのまま記録に残す。
家に具足1領を持っている。黄糸の縅(おどし)で玉庇も有るので、戦争に用いたものと見える。また鞍、鎧、刀も持ち伝える。刀は長さ3尺余りで寒念仏と名が付いている。このほか名主・本陣の中に石川、鯨井などの姓を氏とするものがいる。皆、成田家臣の子孫であるといえる。
第11冊-頁90 久下村
久下村は江戸より一五里。久下郷のあった所であるが、その名がついたわけは分からない。むかし熊谷直実の一族、久下権守直光が、此の地に住んでいたことは【東鑑】等に書かれており、かの父祖よりこの地名は有ったのだろう。直光は後に当所を去って丹波へ移ったが、その闕所(けっしょ・領主の欠けた土地)を鎌倉の勝長寿院に寄附したことが、【東鑑】に元久二年(1205)六月二十八日、武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進された云々とある。勝長寿院は今廃寺になっており、寺伝を尋ねる手段はない。なお後述する久下氏の居所跡(久下直光城跡)の条に、その略伝を出したので参考にして欲しい。
民戸三百戸余。東は埼玉郡大井村及び足立郡榎戸・大芦の2村、南は江川村・下久下村、荒川を隔て津田村新田・小泉村の計四村、西北は元荒川を隔て佐谷田村と埼玉郡大井村である。広さは東西1里11町余、南北は10町程。中山道が中央を貫いている。用水は元荒川の水を引いている。
此の地が成田氏の領地となったのも古き事である。かの家の分限帳に、永300貫文久下刑部大輔長亮、又久下孫四郎31貫500文と載っている。これを久下の末孫と見ることができるが、正しく此の地に居たかは調べられない。家康公御入国後は忍城付の村となったが、寛永十六年(1639)に阿部豊後守忠秋に賜わり、今も鐵丸の領地である。検地は大河内金兵衛が改めたと云うが年代は伝えられていない。
高札場は二ヶ所ある。
小名(こな):
北市田 土地の人はここを市田太郎の居所跡と云う。太郎は武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)である。今は畑となっている。
殿川棚 元荒川の淵である。市田権守直光が馬を洗った所と地元の人は云う。
千本松 御狩 大野 大千坊 古城 鎮守耕地 鳩三地 皿沼 源太屋敷 田郭 新宿本村 申新田
荒川: 村の南を流れ、幅15間。水除の堤がある。又この川には渡船がある。
元荒川: 村の西北、大里郡と埼玉郡の郡界を流れる。幅2間~25間に及ぶ。
三島社
愛宕社
牛頭天王社
飯玉権現社
八幡社 大荒磯崎明神
雷電社
山王社
稲荷社二宇
東竹院*忍名所 寺宝(袈裟一領、成田分限帳一冊)
山門 衆寮 鐘楼 白山社 久下墓 上杉墓
普門寺 観音堂 三峯社 天神社
正覚寺 地蔵堂 天神社
医王寺 秋葉社
吉祥院 天神社
観照庵 観音堂 弁天社
正法院 八幡社 愛宕社
大日堂
石地蔵*忍名所
久下直光城跡
村の南の堤の外にある。今は畑で、畝数2反5畝である。直光権守と称す。【東鑑】に拠ると、久下直光は熊谷直実の叔母の夫である。直実が直光の代官として上京した時、直光を捨て平中納言頼盛の家臣となったことにより、すき間が生じた。直実が源家に帰参した後もお互いに不快で、直光はしばしば直実の領地に違乱(いらん・苦情のべる)を行い、訴訟に及んだことがある。これは建久三年(1192)の事である。
【丹波志】によると、この後まもなく当所を去って、丹波へ移ったと確認されており、かの国に久しく子孫が相続して在していた。また調べてみると【丹波志】に直光の父を久下二郎重光と云い、小山兼光(藤原秀郷の曾孫)の流れの藤原氏で、小山下野守朝政の弟である。【太平記】に重光は、源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、一番に頼朝の陣に馳せ参じた褒美に、一番の家紋を賜わった故事が書いてある。ともかく当所に住んだのは重光・直光の二代である。また【源平盛衰記】【平家物語】等の書に、久下二郎実光、久下三郎、久下源内などがみえるが、これは直光の一族である。
市田太郎居跡
村の南、往還(中山道)のそばにある。ここも畑になっている。地元の人はここを北市田と云う。市田太郎は当国の七党の一つ、私市党(きさいとう)の支流で、行田の城主成田下総守氏長の甥である。領知であるために成田の縁家となって旗下に属している。氏長や成田近江守泰徳等を助援(助勢)して久下の邸を守っている。小田原陣の時、氏長兄弟は小田原に籠り、太郎は無勢なので久下の居所を捨て、忍の城に入って籠城したが、遂に成田氏長と共に降参した。
第11冊-頁93 下久下村
下久下村は江戸よりの行程15里は前村(久下村)と同じ。当村及び屈戸・江川の三村はもと一村であったが、新川の堀割より分村したと云う。民戸40戸余。東は江川村、南は津田村新田、西北は久下村である。広さは東西13町余、南北は二町ばかり。水利が不便なので全部畑である。
古は成田の領地であったが、家康公御打入後は幕府領となった。寛永十六年(1635)に阿部豊後守に賜わり、今は子孫鐵丸の領地である。検地も阿部氏が糺した。
高札場は村の西にある。
小名(こな): 将監屋敷(今は川欠(かわかけ:水害で農地にできない土地)となっている。庄屋喜左衛門の祖先、木村将監の屋敷跡と云う。)
荒川: 村の南を流れる。幅20間余。北方の久下村との境に古川跡がある。幅5間。
三島社
江川村、佐谷田村、肥塚村、石原村(巻之220 大里郡之2 忍領)
第11冊-頁93 江川村
江川村も江戸よりの行程15里は前村(下久下村)と同じ。民戸40戸余。当村は正保・元禄の改めには載せなかったが、地元の人は古より村だったと云う。現に隣村の江川下久下村の江川分と唱える地は、もと当村の内であった。荒川の堀替の時別れて別村になった事はその村の条で述べる。
東は久下村、南は荒川を境に江川下久下村、西北は下久下村である。広さは東西2町余、南北1町余。当村も昔より阿部氏の領地である。
高札場は北にある。
小名(こな): 上 下
荒川: 南を流れる。幅30間余。村の東北の久下との境に古川蹟が残っている。幅は7~8間計り。
八幡社
観音寺 地蔵堂
第11冊-頁93 佐谷田村
佐谷田村も、江戸からの行程15里等は前村(江川村)に同じ。古くは、佐谷郷と称していた。民家は180戸余り。東は埼玉郡大井村、西は大里郡熊谷宿及び埼玉郡平戸村、南は元荒川を隔てて大里郡久下村、北は星川を挟んで埼玉郡戸出・持田の二村である。東西は20町ばかり、南北10町で、中山道が村の西を通る。字八町と呼び、古くは成田氏の領分であったが、家康公御入国の後、幕府領となり、移り変わりは前村(江川村)と変わらない。
高札場は四ヶ所ある。
小名(こな): 本村組 中組 吉原 吉見組
荒川: 村の西南に少し掛かる。幅5~6間の瀬が幾つにもなって流れている。
元荒川: 久下村との境を流れる。幅2~3間位。古くは、荒川がこの川に続いて流れていたが、寛永年中(1624~1643)に伊奈半十郎が、当村で水流を改め、今の荒川を堀割してから元荒川と呼ぶようになった。村の西、字八町新田に鎮座する雷電社の御手洗より湧き出る清泉がこの川の水源である。
星川: 埼玉郡戸出村との境を流れる。幅は4間ばかり。
八幡社
末社 神明社 浅間社 天王社 山神社 春日社 道祖神社 稲荷社
雷電社 榛名社 天神社
永福寺
地蔵堂
長福寺
西光寺
福蔵寺
福正院
仙林坊
第11冊-頁94 肥塚村
肥塚村は、民家百戸、東は埼玉郡上村、南は埼玉郡箱田村及び大里郡熊谷町、西は大里郡原島村・幡羅郡柿沼村、北は埼玉郡小曾根・今井・上川上の三村である。東西十町ばかり、南北20町。江戸からの行程は16里半。
開墾の年代は明らかではないが、村内に肥塚殿と称する古墳があり、その碑に康元二年(1256)の銘がある。地元の伝えによると、此地の領主肥塚太郎九郎光長の墳墓である。康元は後深草院御世の年号で「東鑑」の頃なので、肥塚は古くから開けていたことが分る。
又、正平七年(1352)美作左衛門太夫家泰が勲功を賞した感状にも、武蔵野国大里郡枇塚郷と載っている。枇塚は肥塚の仮借(あて字)で、昔はひづかとも唱えていたので枇塚と記載したと思われる。
感状の文は、次のとおりである。
『下美作左衛門太夫家泰
下令早領知相模國愛甲庄内船子郷 梶原五郎左衛門尉跡 武蔵野國
大里郡枇塚郷 牧七郎兵衛跡事
右爲勲功之賞宛行也者、早守先例可被沙汰之状如件
正平七年(1352)二月六日』
これによれば、牧七郎兵衛がここを領地としていた事が分る。又、成田分限帳に、永20貫文肥塚因幡、同13貫文聲塚喜右衛門と載っている。聲塚と書かれているのは仮借(当て字)である。これらは皆、当所の在名を名乗っているようだ。
家康公御入国の後、幕府領となり、正保四年(1647)村内を分割して阿部豊後守に賜った。その後、残る土地を内藤式部少輔に賜り、元禄十一年(1698)内籐の知行地を取り上げ、ことごとく阿部氏の領地となり、今も替っていない。
高札場は南の方にある。
小名(こな) 新里新田 新田 堀ノ内 圓光塚 下田
稲荷社 辯天社 熊野社 八幡社 雀宮 天神社 辛ノ社 姥神社 子神社
道祖神社 白山社 若宮社 牛頭天王社
成就院 天神社
眞蔵寺
観現寺
古碑二基: 村の南寄りにある。一つは、長さ3尺8寸ばかりで、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至 十念若不生者 不取正覚(たとえ私が仏を得たとしても、十方の衆生が、まことの心をもって信心をおこし、我国に生まれたいと願い、十回念仏を唱えてもし生まれないなら、私は正しい覚りを取ることができない)」といくつかの字を彫り、康元丁巳(1257)三月と戴せている。一つは長さ4尺5寸程で、梵字を二行に彫り、應安八年(1655)二月十七日、道義禅門と記している。ある人によると、康元の碑は肥塚太郎九郎光長の墓で、應安の碑は同八郎盛直の碑だと云うが、明確な根拠がないので断定は出来ない。肥塚は、武蔵七党のうちの丹党の枝流で、古くはここに住み在所を氏に唱えたものであろう。
第11冊-頁96 石原村
石原村は、江戸よりの行程16里。広瀬の庄に属す。民家は320戸余り。東は熊谷宿に隣接し、南は荒川を隔てて当村の地があり、そこを越えると、万吉・樋口の二村がある。西は広瀬村・小島村・及び幡羅郡久保島村に続き、北は原島村及び幡羅郡新島村である。東西24~25町、南北23町ばかり。用水は、成田用水と大麻生堰の水を引き用いている。村内に、中山道が走る。道幅四間余り。
当村も成田氏の領地で、成田分限帳に石原式部左衛門永3,000貫文、石原源太兵衛永30貫文、石原民部永15貫文と載っており、これらは当所の人で在名を氏に呼んだのであろう。家康公御打入の後、城和泉守がこの地を賜ったが、まもなく召し上げられた。今も和泉守の陣屋跡が残っている。正保の頃(1644~1647)は、阿部豊後守の領地で、今も子孫鐵丸が領している。検地は、大河内金平が行なったというが、その年代は明らかでない。
高札場は西寄りにある。
小名(こな) 下石原 上 中 下 うへき 坪井 五本榎 一本松 本村
荒川: 村の南を流れる。幅500間ばかり。普段は二瀬か三瀬に分かれて流れている。川の北方に高さ1間ばかりの水除けの堤(土手)がある。
堤: 村の東、小名(こな)(字)下石原の地より築き始めている。これが今の世にいう熊谷堤の元である。高さは3尺ばかり。
赤城久伊豆合社
稲荷社
聖天社
天神社
伊勢宮
諏訪社
眞宗寺
東漸寺
松岩寺
大聖院
一里塚: 村の北西で、中山道の傍らにある。当村と幡羅郡新島村の分が左右に相対し並んでいる。そのほかに、朝日塚・京蔵塚等という僅かな塚があったが、今は無くなり名前だけ残る。
江川村も江戸よりの行程15里は前村(下久下村)と同じ。民戸40戸余。当村は正保・元禄の改めには載せなかったが、地元の人は古より村だったと云う。現に隣村の江川下久下村の江川分と唱える地は、もと当村の内であった。荒川の堀替の時別れて別村になった事はその村の条で述べる。
東は久下村、南は荒川を境に江川下久下村、西北は下久下村である。広さは東西2町余、南北1町余。当村も昔より阿部氏の領地である。
高札場は北にある。
小名(こな): 上 下
荒川: 南を流れる。幅30間余。村の東北の久下との境に古川蹟が残っている。幅は7~8間計り。
八幡社
観音寺 地蔵堂
第11冊-頁93 佐谷田村
佐谷田村も、江戸からの行程15里等は前村(江川村)に同じ。古くは、佐谷郷と称していた。民家は180戸余り。東は埼玉郡大井村、西は大里郡熊谷宿及び埼玉郡平戸村、南は元荒川を隔てて大里郡久下村、北は星川を挟んで埼玉郡戸出・持田の二村である。東西は20町ばかり、南北10町で、中山道が村の西を通る。字八町と呼び、古くは成田氏の領分であったが、家康公御入国の後、幕府領となり、移り変わりは前村(江川村)と変わらない。
高札場は四ヶ所ある。
小名(こな): 本村組 中組 吉原 吉見組
荒川: 村の西南に少し掛かる。幅5~6間の瀬が幾つにもなって流れている。
元荒川: 久下村との境を流れる。幅2~3間位。古くは、荒川がこの川に続いて流れていたが、寛永年中(1624~1643)に伊奈半十郎が、当村で水流を改め、今の荒川を堀割してから元荒川と呼ぶようになった。村の西、字八町新田に鎮座する雷電社の御手洗より湧き出る清泉がこの川の水源である。
星川: 埼玉郡戸出村との境を流れる。幅は4間ばかり。
八幡社
末社 神明社 浅間社 天王社 山神社 春日社 道祖神社 稲荷社
雷電社 榛名社 天神社
永福寺
地蔵堂
長福寺
西光寺
福蔵寺
福正院
仙林坊
第11冊-頁94 肥塚村
肥塚村は、民家百戸、東は埼玉郡上村、南は埼玉郡箱田村及び大里郡熊谷町、西は大里郡原島村・幡羅郡柿沼村、北は埼玉郡小曾根・今井・上川上の三村である。東西十町ばかり、南北20町。江戸からの行程は16里半。
開墾の年代は明らかではないが、村内に肥塚殿と称する古墳があり、その碑に康元二年(1256)の銘がある。地元の伝えによると、此地の領主肥塚太郎九郎光長の墳墓である。康元は後深草院御世の年号で「東鑑」の頃なので、肥塚は古くから開けていたことが分る。
又、正平七年(1352)美作左衛門太夫家泰が勲功を賞した感状にも、武蔵野国大里郡枇塚郷と載っている。枇塚は肥塚の仮借(あて字)で、昔はひづかとも唱えていたので枇塚と記載したと思われる。
感状の文は、次のとおりである。
『下美作左衛門太夫家泰
下令早領知相模國愛甲庄内船子郷 梶原五郎左衛門尉跡 武蔵野國
大里郡枇塚郷 牧七郎兵衛跡事
右爲勲功之賞宛行也者、早守先例可被沙汰之状如件
正平七年(1352)二月六日』
これによれば、牧七郎兵衛がここを領地としていた事が分る。又、成田分限帳に、永20貫文肥塚因幡、同13貫文聲塚喜右衛門と載っている。聲塚と書かれているのは仮借(当て字)である。これらは皆、当所の在名を名乗っているようだ。
家康公御入国の後、幕府領となり、正保四年(1647)村内を分割して阿部豊後守に賜った。その後、残る土地を内藤式部少輔に賜り、元禄十一年(1698)内籐の知行地を取り上げ、ことごとく阿部氏の領地となり、今も替っていない。
高札場は南の方にある。
小名(こな) 新里新田 新田 堀ノ内 圓光塚 下田
稲荷社 辯天社 熊野社 八幡社 雀宮 天神社 辛ノ社 姥神社 子神社
道祖神社 白山社 若宮社 牛頭天王社
成就院 天神社
眞蔵寺
観現寺
古碑二基: 村の南寄りにある。一つは、長さ3尺8寸ばかりで、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至 十念若不生者 不取正覚(たとえ私が仏を得たとしても、十方の衆生が、まことの心をもって信心をおこし、我国に生まれたいと願い、十回念仏を唱えてもし生まれないなら、私は正しい覚りを取ることができない)」といくつかの字を彫り、康元丁巳(1257)三月と戴せている。一つは長さ4尺5寸程で、梵字を二行に彫り、應安八年(1655)二月十七日、道義禅門と記している。ある人によると、康元の碑は肥塚太郎九郎光長の墓で、應安の碑は同八郎盛直の碑だと云うが、明確な根拠がないので断定は出来ない。肥塚は、武蔵七党のうちの丹党の枝流で、古くはここに住み在所を氏に唱えたものであろう。
第11冊-頁96 石原村
石原村は、江戸よりの行程16里。広瀬の庄に属す。民家は320戸余り。東は熊谷宿に隣接し、南は荒川を隔てて当村の地があり、そこを越えると、万吉・樋口の二村がある。西は広瀬村・小島村・及び幡羅郡久保島村に続き、北は原島村及び幡羅郡新島村である。東西24~25町、南北23町ばかり。用水は、成田用水と大麻生堰の水を引き用いている。村内に、中山道が走る。道幅四間余り。
当村も成田氏の領地で、成田分限帳に石原式部左衛門永3,000貫文、石原源太兵衛永30貫文、石原民部永15貫文と載っており、これらは当所の人で在名を氏に呼んだのであろう。家康公御打入の後、城和泉守がこの地を賜ったが、まもなく召し上げられた。今も和泉守の陣屋跡が残っている。正保の頃(1644~1647)は、阿部豊後守の領地で、今も子孫鐵丸が領している。検地は、大河内金平が行なったというが、その年代は明らかでない。
高札場は西寄りにある。
小名(こな) 下石原 上 中 下 うへき 坪井 五本榎 一本松 本村
荒川: 村の南を流れる。幅500間ばかり。普段は二瀬か三瀬に分かれて流れている。川の北方に高さ1間ばかりの水除けの堤(土手)がある。
堤: 村の東、小名(こな)(字)下石原の地より築き始めている。これが今の世にいう熊谷堤の元である。高さは3尺ばかり。
赤城久伊豆合社
稲荷社
聖天社
天神社
伊勢宮
諏訪社
眞宗寺
東漸寺
松岩寺
大聖院
一里塚: 村の北西で、中山道の傍らにある。当村と幡羅郡新島村の分が左右に相対し並んでいる。そのほかに、朝日塚・京蔵塚等という僅かな塚があったが、今は無くなり名前だけ残る。
前砂村、吹上村、榎戸村、大芦村、明用村(巻之150 足立郡之16 忍領)
第8冊-頁37 前砂村
前砂村は江戸よりの行程13里半。郷名箕田(みだ)郷・箕田庄は前村(中井村)に同じ。戸数58戸。東は三ツ木・中井の二村、南は小谷・三町免・明用の三村で、西は吹上村と元荒川を隔てて埼玉郡下忍村に接し、北も埼玉郡袋村である。
家康公御打入の後は幕府領(御代官)になったが、寛文四年(1664)山岡十兵衛の領地となり、後に幕府領となり、元禄十年(1698)阿部豊後守が領地となって今の鉄丸に至る。検地は慶長十二年(1607)伊奈備前守が糾した。その後延宝五年(1678)山岡十兵衛が再び糾し、今もその水帳(検地帳)を用いている。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 通殿 新田通り やなせ 宮脇 おむたし 山ノ神 藪
元荒川: 村の北を流れる。吹上村から来て足立郡と埼玉郡の境を流れ、三ツ木村へ入る。川幅15間。
氷川社 神明熊野天神合社 稲荷門客人諏訪合社
宝蔵寺
第8冊-頁38 吹上村
吹上村は江戸よりの行程14里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村{前砂村}に同じ。広さは東西16町、南北10町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数100戸余、多くは街道の左右に並び建っている。
この村は古くは成田下総守の領地であり、家康公御打入の後は幕府領で忍城付きの村であったが、慶安(1648~1652))の頃は日下部作之丞・小笠原三郎右衛門・佐伯伝右衛門・市岡左太夫・岡三四郎等の知行地であった。又元禄年中(1688~1704)に村民の記したものに、下組の中に地頭林大学頭とあり、此の下組と云うのは今小名(こな)で下宿と呼ばれる所で、此の頃は大学頭の知行地であったようだ。その後元禄十一年(1699)前村と同じく、村内一円を阿部豊後守が賜り、今子孫鉄丸の領地である。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上 中 下宿 菖蒲沼 細瀬 遠所 王子塚 新田裏
元荒川: 村の西北を流れる。川幅13間ばかり。此の川にさが橋と称する橋がある。此の橋は、なぜか川の中央に塚のような土台を築き、それへこちら側から長さ3間の石橋を架け、土台から対岸へは土橋を架けている。これが埼玉郡との境だと云う。さが橋とはさかい橋の転語なのだろう。
山王社*忍名所 稲荷社 天王社 天満宮 庚申堂
氷川社
稲荷社
勝龍寺*忍名所 鐘楼 仁王門
東曜寺 薬師堂 毘沙門堂
持宝院
褒善者牧右衛門
吹上村の村民である。父は早く死に、母に篤く仕えていたが、母は生まれつき頑な(かたくな)な上に久しく病いにかかり、いよいよスジの通らない事を云うが、いささかもその心に違うことなく看病し、神仏に祈祷したり、あるいは得難い薬を求めたりして病いが平癒することを願った。このようにして既に8年になるが、少しも怠けることがなかった。
また牧右衛門の妻さしも夫と共に心を尽くして姑に仕えたので、延亨二年(1745)八月領主阿部豊後守がその孝行を褒賞して、夫婦に米若干を与えたと云う。
第8冊-頁39 榎戸村
榎戸村は東西5町余り、南北六町余り。東は吹上村、南は大蘆村、西は大里郡久下村で、北は元荒川で、対岸は埼玉郡鎌塚・大井の二村である。戸数35戸。村内に中仙道が通り、道幅2間余り。江戸への行程14里は前村(吹上村)に同じ。
正保(1645~1648)の頃は小笠原三郎右衛門の知行地であったが、ここも元禄年中(1688~1704)に阿部豊後守が賜り、元文元年(1736)に検地して今その子孫鉄丸の領地である
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上 中 下 横町 中田 下田
元荒川: 村の北、郡境を流れる。川幅5~6間。この川に堰を設け、近くの八ケ村の用水を引いている。榎戸堰と呼ぶ。
宝性寺 稲荷社 弁財天社 天満宮
旧家者半十郎
榎戸村の村民。眼の治療を生業とする。氏を横田といい、古えは陸奥国会津郡の民だったが、寛永十一年(1634)当所にきて土着した。
その家系を見ると、山内五郎左衛門尉俊綱の後胤で、俊綱から六代目の横田兵部大輔俊治が始めて横田を氏とした。その子刑部大輔頼俊はまた山内と称した。この人から六代目の山内越中守俊泰の次男を横田左馬助光広といい、これが半十郎の祖先である。それより左馬助長房・左馬助光房・丹波守隆房・安芸兵庫善九郎など連綿と記しているが、事跡や年代は全く不明である。ただ善九郎は天正十八年(1590) に流浪したとあるのみだが、何れに仕えたかは載っていない。又それより後のことは全く伝承がない。祖先が使ったものとして槍一筋を蔵する。
第8冊-頁39 大蘆村
大蘆村は、江戸より行程14里半。今は庄名を唱えないが、古い水帳には箕田(みだ)庄、あるいは箕田村の内とある。村の広さ東西12町余り、南北15町。東は明用村、南は荒川を挟んで対岸の横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の3村に隣接し、西は大里郡久下村、北は榎戸・吹上の二村である。民戸165戸。
当村は正保(1645~1648)の頃は市岡左太夫と井上次兵衛の領地で、元禄(1688~)の初めは幕府領と市岡對馬守甲斐庄三郎右衛門の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領する。検地は慶長十二年(1612)大河内金兵衛が糺した後、貞享元年(1684)近山興左衛門・熊澤武兵衛が改めた。
高札場は村の中央より少し北寄りにある。
小名(こな): 中内手 砂原 新在家
荒川: 村の西南を流れる。川幅30間。この川に渡し場がある。大蘆の渡と呼ぶ。ここは多摩郡八王子から日光への往還である。
氷川社 稲荷社
大天八公社 稲荷社
大神宮二宇
道祖神社
雷電社三宇
浅間社
稲荷社二宇
諏訪社
龍光寺*忍名所 天神社 白山社 衆寮
醫王寺 阿陀堂
大寳院
第8冊-頁40 明用村
明用村は村民鶴間氏が開墾した所で、古は鶴間村と稱していたが、いつの頃よりか今のように改められた。又昔は三町免村も当村に含まれて一村だった。箕田郷に属し、江戸からの行程13里余り。広さは東西6町、南北8町余り。東は三町免・前砂の二村に接し、西南二方は大蘆村に隣接する。北は前砂村である。戸数30戸余り。
正保(1645~1648)の頃は幕府領と酒依喜右衛門・戸川主水の領地であった。慶安五年(1652)御代官南條金右衛門が検地し、その後元禄十一年(1698) 阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領している。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 大地頭 西鄕地 久下分 谷中 富士塚 半成 出口
三島社 末社 天王社 稲荷社 天満宮
第六天社
観音寺 聖天社 観音堂
前砂村は江戸よりの行程13里半。郷名箕田(みだ)郷・箕田庄は前村(中井村)に同じ。戸数58戸。東は三ツ木・中井の二村、南は小谷・三町免・明用の三村で、西は吹上村と元荒川を隔てて埼玉郡下忍村に接し、北も埼玉郡袋村である。
家康公御打入の後は幕府領(御代官)になったが、寛文四年(1664)山岡十兵衛の領地となり、後に幕府領となり、元禄十年(1698)阿部豊後守が領地となって今の鉄丸に至る。検地は慶長十二年(1607)伊奈備前守が糾した。その後延宝五年(1678)山岡十兵衛が再び糾し、今もその水帳(検地帳)を用いている。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 通殿 新田通り やなせ 宮脇 おむたし 山ノ神 藪
元荒川: 村の北を流れる。吹上村から来て足立郡と埼玉郡の境を流れ、三ツ木村へ入る。川幅15間。
氷川社 神明熊野天神合社 稲荷門客人諏訪合社
宝蔵寺
第8冊-頁38 吹上村
吹上村は江戸よりの行程14里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村{前砂村}に同じ。広さは東西16町、南北10町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数100戸余、多くは街道の左右に並び建っている。
この村は古くは成田下総守の領地であり、家康公御打入の後は幕府領で忍城付きの村であったが、慶安(1648~1652))の頃は日下部作之丞・小笠原三郎右衛門・佐伯伝右衛門・市岡左太夫・岡三四郎等の知行地であった。又元禄年中(1688~1704)に村民の記したものに、下組の中に地頭林大学頭とあり、此の下組と云うのは今小名(こな)で下宿と呼ばれる所で、此の頃は大学頭の知行地であったようだ。その後元禄十一年(1699)前村と同じく、村内一円を阿部豊後守が賜り、今子孫鉄丸の領地である。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上 中 下宿 菖蒲沼 細瀬 遠所 王子塚 新田裏
元荒川: 村の西北を流れる。川幅13間ばかり。此の川にさが橋と称する橋がある。此の橋は、なぜか川の中央に塚のような土台を築き、それへこちら側から長さ3間の石橋を架け、土台から対岸へは土橋を架けている。これが埼玉郡との境だと云う。さが橋とはさかい橋の転語なのだろう。
山王社*忍名所 稲荷社 天王社 天満宮 庚申堂
氷川社
稲荷社
勝龍寺*忍名所 鐘楼 仁王門
東曜寺 薬師堂 毘沙門堂
持宝院
褒善者牧右衛門
吹上村の村民である。父は早く死に、母に篤く仕えていたが、母は生まれつき頑な(かたくな)な上に久しく病いにかかり、いよいよスジの通らない事を云うが、いささかもその心に違うことなく看病し、神仏に祈祷したり、あるいは得難い薬を求めたりして病いが平癒することを願った。このようにして既に8年になるが、少しも怠けることがなかった。
また牧右衛門の妻さしも夫と共に心を尽くして姑に仕えたので、延亨二年(1745)八月領主阿部豊後守がその孝行を褒賞して、夫婦に米若干を与えたと云う。
第8冊-頁39 榎戸村
榎戸村は東西5町余り、南北六町余り。東は吹上村、南は大蘆村、西は大里郡久下村で、北は元荒川で、対岸は埼玉郡鎌塚・大井の二村である。戸数35戸。村内に中仙道が通り、道幅2間余り。江戸への行程14里は前村(吹上村)に同じ。
正保(1645~1648)の頃は小笠原三郎右衛門の知行地であったが、ここも元禄年中(1688~1704)に阿部豊後守が賜り、元文元年(1736)に検地して今その子孫鉄丸の領地である
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 上 中 下 横町 中田 下田
元荒川: 村の北、郡境を流れる。川幅5~6間。この川に堰を設け、近くの八ケ村の用水を引いている。榎戸堰と呼ぶ。
宝性寺 稲荷社 弁財天社 天満宮
旧家者半十郎
榎戸村の村民。眼の治療を生業とする。氏を横田といい、古えは陸奥国会津郡の民だったが、寛永十一年(1634)当所にきて土着した。
その家系を見ると、山内五郎左衛門尉俊綱の後胤で、俊綱から六代目の横田兵部大輔俊治が始めて横田を氏とした。その子刑部大輔頼俊はまた山内と称した。この人から六代目の山内越中守俊泰の次男を横田左馬助光広といい、これが半十郎の祖先である。それより左馬助長房・左馬助光房・丹波守隆房・安芸兵庫善九郎など連綿と記しているが、事跡や年代は全く不明である。ただ善九郎は天正十八年(1590) に流浪したとあるのみだが、何れに仕えたかは載っていない。又それより後のことは全く伝承がない。祖先が使ったものとして槍一筋を蔵する。
第8冊-頁39 大蘆村
大蘆村は、江戸より行程14里半。今は庄名を唱えないが、古い水帳には箕田(みだ)庄、あるいは箕田村の内とある。村の広さ東西12町余り、南北15町。東は明用村、南は荒川を挟んで対岸の横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の3村に隣接し、西は大里郡久下村、北は榎戸・吹上の二村である。民戸165戸。
当村は正保(1645~1648)の頃は市岡左太夫と井上次兵衛の領地で、元禄(1688~)の初めは幕府領と市岡對馬守甲斐庄三郎右衛門の知行地であったが、元禄十一年(1698)阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領する。検地は慶長十二年(1612)大河内金兵衛が糺した後、貞享元年(1684)近山興左衛門・熊澤武兵衛が改めた。
高札場は村の中央より少し北寄りにある。
小名(こな): 中内手 砂原 新在家
荒川: 村の西南を流れる。川幅30間。この川に渡し場がある。大蘆の渡と呼ぶ。ここは多摩郡八王子から日光への往還である。
氷川社 稲荷社
大天八公社 稲荷社
大神宮二宇
道祖神社
雷電社三宇
浅間社
稲荷社二宇
諏訪社
龍光寺*忍名所 天神社 白山社 衆寮
醫王寺 阿陀堂
大寳院
第8冊-頁40 明用村
明用村は村民鶴間氏が開墾した所で、古は鶴間村と稱していたが、いつの頃よりか今のように改められた。又昔は三町免村も当村に含まれて一村だった。箕田郷に属し、江戸からの行程13里余り。広さは東西6町、南北8町余り。東は三町免・前砂の二村に接し、西南二方は大蘆村に隣接する。北は前砂村である。戸数30戸余り。
正保(1645~1648)の頃は幕府領と酒依喜右衛門・戸川主水の領地であった。慶安五年(1652)御代官南條金右衛門が検地し、その後元禄十一年(1698) 阿部豊後守に賜はり、今も子孫鐡丸が領している。
高札場は村の中程にある。
小名(こな): 大地頭 西鄕地 久下分 谷中 富士塚 半成 出口
三島社 末社 天王社 稲荷社 天満宮
第六天社
観音寺 聖天社 観音堂
登録:
投稿 (Atom)